無題
カーテン越しに差し込んでくる朝日とガラス越しに伝わってくる小鳥の囀りが、少しずつしかし確実に意識を覚醒へと導いて
行く。睡眠時間分の軽さを得た瞼が、それでも睡眠故のむくみにかすかな重みを感じさせたものの、ゆっくりと開かれて行く。
それはほぼ自動的な行為であり、まどろみに値する時間でもあり、何処か優雅ともいえる心地よさを感じさせる一時でもあっ
た。
開かれた視界はその窓へと向けられており、音により認識されていた光景がほぼそのままの姿を持って網膜へと焼き付け
られる。もう既に朝焼けの範疇を超えた空は、文字通り昼間の青さを湛えており、まさしくそれは睡眠明けの頭には相応しい
すがすがしさを持って映し出されていた。
それ故に、慌てて身を起こそうとした自分は、しかしまだ血の通いきってない両腕ではそれも叶わず、あえなくへたり込むこ
とになる。それは普段の務めとしてはあってはならない狼狽であり―尤もそんな姿は日常茶飯事ともいえるのだが―つまりそ
れほどに、自分が目にしている光景は取り乱さざるを得ないものだったということだった。
何故なら、目を覚ますべきは常にまだ日が登りきる前であり。そうでなければ自分はその日課を果たすことが出来ないのだ
から。
―なんて醜態ですの。
へたり込んだその動きに沿って視界を覆うかのごとく降りてきた金色の髪を、ようやく満足に動くようになった左手で払いの
ける。身を起こさないのは、既に取り戻しようがないことを知っているからだ。
―この時間では、もう訓練を終えて部屋に戻られていますわね。
溜息がこぼれる。今日はもう日課を果たすことが出来ない。ああ、つまりは黎明の中まるでその空気を切り裂くかのように
躍動するあの凛々しいお姿をこの目に焼き付けられないということになる。脱力感が体を支配し、今はこのまま横たわってい
たい気分だった。勿論ミーティングの時間までには支度を終えている必要はあるが、日の昇り具合からまだそれなりに間が
あるように思えていた。
―それにしても、アラームをセットしていたはずですけど。
寝過ごしそうになったことが無かったわけではない。その度にいわばその窮地を救ってくれた盟友は、何故か今朝に限って
はその役割を果たしてくれなかった。仮にいつもどおり鳴っていたとしたら、自分は必ず目を覚ましていたという自信がある。
ということは、それは鳴らなかったと言うことだ。
では壊れてしまったのか。しかし、それは自分の私物であるが故に簡単に壊れてしまうような安物ではない。勿論可能性は
皆無ではないが、それに限りなく近いものだと少なくとも自負はしていた。
だからそれは違和感となり、何かしこりのようなものを心に現す。そうなって初めて気が付いたことだが、そう言うべきなのは
それだけでは無かった。目を覚ましてから、何かいつもとは違うような、そんな感覚をずっと感じてはいたから。鳴らなかった
アラームに、初めてそれが形として表層に浮かんできただけであり、探してみれば、それは幾つも現れてくる。例えば、自分の
部屋はこんな角度で朝日を見せてくれただろうかと。身を沈めているマットレスは、こんな硬さを持っていたのだろうかと。身を
包むぬくもりと、それに混じる微かな匂いは、普段とは違うものであり、また何処かで感じたことのあるような―
―どうにも、まだ目が醒めていないようですわね。
覚醒したと思っていた頭は、まだ寝惚けという言葉で表せられるようだ。
―全く、我ながらたるみきったものですわ。
自重しつつ、それでも頭を上げる気にはなれず、丁度窓と反対側にあるはずの時計を確認しようと、ぐるりと身をひねった。
「…んぅ…」
「…え?」
それはあまりに意外な光景で、本来ならば真っ先に飛びのくか跳ね除けるかどちらかの回避行動を取るはずなのに、それが
