第8手 耳かき
「ねー、シャーリー。耳そうじして♪」
あたしがミーティングルームのソファーに腰かけ、本を読んでいると、
ルッキーニが現れて唐突にそう言ってきた。
あたしは本から視線をあげ、ルッキーニに向けた。
ルッキーニの手には耳かきが握られてて、それをあたしへと差し出してくる。
「耳そうじ、ねぇ……」
あたしはそれを目にして渋い表情になってしまった。
別にこれは、読書を邪魔されて嫌だとか、そんなこと面倒くさいとか、そういうんじゃない。
本当なら毎日だって、日に何回だって、ルッキーニに耳そうじをしてあげたい。
でも――あたしにはある重大な欠点があるんだ。
「その……あたしが?」
「うん、そうだよ」
「……他の人じゃダメか? ほら、宮藤とかサーニャとか」
あたしは他の人の名前を出して(でもリーネだけは絶対にダメだ)、悲しくもそれとなく拒否する。
「ううん、シャーリーがいいの」
が、無意味。ルッキーニにふるふると首を振られた。
「そ、そうか……」
あたしがいい、ってその言葉は嬉しいんだけど……
そりゃあたしだって、してあげたいのはやまやまだけど……
でも……
「ねー、いいでしょ」
「ええっと、その……」
頼む、ルッキーニ。あんまりそんな目で見つめてこないでくれ!
「ほら、耳かき」
ルッキーニはそう言うと、あたしの手に強引に耳かきを押しつけてきて、
そしてあたしの膝を枕に、ソファーにごろんと寝転がってしまった。
あたしの膝に、ルッキーニの頭のいい感じの重み。
まだ了解したわけではないのに……。
有無を言わせぬルッキーニに、どうやらそういうことになってしまった。
あたしって実は結構、押しに弱いのかも。
ため息をつきたい気分だけど、そんな露骨なことできるわけない。
しょうがなくあたしは押しつけられた耳かきを右手に、膝元のルッキーニへと視線を落とした。
――が、見えない。
やっぱり、ルッキーニの耳が見えない。
ではなにが見えるのかと言えば、あたしの豊満な胸ばかり。
懸命に首だけ前に伸ばそうと試みるも、背もいっしょに少し丸まってしまうし、やっぱりダメ。
要するに、あたしは胸がおっきすぎるせいで、人の耳そうじができないんだ。
前に聞いたことがある。人間の感覚情報の80%ほどを視覚が占めているらしい。
つまり、現在のあたしは残りの20%ほどの力でこの行為(耳そうじ)を完遂しないといけないのだ。
いや、これは正しくない。
20%もない。もっと少ない。
聴覚や嗅覚や味覚が特に役に立つとは思えないからだ。
この場合、頼りになるのは触覚だけ。
それも、右手の感覚だけ――
この難業を前に、耳かきを握るあたしの右手に、思わずぎゅっと力がこもった。
自分の耳ならたとえ見えなくとも、耳のなかの触覚でまあなんとかなる。
けれど、この場合はそうじゃない。
だって、あたしとルッキーニは別の人間だから。
どれほど想像力を働かせようと、いくらあたしがルッキーニを愛していようと、
そのことは現在、なんの意味もなさない。
思い知らされてしまった。あたしとルッキーニは別の人間なんだ……。
「ほら、はやく」
あたしが考えこんでいると、ルッキーニがそう急かしてくる。
「あ、ああ」
とは言っても、どうすればいいんだ? 見えないのに。
いくらあたしと言えど、ルッキーニの耳のなかの構造を熟知しているわけではない。
(ああ……こんなことならこないだ耳たぶはむはむしあいっこした時に、ようく観察しておくんだった)
もし――もし、万が一にも鼓膜を傷つけてしまったら……
それでもしルッキーニが失聴なんてことになってしまったら……
もちろんそれは、絶対にあってはならないことだ。
あたしは持てる力のすべてを尽くしてこれに挑む。当たり前だ。
でも、この不安をぬぐいさることなんてできっこない。
やっぱり手が震えてしまって、だから余計に不安になる。
見えないという恐怖。それがあたしの心を支配している。
「ねー、どうしたの?」
「い、今からやるから」
うながされて、つい口が滑ってしまった。
もうあとには引けない。
そもそもあたしには今、ルッキーニの耳の穴がどこにあるのかさえわからないのに。
もし、万が一にも耳の穴と間違えて、目玉を突いてしまったりしたら……
それでもしルッキーニが失明なんてことになってしまったら……
(もちろんそれは、絶対にあってはならないことだ)
耳かき――日常に潜んで一見なんでもないように見せかけて、実はなんと凶悪な道具なんだろう。
反対側なんてこんなのついてるのに――
ん? 反対側?
