第29手 肩にもたれる
無様だなあ。
浴場から出たとたんやたらと楽しそうな声が聞こえたから、私は顔をしかめてそちらのほうを見やった。
見やるとやはりそちらには明るい髪の色をした背の高いあいつが、無視など出来ない存在感を以って
壁によりかかっている。これから向かう予定のミーティングルームへと続く通路にいるものだから、避けて
通ることなんて出来ない。
「……」
何をどう、口にしようかと思いながら留まる。子供のようについ口が尖って、それを見たのかまたやつが
ニヤニヤするものだから腹が立った。
「文句でもあるのか、リベリアン」
「いーぇ、文句なんてなぁんにも?大尉殿」
「嫌みったらしいぞ、もうすぐお前も昇進だろう?」
「ははは、だから最後のモラトリアムでも満喫しようかなって思いまして」
「ふん、言ってろ」
言い捨てて通り過ぎようとしたその瞬間、腕をつかまれてとどめられた。ちょっと待ってよ、とさっきまでの
態度が信じられないくらいの情けない声を上げるものだから思わず辟易して留まってしまう。長身の
そいつと並ぶと特に低いわけでもない自分がやたらとちっぽけに見えて腹立たしいだなんて、口が裂けて
も言わない。
ぱ、と手が離れる。ごめん、ごめんなさい。しおらしく謝罪の言葉なんて述べられたら責めることなんて
出来ない。力強く握られたものだから手首がじんじんと痛むのだけど、そんなことを言ったらこいつは
このでかい図体をして泣くのかもしれなくてやめた。豪快なのにどこか覚めていて、落ち着いた性格を
しているこいつは時折忘れそうになるけれど私よりも二つも年下なのだ。そう、いつもにこにこ、ひょう
ひょうとしていて常に私の頭を悩ませているあの部下と、同じ年に生まれている。
「なんなんだよ、言ってみろ。怒らないから」
ふ、と息をついて、仕方なく情けをかけてやる。数日前までの私だったら無理だったかもしれないけれど、
今の私はどうしてか、やたらと晴れやかな気持ちでいるんだ。胸の痞えがとれたような、肩の重荷が
下りたような、そんな穏やかな気持ちでいる。
にこ、と笑顔を作って言ってやったら、まるでこの世の終わりのような顔をされた。
「頭でも打ったのか?」
尋ねてくるから言い返してやる。
「ちょっと死に掛けてな」
「……初めて知った。カールスラントの堅物でも冗談を言ったりするんだな…」
「私をなんだと思ってるんだ、全く」
「いやいや、失礼いたしました」
ははは、といつもの、気の抜けたような笑い声を上げてやつは笑う。やれやれ、と肩をすくめてそれを
見やっていたら突然頬に何かが触れた。ぴりりとしたかすかな痛みが走る。いて、と呟くとびくりと、触れた
それが震えた。
「腫れてる。」
「…盛大にはたかれたからな。ミーナに。」
「…あー、聞いた聞いた。そりゃ怒るだろー」
「怒らせると怖いんだぞ。お前も気をつけるんだ、責任ある立場になるんだから」
「……はーいはい」
「返事ははっきりと、簡潔に」
「はい」
はたかれて赤くなって、腫れた頬を包み込んでいるのは目の前にいるリベリアンの、身長に呼応する
ようにやたらと広い手のひらなのだった。少し湿り気を帯びている気がするそれは、湯上りの私の肌と
比べると少しひんやりとしている。もしかしたらこの夕方の、少し冷え始めた廊下でこいつはずっとここで
ひとり、私が浴場から出てくるのを待っていたのかもしれなかった。どうしてかは知らないけれど、想像
さえ出来ないけれど、そうとしか思えない。でも本当にそういいきれるのかも分からなくて口には出来ない
のだった。
元から全く盛り上がりを見せていなかった会話はすっかりと宙に浮いてしまって、ぷかぷかにやにやと
私とやつを見下ろしている。けれども何も言えないから私は自分にも、この状況にも、弱りはてるばかり
だった。好き勝手で気ままなあのハルトマンとの会話に珍しく詰まったときいつもそうするように天を仰ごう
と思っても私の顔はやつの頬ですっかり固定されているし、何よりその方向にはやつの顔があるのだ。
どうしようもない。
ミーティングルームにはみんなが集まっているのだろうか、かすかな喧騒が聞こえて来ているような気が
する。それだからきっとここを誰もとおることが無いのだろう。それが不運なことなのか幸運なことなのか
私には全く分からないけれど。
ええと、その。
その沈黙を破ったのは結局あちらのほうで、一応予想はしていた癖に私は柄にも無く上ずった声で「なな
なんだ?」なんて聞いてしまったのだ。きっといろいろな意味で気が緩みきっていたのだと思う。余りにも
