義理とサラシは欠かされぬ
まさか夜中の、それも食堂で、人と出くわすことになるとは思わなかった。
しかもいきなり抱きついてくるのだから、たまったものではない。
それはシャーリー中尉だった。
彼女がなにをしていたのかは知らない。なにやら様子がおかしいようだったけれど……まあ、どうでもいい。
本当にたまったものではない。大きければいいというものではないのだし。
わたくしは彼女と少し話をして、そのあと自分の部屋に帰ってしまった。
本来ならば、わたくしは厨房に用事があったのだけれど――
シャーリー中尉の放ったある一言のせいで、気がすっかり動転してしまっていた。
なにやら厨房にも人がいたようだし。それでは用事はできそうにない。
このことはあくまで秘密裏に行わねばならぬからだ。
まったく、もう。
両手に大量のチョコレートを抱えて歩きながら、わたくしは悪態をついた。
そうして自室に戻ったわたくしは、悶々と落ち着きなく部屋のなかを歩きまわる。
石ころでもあったら蹴飛ばしてやりたい気分だった。
刻々と夜は更けてゆくばかり。普段ならすでにベッドに入っている頃合いだ。
まったく、明日は2月14日だというのに。
いや、正しくない。日付は代わり、14日はもう今日となってしまった。
そう、今日はもうバレンタインデーなのだ。
愛しいあの方へと、甘いチョコレートとともに、わたくしの気持ちを伝える日。
もちろん1年366日、わたくしのあの方への思いがどうにかなるなんてことはない。
明日、もとい今日だって、そのなかのただの一日でしかない。
なんてことない、特別でないただの一日。
けれど、なにも一年間、毎日毎日同じでなくたっていい。
たしかに思いは変わらない。当然だ。
だけど、その思いを伝えられない意気地無しな自分だって一向に変わらない。
だからそんなわたくしのような者のために、バレンタインデーという日があるのではないのか。
これは神様がなかなか勇気の持てないわたくしに与えたもうたきっかけ。
そうでないのか。そのはずである。
なのに、まだそのチョコレートができていないなんて……
なにも手作りでなんてなくてもいいんじゃないかしら。
已然、手にはチョコレートを抱えたわたくしに、そんな考えがよぎった。
別にこのままこれを渡してしまってもいいのではないか(もちろん包装はし直すけれど)。
それでもかまわないんじゃないか。……そっちの方が、味が良いかもしれないし。
でも本当にそうだろうか? わたくしの胸にわだかまりが残る。
いや、否。そんな考え、断じて否ですわ。
なぜならわたくしの辞書に妥協なんて文字はないのだから。
こんな素っ気ない市販のチョコが、わたくしのあの方への思いだとでも?
いいや、違う。そんなはずは断じてない。
わたくしは思い立つと再び厨房へ向かうため、その歩を前へと向けた。
よかった。誰もいない――
厨房の電気は消えており、わたくしは手探りでそれをつけようとした。
すると、足元にあるなにかに蹴つまづきそうになってしまった。
なにかしら、これは? それは紙袋だった。
なぜこんなものが……? まあいい。こんなものに気を取られている場合ではない。
わたくしにはやるべきことがあるのだから。
しかも、けして誰にも知られずにだ。
その思いを伝えるまで、なんびとにも知られてはならない。
秘めたる願いというのはそういうものだ。
前に本で読んだことがある。扶桑にもそういう文化があるんだとか。
なんでも丑の刻まいりと言うらしい。くわしいことはわたくしにはわからないけど。
そうしてわたくしのチョコレート作りがはじまった。
正直に言えば、やや苦戦した。
鍋をひっくり返して床にぶちまけてしまったり、チョコを刻むつもりが自分の指を刻んでしまったり、
火力を間違えたのか焦げくさい臭いがしてしまったり……まあ、ちょっとした苦戦だった。
念のためにチョコをたくさん用意しておいてよかった。備えあれば憂いなし。
――そうしてようやく、それは完成した。
わたくしは味見にと一口、頬張ってみる。
…………
……………………
…………………………………………
わたくしは流しに直行し、それを吐き出した。
なんなのよ、これ……?
