スカーレット
彼女に見つめられるのが嫌だった。
だって、とらわれてしまいそうだと思ったから。
ごめんなさいね、と。申し訳なさそうにその人はいうのだった。私は無言で見返すことでそれに答える。
何かしら答えたほうが良いのだと分かっているのだけれど、どうしても言葉が出てこない。何かをいおうと
顔を上げて、彼女の瞳が私を見返しているのを知るやいなや私の口はまるで自分で自分に魔法を
かけたかのようにしびれてしまうのだ。
二人きりの執務室。本と机と、それだけの部屋。私は彼女に頼まれた書類を本棚から探し出し、不要に
なったものをまた戻しに行くという単調な作業を朝からずっと続けているのだった。本来ならば待機の
時間だけれども、ネウロイの襲撃は一昨日あったばかりであるために恐らくは多少余裕を持っているの
ではないだろうか。
「助かるわ。すっかり報告書が溜まっているんだけど──みんな、あんまりこういったことが好きでは
ないみたいで」
「──…はあ」
気の無い返事を返しながら、私は執務机についている彼女のその向こう、窓の外の景色を見やった。
見えるのは空ばかりで、外の様子など皆目見当もつかない。でもきっとその空のどこかではこの部隊の
誰かが訓練に勤しんでいるのだろうし、彼女の言うところの『あまりこういったことが好きではない』坂本
少佐もまた、同じようにして新人二人の訓練に従じているのだろう。
そしてまた、同じ空の下で。この地球のどこかで。
たぶん誰かしらが戦っている。アフリカ?北欧?どこなのかなんてきっとサーニャさんの能力でもないと
分からないし、そんな彼女だっていつも一緒にいるエイラさん曰くすべてを正確に感じ取れるわけでは
ないらしいから、そんなこと知りようも無い。もっとも知ったところで私がどうこうできることではないの
だから、むしろ知らないほうが幸せなのかもしれない。知っている不幸よりも、知らない幸福のほうが、
愚かではあるけれどきっと価値がある。
けれどもしかしたらそれさえすべてこの人は知っているのかもしれなかった。窓の向こうにやっていた
視線を手前に戻すと、赤い色が目に入る。スカーレット、渋みをうっすらとにじませた、鮮やかな赤毛。
今は伏せられているけれど、その瞳も赤い色をしていることを私は良く知っている。なぜなら彼女に
見つめられたら最後、そこから視線をはずすことなんて出来やしないからだ。
ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ、カールスラント空軍中佐。現在はこの、第501統合戦闘航空団、
別称ストライクウィッチーズの隊長を務めているカールスラントきっての才媛。耳をふさいで目をふさいで
目を閉ざしても、この部隊を統括する役目を担っている彼女には世界中から情報が寄せられてきて、
そしてそれらすべてに目を通して頭に入れて、その上で的確な判断を下さなければいけないのかもしれ
なかった。
慣れた手つきで、机の上に山積みになった書類一つ一つを拾い上げ記入し印を押していく。出撃の際に
は先頭に立って部隊を先導する彼女の手が妙に小さく見えるから私はどうにも戸惑ってしまう。
「ペリーヌさん、」
「は、はいっ」
「先月の報告書とってもらえるかしら?…そうそう、それ」
突然彼女が顔を上げたので、ぽかん、と彼女を見つめていた私はひどく戸惑ってしまった。どきりと一つ
大きな鼓動を鳴らした心臓が、そのまま早鐘を打ったように響いていく。慌てて指定されたものを手に
とって彼女の元へと持っていった。片手を伸ばされたからつい、彼女の手を凝視する。思ったよりも小さく
て、ほっそりしたその手。私のそれと重ねて比べたことは無いから分からないけれど、その手はまだ少女
そのもので。
「どうしたの?ペリーヌさん?」
