無題
寝静まった基地内の一角、ミーティングルームに見える二つの人影に、エイラは気付いた。
その影の一つは、彼女の寵愛を一身に受ける――と言うと語弊があるかもしれないが、
とにかく、エイラが大切に思っている人物である、サーニャの姿だった。
ソファーにちょこんと座った彼女は、隣り合って座るもう一人の誰かと、何か話をしている。
その様子に、こそこそと入り口の陰に隠れながら、疑念たっぷりの視線を注ぐエイラ。
どう見ても覗きだが、エイラ本人にしてみれば、これも立派な保護活動の一環である。
事の次第はこうだ。
夜中、喉の渇きを覚え、食堂で何か飲もうと部屋を出たエイラ。
ドアを開けて廊下へ出ると、サーニャが誰かを引き連れて、前方を歩いているのが見えるではないか。
その誰かの姿を確認する前に、二人は角を曲がってエイラの視界から消えてしまった。
さて、これは怪しいぞとエイラは思う。
こんな夜更けに、誰と、何の用があって何処へ行くのか。
その疑問は、サーニャの保護者を自負するエイラに、見極めるべき事象の一つとして認識された。
抜き足差し足で二人の後をつけた結果、こうしてミーティングルームに辿り着いたわけである。
サーニャの隣に座ったその相手は、芳佳だった。
元気が取り得のような芳佳にしては珍しく、俯き、少し辛そうな表情をしている。
そんな彼女の様子を見たエイラが、少しばかり心配な気持ちになっていると、
二人の会話内容が途切れ途切れに聞こえてきた。
「私――のこと――みたい――で――」
芳佳の声だ。やはり、その声には元気がない。
頭を垂れてぼそぼそと喋るその様子は、普段の明朗な彼女のそれとはかけ離れており、
ひどく思いつめたような声色に、エイラは驚きを隠せなかった。
何か悩みというか、サーニャに打ち明けるべき事があって、話をしている。そんな雰囲気があった。
(……ワタシじゃなくて、サーニャか)
ふと、自分の中で、そんな感想があがった。
(ワタシに遠慮すること、ないだろ……)
そう思ってすぐに、遠慮してるわけないよな、とエイラは思い直す。
自分では力になれない何かがあったから、彼女はサーニャを頼っている――そんな確信があった。
同時に、無力感と焦燥感が混じりあったような感情が湧いてくるのを、エイラは感じた。
よく分からないその感情をエイラが持て余している間にも、二人の会話は続けられる。
「ごめん――言われても――サーニャちゃんには――ダメ――」
「わたしのことは――しないで」
二人は何を話しているのだろう。沈む芳佳に、サーニャはどんな言葉をかけたのだろう。
エイラは必死に考えるが、答えは出ない。
――さっさと戻って、眠ってしまおう。
そんな、逃げ出したいような気持ちが湧いてくるが、自らの両足は楔を打たれたように、その場から動こうとしない。
「でも――ちゃんだって――さんの――」
「――イラは――」
エイラは、思わずどきりとして顔を上げた。自分の存在がばれたかと思ったが、そうではない。
話の中で名前が挙がっただけだと気付き、ほっと胸をなでおろす。
それから少し話が続き、程なく二人の会話が止んだ。
静寂が支配する空間の中で、エイラは、これはチャンスかもしれない、と思った。
あの二人に声をかけるための、好機だ。
エイラにとっては、彼女らの会話に横槍を入れて気まずい空気を作るよりは、沈黙の空気を
無遠慮に塗り替えながらずけずけと介入する方が、気が楽だったからだ。
だが、そうして自分が割り込んだところで、果たして何をしてやればいいのか。
こういった精神面での話になると、天性の鈍くささでもって、相手の期待をことごとく
裏切ってしまうことを、エイラは自覚していた。
もし自分の能力が予知なんかじゃなく、例えば読心術であったなら、彼女の力になることが出来るのだろうか?
