chocolat chaud


唐突に、自分が独りであると思い知らされて目が覚めた。

赤く燃えた唇から吐き出される落ち着かない呼吸を必死で飲み込んで、ペリーヌは枕元の時計を薄闇の中で求め
る。文字盤を月明かりに照らしてみればおぼろげに明け惑う時間が示されていた。5時過ぎとは、朝を待つにして
も今一度眠りに身を委ねるにしても中途半端な時間である。一般のウィッチに関して言えばこのくらいの時間に目
を覚ましてしまったならば迷うことなく二度寝を決め込んでしまったところであろうが、ことペリーヌに関してはその
ように即決することができないのだ。なぜなら彼女のここ数日の日課といえば朝露が溶け切らぬ時分から早朝訓
練にいそしむ坂本美緒少佐とまだまだ新人軍曹である2人を遠巻きに部屋から見守ることだったのだから。いや、
正確に言えば少佐ただ一人に熱い視線を向けることに従事していたのだが。
ともあれ、そのような日課を持っていてはうかうかと惰眠を貪ることもできず、かといって起きて夜明けを待つには
いささか暇を持て余してしまう時間だった。
それに加えて彼女は最悪な夢見のせいでどこか憂鬱な気分を目覚めに感じてしまっていたところだった。その夢
は何か精神を必要以上に追い詰める内容のものであったはずなのに、ペリーヌが時計の針を追っている間にそれ
は夜露に消えてしまったのか、今はただ後味の悪さを残すだけだ。
“寂しさ”という、始末の悪い感覚を残しただけだ。
ペリーヌはむくりと身体を起こして、寂しさの根源を探してみる。
それは探そうとするまでもなく脳裏に浮かんでは光彩を鮮やかにするものであった。
月に、故郷を思って頭を低れるとはいつか美緒が口ずさんでいた詩篇の一部であったろうか。ブリタニアに来て、
今は無き故郷を何度想っただろう。家族を、何度恋うただろう。
目裏に焼きついていつまでも色あせない父母の笑顔を言葉を大切に大切に反芻しながら項垂れた、その波打つ
柔らかな彼女の髪は月明かりに似て切なく揺れていた。冷たい月光を固めたような光さえ放っているようだった。

(談話室に行って、温かい飲み物でも淹れようかしら)

一際大きなため息を一つ吐き出して、せめて寒気に冷えた身体だけでも温めようと冷え切った室内履きに足を下ろ
した。寝間着のまま自室の外に出るのは貴族を自称するペリーヌにはいくぶん憚られたが、この時間帯であれば誰
かに会うこともないだろうと恥を忍んで廊下に一歩を踏み出した。
常夜灯が灯っているとはいえ、しんと冷えた廊下はどこまでも薄暗く寂しい。
寂しい。
ペリーヌの寂寥もまた、常夜灯ごときには晴らされぬものだったので、その冷たさは彼女自身の心の深淵を覗き込
ませるに十分なものだった。
無慈悲に凝り固まった廊下を踏みしめる度に足先から冷感と共に切なさがせりあがってくるようだった。真実、彼女
の感じる寂寥とは過去に限ったものではなかった。
自身に、無二のパートナーとなり得る唯一の者が果たして存在しているのかという不安。
己が抱える痛みをすべてぶつける、見せてしまえる者が存在しているのかという不安。
そしてそれを自らの物のように感じてくれる者が存在しているのかという不安。
ペリーヌは、自身の痛みを他人にも背負わそうとするほどに傲慢ではなかったしそれを他人に許すほど誇りを失っ
たわけでもないがしかし、そういった悲しさではなくただ純粋な喜びを分け合う誰かを求めていたのは確かだった。
彼女が見渡せる限りにおいて、その“誰か”を見つけ出した者が少なくはなかったから。

(例えば・・・)


