アンダークラス・ヒーローズ
夢を追わなくなったらオシマイだ。
誰よりも何よりも速く、速く、速く。それだけが私のシンプルな原動力。
そう、誰よりも速く飛んだら。その夢の先には。
その時私の隣には、きっと誰の姿も無いに違いない。
「アンダークラス・ヒーローズ」
「軍務を放り出してストライカーいじりとは、良いご身分だなリベリアン」
薄暗い格納庫内、普段はシャーリーご自慢のマーリンエンジンの嘶きに震えるその場所に、良く通るが険のある声音を
低く響かせたのはバルクホルンだった。整備長への連絡事項を記した書類を手に、ストライカーの前に屈むシャーリーを
見下ろす眼差しは、敵意こそ見られないものの好意的とはとても言い難い。
彼女を良く知らぬ者が受ければ怯まずにはいられない眼光を向けられている当のシャーリーはといえば、まず首にかかった
タオルで額の汗を一拭い。それからふっと笑ってゆったりと余裕たっぷりに振り返ると、
「今日は非番じゃないか。それにストライカーは軍人の命、だろ?嫌味よりはお褒めの言葉を頂きたいもんだね」
「ああ、その軍人の命を空中爆散させるような馬鹿でなければ頭を撫でてやりたいぐらいだよ
趣味にかまけてばかりでなくもう少し部隊の中核を担う立場であるという事を考えたらどうだ、イェーガー大尉」
「そうだな、あんたに頭を撫でられるってのも悪い話じゃないかもね。妹扱いは勘弁だけど」
「~っ!誰がするかっ!」
弾かれたようにがなるバルクホルンの右手のあたりで立ったぐしゃ、と紙が握り潰されたような音は気にも留めず、
シャーリーは再び彼女の相棒P-51Dマスタングへと向き直る。先週儚くもドーバーの藻屑と消えた翼部パーツは新調され、
光の落ちた格納庫内で真新しい輝きを放っていた。エンジンの試運転と出力のテスト、魔力のマッピングを終えたら休日を
返上してすぐにでも試験飛行をするつもりだったのだ。
既に頭の中をスピードテストのプランで塗り替えてしまったシャーリーに向けて、何か言葉をぶつけてやろうとバルクホルンは
口を開きかける。が、シャーリーの瞳にはもうマーリンエンジンの厳つい動力パイプしか映っていない事を見て取ると、
はあとため息を吐いて踵を返した。
「全く、エーリカといい、あいつといい、もう少し軍人らしくしたらどうなんだ」
絞り出すような愚痴をコンクリートの床に吐き捨てて、バルクホルンは通路へ消えていく。
「…軍人らしく、ね」
背中越しに拾い上げた言葉を反芻すると、シャーリーは僅かに自嘲気味に口の端を上げた。
ドーバーを臨む位置にあるウィッチーズ基地敷地内ではどこにいても、少し遠くに目をやれば蒼く広がる海原を一望する事が
容易に出来る。シャーリーがふらりとやってきた宿舎から少し外れた崖の上は、その中でも眺めの良い特等席の一つだった。
彼女の澄んだ碧眼に、雲一つ無いブリタニアの空色と深く色濃いドーバーのマリンブルーが水平線で交わっている。
ただほんの少しその豊かな蒼色の彩度が低いのは、彼女の瞳のレンズ自体が僅かな曇りを孕んでいるが故に他ならない。
(軍人らしく、ね)
心中でもう一度呟いた言葉そのものが、いつも夢の先へと向けられている彼女の眼差しを濁らせたわけではない。
(まー立場上は大尉だけどさ。戦闘や補佐だってなんだってミーナ中佐のためならやるけど)
吹き抜けた風は心地よい。顔にかかった少し癖のある髪を払って空を仰ぐと、南に高く昇った陽の光が彼女の網膜を灼いた。
熱を持った黄色の眩しさに、陰った瞳を閉じる。
(あいつみたいに心まで軍人には、なりきれないよ)
光が焼き付いた明るい暗闇の中から沸いてきたのはほんの少し昔、このウィッチーズ基地に配属される前の記憶だった。
否、配属というよりは厄介払いに近い。
ネウロイを倒す事より、祖国を守る事より、世界の平和を望む事よりも。
世界で最も速く、地を、空を駆ける事を夢見て日々ストライカーの改造に傾倒する彼女にリベリオン陸軍上層部は鼻をつまんで