沈んだ芳佳を、笑わせてやることが――
そう思ったとき、ある風景が頭の中にフラッシュバックした。
芳佳が何かを言い、エイラがそれをからかって、サーニャがくすっと微笑む、そんないつもの風景。
はっとして顔を上げた。自分にも出来ることが、そこにあった。
いつものように、からかってやるのだ。三枚目の立場の自分が、相手の事情など、お構い無しに。
つまらない悩みなんて、笑い飛ばしてやればいい。
勇気を振り絞って、一歩を踏み出した。
意地悪なイタズラっ子の顔をしながら、出来るだけおどけた口調で、
「こんな時間に、何話してんダ~?」
ソファーの二人に夜討ちを仕掛けた。
*
彼女を意識し始めたのは、いつからだろう。
三人で飛んだあの誕生日? ううん、違う。多分……もっと前から。
初めて見たときはキレイな人だなと思ったけれど、その言動はどうにも締まりのない道化役で。
そんな彼女の不思議な魅力に、知らず知らず引き込まれていた。
風に翻るその髪も、行く手を見通す目の輝きも、
いたずらっぽく微笑んだ、ちょっぴり意地悪そうな表情も。
ぶっきらぼうに投げかけられる言葉も、その中に隠した何気ない優しさも、
いつの間にか、全部好きだった。
「ごめんねサーニャちゃん、こんな時間に呼び出しちゃって」
「ううん、大丈夫」
深夜のミーティングルーム。芳佳とサーニャは二人、隣り合ってソファーに座っていた。
普段ならそこにもう一人、サーニャとセットでエイラがいるはずだが、今回に限っては彼女の姿はない。
エイラ抜きで、話したいことがある――
わざわざ夜の時間帯を選んでサーニャを連れ出したという芳佳の行動から、そんな雰囲気が感ぜられた。
その芳佳を見ると、俯いたまま、どこか苦しそうな表情を浮かべている。
言うべきか言わざるべきか、まだ迷っている、そんな面持ちだった。
その隣でサーニャは、黙って芳佳の言葉を待っていた。いつもと違う彼女の様子を、少し不安に思いながら。
深呼吸を一つした芳佳は、意を決したように顔を上げて、まっすぐにサーニャと向き合う。
「あ、あの、ね」
静まり返った部屋の中に、緊張に震える芳佳の声が響く。
「私、エイラさんのこと……」
その先に語られる言葉がどんなものであるか、サーニャにはもう解ってしまったようだった。
芳佳の眼差しから目を逸らしたサーニャは、少し悲しそうな表情で、膝の上に視線を落とした。
同じように芳佳も俯いて、小さな声でその言葉を続けた。
「……好き、になっちゃった、みたい、で……」
言ってしまった、という感じで、声が尻すぼみに消えてゆく。
再び静けさに包まれるミーティングルーム。
サーニャは何も言わなかった。小さな身体をさらに縮こまらせて、ひたすら、黙っていた。
その沈黙に、もう後戻りできないぞ、と言われている気がして、芳佳は身体を強張らせた。
「ご、ごめんね、いきなり言われても困っちゃうよね。……でも、サーニャちゃんには……その、
言っておかなくちゃダメだって、思って……」
まるで懺悔をするように放たれる芳佳の言葉も、やがて夜の静けさに吸い込まれ、
無言でソファーに座る二人の少女を、冷やりとした部屋の空気が包み込んだ。
不意に、何も喋らなかったサーニャが、つぐんだ口を小さく開いて、言った。
「わたしのことは気にしないで」
予想外の一言に、芳佳は驚き、目を見開いてサーニャを見つめた。
それが本心からの言葉なのか、それとも自分のために無理をしてそう言ってくれているのか、
芳佳には、その真意を計ることは出来ない。
「で、でもサーニャちゃんだって……エイラさんのこと」
「うん。エイラは好き。好きだけど、芳佳ちゃんが思ってるのとは……多分、違うから。
それに、わたしの本当に好きな人は他にいるの」
「そ、そう……なの?」
彼女にも好きな人がいて、それは自分が心を寄せる人ではないという。