口どけもよくなければ、強烈な苦味が舌を刺激し、口のなかを暴れまわる。
不味い。冗談を誘うような不味さではない。ただ純粋に、これは不味い。
賞味した今、手にしたそれに視線を落とせば、黒々とした光沢がなんだか邪悪なものに映って見える。
たくさん用意したとはいえ、数々の失敗のためにもうチョコはあと一回分しか残っていない。
時間的にもこれが最後のチャンスだろう。
わたくしは躊躇する。やはりやめておいた方がよかったのではないか。
けれど、それをすぐさま、首を横に振って否定する。
繰り返す。わたくしの辞書に妥協という文字はないのだ。
わたくしが意気こんで、さあ作業をはじめようとすると――
「あのう……」
突然の後ろからの声に、わたくしの背筋に電気が走った。
振り返れば、そこにいるのはこのあいだ入ってきた新人だった。
名前はリネット・ビショップ。階級は軍曹。
本国であるブリタニアが寄越したのが、なぜこんな新米のウィッチなのか……まあそのことは今はいい。
「なにをしているんですか?」
わたくしがたじろいでいると、彼女はそう訊いてくる。
「あなたこそ、こんな夜更けになにを?」
質問に質問に返すわたくし。
その声がつい尖ってしまった。わたくしの悪い癖だ。
「忘れ物です」
彼女はそう言って、わたくしのすぐ足元にあった紙袋を持ちあげる。
そういえばそんなものがあったことをわたくしは思い出した。
「夜、目を覚ましちゃって、そしたら忘れてたの思い出しちゃって」
と、彼女はつけ加えた。
そう、と愛想なくわたくし。胸を撫で下ろしつつ。
が、もう用事はすませたはずなのに、彼女がここを立ち去る素振りはない。
「まだなにか?」
わたくしは彼女を見やって言った。
「バレンタインのチョコレート作ってるんですか?」
なぜそのことが……
ああ、そうか。流しには焦げつかせた鍋や、三角コーナーにはかつてチョコであった残骸がある。
「それがなにか?」
一応、認める。知られてしまったからにはもはやどうしようもない。
だから、彼女のことなどもうどうでもいい。わたくしは作業を再開することにした。
「あのー」
と、まだそこにいる彼女は呼びかけてくる。無視しても、何度も。
「なによ!?」
「お手伝いしましょうか?」
な、なにを言ってるの、この子は……?
「結構です」
わたくしはきっぱりと拒否。
「でも……」
彼女はわたくしの手元を見てくる。まるで、はじめてのおつかいをしている子供を見るような目つきで。
まあたしかに、今のラチがあかない。それに、もう隠しだてもしようがないのだし。
「あなたがそんなに言うのなら……」
わたくしは了解することにした。
彼女は基本的に要所で口を挟むだけで、手は貸さなかった。わたくしが拒んだからだけど。
それだけとはいえ、そのアドバイスはなかなかありがたかった。
そうして見違えるほどスムーズにチョコレート作りは終わった(なんだか彼女は苦い顔をしていたけれど)。
「私、少しはお役に立てましたか?」
彼女はそう、訊ねかけてきた。
まあ……とわたくしは曖昧に肯定する。
よかったぁ、と彼女は笑顔を見せる。
「私、いつもみんなの足を引っぱっちゃうから」
彼女はそう言うと、さきほどの笑顔に少し陰が差しこむ。
「だから、どんなことでもお役に立てるのが嬉しいんです」
なにか言ってあげた方がいいんだろうか。わたくしは考えをめぐらせる。
「こんなことでしか役に立てないようじゃ困るのよ」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だけだ。
もちろんわたくしには“こんなこと”なんかで済まされることではないけれど。
役に立ちたいって、それでチョコ作りの手伝い。こんなことで安心されてたらたまらない。
それならメイドにでもなればいい。そっちの方が彼女にはずっと向いているんじゃないかしら。
でも――彼女がいてくれて助かった。
それはどうしようもない事実だ。
だからやっぱり、なにか言わなければいけない。
「リネットさん」
と、わたくしは彼女の名前を呼ぶ。