眉をしかめた。最速のレーサーという異色の経緯で入ってきた彼女は魔女としての才にも恵まれていたが、夢追い人の気質は
根っから軍人の将校連中の不興を買い。また生来の社交性とレースで培った整備スタッフへの信頼から、戦闘機のパイロットや
ウィッチからグリースモンキーと蔑まれた整備兵とも分け隔て無く接するその態度も彼女を孤立させる原因の一つとなった。
最も、彼女を信頼し敬愛する人間はそれよりずっと多かったのだけれど。
そんな理由が重なって統合航空団の話が持ち上がった際、軍部はこれ幸いと彼女を追い出したのである。
欧州の列強諸国を滅ぼし海峡を容易く越えるサイズのネウロイが攻勢を仕掛ける、ヨーロッパ最後の砦へと。
(別に構わないけどね。なんと言われようとさ)
幼い頃から奇異の目を向けられるのは慣れている。ウェストバージニアはマイラの貧しい家に生まれた彼女が身を立てるのに
選んだ手段は、ウィッチとして国から手厚い保障を受ける事ではなく、街頭テレビで見た魔道エンジン二輪車のレースだった。
一瞬で彼女の心を捉えたその映像はスピードへの憧れを根付かせるのに十分であり、街の外れのあばら屋のようなモーター
サイクルショップで稼いだ給金を細々と貯めて初めて買ったバイク「レッドマン・スカウト」のアクセルを回した瞬間、彼女の
人生は決定づけられたと言って良い。
そして、かつて世界最速の軌跡を刻んだポンネビル・ソルト・フラッツの純白の大平原は滑走路となり、彼女の夢を空へと
羽ばたかせた。
(ま、結局ベストな判断だったわけだし)
非公式とはいえ一度は夢の扉を開ける事は出来たのだ。後悔などしようはずもない。
ただ、夢だけで出来た自分の翼は、この基地の仲間や他の魔女達よりずっと軽いのだろうと思うだけで。
「シャーリー」
気怠げなその声にはっと目を開く。右手に植わった木の陰から端正な顔を覗かせているのはエイラだった。
昼間、陽の光が世界を照らしている間の彼女は随分幼い印象を受ける。隠れんぼをしてる最中の子供か物音に興をそそられて
巣から顔を出した子狐のようなその仕草からは、銀の輝きを闇に振り撒いて夜空を舞っている時のどこか神秘的な雰囲気を
思い出す事も難しい。
「よっ。珍しいなこんな所で。サーニャはどうした?」
「寝てるよ。それに珍しいのはそっちだろ。こんなトコでぼーっとして」
無防備な部分を見られた気恥ずかしさから、エイラの心の大部分を占める少女の話に水を向けてみるも、今はシャーリーに
対する興味が勝っているようだった。
ぼんやりしているようで妙に敏いエイラはこういう時少々、面倒臭い。
「んーちょっと気分転換だよ。良い天気だからな、今日は」
「ふーん。よっぽど嫌な事があったんだな」
何気ないようでやはり的確な洞察に内心舌打ちをする。しかしシャーリーは得意の愛想笑いでそんな事はおくびにも出さず、
「ストライカーをね、海にぶちこんじまったろ。早く飛びたいのに代替部品が届かなくて苛ついてたのさ」
いやあ参ったね、あっははは。腰に手を当てるお馴染みのポーズで上げた笑い声は空に抜けて消える。
エイラはといえば、空々しい脳天気な哄笑を聞いているのかいないのか、木にもたれて深い紫紺の視線をぼんやりと水平線に
向けていた。薄く重ねたアメジストのような瞳を惹きつけているのは、夏の太陽が所々黄金の破片を落としては白く起つ波頭に
散らされていく水平の果てまで変わり映えのない海の営みなのか、それとも未来予知の力を持つ彼女にしか見えない全く別の光景
なのかシャーリーにはまるで見当がつかない。つかない事が、細波のように焦燥を掻き立てる。
「お前こそ何してるんだ?」
「風、見てた」
「風?」
明快だが突拍子も無い答えに片眉をつり上げたシャーリーに、エイラは然りとばかりに頷いた。自分の返した言葉がシャーリーの
顔に疑問の色を浮かべさせている事については微塵も興味がないらしい。
「今日は雨かもしれないからな。サーニャは一人で雨の空を飛ぶの、嫌いなんだ」