芳佳の問いにサーニャは小さく頷いて、柔らかく微笑んで見せる。
その仕草を見た芳佳は、彼女の発言がきっと本心からのものなのだろうと思った。
大切な友人と衝突するかもしれないという恐怖は、もはや感じる必要はないことに気付いて、
芳佳は安心感を感じずにはいられなかった。
「サーニャちゃんの気持ち……その人に伝わるといいね」
そんな言葉が、自然と口をついて出た。
その一瞬、サーニャが寂しげな表情をしたことに、芳佳は気がついてしまった。
浮ついた自らの言葉が、故意ではないとはいえ、彼女を傷つけた――
そう感じ、芳佳は自分の軽率さを心の中で責める。
謝罪の言葉を探していると、夜のしじまを破りながら、その声は聞こえた。
「こんな時間に、何話してんダ~?」
芳佳もサーニャも、自分の耳を疑った。今、確かに聞こえた。ここにいるべきでない人物の声が。
ぎょっとしてソファーの後ろを振り返ると、見慣れたニヤニヤ顔をして二人を見下ろす者が、いつの間にかそこにいた。
「おい宮藤、ワタシに内緒でサーニャに変なコト吹き込んでたんじゃネーダローナ」
芳佳をじろりと睨んだエイラは、そのまま覗き込むように、ずずいと顔を近づけた。
「え…………あ、ええ!?」
身体全体で動揺を表現しながら、その顔をエイラから引き離そうと仰け反る芳佳。
そのおかげでバランスを崩した身体が、ソファーの上から転げ落ちそうになったそのとき、
エイラが芳佳の両肩をつかみ、その身体をぐいと自分の側へ引き戻した。
「何やってんダヨ、落ち着けって。そんな驚かなくてもイイダロー」
誰のせいだ、と芳佳は思った。きっとサーニャも、内心では同じような気持ちに違いない。
いつの間にか真っ赤になった芳佳の顔を、エイラは不思議そうに見つめた。
「お前、何か顔赤いナ……。熱でもあるノカ?」
身をかがめ、芳佳と目線を合わせるエイラ。
つかまれた芳佳の肩がごく自然に引かれ、互いの額が、こつんとぶつかる。
サーニャが、あ……と小さく声を上げるが、温度に集中するエイラは、それに気付かない。
芳佳はというと、これ以上無いくらい真っ赤に茹で上げた全身を、
そこだけ時間が止まっているのではと思われるほどに硬直させながら、
エイラさんってやっぱりきれいだな、などということを、
頭の片隅に辛うじて残された思考可能な部分で、おぼろげに考えていた。
「やっぱり熱あるナ、お前。とっとと戻って寝ろヨ。でないと風邪ひくゾ」
くっつけた額を離しながら、諭すように言う。
解放された芳佳は、心ここにあらずといった感じに、ふえ? と間抜けな声で返事をする。
そのありさまに、心配を通り越して不審がるエイラ。
「……おいサーニャ、こいつダイジョーブか?」
問いかけたその先には、むすっとした目付きでエイラを睨む、サーニャの冷たい視線。
どうしてそんな顔してるんだ、とエイラは言いたくなったが、それが彼女の不機嫌をさらに
加速させてしまうように感じて、その質問をぐっと飲み込んだ。
「ナ、ナンダヨ、そんな目で、見ンナヨ……」
「…………エイラ……」
「いや、その、宮藤がダナ……」
はあ、とこれ見よがしに大きく溜息をついたサーニャは、すっかり骨抜きになった芳佳の手を取り、
「芳佳ちゃん、一緒に部屋、戻ろ」
二人でそそくさとミーティングルームから出て行ってしまった。
取り残されたエイラは、頭にクエスチョンマークを浮かべつつ、一人ぽつねんと立ち尽くした後、
やっぱり止めとけばよかったかなと思いながら、自分の部屋へ引き返すのだった。
*
深夜の滑走路に、その姿はあった。
真っ黒に染まった空を見上げる、一人のナイトウィッチ。
道に沿って一直線に配置された光の列が、進むべき方向はこちらだと言うように、
暗闇の中に伸びた一本の道を、そのナイトウィッチへと示している。
「サーニャ!」
ストライカーユニットを履き、今まさに飛び立とうとしているその背中へ向けて、エイラは呼びかけた。