そう例えば。
幼心に母を求めながらやんちゃが抜けぬフランチェスカの悪戯に微笑みかける包容力溢れるシャーロットの庇護
だとか
未だ新人という言葉を抜け出すことができずそれでも懸命に己の力を伸ばそうと高め合い励まし会うリネットと芳
佳だとか
時にはこれ以上ない程優秀な戦友同士のような顔をしながらある時には姉妹に向ける情を代替的にでも交わすカ
ールスラントの軍人達だとか
ペリーヌの周囲に溢れるそれらの親愛は時に羨ましくも見え、時に妬ましくも見えた。
醜い感情だとは、高い矜持を持つ彼女はこれ以上ないほどに理解していた。
だが、彼女にとって唯一の
尊敬も憧憬も親愛も敬愛も情愛も、すべてを
すべてを捧げててしまいたいとまで焦がれる美緒は
何者かに優劣をつけぬ優しさと残酷さを以って隊の皆をわけ隔てなく愛おしげな、純粋だけで作り上げられた視線
で見遣るのだ。
ペリーヌにとってそれは安心であり、時にもはどかしくもあり、そして決して届かぬ崇高なものでもあった。
美緒の両手はいつだって来る者を拒まず広げられているばかりでいたので、たとえペリーヌがその胸に飛び込も
うとも美緒にとってはその他大勢と変わらない仲間の一人にしかならないのだった。だから彼女は、ペリーヌは、
美緒に必要以上
に馴れ合うことに踏鞴を踏むこと以外できなかった。その背中を追うより他に。
対等の力を持って、そのネウロイのコアより紅く燃える魔眼に射抜いて欲しいと願った。
しかしてそれはいまだかつて叶えられていない願い。
自分がもっと強くなれば、その瞳は自分を捉えるだろうか。それとももっと未熟であれば?毎朝欠かさず美緒の指
導を受けられるだろうか。軍曹の2人のように秘めたる力を持ちながらも未熟であれば?
しかし彼女は、自分が優秀なウィッチであることを自覚していた。傲慢でなく。だから美緒は言う。大切な教え子達
に「もっとペリーヌを見習え」と。それは確かに誇らしくもあった。あったが、


静寂を凍らせる廊下は耳に痛い。
ひたひたと廊下を踏みしめる度感じる冷たさと遣る瀬無さに何度自室に戻ろうと思ったことか。しかしこのまま部屋
に戻って眠ろうとしても冷え切った身体がそれを許さず、起きていようとしても螺旋状に伸びた思考がそれを憂鬱な
時間にしただろう。当初の目的通り、ペリーヌの足は迷い無く談話室に向けられていた。

(あたたかいハーブティでも飲んで身体を温めれば幾分リラックスできるでしょう)

カモミール、ラベンダー、ローズヒップ・・・。
ペリーヌの脳内を、お気に入りのハーブの名前が流れていく。
たまには王道に紅茶でもいいかもしれない。リネットの淹れる紅茶の本場らしい薫り高さを想起させながら、既に
気付かぬうちいくらか軽くなった掌で談話室の広間へと通ずる扉を開放していった。
果たして彼女を迎え入れたのは
夜と朝の狭間に蟠る静寂と冷たさ
ではなかった。

「・・・ん?」
「あ・・」

無音に見せかけておきながら、人がいることを感覚的な音で伝え遣る何がしかの気配。
無人ではありえない、凍えた廊下から一歩踏み入れたことでようやく分かるほのかな温度。
どこかで嗅いだことのあるような刺激的で香ばしい薫り。
火を入れたばかりなのか静やかに燻る暖炉の淡い炎。

「・・・なんだヨ。ツンツンメガネかよー」

そのかすかなオレンジ色に照らされた端正な、しかしどこかとぼけた顔形。
真っ白な手に包まれた、湯気を立ち上らせる空色のマグカップ。

「エイラ・・さん?」

仄暗い小さな炎だけを光源とした空間の中で、彼女が、いた。
防寒に適した厚手のパーカーを着込んで暖炉近くのソファに深々と腰を下ろしながら、気の抜けたような安堵したよ
うな表情を作って。

「ミーナ隊長かと思った。こんな時間に勝手に火をつけちゃったから怒られるのかと思ってビビったじゃナイカー。ほ
ら早く扉をしめろッテ。折角あったまりかけた部屋なのに寒さが入りこんじゃうダロ?」
「・・あ、えぇ」

よほど肝を冷やしたのか饒舌に語りかけてくるエイラにペリーヌは状況をまだ十分に理解できないままそれでも後
ろ手に扉を閉めて見せた。未来予知の魔法が使えるというのに彼女は変なところで臆病だ。しかしそれも怒ったミ
ーナの姿を思い起これば頷けるかな。エイラが縮こまるのも無理はないだろう。
背中で、扉が閉まった音がカチャリと鳴った。
ペリーヌはその音にどこか居心地の悪さを感じる。密室ではないというのに、エイラと二人きりになってしまったと
いう状況が彼女を居た堪らずさせた。エイラはきっと、自分を嫌っているだろうと思ったのだ。