「…天気の予知が出来るのか?」
「ムリダナ。でも風と空を見れば、天気が悪くなるかどうかぐらいは分かるんだ。
スオムスじゃ悪天候で飛べなくなる事が良くあったから」
「ああ…なるほどね」
そこまで補足されてようやくシャーリーは得心した。エイラが常人には分かり難いテンポで会話を進める事は珍しくない。察しの
良いシャーリーですらしばしば戸惑いを覚えるのだ。馴染みの薄い人間がエイラを不思議ちゃんと評するのも仕方がないと言える。
かといってエイラが口下手とかまるで場にそぐわない見当違いの妄言を吐くような人間かと言えばそれは全くの間違いであり、
むしろ彼女の物言いは、例えて言うなら複雑な式をさっぱり省いて正答だけを書き込んだ難解な数学の試験用紙のようなもので、
一見しただけでは何が何だか分からないその答えも彼女の中で理に適っていると判断された上で導き出されているのだった。
まあ彼女の場合、相手の驚いた顔を見んがためにわざと含みのある言い回しをする事も多いのだが。
(結局はサーニャのためなんだよな、コイツは)
そう、エイラの言動は最終的には“サーニャのため”に帰結するのだ。それを考えれば突拍子もない言葉や不可解な行動に悩む
必要はない。偶然と称してシフトをずらすのも、外に出て今夜の天気の確認をするのも。
そして恐らくは、ネウロイと戦う理由そのものも、詰まる所。
「なんだよ、急に黙るなよ」
「ん?あーごめんごめん。…お前ってほんっとサーニャバカだなと思ってさ」
「なっ、ば、そ、そんなんじゃねーよ!いきなりなんだよ!」
「怒るなって。冗談だよ」
どうどうと宥めながらシャーリーが浮かべている笑みは、先刻のバルクホルンと全く同様の反応を得られた事への満足感から
だった。あの堅物の泣き所は妹でエイラのはサーニャ、そこを少し突いてやれば優位に立つのは難しいことでは無い。
(いやしかし…ちょっと意地が悪いな、これは)
心の陰を見透かされた相手に対してしてやったり、と歪めてしまった頬に忸怩たる思いがよぎる。エイラに罪はない。これでは
まるで、八つ当たりだ。
「なんだよーもー。心配して損した」
「え」
「さっき泣いてるかと思ったから。取り越し苦労だったみたいだけどな」
拗ねたように唇を尖らせて、エイラはぷいとそっぽを向いた。不意に見せたその子狐のような幼い素振りに胸の奥が締め付けられる。
彼女が見ていたのは、本当は風でもいつかの未来でもサーニャでもなく、自分だったのに。
(見くびったんだ、私は。エイラを)
自己嫌悪の念が予想だにしなかった威力を以て心臓を揺さぶる。思いも寄らぬ動揺に指先が冷たくなるのを感じながら、
シャーリーはそれでも手を組み合わせて懺悔のポーズを取った。
「悪かったよ、なあ。この通り。許してくれよ」
冗談じみた謝罪の言葉が、その実かなり必死な懇願だという事にエイラは気づくだろうか。
シャーリーとしては無論、気づかないでいて欲しい所なのだが。格好悪いから。
(でも機嫌は直してくれ)
凄まじく都合のよろしい事を考えていると、エイラはようやくむすっとした顔をシャーリーに向けた。
「ちぇ、調子のいいやつだなー」
「だからごめんって。その、さ。そんな大袈裟なもんじゃないんだけど、ちょっと悩んでたっていうか」
「悩む?」
誠実な謝罪をするために、やらしく言えばエイラに機嫌を直してもらうために正直に告白した煩悶は十分な効果を上げた
ようだった。想定外の単語が想定外の人物から出てきた事に目を丸くしたエイラは、シャーリーの狙い通り、もとい願い
通り先ほどまでの不機嫌さをすっかり忘れてしまっている。頬を掻いて罰が悪そうな笑いを浮かべながら、シャーリーは続ける。
「ほら、私って別に国のために戦ってるわけじゃないじゃん。軍に入ったのだって音速飛行に挑戦するためだったし」
「そだな」
「だから、なんていうかな。皆とちょっと違うよなーって思ってさ。…戦う、理由が」
ぽつりぽつりと、一歩一歩新雪に埋もれた足場を確かめながら歩むように、シャーリーは判然としない自らの胸中を慎重に