あたしは耳かきを逆さまに持ちかえた。
そして先になった綿毛の側をルッキーニの顔にそわせ、小刻みに動かしていく。
頬からあご、首の下のライン(おそらく)。
「ちょ、ちょっと、シャーリー! くすぐったい!」
膝の上でルッキーニはじたばた暴れだす。
「そうかそうか」
あたしはさらにこそばしてやった。
いいぞ、このまま耳そうじのことを忘れてくれれば――
が、ルッキーニは起きあがって、そしてあたしの顔をキッと睨みつけてきた。
「なにすんの、シャーリー!」
その声に、あたしは思わずたじろいでしまった。
ルッキーニは怒ってる。別に怒らせるつもりはなかったのに――
「真面目にしてよ」
眉をつりあげて、ルッキーニは言ってくる。
「あっ、あたしは真面目に……」
「ウソ。耳そうじしてくれないじゃん」
「そ、それはその……」
「ねぇ、あたしの耳そうじするの嫌なの?」
「そ、そんなはずないだろ!」
「じゃあどうして?」
ルッキーニはじっとあたしの目を見すえて訊いてくる。
「ええっと、それは……」
言い訳なんて浮かんでこないし、言い逃れもできそうにない。
正直に言うしかない。観念して洗いざらいすべてを話そう。
「ゴメンな、ルッキーニ。あたし、耳そうじができないんだ……」
あたしはすっかり白状した。
ルッキーニ、ホントにゴメン。
あたしのちっぽけな虚栄心が邪魔して言い出せなくて、
それにそのことをごまかしてしまおうとして。
「あたしは無力だ……」
「シャーリー……」
ああ、ルッキーニ。そんな哀れむような目であたしを見ないでくれ。
そんな目で見られるとあたしは……。
そうしてあたしの目から、ぼろぼろ涙がこぼれてきた。
「なっ、泣かないでよ、シャーリー! こんなことで」
「ううん、こんなこともできない女でやっぱりゴメンな」
「そんなことないよ! ごめんね。あたしの方こそシャーリーの気も知らないで」
そう言うとルッキーニはあたしの手から耳かきを奪った。
「ちょっと甘えたかっただけだから。今度から耳そうじは自分でするよ」
「そう……?」
「だから泣きやんで」
こんなちっちゃな女の子に慰められるなんて世話ないよなぁ。
自分が情けない。さらに泣けてきた。
――でもこういうシュチュ、ちょっといいかも。
「もう、仕方ないんだから」
ルッキーニはそう言うと、あたしの隣に座った。
「今からあたしがシャーリーの耳そうじしてあげるから。そしたらもう泣きやんでくれる?」
あたしは無言でこくんとうなずいた。
そして倒れるようにルッキーニの膝を枕に寝転がった。
ありがとう、ルッキーニ。
でも、やっぱり泣きやめそうにないよ。
ルッキーニのやさしさに、やっぱり涙が出てきちゃうから。
そうしてあたたかなあたしの涙が、ルッキーニの膝を濡らした。