「こんな時間にどうしたンダ?まだ夜明け前だっていうのに」

しかしながら彼女はいつも通り他と接するのと変わらぬ態度で平然と、人を食ったような顔で問いかけるのだった。
いつか言ったように、なんてことないといった表情で。

「た、たまたま目が覚めたものですから何か温かいものでも飲もうと思って。・・・そもそも貴方には関係ないことでし
てよ、エイラさん」

ピシャリと、言ってのけたペリーヌの口調はこれ以上の介入を拒むような色合いを持っていた。そうすることによって
彼女は居心地の悪さを緩和しようと目論んだのかも知れない。自分を嫌っているだろう人間と好き好んでお喋りに
興じる趣味もない。
それに、“何故か無性に寂しくて”などと、彼女がどうして言えよう。彼女の矜持と、わずかな羞恥はそれを許さなか
った。

「ふーん。そっか」

応える声はいつも通り平坦。その声音は聞く者に感情を読み取らせぬ力があった。
ペリーヌは益々歯噛みしたくなるような気分になってくる。
そう、彼女は思い出していたのだ。
自室を抜け、廊下をただ独りで歩いていたときに襲われた寂寥を。侘しさを。
なぜって、目の前でのんきにカップから湯気をくゆらす少女はまさしく彼女の嫉妬の、憧憬の対象であったから。
エイラと、サーニャ。
急ごしらえで編成された隊の誰よりも、誰よりも仲睦まじく映る少女達。色となって形となって可視化されているよう
に思えた。互いを思い遣るその友情や絆や親愛や、もしかしたらもっと強い想いが。
そんな彼女を前に、どうして自分は心安らぐことができようか。やはり談話室に気まぐれに来てしまったのは失敗
だったと踵を返そうにも、ペリーヌは先ほど自身で口に出してしまった言葉「温かいものでも飲もうと」のせいで動け
ないでいた。

「そんなとこに突っ立ってないで座レバ?」

ペリーヌになどちらとも視線をそそがぬエイラが、声だけをペリーヌに向けて投げた。事実、投げ遣りに。ペリーヌ
はその言葉に従うより他に選択肢を持っておらず(いや探そうとしてみればお茶を淹れにシンクに向かうというまっ
とうな行動を取れたのであるが)、エイラから見て斜め前に位置する独り掛け用の椅子に腰掛けた。やや浅く。
“関係ない”と言ったのは己であったはずなのに、いざ彼女の言うように腰を落ち着かせてみてもエイラから得られ
る反応といえば一瞬差し向けられた視線だけでため息一つぶんの音さえなく、そのことがペリーヌにとってはなぜ
かやけに気に食わなかった。

「・・・・。」
「・・・。」

静寂に根を上げるのはどちらが先か、というような安っぽい沈黙が2人の間に充満していた。いやそれはペリーヌ
が一方的に、常の意地っ張りを展開させたばかりの片道通行のものであったのかも知れない。エイラといえば眠
たそうに、時折行儀悪そうに大きな欠伸を披露しているばかりだ。

(こちらの気も知らないで・・・)

いつまでも続きそうな沈黙に、手持ち無沙汰なペリーヌの方が先に白旗を上げてしまうだろうのは明らかだった。そ
のはずであるのにしかし、彼女が固体化した二者間に横たわる空気を何らかの問いかけ或いは呟きによって破壊
せしめようとした一刹那手前、のんきな欠伸の持ち主が大儀そうに身体を起こした。