「エイラ……?」
その名を呼ばれたナイトウィッチは、どうしたの、という表情で振り返った。
良かった、間に合った――そう思いながら、肩で息をするエイラ。
呼吸を落ち着けながら、エイラは足早にサーニャへ歩み寄ると、
「ちょっと、聞きたいコトが、あってサ」
そう、切り出した。
聞きたいこと――他でもない、芳佳についてのことだった。
昨日の夜、サーニャが何を話されたのか、教えて欲しいと思ったのだ。
芳佳に直接聞こうとも思ったが、切っ掛けを探しているうち、そのタイミングを失ってしまって、
結局は、こうして夜間哨戒へ赴こうとするサーニャをつかまえ、駄目元で尋ねる他ない。
「……なあに?」
少しばかり眉をひそめたサーニャを見て、エイラは、自分の心が見透かされているような感覚を覚えた。
昨日のことなら秘密だよ、という思いが、サーニャの表情には表れていた。
サーニャは、人の秘密を守れる子だ。迫られたところで、簡単に口を割るようなことはしないだろう。
やっぱり、諦めようか――エイラがそう思ったとき聞こえた、その声。
「エイラ……さん?」
反射的に振り返ったエイラは、思わず声の主の名前を口にする。
「み、宮藤……?」
どうして、という疑問の前に、しまった、という罪の意識が来るのを、エイラは感じた。
他人の秘密を嗅ぎ回るような真似をしている自分を恥じる気持ちが、今更になって現れる。
芳佳がやって来た理由など、今のエイラにとっては、もはやどうでもいい些事だ。
とにかく、芳佳の前からいなくなりたい――そんな衝動があった。
やっと見つけました、と駆け寄ってくる芳佳に、逃げ出したくなる気持ちをぐっと堪えて、エイラは言った。
「……どうしたんだヨ、こんな時間に」
「あの、私、エイラさんを探して……部屋に、いなかったみたいだから」
「……ワタシに、何か用か?」
エイラを見つめていた芳佳の視線が、隣のサーニャに向けられる。
ちょっと間があって、何かを合点したように頷くサーニャ。
その様子を見たエイラは、二人の行為の意味がよく分からないまま、とりあえず疎外感を感じた。
「アイコンタクトなんかして、何ダヨお前ラ。いつの間にそんな仲良く――」
「あっ、あの! エイラさん!!」
エイラの言葉を遮って、声を張り上げる芳佳。驚いて思わず停止するエイラ。
格納庫中に響き渡る声は、果たして本当に芳佳のものだったのかと、疑いたくなるほどだった。
「お、おは、お話が! あるんですっ!」
つっかえながらも言い切ると、強い意志を湛えた瞳で、きっとエイラを見据える。
大きな覚悟と、少しばかりの不安を抱えた、そんな眼差し。
絶対に逃がさないぞ、今夜だけは付き合ってもらうぞ、という彼女の胸中が、
嫌と言うほど伝わってくるのをエイラは感じ、思わず気後れしてしまう。
二人の様子を見守っていたサーニャが、未だ動けずにいるエイラに、言葉をかける。
「……逃げないで、ちゃんと、受け止めてあげて」
受け止める? 何を? エイラがそう問う前に、彼女は、芳佳にも言葉を一つ送った。
「がんばってね」
二人に背を向け、暗い夜空へと向き直るサーニャ。
その小さな背中にわずかな寂しさを垣間見たような気が、エイラはした。
サーニャの足元に魔方陣が形成されると同時に、ストライカーの先端で、魔力のプロペラが音を立てて回り始める。
待ってくれ、と伸ばされたエイラの手を、振り払うかのように加速するサーニャ。
真っ黒な夜の空へと飛び去って行くその姿は、あっという間に遠ざかり、
夜空に閃く魔導針の輝きも、やがて雲の隙間に紛れて消えた。
深夜、寝静まった基地内の一角、残されたのは、エイラと芳佳の二人。
エイラには、何が何だか分からなかった。
ひどく真剣で、少し不安げな芳佳の様子、サーニャに貰った言葉の意味、
