無題
日課を終え、ふと目を上げると絶好の空模様とはまさにこのことをさすのでしょうねと思えるほどに、澄んだ
青空が広がっていました。今日はいいことありそうな気がしますわ。そう呟きつつ、双眼鏡を片付けます。
大体の予測どおりに、パタパタと足音が聞こえてきました。廊下は走るものではありませんわよ、とその行儀
の悪さを咎めるべきかと考えている間に、それは扉のすぐ傍まで近付いてきてまして、結局はほころぶ頬に屈
することになりました。仕方がありませんので、そのままの表情でくるりと扉に向き直り、コンコンと響くノックの
音を待つことにしました。
「おはようございます、ペリーヌさん!」
けれども予想していたその音は響いてくることなく、わたくしが迎えることになったのは勢いよく開いた扉の音
と、元気一杯な響きを湛えた声と、目映いばかりに見事な満面の笑みでした。予想外の、それでもある種予想
内の出来事にわたくしの口からは思わずため息がこぼれます。それでも、わたくしの顔から微笑が消えること
はないようです。以前のわたくしなら間違いなく即座に説教を繰り広げていたに違いありませんのに。
たいした心境の変化ですこと、自嘲とは程遠い小さな苦笑を浮かべ、それでもやはりこれは窘めなければい
けませんわねと、彼女へと歩み寄ります。
「おはよう、宮藤さん。ですが、ノック位はしてくださいな」
「あ…ごめんなさいっ…!」
そこで初めてそれに気が付いたのか、彼女はぺこりっと音が鳴りそうな仕草のお辞儀を見せてくれました。
その額にはまだ汗が浮いたままで―訓練を終えるや否やこの部屋にかけてきたのだからそれは当然と言え
るのですが―それこそノックすら忘れる程の一分一秒も惜しいといえる様相で、わたくしのところに向かってき
てくれたことにはやはり喜びを覚えてしまうようです。どれほどかといえば、そのあまりの愛らしさに抱きしめて
しまいそうになるほどに。
さて、気付いたからにはそのままというわけには行きませんわね。
「ほら、汗くらい拭いてからにしなさいな。風邪を引きますわよ」
ハンカチを取り出して、その額を拭おうと手を伸ばすと、彼女は慌てて身を引きました。
「わ、いいですよペリーヌさん。ハンカチ、汚れちゃいます」
「いいから、じっとしてなさいな」
逃れようとするその動作を遮るように左手を肩に乗せると、彼女はぴたりと動きを止めました。その隙を見て
額にぽんぽんとハンカチを当てると、最初はぴくりと震えていましたが、やがて委ねるように―もしくは甘えるよ
うな様子でふっとその体から力が抜けていきます。何と言うのでしょう、まるで小さな子犬をあやしているような
気持ちにさせられますわね。それは、まるで鼻を鳴らして擦り寄ってくる子犬のようですから。
それはまるでいがみ合っていたあの頃の分を取り戻すかのよう。ああ、そうかもしれませんわね。おそらくは
わたくしの方にもそれはあるのでしょう。
少し前の自分ならありえませんわと憤慨して見せるはずの光景が、まさかこうもあっけなく眼前にあるなんて、
ときどき夢を見ていますような気分にもさせられます。けれどもその笑顔を向けられるたびに、胸の奥に現れる
熱のようなもの―心全てを隈なく暖めてくれるようなこの感覚は、やはり夢などではないと強く確信できるもので
はありますし、また同時に夢でなどあってはならないと強く願うものでもあるようです。
端的に言いますと、わたくしはいま幸せを感じてるのでしょう。まだまだ未熟といわざるを得ませんが、それで
もその力の限りに自分を受け止めようとしてくれるこの得がたい友人を得られたことと、そして、その傍にいら
れることに。
そう考えると最初のころの自分はなんて滑稽だったのでしょうね。いがみ合ってばかりで、妬んだりもしたりし
て。少し心を開けば良かっただけでしたのに。いいえ、きっとこれは、頑丈な錠前と鎖でがんじがらめにしてしま
っていたわたくしの心の扉を開けてくれた、彼女への感謝へするべきなのでしょう。
こうして素直にそう思える自分がここにいるのは、間違いなく彼女のおかげなのですから。
ふと、気持ちよさそうに閉じていた彼女の目が、じっと開かれていることに気が付きました。それはわたくしを
真っ直ぐと、本当に真っ直ぐに見つめて来ていました。額を拭おうと少々前傾になっていたものですから、わた
くしたちの距離はかなり短いものになってしまっていて、その近さをもってこうも見つめられると、まるである種の
妄想じみた想いへと思考が傾いてしまいそうに―何を考えているのですか、わたくしは。
「な、なんですの?」