「2杯目淹れるけどペリーヌはどうする?ついでに何か持って来てやろうカ?そのつもりでここまで来たんダロ?」

ペリーヌに向けられる瞳はややおぼつかないものだった。眠いのかもしれない。

「・・・じゃあ、ローズヒップとレモングラスを」

これはちょっとしたいやがらせ。

「あのなー・・・。私がそんな手間の掛かるもの淹れられるわけないダロ」
「あらそう?貴方は何を飲んでらっしゃるのかしら?同じものでも構まなくってよ?」

エイラの辟易した表情にペリーヌは少しだけ満足し、わずか相好を崩した。それは食堂に足を踏み入れてから今
まで味わわされた居心地悪さの報復であり、紡いだ言葉は己が心の寛大さを示す為の譲歩であった。どうせ最初
からペリーヌは、エイラがハーブティを淹れられるなど期待してはいなかったから。それに、同じ物でもいいと言った
ペリーヌの言葉もなまじ譲歩だけに固められたものではなかった。この部屋に足を踏み入れたときから薫るどこか
懐かしいような、覚醒を導いてくれるような彼女の飲み物に惹かれていたのも確かだったのだから。
対するエイラは、そんな可愛げのない言葉にわずかな脱力を特有の無表情に滲ませながらまた生欠伸と共に返す。

「ただのコーヒーだけど、ブラックの。それでもいいノカ?」

目尻に欠伸の余韻の雫を残しながらニヤリと笑んだその表情はペリーヌの揶揄を実直に受け止めて返り討ちにし
ようとしたもの。
彼女はペリーヌがその手の無骨な飲み物を好いていないことを数ヶ月の共同生活を続けるうちに推測していた。だ
からこれも、いつも通り彼女をからかう煽り文句でしかなかったのだ。

「・・・わたくし、コーヒーは好みませんの」

心底がっかりしたように、寂しげに吐き出されたペリーヌの声にエイラは知らず悪戯な笑みを深くする。その表情は
「もちろん知っていたとも」とでも言いそうなものだった。

「苦いだけで、どこをどう味わっても深みや品格といったものが窺えませんもの。本当に単純な苦味だけ。一体何
がよくてあんな泥水のようなものを――」
「はいはい分かったッテ」

ペリーヌのどこまでも続きそうな、曰く泥水への文句を押し留めるようにエイラはうんざりした口調をわざと装いな
がら遮った。食文化というものは多国籍の要員で形作られた集団を一番簡単に壊滅させてしまう安直な手段であ
ったから。そんなちっぽけな諍いを生み出してしまうのは本意ではない。

「砂糖とミルクをたっぷり入れてやるヨ。それならお子様味覚のペリーヌにだって飲めるだろうシ」

エイラはシンクに向かいながら、講釈を留められて不満げなペリーヌに見えるように大袈裟な動作でカップを持っ
ていない方の手を肩の上でひらひらと揺らした。「だっ、誰がお子様ですって!?」なんて必要以上に憤った声を聞
き流す。
どうやらいつもの調子に戻ったようだと綿よりも軽いため息を吐きながら数十分前に沸かせたケトルに水を注ぎ足
した。
本来エイラは、他人の機微に敏感な少女であった。普段は、周囲から見れば不思議と思われがちな言動をとりが
ちではあるのだがその実、誰よりも細やかな観察眼を持っていた。だから彼女はそれに気付いていた。
ペリーヌの危うさと、不安定に揺れる瞳に。

(っていっても私にどーにかできるようなもんでもないしなー)

そして己の無力さにも。
彼女はそれを察することができるくらいには聡い少女でもあった。ただその聡明さは、ペリーヌの寂しさに気付けぬ
程には幼いなものであった。
かたかたと不安定な音がケトルの中から響く。沸騰しかける水の悲鳴は2人をどうにか繋ぎ止める頼りない一本の
ロープのよう。
シンクに逃れたエイラの真っ直ぐに伸びた背をなんとはなしに見つめるのはペリーヌの、無感動な双眸だけ。
気付けば、言葉を放っていた。

「エイラさんは、どうしてここに?」
「え?何か言ったカ?」
「・・貴方こそ、どうしてこんな夜明け前に起きているんですの?十分に寝直すことができる時間でしょうに」

ペリーヌの言葉は己にも投げかけることができるであろう問いかけだった。
エイラは振り向かない。

「別に、ペリーヌと同じよーなもんダヨ」

そっけない声音に、ペリーヌは自身が紡いだ言葉を反芻する。“たまたま目が覚めたから”
いざ己の耳で聞いてみれば、どうにも胡散臭い理由のように思えた。それはペリーヌもまた本心からそう言った
わけではなかったからなのだけれど。
がさごそと、エイラからは無機質な音が響いてくる。
ペリーヌからは相変わらずその背中と、時たまわずかに半端な横顔の欠片が見えるだけだ。不満ではない不快
感が彼女の胸を引っ掻いた。