昨日、深夜のミーティングルームで、落ち込んでいたその訳。
本当に何も、分からなかった。
――さあ、自分の番だ。
ただ一つ、そんな漠然とした予言だけを、エイラの能力が告げていた。
滑走路の上を二人きり、進む。
一人は、足元に視線を落としながら。もう一人は、闇に染まった水平線の向こうを、ぼーっと眺めながら。
『少し、歩きませんか?』
小さな声でそう言った彼女。
元より拒否権などなかった。逃げるな、とも言われた。
ああ、と短く返事だけして、彼女の後ろをついて行った。
海へ突き出るようにまっすぐ伸びた滑走路の上で、こつこつとアスファルトを叩く靴の音が、二人の間に響く。
エイラの隣を、俯き加減に歩く芳佳。
その姿が、昨日ミーティングルームで沈んでいた彼女とだぶって見えて、エイラは思わず気を揉んだ。
結局、サーニャは何を相談されたのだろう。彼女がいないこの場で、それを確かめる術は――
一応あるが、どうにも踏ん切りがつかない。
とりあえずは、元気を取り戻させてやろう。そう思って、依然曇り顔の芳佳に、エイラは声をかけた。
風が気持ちいいな、とか、下ばっか見てると海に落ちるぞ、とかそんなことを、
芳佳の核心に触れたい気持ちを気取られぬように、努めて普段どおりの口調で喋りかけてみる。
しかし当の芳佳といえば、はい、ええ、そうですね、などと俯いたまま適当に相槌を打つばかり。
そんなやり取りが何度か続いて、一向に報われぬ努力にエイラもそろそろ虚しさを覚え始めた頃。
永遠に続くように感じた滑走路にも、終わりが見えてきた。
突き出た滑走路の先端部分。リーネのお気に入りの場所だという話を、聞いた気がする。
今は、芳佳のお気に入りでもあるのだろうか。
あそこに着いたら、彼女は何を言うのだろう。
あるいは、何も言わず元来た道を引き返すのか……。
エイラが考え終わるより早く、二人は道の終わりにたどり着いた。
遠くで波の音が、ざあん、ざあんと響いている。
立ち止まって、道の縁に腰を下ろす芳佳。ちょっと考えてから、エイラもその隣に座る。
海の向こうからそよそよ吹く風を、エイラは頬に感じつつ、夜空を見上げた。
夜間哨戒の度、何度も見上げた空だ。特に代わり映えのしない、見知った空――
「あの……」
ぽつりと、声がした。
「すいません、こんなところまで、連れ出しちゃって……」
「いや……別にいいヨ」
「……はい」
それきり、芳佳は再び黙り込んでしまった。
仕方無しに、エイラももう一度、夜空に目を向けることにする。
(そういえば、宮藤のヤツ、あの日もびびってたっけ)
ぼんやりと考えるのは、三人で夜空を飛んだあの日のこと。
エイラとサーニャ、二人のグループに芳佳が飛び込んできたのは、思えばあの日からだ。
遮光されたサーニャの部屋で、いろいろな話をしたこと。
その日のタロット占いも、おそらくハズレだったということ。
そして、サーニャと芳佳と三人で、夜間哨戒に繰り出したこと――
『手、つないでくれたら、きっと大丈夫だから』
不意に、あの日の言葉が、鮮烈な響きをもって蘇った。
暗闇を怖がる芳佳が求めた、唯一つの行為。
お前は今も、それを求めているのか――?
そう問いかけるように、エイラは自分の右手を、芳佳に向かってそっと伸ばした。
そのまま、膝の上で固く握りこまれた彼女の左手を、やわらかく包み込んでやる。
出来るだけ優しく、大切な宝物を、扱うように。
「あ……」
芳佳の口から、ため息のような、安堵の色を含んだ声が漏れた。
私はこれが欲しかったんです――そんな言葉を、芳佳から与えられている気がした。
「……エイラさん」
芳佳は顔を上げ、エイラに微笑みかけながら、言った。その顔に、陰りの色はもう見られない。
「何ダ?」
「好きです」
瞬間、自分の思考がどこかへ吹き飛ぶ感覚を、エイラは味わった。
――今、彼女は何と言った?
好きだ、と言った。
――誰に?