情けないことだけれど、私にとって今日あった出来事は本当に、衝撃的だった。僚機を気に掛けることが
出来ずに自分が被弾したことも、それを宮藤に助けられたことも、ミーナに説教を食らったことも、全部。
そして今この状況も、たぶん。
リベリアンは苦手だった。別にこいつだからと言う意味ではなくて、私にとってああいった国柄はどうしても
受け入れられないものだったのだ。毛嫌いをするつもりは無かったけれどこいつだとか、あのガッティーノ
の姿を見ているとその突き抜けるほどの明るさにひどく辛い気持ちになってしまうから。それはもしかし
たら、こいつのルッキーニにする態度にかつて、妹がまだ元気だった頃の自分を重ねていたからかもしれ
ないけれど。
否定することで懸命に自分を保っていた、なんて情けなくて言えない。宮藤に対してしていたそれと一緒だ。
きっと私はこいつから目を逸らしていたんだ、ずっと。
「そんな顔するなよ、情けないな」
思わずそんな言葉が漏れてしまう。そうだ、だからきっと私はこいつの、こんな顔さえも知らない。もしか
したらミーナ辺りならよっぽど理解していて、「あの子はそう言う子だから」と笑えるくらいなのかもしれ
ないけれど。
懸命に冗談めかして口にしたのだというのに、やつと来たらやっぱり重苦しい顔で口を閉ざしているばかりで。
弱り果ててしまう。困り果ててしまう。けれど私の口からはこれ以上、洒落た言葉が出てくるようには思え
なかった。だからひたすら待つだけだ。情けない顔をしている、今のところはまだ部下である、年下の、
こいつの次の言葉を。
「…た、って」
しばらくして、もごもごと。こいつらしくない歯切れの悪い言葉が漏れる。聞こえない、と正直に言うとは
あああ、と大きなため息をつかれてしまった。ええとその、だから。繰り返される、場を持たせるための言葉。
ごくり、と生唾を飲み込む音。なんとなく私も唾を飲み込む。
「…無事で、よかったって!ここのところあんた、元気なかったから!!あぶなっかしかったし!」
それは、小さいけれどもとても強い言葉だった。なによりもいつも余裕に満ちているはずのその顔が
すっかり陰ってゆがめられているものだから、こちらも笑い飛ばすことなど出来ないのだ。何かを言おう
として、でも何も思いつかなくて、ただ口をパクパクと魚のように開いたり閉じたりした。
ああ、心配されてたのだ。そんな混乱しきった頭の隅で、考えていたのはそういったこと。何も考えていな
さそうな言動の奥で、それをおくびにも出さずにずっと抱え込んでいたのだ、こいつは。こいつだけじゃない。
もしかしたら、みんなも。このリベリアンがそう言ってわざわざ言ってくるぐらいなんだから。ミーナでさえ
も私に平手打ちするくらいに心配していたのだ、だって。
「あんまり無理するなよ。あたしだっているんだ。あんたばっかり頑張る必要なんて無いんだ。…少なく
ともあたしは、もうすぐあんたと肩を並べなくちゃいけないんだから。…たまには、その、寄りかかったって
いいんだ!」
「…え…あ……うん…」
剣幕に押されるようにして返事をする。胸の奥から湧いて出る、一つの気持ちがある。
どうしてか胸を一杯にする、この気持ちはなんだろう。そこからこみ上げて鼻の頭に、目頭に、突き上げて
くるこれは一体どういったことだろう。
それだけなんだ、って。
そう言って、ぱ、と手を頬から剥がして行こうとするものだからつい、その手首を引っつかんで押しとどめて
しまう。わわわ、とのけぞると相手も驚いたように立ち止まって、振り返って、どういったことか支えられる
形になってしまった。
「な、なんだよ!」
叫ばれて、けれどもそんなの反射的なものだったから理由なんて無くて。けれどもいわゆる抱きとめ
られている形となっているこれをどうにかしないと私は情けなさでどうかしてしてしまいそうだった。そんな
時ふと、さっきこいつが口にした一言が頭をよぎった。昼にミーナに叩かれた後の感覚が、蘇ってきた。
「…おい、リベリアン。
…・・・…シャーリー。」
背の高いこいつにそれをするのは少し大変だけれど、まあいい。
体をずらして、額を肩に押し付ける。どくどくと胸を立ていている心臓の音が、心地よい。何より温かくて、
柔らかい。気が抜ける。体の力まで吸い取られていくようだ。
「前借りだ。ちょっと肩貸せ」
するり、と口からこぼれたその言葉と一緒に、なんだか熱いものまで目から流れ出てきたけれど。
もちろん、とシャーリーがいつもの調子で笑いながらそう言ったから、特に気にしないことにした。
了