「それにしては、この部屋に長居する気が満々のようでしたけれど?わざわざ暖炉に火まで灯して」

揶揄と不機嫌と、被疑者を追い詰める権力者の優越感が混じり合った複雑な色をした声だった。

「・・・別に。ただ寒かったカラ」

不機嫌を隠そうともせず、戻ってきたエイラからペリーヌの前に湯気を立てるマグカップがやや乱暴に差し出され
た。今にも湖面を乱してしまいそうなほどその反動に揺れるクリーム色の液体。
取り繕った余裕の笑みを崩さず、ペリーヌは片手で鷹揚にそれを受け取る。指先に火傷しそうなほどの熱源が宿
った。その熱さが、彼女の言葉を後押ししたのだろう。

「あら。本当にそれだけですの?」
「・・・他に何だって言うんダヨ」

わずかひるむエイラの表情。

「サーニャさんの帰りを待っているのでしょう?健気ですこと」
「ソ、そんなんじゃネーヨ!」

ペリーヌが小馬鹿にするように吐き出した言葉を押し返してあまりある勢いで速度でエイラがこの時分にはおおよ
そ相応しくなく声を荒げた。その声音は憤っているようでもあったがしかし、彼女の頬は暖炉の中でちりちりと炎を
生み出す木片よりも明確に、真っ赤に燃え立っていたのだった。

(やっぱり)

それは確認するまでもないただの事実でしかなかった。だのにどうして自分は尋ねてしまったのだろう。エイラの
世界が彼女を中心に動いているだろうことを、確かに知っていたはずで、それに羨望すら感じていたというのに。ど
うしてわざわざそれを口に出させてしまったのだろう。普段あまり感情を表に出さないエイラの彫刻のような美しさ
は今この瞬間に命を、感情を吹き込まれて紅く、この上なく綺麗に咲いていたので、それがまたペリーヌには妬まし
かった。
彼女の胸中にまたしても鈍色の酸鼻が駆け抜け、炎の陰影のせいでなく顔を翳らせたのをまたしてもエイラは気
付いたが眉を顰めるだけでそれの原因が自分だなどとは思い至らなかった。

「どうした?」

それ故エイラは問う。軽く、軽く、白く立ち上る湯気のように。

「・・・別にどうもいたしませんわ。ごちそうさま」

ペリーヌもまた、その手の中の湯気に似せたため息混じりに言葉を紡ぐ。嫌味を付け足してやりながら。
しかし

「一口も飲んでないくせに“ごちそうさま”なんて言うナヨー」
「は?」
「それ。ペリーヌのためにわざわざ淹れてやったんダカラ」

エイラに彼女の嫌味など欠片たりとも伝わらず、額面どおりに受け取って不満たらしく唇を尖らせた。
“それ”と彼女が指差すのは、柔らかな色合いをしたマグの中身。

「・・・いただきます?」
「そうそう、そっち。どうぞ召し上がれ」

そう言って片頬を歪める。
意識的なのか無意識なのか、エイラのとぼけた受け答えはペリーヌの気勢を削がせるのに十分だった。

(本当に、調子が狂いますわね)

クリーム色の湖面に息を吹きかけながら目線だけを上げてエイラを見遣れば何事もなかったかのようにまたソフ
ァに腰を落ち着けようとしていた。大した寛ぎようだ。まるで談話室を自分の部屋だとでも思っているのだろうか。
ふ、と息を吹きかける度に波立つ湖面、鼻孔に届く甘い香り。
当初所望していたハーブの香りとそれは似ても似つかなかったが、なぜだか心が安らいでいくのを感じてペリーヌ
は驚いた。
自分は、扉を閉めたあの瞬間から、居心地の悪さを、感じていたのではなかったか。
そして、つい先ほども、醜い嫉妬を。