「リーネでいいですよ。みんなそう呼びますし」
リーネ。そう口には出さずに呼んでみる。
口に出してみようとしても、なんだかそれは出てはこなかった。
かまわずわたくしは言葉を続ける。
「誰だって最初からうまくできるはずないでしょ」
それはわたくしに向けての言葉だったのか、彼女に向けての言葉だったのか――
まあ、ただの一般論だ。言うと、わたくしは彼女から顔をそむけた。
「ところで、このチョコレート、誰にあげるんですか?」
つい気を許していると、彼女はそんなことを訊いてくる。
わたくしは無視。そんなこと、この子に教えてやる筋合いはない。おそらく。
すると、彼女は続けてさらに――
「やっぱり坂本少佐ですか?」
「なっ、なにを言っているの!?」
もしかしてこの子、エスパーなのかしら? いや、そんな非科学的な。
それともわたくしがサトラレだとでも? いやいや、それこそあり得ない話だわ。
そういえば少し前に、シャーリー中尉にも同じことを言い当てられた。
なんなのかしら、いったい。なにか陰謀的な香りを感ぜずにはいられない。
チョコレートはすでに完成して、ラッピングも完璧だ。
「そ、それじゃあ」
そう言ってわたくしはその場から立ち去った。
窓から見える空はもう、朝日に赤く染まりはじめていた。
部屋に帰ったものの、眠るには時間がない。
結局わたくしは完徹してしまった。
日課である測距儀での哨戒で時間をつぶしていると、朝食の時間となったので、
わたくしは再び食堂へとおもむいた。
「おはよ」
と、その途中でシャーリー中尉に出会った。
シャーリー中尉はウサギのように目を真っ赤にして、まぶたはぼっこり腫れあがっていた。
昨日の夜はなんともなかったのに。ものもらいだろうか?
その隣には天敵であるルッキーニ少尉がべったりとくつっいている。
やれやれ、朝からお盛んなことで。
「どうかしたのか、ペリーヌ。目の下にクマできてるぞ」
「別に……あなたこそ、目が真っ赤ですけど」
「べっつにー」
そして朝食が終わり、坂本少佐が一人きりになるのを見計らって、わたくしはそのあとを追った。
少佐は廊下をどんどん歩いて行ってしまう。
わたくしの手にはチョコレート。少佐の後ろをこっそり追いかけ、渡す機会をうかがった。
それはそれでえも言われぬ幸福であったけれど……いや、こんなことで楽しんでいる場合ではない。
渡さなければ、伝えなければ……!
わたくしは意を決して少佐の名前を呼ぼうとして――
「あの、坂本少佐」
と、これはわたくしの口から出た言葉ではない。
そうではなく、それを言ったのは――
「ん? どうかしたのかリーネ?」
と、少佐は立ち止まる。
するとあの子は紙袋(昨晩のあれだ)からなにやら小さな箱を取り出して、少佐の前にはいと差し出す。
そして、一言。
「チョコレートです」
そこでわたくしの世界が音のないものに変わった。
しかも少佐はそれを受け取り、さらにはその場で頬張りはじめてしまう。
とっても美味しそうに……
なっ……なんなのよ、あの子っ!
わたくしは浮かぶかぎりの罵詈雑言で、あの子のことを頭のなかで罵った。
手がチョコレートでふさがってなければ、ハンカチを取り出して噛み締めているところだ。
なにか和気あいあいと話なんかしてるようだけど、呆然とするわたくしの耳には入ってこない。
わたくしはただその場に立ち尽くしていた。
未だ手にしたままの渡せなかったチョコレートを、もうどこかに投げ捨ててしまいたくなった。
すっと右手を挙げて振りかぶる。
――と、
「ペリーヌ」
名前が呼ばれて、その手が止まる。
わたくしはその声の方に顔を向ける。向けずともそれが誰かはわかったけれど。
わたくしの目の前にいるのは坂本少佐だった。
「お前もか?」
と、少佐はわたくしの手にしたチョコレートを見て、訊ねかけてくる。
わたくしは振りあげていた手をすっと下ろした。
「ええ、まあ……」
あの子の後と言うのが不服ではあったけれど、なんとかそれだけ口に出した。
すると、少佐は右手のひらを上向きに、わたくしの前に差し出してくる。
こ、これは……?