あまりに意外すぎた故に体はぴたりと固まってしまっていた。
視界をほぼ埋めているのは、寝顔。当然自分には誰かと同衾する趣味などないし、何処かのスオムス空軍少尉ではあるまい
し日常的にそんな状況に陥ることなど無い筈だった。つまりはこれは間違いなく異常である。
しかもだ。よりによって自分の目の前にあったのは、普段豆狸やらちんちくりんやらの言葉をもって目の仇にしている人物―
つまりは宮藤芳佳の寝顔だった。
それが文字通り鼻が触れ合うほどの距離にある。いや、実際に触れ合ってしまっており、その感触からだろうか。彼女は寝言
ともうめきともいえぬ何かを口元からこぼし、そしてまたすやすやと寝息を立て始めた。そのすやすやすら、確実に鼓膜が拾い
上げてしまうほどの距離は、普段それを認識してなくはないもののあえて表層からは遠ざけていたもの―いわばあの堅物大尉
をもあっけなく虜にしてしまった愛らしさを確実に意識へと刻み付けつつあった。
ピンと跳ねた癖のある髪は微妙に寝乱れており、頬を掠めているそれからは彼女特有の甘みの混じった香りを鼻腔に伝えて
くる。小さく開かれた口から漏れてくる呼吸音は否定しがたいほどの心地よさと共に鼓膜を叩いてくる。睡眠時の血圧のせいか
普段薄く朱に染まっている頬は朝日に白く映えており、それでも変わらぬ柔らかげなイメージを網膜に映してくる。普段くりくりと
動く大きな瞳は、今は瞼の向こうにあり、それに自分が映されていないことを何故か寂しく感じてしまっていた。
それらの全てを慌てて振り払う。こびりついて簡単には離れそうに無かったので、普段よりも念入りに頭を振る。それでも混乱
だけは抜け切ってくれないようだった。
―な、なに?これはどういうことですの!?
ようやく戻ってきた制御権に慌てて上体を起こし、距離をとる。そしてきょろきょろと当りの様子を伺った。そうしてみればすぐわ
かる。ここは自分の部屋ではなく、宮藤芳佳の部屋だと。ああ、それならばと。覚醒時から感じていた違和感の正体はあっけな
く日の目を見ることとなった。むしろそれに今まで感づかなかったことが不思議なくらいでもある。
尤も、目を覚ましていたら自室ではなく違う誰かのベッドで寝ていたなど、そうそう想定できる事態ではないのだが。しかしそれ
が現実に起こってしまった以上、そんなことも言っていられない。
―といいますか、一体どうしてこんな状態に…
とりあえず、昨夜の記憶を探ってみた。探ろうとしてみたが―そう、夕方までの記憶ならある。だがそれ以降の就寝するまでの
記憶がさっぱり思い出せない。そう、確か昨夜はみんなで集まって、何故か途中でアルコールの類が振舞われ始めて―あれを
持ち込んだのは誰だったのか―止めるべき人物がその場にいなかったため、結局は自分も口にする羽目になって―そう、確か
目の前のこの子も口にしていたはず―それで―。
「…駄目ですわ、その先が思い出せません」
―それにしても。
自分がこんなに頭を悩ませているのに、となりで暢気に寝息を立てている彼女に、少しだけ腹立たしさを憶える。とはいえ、そ
の経緯が明らかでない以上、その非を問うわけには行かないのだが。それに、ここは彼女の部屋であり、ひょっとしたら自分の
方が闖入者かもしれないのだ。
すやすやと眠る彼女を見下ろす。それにしても、まさかこの子と同衾する日が来るなんて、自分には予想も付かないことだった。
見ると自分はベッドの真ん中を占拠しており、それに寄り添うような形で彼女は眠りについている。すっかり安心した様子でこちら
に体を預け、安らかと言える寝顔で。
―こうしている分には、かわいい後輩と呼べるのでしょうけどね。
苦笑する。まさかこんなに静かな時間を、この子と過ごすことになるとは思わなかったから。またそれによって、こんなに穏やか