「なんだヨ、猫舌カ?」

湯気の向こうでエイラが自分を覗き込むように見ているのに気付く。おぼろな輪郭。

「そ、そんなんじゃありませんわ」

気付いたのはその視線だけでは、なかった。
上擦った言葉を誤魔化すように飲み込んでしまうように、ペリーヌは舐める程度にマグの中身を一口味わった。

「おいし・・・」

それは、無意識の感嘆。小さな、小さな。

「そーだろ?やっぱりペリーヌはお子様味覚みたいだナ」
「な!?だから誰が・・・!」

耳ざとくもペリーヌの感嘆を聞きつけたエイラが得意げに言い、ついでのようにまたしても付け足された揶揄の言
葉。気に入らず強い視線で彼女を睨もうとしたペリーヌであったが、エイラを見遣った瞬間それ以上の反駁を飲み
込んだ。
ホッとしたような、表情があったから。
エイラのそれは常の通り無表情であったのだがそれでも、そこに安堵が滲んでいるように見えたのだ。
気のせいであったかもしれない。曇る視界が見せた願望であったのかも知れない。暖炉の炎が作った揺らぎに歪
められたものなのかも知れない。
だが
ペリーヌは気付いていたから。
会話の節々に
挙動のひとつひとつに
この温かいカフェオレに
一滴ずつ垂らされた彼女の気遣いと、優しさ。
それに気付いてしまったから。

ペリーヌは不満そうな表情を装いながらもその唇から一言たりとも批判めいた言葉を紡ぎだすことをせず、ただ
再びカフェオレに口をつけるしかできなかった。
甘すぎるほど甘ったるい、しかし不快ではない味わいが口の中に広がる。
それはもはやカフェオレとは呼べず、コーヒー牛乳などとも呼べない、コーヒー風味のホットミルクといっても過言
ではなかった。“砂糖とミルクをたっぷり”との言葉通り。
そしてそれに、ほんの少しの、優しさをエッセンスに。
じわりじわりと、ペリーヌの胸の中に温もりが溶けていく。彼女は、エイラは自分のことを嫌っていたのではなかっ
たのだろうかという自らの胸に差し込んだ疑念ももろともに溶けていく。


それから2人は珍しく、何のとりとめもなく話をした。
いやそれは話をしたという一般的定義からは少々外れるものでもあった。2人の会話はやや噛み合っていないと
ころが多々見られたからだ。
例えばペリーヌが美緒の凛々しさを説くとエイラはサーニャの可愛さを零し、ペリーヌが芳佳への不満を述べるの
にエイラが扶桑料理の感想を漏らしたり、聞いているのかいないのか測りかねる合いの手を入れてみたり。
そうそれは会話というよりもペリーヌの独白のようであった。時々ノイズじみたエイラの頷きや呟きが入ることがな
ければペリーヌが独り言を延々吐き出しているように聞こえただろう。
ペリーヌ自身にも、それは不思議な体験だった。どうして自分はこうも易々と本音に近い戯言を吐露しているのだ
ろうかと。強がりの根源や美緒への思慕、芳佳への嫉妬、果てはガリア料理自慢やハーブのブレンドの試行錯誤
にまで話は及んでいる。聞き手にとっては興味がなければ果てしなく退屈なBGMでしかないものであるはずなの
に。そして自分は相手が、エイラが聞いているのかいないのかを気遣うことすら忘れていたように思う。時折、「聞
いていますの?」と質すことはあれどエイラといえばのらりくらりと「はいはい聞いてるって。それで?」「それもそう
ダナ」「へぇ、知らなかった」と短い言葉でゆるく先を促すので、ペリーヌは何故だかそれで満足してしまって、また
言葉を紡いでいくのだった。一見無関心にも見えるエイラの態度がペリーヌの口を滑らかにしたのかもしれない。

話が一巡してまた美緒について語られ出したとき、エイラのマグの中のコーヒーが底を尽きたのか彼女はついと
視線を上げた。瞳の先には頬を上気させるペリーヌ。彼女の手の中のカフェオレもまた、熱を逃がして久しい。饒
舌に喋り続けていたから、その中身もまたエイラと同じように空になってしまっているのかもしれない。
エイラは彼女の中でペリーヌのトレードマークとなっているメガネを見遣ってひとつため息をこぼした。
エイラはペリーヌが話し出してから一度も彼女のほうを見ていなかった。それがペリーヌには無関心に映ってい
たのだが実はそうではなく、

(もう、メガネは曇ってないみたいだな)