自分にだ。
エイラの中でそんな自問自答がなされ、それからやっと、今の状況が理解できる。
つまりこれは、俗に言う、いわゆるコクハクという奴だな――
ひどく、冷静な思考だった。
自分の意識が放り出されて、第三者のように自分を見つめているような感覚だ。
ふと、芳佳の両手が、首に回される感触があった。
エイラが急いで意識を戻した頃には、ゆっくり迫る芳佳の顔が、自分のすぐ近くまで来ていた。
触れる――そう思った直後、まさに自分の鼻先で、それは止まる。
額を合わせて熱を測るのとは全然違う意味で、相手の顔が近くにあった。
閉じられた目とか、首に回された芳佳の腕とか、心持ち突き出された顎とかが、そのことを物語っている。
きっと彼女は答えが欲しいのだと、エイラは思った。
想いを受け入れるか、受け入れないかの答えを、行為を以って示せと、つまりはそういうことである。
それに気付いたとき――考えるより先に、身体が動いた。
「んむっ……」
ほんのわずかな隔たりを突き崩して、自分と相手を、重ね合わせた。
*
きっと、求めていたのは自分の方なのだと、つながれた右手に感じる温かさを確かめながら、エイラは思う。
つないだ手と手はそのままに、二人は、基地に向けて滑走路の上を歩いていた。
その間じゅうずっと、エイラは事の重大さを噛み締め、ともすればパニックになりそうな頭を抑えるのに必死だった。
芳佳のこと、サーニャのこと、隊の皆には内緒にしておくべきかどうか。
思考が取りとめもなく働き、そのうち柔らかい唇の感触を思い出して、赤面する。
その繰り返しだった。
「ねえ、エイラさん」
芳佳に呼ばれ、エイラの思考が軽く停止するが、とりあえず返事が出来ないほどではない。
「ナ、ナンダヨ……」
「もういっかい」
エイラは、つないだ手を思わずぎゅっと握り締めた。
何を『もういっかい』するのか――知らん振りは出来ないだろう。
「……だめ?」
と、かわいく小首を傾げてみせる芳佳。
魔性、という言葉は、きっとこういうときに使うんだろうなとエイラは思った。
それくらいの破壊力が、その仕草にはあった。理性とか恥ずかしさとか、そういうものを粉微塵にする破壊力が。
「一回ダケ、ダゾ!」
言いながら、立ち止まって芳佳の正面にまわるエイラ。基地に背を向けた格好だ。
これなら、基地の誰かが気付いても、その決定的瞬間はエイラの陰に隠れて見えないだろう。
芳佳が、つないだ手を解いてエイラの首に両手を回す。
これじゃ、首に回された手が、後ろから見えちゃうじゃないか――エイラはそう気付くが、止めさせようとは思わなかった。
――見るのなら、勝手に見やがれ。むしろ見せ付けてやる!
半ばやけくそ気味に、芳佳の背中に手を回し、目を瞑る。
程なくして、また、あの柔らかな感触が、唇に来た。
好き、という感情が、ごく自然に心に芽生えるのを、エイラは感じた。
あるいは既に、あったのかも知れない。自分の中で育っていた、その感情が。
ずっと知らん振りをしてきたものを、今になってようやく、認めることが出来たのかも知れない。
気付かなくて、ごめんな――
謝罪の気持ちを込めて、エイラは腕の中の小さな恋人を、ぎゅっと、抱きしめた。
もう、離さないよ。
そんな想いも、あった。
*
サーニャ。きっとお前は、芳佳が好きだったんだよな。
あのとき背中に見せた寂しさは、それを伝えたかったんだろう?
ごめんな、サーニャ。でも、この宝物は、たとえサーニャでも譲りたくない。譲っちゃならないんだ。
ワタシがこれから、ずっと、守っていかなくちゃならないものなんだから。
お前の代わりに、ワタシが芳佳を守るよ。
お前の分まで、お前に恥ずかしくないように、何があっても全力で、守り通してみせるからさ。
なんでもない風を装って、おめでとう、なんて言ってくれるお前が、目に浮かぶよ。
あのとき、お前がどんな気持ちで夜空へ飛び立ったのか、全部分かるなんて言わないけど。
一人で、苦しんでたんだろ? 届かない想いを知って、泣きたかったんだろ?
ワタシは、サーニャのこと、絶対忘れないからな。
お前の辛さも、悲しみも、全部受け止めて、忘れないからな。
だから――また来年、芳佳とお前の誕生日には、みんな揃ってお祝いしような。
そして、ワタシの誕生日にも。
十一人みんな揃って、お祝いしような。