その手から、腕、首へと続いて、その先にあるその顔も、また。
「──……」
柔らかくて温かい、けれどどこか無機質にも感じるその笑顔をまっすぐ見つめる。とらわれてしまいそうな
ほどに深い、鮮やかな赤をしたその瞳。
私はその瞳にとらわれるのが恐ろしくて、怖くて。だからこの人に関わらないように、近づかないように、
過ごしていることをきっとこの人は知らないだろう。そしてだからこそ、私も見落としていたことがあった。
この人はこんなにも、まだ、少女なのだと。
まっすぐ見ようとしないから、私はこの人の声しか知らない。背中しか分からない。その機動しか見て
いない。だからどうしてか、この人は私なんかよりもずっとずっと大人の女性のような気がしていた。
だって私の見る彼女はいつだって毅然としていたから。ウィッチとしても、指揮官としても優れていて、
完璧で。いつも穏やかに笑んでいて、余裕があって。
だから苦手だった。自分自身の矮小さを見せ付けられているかのようで。何ひとつ敵わない、完成品を
目の前に据え置かれて、お前は未完成なんだと言い当てられているかのようで。
「ペリーヌさん?」
「はははいっ!!!」
呼びかけられて、はっとして。
慌てて胸に抱いていたそれを伸ばしたその手の上に乗せようとする。どうしてか手が震える。
ああ、これはいけない。直後に起こりそうなことなんて、エイラさんのような特殊能力を持っていなくたって
分かった。
「ああっ!」
数センチ届かないで取り落とした報告書を束ねたファイルは床の上に落ちて。そうして机の上に積み
上げられていた書類もろとも床に散らばってしまった。凄惨。一言で言ってしまえばそのぐらいの状態が
目の前に広がる。頭がかーっと熱くなって、直後に冷えていった。
「ご、ごめんなさいっ!!すぐ拾いますわっ!!」
驚きに丸くして私を見ている赤い瞳から逃げるように私はしゃがみこむ。情けなくて泣きたくなる。唇を
かみ締めたら、ぽん。肩に何かが当たった。振り返るとそこには彼女がいて、いつもどおりの笑顔で
笑っているのだった。
「大丈夫?」
人当たりのいい、温かな笑顔。…わかっている。これを『作り物のよう』だと思う私のほうが、きっと間違って
いるのだって。目の前にあるのは完成品。一片の傷も無い玉そのもの。…ほんとうに?
肩の温もりが消え去って、私の傍らから腕が伸びてくる。ゆったりとした袖から覗く手が、少しずつ書類を
取り上げていく。私もつられるように手を伸ばした。そして、また少し泣きたくなった。
(おんなじだわ)
だってそれは私とさほど変わらなかったからだ。彼女の手は情けない私と同じ、ちっぽけなものでしか
なかったから。何が完成なのかはわからない。けれど私が未完成だということはわかっている。そんな
私と、彼女の手は、こんなにも似ている。
「ペリーヌさん、」
4回目、ブリーフィングルームで待機していたところを呼ばれたのを含めれば5回目の、私に対する呼び
かけ。柔らかい、優しい声音。皮肉なことに彼女は全く同じ声で命令をくだすけれど、綺麗な歌も紡ぐのだ。
はい、なんでしょうか。私は答えた。
「…無理をしてはいけないんだからね」
「何を言って…」
「嬉しいときはもっとはしゃいでいいし、悔しかったら泣いていいの。休みたいときは目一杯休んで。」
「それは、どういう」
「あなたの生真面目さは良く知っているけれど、悲しみにくれて喜びを見失っても、光は見えないから」
どういう意味なのかと視線で尋ねても、彼女は答えてはくれない。坂本少佐のように笑い飛ばすことも
しないから、私はまたひどく戸惑ってしまう。だってこの人は私の胸の奥の苦しみにさえも手を伸ばして
胸に抱いて受け止めて、それでも笑うような気がしたから。だから調子が狂うのだ。一緒に泣いてくれ