眼鏡を真っ白に曇らせてカフェオレを飲む姿のその滑稽さに笑い出してしまいそうになるのを堪えるためであった
のだ。
最初こそ、指摘してからかってやろうと思っていたのだが、先日サーニャに言われた言葉を思い出して、今日のと
ころは見送ることにした。
そう、今日のところは。
談話室に入ってきたばかりのときのらしくなく弱々しい顔を見せていたペリーヌを思い出す。

(確かに、からかいすぎるのも逆効果かもだし)

その我慢が実って彼女が常らしい表情を取り戻したのであれば、悪くないとエイラは思った。

(少佐を存分に語ったからってのもあるかも知れないけど)

苦笑を漏らす。
ペリーヌにとっての美緒は、己のすべてを支えるかけがえのないものなのだろう。自分にとって、サーニャがそうで
あるように。
だが、ペリーヌの果てしない好きな人自慢にも、いい加減飽きてきたところだ。
空はいつの間にか白み始めている。
もうそろそろ帰ってくる頃だろうかと、エイラは大切な少女へ思いを馳せながらペリーヌに水を差す。

「なーペリーヌー」
「何ですの?」
「そーゆーの全部、坂本少佐に直接言っちゃえばいいのに」
「ばっ!い、言えるわけないでしょう!?こんなこと!」
「そーかー?」
「そうですわ!」

ペリーヌの激昂という名の必死の照れ隠しに被さるように、エンジン音が一つ。条件反射で窓を見遣る少女が1人。
エイラは己が予想がぴたりと当たったことを知る。サーニャのことに関しては、エイラは予知なんてものを使う必要
を持たなかった。

「待ち人来たる、のようですわね」
「だから待ってたわけジャ・・・まぁ、いいカ」

エイラはペリーヌのあからさまな揶揄に惑うも、頬が緩むのを止める術を持たず甘んじてその指摘を受けいれた。
この顔ではきっとどう繕ってみても無駄であるのだ。

「はいはい。今度こそ本当に、ごちそうさま」

カタン、とペリーヌのマグがテーブルの上に着地した。見ればやはりその中身は空っぽだった。どうやら本当に、
エイラの淹れたカフェオレは彼女のお気に召したようだ。

「なんか、悪かったナー。結局こんな時間まで付き合わせちゃって」

気まずそうに頬を掻くエイラにペリーヌは、謝るのはこちらの方ではないかと一瞬だけ思った。目覚めたときに感じ
た暗鬱な気分は今はもう驚くほどにその質量を減らしている。カフェオレの甘みはまだ舌にかすか残っている。
それもこれも、もう両手では抱えきれないほど溜め込んでいた言葉を吐き出してしまえたからだということを、彼女
は理解していた。少しだけ、喋りすぎたのどが痛いけれど。胸は、痛まない。
むしろ自分こそ謝るべきではないか、感謝すべきではないか。
ペリーヌは、そう思った。
なのに

「わ、私こ、そ・・ってエイラさん?あなた私を時間つぶしに使いましたのね!?」

結局、先程あんなにも滑らかに動いていた彼女の唇は謝罪も礼も、形作ってはくれなかった。彼女の素直さは、
それを伝えようとする相手に対してはまったくの逆方向に作用してしまうのだろう。

「んー?そんなつもりはなかったんだけどナー。結果オーライ?」
「な、なにがオーライですの!全然!まったく!これっぽっちもオーライじゃありませんわ!」
「だから悪かったッテ。カフェオレあげたんだからいいジャナイカー」
「それとこれとはっ―――」

再び幕を上げようとした他愛も無い諍いを言葉なく調停したのは、無機質な物音だった。
カチャリと、ドアが控えめに開かれるその音だった。
隙間から垣間見える銀髪、扉に添えられた真白な手、夜色の軍服の裾。

「・・・エイラ?」

子猫の欠伸のような声音。
現れたのは

「サーニャ!」

『弾むような』という修飾はこういう声にこそ添えられるものなのだろうと、ペリーヌは彼女にはもう目もくれずすぐ
さまサーニャに駆け寄るエイラの背中を無言で見送った。

「おかえり、サーニャ!どうしたんダ?腹減ったノカ?」
「ううん・・。エイラの声が、聞こえたから・・・」
「そ、そっか」

エイラは照れくさそうに口ごもる。ペリーヌは、サーニャの前では彼女の無表情も形無しだなと思いながら、それを
どこか微笑ましい気分で見ることができている自分に驚いた。
2人に感じていたあんなにも醜い嫉妬や羨望が、どうしてか今は湧かない。
あまつさえ