「お前の気持ちはわかっている」
少佐はそうおっしゃった。
「う、受け取っていただけるのですね!?」
「当然だろう」
少佐はうんとうなずく。
わたくしの視界一面に花畑が広がった。
「――――とサラシは欠かされぬと言うしな」
少佐はそのあとに、なにかおっしゃっていたけれど、わたくしはよく覚えていない。
わたくしはその手のひらにがたがたと震えるチョコレートを差し出た。
手ががたがたと震えたためだ。
少佐は豪快にもその場で包み紙を破き出して、そうしてわたくしの手作りチョコレートを頬張りはじめる。
ぴくん、と一瞬、少佐の眉が動いた。どうかしたのだろうか?
けれどそんな懸念など関係なく、少佐はぺろりと平らげてしまった。
「ありがとう」
そう少佐は言い残すと、わたくしの肩をぽんと叩き、そうしてこちらへと歩を進め行ってしまった。
わたくしは長いあいだ、その場に立ち尽くしたままだった。
後ろからなにかがバタッと倒れる音がしたけど、いったいなんの音だったのかしら?
『お前の気持ちはわかっている』
その言葉がわたくしの脳内で際限なくリピート再生される。
わたくしはすっかり放心状態だった。
「ペリーヌさん」
ようやくとぼとぼとあてもなく歩き出したわたくしは、その声に呼び止められた。
「どうかしたの、リネットさん?」
わたくしは彼女に向き直った。
すると彼女は手にした紙袋から包装された小さな箱を出して、わたくしの前にそれを差し出してくる。
「チョコレートです。みんなに配ってるところなんです」
そういえばこの子、坂本少佐にも……
先ほどのことですっかり忘却の彼方だったけれど、なんだみんなに配っていたのか。
そしてそれを、わたくしにもくれるということなのだろう。
「もちろん義理チョコですけど」
彼女はそう、つけ加えた。。
ん? 義理?
その言葉がわたくしのなかで引っ掛かった。
ついさっき、どこかで耳にしたような……
『お前の気持ちはわかっている』
いや、これではなくって。
『義理とサラシは欠かされぬと言うしな』
…………!!!!
ち、違います、坂本少佐っ!
少佐は勘違いなさってます!
だってわたくしの方はまごうことなき本命――
「どうかしたんですか?」
怪訝そうに彼女は訊いてくる。その声にわたくしは、目の前の現実に引き戻された。
彼女はチョコを差し出してくる。義理チョコを。
受け取るべきなのだろうか。わたくしは思案して――それを受け取ることにした。
だって少佐もおっしゃっていたではないか。義理とサラシは欠かされぬ、と。
それになんだかこの子とは……
わたくしのなかに、ある予感が涌いてくる。けれど、それはすぐさま打ち消した。
わたくしは差し出されるそれに手を伸ばした。
なにかお礼を言った方がいいのだろうか。たとえば、ありがとうの一言でも。
あ、あ、あ――
「あとでいただくわ」
わたくしはそう言って、彼女からチョコを受け取った。
「ペリーヌさん、ありがとう」
なぜ彼女がお礼を言うのか。
本当によくわからない子だ。
「受け取ってくれてよかったです」
彼女はそう言うとなんだかほっとした様子だった。まさかわたくしがつき返すとでも思ったのだろうか。
すると、彼女は言った。
「なんだかペリーヌさんとは長いつき合いになりそうだから」
……なにを言うのかしらこの子は?
聞いちゃいられない。わたくしは彼女に背を向けた。
幸い、今日は予定がない。部屋に帰って眠るとしよう。
わたくしは彼女に、それだけ言って歩き出した。
「それじゃあ、また。リーネさん」