なくたっていいのに。私は一人でだって生きていけるから、ただ、あの人のようにまぶしい光になって
くれればいい。それなのに。
「私たちは、家族なんだから」
「…いりませんわ、かりそめの家族なんて」
「かりそめなんかじゃないわ」
彼女が口癖のように繰り返す『家族』と言う言葉が、私は嫌いだった。どんなに絆を強くしようとも、それは
本物の家族の絆には敵わないからだ。そう、私がかつて目の前で失った『家族』はもう二度と帰って
こないから。だからつい語気を荒げて答えてしまう。それでも彼女と来たら、その行き場の無い怒りさえも
穏やかに受け止めて微笑むのだ。だからなにもいえなくなる。落ち着かない気持ちで目を伏せるだけ。
「あなたが生まれてきてよかったって、みんな思ってるわ」
私だってペリーヌさんの怒鳴る声が聞こえてくると、今日も平和だと思うもの。
どこか失礼に思えるような台詞を言われたような気がしたけれど、言い返さない。言い返せない。
どうしたらいいのかわからずに固まると、再び肩を叩かれた。気がつけば散乱していた紙の束はすっかり
と片付いて、立ち上がった彼女が机の上でそれをそろえているのだ。ぼんやりと一番手前にある書類の
文字を見る。ユーティライネン少尉の昇級辞令らしい。はて、ユーティライネンとは誰だったろうか。日付
が大分前のものだというのが気になるけれど、この際気にしてはいけないのかもしれない。
おーい、ミーナ!
ドアの向こうから呼びかける声。心臓がまたびくりと跳ねた。
「さささささ、坂本少佐!?」
「はーい」
叫ぶ私をよそに彼女はドアのほうへ歩み寄って、慣れたように扉を開ける。
「いやすまん、手が空いて無くてな!」
「はいはい、わかっていますから」
そう言って豪快に笑いながら、入ってくる一人のひと。連れ立って私のいる、執務机のところにやって
きた。
準部はどう?万端だ!そんな会話を穏やかに交し合っている。
「差し入れよ。飲んだら出かけましょう?」
そうして差し出されたマグカップには、ほかほかと湯気を立てる白色の飲み物。一口つけると、柔らかな
甘さと温かさ。ホットミルクだ。食堂からの道のりで程よくぬるくなったそれは、苦手な人とずっと二人きり
で同じ部屋にいた心労を柔らかく包み込んでのどの奥へと連れて行ってくれる。
「で、出かけるって、どこですの?」
「そんなの、家族のみんなのところに、よ。みんな待っているわ。」
ごめんね、あなたを足止めするのが目的だったの。
言いながら、にこ、と無邪気に彼女はわらった。いつも浮かべているそれとは少し違う、けれども変わら
ない、その笑顔。私と3つしか変わらない、今日からしばらくはたった2つ違いにしかならない、少女その
もののそれ。赤い髪がさらりと揺れて、赤い瞳が私をまっすぐに捉えている。その向こうには私の敬愛
してやまないひとの、黒い二つの瞳があるのだけれどどうしてからその赤から目が離せない。多分とら
われているのだと思う。
気がつけば背後からは夕陽の赤い光が降り注いでいるのだった。赤い赤に包まれたその人が笑って手を
差し出してくる。すっかり空になったマグカップは、即座に坂本少佐に奪われてしまった。それでも私は彼女
から目を離すことが出来ないのだ。
たんじょうびおめでとう。
家族以外からは貰いたくは無かった、けれども本当は欲しくてたまらなかったその言葉をそのまま口に
されて、心臓がまた早鐘を打っていく。そわそわして落ち着かなくて、泣きたいのに悲しくは無い。
完璧すぎるほど完璧な、けれども私と何も変わらないあどけないそのひと。
吸い寄せられるように手を伸ばしたら、同じ温もりに包み込まれた。行きましょうか、と微笑まれたから、
つられてはい、と微笑み返してしまった。
きっと顔が赤くなっていると思うのは、こちらからは逆光のはずの、夕陽のせいだと思った。
了