拾い上げていく。カールスラントの三人組やペリーヌ、サーニャのように祖国を奪われたわけでもなく、坂本や宮藤のように
誰かを守りたいという気高い志を持っているわけでもなく、かといってルッキーニのようにまるきり子供でもない。
彼女の翼は、彼女自身のためだけに存在する物だった。
(いや、スピードの神様のためだな、うん)
オファリングス・トゥ・ザ・ゴッドオブスピード。
部屋という名のガレージにある棚に刻まれた文字こそ、自分の人生そのものだとシャーリーは確信している。
だからこそ、この胸のわだかまりは拭いきれるものではないのだ。
「…良く分かんないな」
シャーリーの吐露した心情に、エイラが返したのはただのその一言だった。さして思う所も無さそうな乏しい表情に、
シャーリーは些かむっとする。
「そりゃ分かんないだろうさ。生粋のスオムス軍人のお前には」
のらんしゃらんとしているようでエイラは実力戦果共に、屈強と名高いスオムスウィッチの頂点に君臨している。国の誇る
エースという意味では、この基地の中でもとりわけカールスラントの三人に近い立場だと言えた。
連日ブリタニアのメディアが第501統合航空団を謳う時に用いる欧州の救世主だとかブリタニアに集った英雄達とかいう称号は、
守るために戦う彼女達にこそ相応しいのだろう。
対して身勝手な理由で飛ぶ自分は、英雄の中でも最低の部類に入るに違いない。
(ま、分かってもらおうってのが無理な話だ)
自分から最も遠い人種に自分の逡巡が分かるわけがないのだと嘆息して、シャーリーが話を打ち切ろうと口を開きかけると、
「戦うのにちゃんとした理由がいるのか?」
表情は乏しいままエイラが問い返す。予期せぬ問いかけに真意を図りかねて、シャーリーは目の前の白磁の面を見つめ直した。
「いるっていうか、普通は、あるだろう」
「ちゃんとした理由が無かったら戦っちゃいけないのか」
スオムス人特有の抑揚無い口調で重ねられて、ようやく気づく。エイラが理解出来ないのはシャーリーの戦う理由ではなく、
戦いに理由を求める事自体なのだと。
「じゃあ、なんでお前は」
戦ってるんだ、と聞きかけてやめる。
戦場から離れない理由はなんとなく分かっていた。優しいのだ、エイラは。サーニャだけではない、部隊の仲間や自らの近くで
危機に晒されたり傷ついたりしている人間をエイラは守らずにはいられない。
「なんでお前は、ウィッチになったんだ」
だからシャーリーが求めたのはもっと根本的なエイラの原点。自らの芯に触れようと投げかけられた言葉に、しかしエイラは、
「ないよ」
硝子の鈴のような声を想像させる容姿でありながら、その薄い唇から紡がれた彼女の声音にはまるで色が浮かばない。
「ウィッチになった理由なんか、何もない」
迷いも後悔も過去に想いを馳せる様子すら微塵も見せずに、ただただそう告げたエイラにシャーリーはそれ以上何も言う事が
出来なかった。
(そんなに変な事言ったかなー)
自分としては本当に何気なく言ったつもりの一言が、いつだって鷹揚なシャーリーを呆然とさせてしまった事にエイラは
無責任な疑問を覚えていた。
(だって本当に無いんだからしょうがないだろ)
この思わぬ事態を招いた責任は自分にあるのではないのだと内心で誰にともなく言い訳をしながらも、望んだわけではない
沈黙が横たわるこの空気はエイラにとってはやはり居心地が悪い。
ならば振り払うべきなのだ。そうやって意志が定まると彼女の不可解なようで実は俊敏なエレクトロニクスで出来たような
思考回路が言うべき台詞を検索する。
(それにこのまま黙りっぱなしはフェアじゃないよな)
そもそも始めから今日のシャーリーはなんだからしくなかった。ふらりと現れたと思いきや、すぐ近くの木陰にいたエイラに
気づく様子もなく、何か、スピード以外の何かに心捕らわれたような様子を見せたり、それが露呈しかけるや否や朗らかで