尋ねれば、まるでその時点で初めてそれに気が付いたかのように、彼女はぱちくりと目を瞬かせます。それで
も、じっとこちらを見つめている視線は変わりません。
「ペリーヌさん、ちょっといいですか?」
さてどうしたものかと、軽く頭を悩ませていますと、そんな声と共に彼女の両手がすっとわたくしの頬のほうへ
と伸びてくるではありませんか。その動作はまるでいつか本で目にしたような、先程妄想したばかりの行為へと
至るもののようにわたくしの目には映ってしまいます。
いけませんと思いはするものの、焦るばかりでわたくしの体はちっとも動いてはくれません。止めなければいけ
ないのに、けれどもと、このままそれを遮らなければ、そうなってしまうのではと何処かで期待している自分すら
感じていました。
ああ、なんてわたくしは―そう思いつつも、結局は動けないままに、彼女の手はついにわたくしの頬にそっと触
れました。
ぴくりと体が震え、反射的にとしか言いようのない動作で目を閉じたわたしの耳に聞こえてきたのは軽く金属が
擦れ合う音で、感じたのは少しだけ重さを失った目元でした。
何ごとですのと目を開ければ、そこにあったのはわたくしのメガネを取り上げて微笑を浮かべてる彼女の姿で
した。先程の動作は、このためでしたのね。その期待は勝手なものではありましたけれど、それでもやはり悪戯
でその結論を締められてしまうと、やはり憤慨してしまう気持ちがあるのは否めないようです。少し心を許せばこ
れですからと言いそうになるものの、ふと、ここで怒ってしまえば、その理由の説明には先程の自分の心情描写
を含めねばなりません。さすがにそれは口にするのはどうかと。しかし無作法への注意は結局は彼女の為にな
ることであり、このまま看過してしまうのも問題があるようにも思えるもの確かであり。
そんなわたくしの葛藤など気にも留めない様相で、彼女は相変わらずニコニコとこちらに目を向けていました。
尤も、そんなものすぐに必要なくなってしまうのですけど。
「やっぱり、ペリーヌさんメガネがないほうが可愛いです」
彼女のそんなとんでもない言葉で、わたくしの思考は根こそぎ吹き飛ばされてしまったのですから。
「な、なにを…っ」
「勿論メガネがあっても可愛いとは思うんですけど…本当にお人形さんみたい…」
そ、そんなうっとりとした目で見ないで下さいまし。いえ、それは可愛いといわれて悪い気はしませんし、むしろ
喜ばしく思えることなのですけど。そうも連呼されますと、ああもう、また頬が熱くなってきましたわ。何処までわた
くしの頬を染めれば気が済むんですの。
けれども、それはまだ序の口でした。それに気が付くのは、ほんの一瞬先のこと。本当に不意打ち以外の何者
でもない唐突さの、ちょんと触れるか触れないか位の口付け。十分なほどに近すぎたその距離を、あっさりとゼロ
に変えた彼女の行動。
一瞬、何が起こったか把握できませんでしたわ。勿論それがなんなのかは理解できています。そもそも、先程
何度も脳裏に浮かんだ光景なのですから。だけれどもそれは現実とは乖離されていたはずで、わたくしの妄想の
中だけの出来事だったはずです。ですが、まだ唇に残る感触の残滓。じわりと熱を帯びたような感覚が、それが
現実だとわたくしに告げてきました。
「えへへ、ペリーヌさんが可愛いのがいけないんですよ」
そして、わたくしの唇を盗んだ犯人は、全く悪びれることなくあっけらかんとした様子で、わたくしに笑いかけてい
ましたの。こちらはあまりの衝撃で身動きが取れないというのに。ああでも、その頬が赤く染まっている様はやは
りどうしようもなく可愛らしくて、彼女が悪戯心からそんな行動を取ったのではないことが伝わってきまして、おそら
くはそれよりも更に赤く染まっているだろう自分の頬が微笑の形に変わっていくのを確かに感じていました。
「全く、あなたという人は…可愛ければそうしていいと言うものではないですわよ」
お返しのように、その頬に手を当てますと、彼女はぴくりと体を震わせました。触れた頬はその色に負けないほ
どの熱を帯びていまして、その瞳も同様の熱をもってわたくしを映し出しています。
そう、これはお返しなのですわ。ですから、精一杯の想いを篭めて、それに臨むことにしましょう。
「ふふ、でも今はそれに倣うことにします」
それならば、わたくしなんかよりも貴方の方が、ずっとずっと可愛いのですから。ええ、少なくともわたくしにとっ
ては。
ですから、触れ合うようなものではなくて、とびっきりフレンチなキスをプレゼントして差し上げますわ。わたくしの
想いと、それに唇を奪ってくれた代償に相応しいほどの、ね。