「っ・・・・ペリーヌ、さん?」

エイラの肩越しにこちらに気付いたサーニャに

「おかえりなさい、サーニャさん。夜間哨戒任務、お疲れ様」

労いの言葉を掛けることだって、やってのけた。
それは先ほどエイラに礼を言い損ねた分を取り返して余りあるほどの、親愛の一端。
ペリーヌのその言葉がどれほど珍しく感じられたのか、揃って目を丸くする2人はまるで双子のようによく似ている。
ペリーヌがこれまでサーニャに掛けた言葉といえば刺々しく感じられるものが目立っていたから、余計にこの一言
は際立って稀有に聞こえたのだろう。そのことを半ば程ではあるが自覚していたペリーヌは二対の瞳に穴が開くほ
ど見つめられて気が気ではない。
羞恥のために或いは居た堪れなさにまた、不本意ではあるが棘のある言葉を紡ぎ直そうとしたより一瞬だけ早く

「・・・ありがとう」

ふわりと、サーニャが笑った。
恥ずかしそうに、身じろぎをしながら。
礼を言われるようなことなど何一つしていないという主張を、ペリーヌはしようとして、止めた。
サーニャが本当に嬉しそうに笑うから。
傍らに立つエイラが、自分に言われたわけでもないのにそのサーニャよりもなお一層嬉しそうに笑ったから。
たまにはこんな風に素直になるのも、いいかも知れない。
そう思えるのもあのカフェオレのおかげなのだろうか。

「じゃあ、そろそろ部屋に戻ろうか、サーニャ。疲れてるダロ?」
「・・ん。眠い・・・・」

それならば

「お待ちなさい」

ふらふらと揺れる背中とそれを支える背中に飛ぶペリーヌの一声。揃って振り向いた2人が持つのは眠たげな瞳
と胡乱な瞳。どちらがどちらのものであるかは明白。

「ドウシター?言い忘れたことでもあるノカ?サーニャ疲れてんだから早く寝かせてあげないと」
「えぇ。だから、ゆっくり眠れるように私が特製の―――」

カフェオレの
甘さが、まだペリーヌの舌に残っている。
温かさが、まだ胸に残っている。

「ショコラ・ショーを作って差し上げますわ」

ペリーヌがそう言ったら2人はまた先程とまったくおんなじように目を丸め、
先程とまったく同じように、いやそれよりも何倍も何倍も嬉しそうな表情を見せた。

「エイラさんに作るのは“ついで”ですわよ」
「はいはい。虫歯にならないように気をつけるヨ」

2人の軽口の応酬には険悪さなど微塵も無く、
それを見つめるサーニャは不思議そうで、眠たそうで、だけど楽しそうで。

「そうだ。そのまたついでにもう3人分頼んでもイイカ?」
「なんですの?1人でそんなに飲むつもりでらっしゃるの?」

いそいそとマグカップを取り出すペリーヌの背中に掛けられるエイラの声は軽口を紡ぐのとまったく変わらぬ調子
で届けられたので、ペリーヌな何も気負うことなくお馴染みの口調で切り返す。3人分でも6人分でも、量が増える
だけならどこにも問題はない。もはや彼女の頭の中には、エッセンスにバターかブランデーを加えるか加えるまい
かという問題に占められようともしていた。
だからだろう。エイラの言葉にはしたない程狼狽えてしまったのは。

「そうじゃなくてサ。もうそろそろ、いつもの時間だろ?」
「・・・・いつもの?」
「朝っぱらから頑張る3人にも、おすそ分けしてあげれバ?」
「あ・・・」
「芳佳ちゃんと、リネットさんと・・坂本少佐?」
「ん。坂本少佐にも持って行ってあげれば、きっと喜んでくれるッテ」

手から鍋を滑り落として大音量を響かせながらペリーヌが振り返った先には、両手で耳を塞ぎながら笑うエイラの
悪戯な顔。

「っエイラさん!!」

なんてお節介な人なのだろうと、わずか数時間のうちでペリーヌはエイラの認識を改めることになりそうである。


かくして彼女が作ったホットチョコレートの6杯目には、エッセンスとしてとびきりの親愛が注がれることになる。



Fin.


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