当たりの良い兎の羽毛にも似た笑顔に隠して牙を向けてきたり。
が、エイラが重く見ているのはシャーリーがした“らしくない”事それ自体ではない。“らしくない”事をしてまで守ろうと
した胸の内を差し出してきた、その行為だ。ならば自分も何かを差し出さなければ、フェアではない。少なくともこのまま
尻切れトンボを飛ばしておくのは、真摯に何かしらの答えを求めたシャーリーが余りにも不憫ではないか。
最も自分が今差し出そうとしてるものは別にとっておきの秘め事というわけではないから、差し出したところで公平さを
取り戻せるかどうかは分からなかったのだけれど。
「いや別にウィッチになりたくなかったわけじゃないぞ。
気がついたら軍にいただけで、自分からウィッチになったわけじゃないって意味なんだ」
少しの間を置いて付け足されたその言葉に、絶句していたシャーリーの思考はようやく力を取り戻す。
「気づいたらって、家族は何も言わなかったのか」
「あー私家族いないから。両親とも私が小さい時に事故で死んだんだってさ。んで孤児院に引き取られて、
ウィッチの適性があるからって事で軍のスカウトに連れてかれたんじゃなかったかな。あんま覚えてないけど」
まるで他人事のようにすらすらと述べながらも、エイラは心の隅にやはりどうにも引っかかりを覚えている。
差し出したものは確かにこれまで人に教えた事は無かった情報だけれど、それは純粋に言う必要がなかったというのと
自分が言えば相手もそれをしなければならない雰囲気になりかねないと恐れたから、ただそれだけであって、
エイラにとってはあくまで内容以上の価値を持たない事実でしかなかった。
それに軍という場所には、それこそ自分とは違い人生を狂わされ心に深い傷を負った人間が少なからず集まるのだ。そういう
人間の前で迂闊な事は口に出来ない。
「まあ要するに家族のためとか、国のためとか考えてウィッチになったわけじゃないんだよ
シャーリーみたいに夢も無かったし。私田舎育ちだからウィッチに憧れるってのも良く分かんなかったしな」
いい加減だろ?
それがシャーリーの悩みの対価になるかどうかはさておいて、とりあえずエイラは笑ってしまう事にした。
願わくばこの重みも意味もそもそも存在すら無い自分のルーツが、シャーリーの心を縛り付けている鈍い光の糸をわずかでも
緩めてあげられますように。
そんな思いで軽い笑みを浮かべたエイラが一番期待したリアクションは大笑いだったが、シャーリーの気を紛らわせるので
あれば怒りでも失望でもなんでもよかった。
だが返ってきたのは予想した反応の中ではワーストの、沈黙。彼女の絹糸のような髪を弄ぶのに飽きたらしい海風のように
凪いでしまった空間に、エイラは失敗したかと斜め上に視線を泳がせる。
「嫌に、なったことは無かったのか?」
ぽつりと、シャーリーが水を一滴垂らすようにその一言を二人の間に落とした。
幾度めかになる質問の中身はエイラの予想のどれにも当てはまらなかったが、とりあえず反応が返ってきた事に満足して
エイラは素早く、だが慎重に答えを探し出す。
シャーリーのその呟くような問いかけが、自らの微笑みにどうしようもないほどの引力を感じて、それでもなんとか踏み
止まろうと必死に絞り出されたものだという事は露知らずに。
「そりゃ面倒だなーと思った事は何度かあったけど…嫌だなって思った事はないな」
そう言った所で頬を掻く。言われてみればウィッチである自分に疑問を持った事もそれを疎んだ事も無かった。ただの一度も。
考えてみれば不思議な話ではないか。流されやすく押しに弱い所はあるが面倒くさがりな自分が、今まで不満を感じた事も
辞めてしまおうと企んだ事も本当にただの一度も無いなんて。
(あー、そうか)
ほんの僅かな時間もかけずに、その理由を突き止める。
未来予知を使うまでもなく次にシャーリーが口にすると分かり切っている疑問への答えは馬鹿みたいにシンプルだった。
数瞬置いてシャーリーが口を開く。内容は思った通り。なんで、理由も無いのにそんな風に戦い続けてこれたんだ。
「好きなんだ」
とっくに用意してあった答えを躊躇いなく舌に滑らせる。
シャーリーが軽く身じろぎをする。気にせずに、続ける。
「空を飛ぶのが」
はっきりと告げて、エイラは穏やかだがどこか満足げに微笑んだ。
訓練用の二人乗りストライカーで初めて空に舞い上がった時の心の昂ぶりは、そういえば今でも鮮明に思い出せる。
眼下に広がる母国は青と白と水色の中にほんの少し森の深緑を落とした、どこか寂しくて、それでも幼い自分の瞳には
雄大な姿に映っていた。酷く硬質なアイスブルーの空も、頬を切る冴え冴えとした寒風も、耳をつんざくオンボロ
エンジンの音も、全てが真新しい衝撃を持ってそれまでエイラが見ていた世界の色を変えていった。
そこで改めて気づく。目的もなくただ本能のままに生きていた幼少の記憶は曖昧だが、生まれて初めて空を飛んだ
あの瞬間からの出来事は全てはっきりとした形を持っている事に。
「あー…そゆ事ね」
はああ、と深いため息をついてシャーリーが項垂れた。エイラからしてみればタイミングはずれているが、これは
想定内の所作だ。目算が当たったと思いこんでいるエイラはにひひと笑って、
「そんながっかりすんなよー。いーだろ?ただ飛ぶのが好きでウィッチやっててもさ」
「いや別にそういう意味じゃ…もういいや」
驚いて損した、と半眼になってシャーリーはもう一つため息を吐いた。
話の流れからすればシャーリーの方こそ勘違いも良い所なのだが、真面目な顔をしていれば芸術のようなと言っても
差し支えないほどに整った顔立ちをしたエイラが、それこそ真面目な顔をして、好きだなどと自分に向かって言い放ったのだ。
先ほどはなんとか必死に踏み止まれたが、その強烈な一言を受けては浮き足立ってしまっても仕方がないと言える。はず。
(こりゃサーニャも苦労するわけだわ)
まるで硝子の紗で編んだような繊細で清麗な心の持ち主のあの少女ですら、なんだよーとまるっきり真剣さが感じ
られない不満をアピールして暢気に笑っているエイラの腑抜けた頭を思い切りしばきたくなった事があるに違いない。
エイラと二人きりで話す機会が余り無い自分でさえ現に今こうして暴力的な衝動に駆られているのだ。四六時中、
文字通り寝食を共にしているサーニャが、この肝心な部分の神経がすっかり欠け落ちてしまっている大馬鹿野郎に
フリーガーハマーを撃ち込んでやろうと思った事は、一度や二度ではあるまい。
「あー。なんか考えてたのが馬鹿らしくなった」
やにわに大声をあげて、シャーリーは伸びをする。うーん、と背を伸ばした後、よしと一つ気合いを入れた彼女の横顔は
もういつもと変わらない。
「私のおかげだな。遠慮無く褒めて良いんだぞ」
「言ってろよ」
相変わらずの悪戯狐を思わせる薄い笑みを浮かべるエイラに、心とは裏腹の投げやりな台詞を吐き捨てる。
無論エイラにも腹の裏が分かっているから、それ以上何も言う事はない。そういう部分においては素晴らしいきめ細やかさを
発揮するエイラの性格をシャーリーはとても気に入っている。
否、性格だけではない。自分勝手でいい加減で子供みたいな動機で身につけた奇跡的な空戦技術も、機械に対する理解の深さも、
何らかの痛みを抱えた者に物怖じせず手を差し伸べる優しさも、全部。
「なあエイラ」
「ん?」
ふと思いついたなんとも素敵なアイディアを提案するべく、声をかける。
空は相変わらず脳天気に明るい。最低の英雄が二人、最低の理由で飛ぶにはちょうど良い清々しさだ。
ついでにコイツにもスピードの神が住まう世界を少しだけ見せてやろう。その思い出があればいつか辿り着くはずの夢の先、
心地良い孤独が支配するその世界でも、きっと独りじゃないと思えるはずだから。
「一緒に飛ばないか」
スカイライティングでもしてあの堅物を驚かせてやろう。
そう晴れやかな笑顔を浮かべたシャーリーに、エイラは勿論こう言って返すのだった。
「今日だけだかんな」
おしまい