な気持ちにさせられるとも。
「ありえませんわね」
もう一度苦笑して、その感覚を振り払う。
―全く、どうせならこんな豆ダヌキではなくて、坂本少佐のベッドで目を覚ますとかならどんなに素敵だったことか。
浮かべたシチュエーションに思わず目眩がする。無理矢理に方向転換するつもりだったが、それはあまりに強烈過ぎた。
―例えば先程のように朝の光で目を覚まし、目を開けると既に起床しており身支度をしている坂本少佐が朝日の中でこちらに
振り返り微笑みかけ、お前はまだ寝ていろなんて声をかけていただき、ああ、おはようのキスを忘れていたななんて額に優しく口
付けをしていただき、そのあまりの衝撃にわたくしは再び夢の中に落ちて行くのですわ。
―ええ、勿論再び目を覚ましたときは、そのお顔が目のまえにあって、お前はやはり可愛いななんて言いつつ今度は唇へと―
溜息が口から漏れ、そこで妄想を締めることにした。現実とまるで遜色ないレベルで再生されていた妄想世界は、あっけなく元
の早朝の風景へと指し変わる。
実際、それはまさしく妄想であり現実では望めるべくもないことを、ペリーヌ自身が一番良く承知していた。坂本少佐の自分への
接し方はあくまで上官が部下に接するものの範疇を超えることはなく、それは親密と言う言葉を付け加えるに相応しいものだった
としても、いわばただそれだけのことだった。
逆に言えば、きっと自分はそれが叶うことがないと分かりつつもそれを求め続けているということになるんだろう。おそらくは、そ
の想いを抱くことで祖国と親族を失った喪失感を埋めてしまおうとするかのように。多分あの人は、それに気が付いているが故に
自分の行為を受け入れてくれるのだろう。だけど決して踏み込んできてくれることはない。そこに線引きがある。彼女は自分が尊
敬するに相応しい立派な人物であり、立派な軍人であり、立派な上官であり、そしてそれが故に。
勿論、抱いている尊敬の念は確かに本物であり、たとえ平時に出会っていたとしても、おそらくは今と変わらぬものを抱いていた
に違いない。けれども、今のような妄執じみたモノにはならなかっただろう。ああ、つまりはそれが何よりの証明となる。だから、先
程のような妄想に彼女を登場させることは、それ自体が自分の中の彼女の像を貶めるものであり、侮辱以外の何者でもない。そ
れでも、抗いがたい魅力を感じさせるものではあるのだが。
―まったく、浅ましいにも程がありますわね…
何度も味わってきたその種の憂鬱に沈みそうになる様子を知ってか知らずか、起こした上体の腰周り辺りにぎゅっとした圧力が
生じる。見ると寝惚けたのか、きゅっとこちらに抱きついている宮藤芳佳の姿が見えた。
抱き枕と勘違いしているんじゃないかと思えるくらいに、がっちりとこちらを掴んでいる両腕は離れる気配もなく、また相変わらず
の寝息を立てるその表情は目覚めの兆候の欠片すらも感じ取ることが出来ない。
「んぁ…ペリーヌさ…ん」
その口が自分の名前を呟くものだから、本当に不意打ちじみた在り様で心臓がどきりと高鳴った。つまりは、夢の中でこの仕草
に相当する行為を向けている相手は自分ということになるのだろうか。まさか、そんなにこの子に懐かれていた覚えはない。むし
ろ、嫌われててもおかしくはないと思っているくらいだ。
それでも自分の名を呼んだその表情は変わらず安らかなままで、思わずそう勘違いしてしまいそうになる。
それは確かに自分の心を暖めるものであり、そう、少なくとも今落ち込んでいる心を慰めるものであった。そもそもこうしてまとわ
りつくと言ってもいい彼女の動作を跳ね除けようとしないところで、既にそうだったのだろう。
「この子は、本当にもう」
全く、何処まで自分をかき回してくれれば気が済むのか。折角築き上げてきた自分の、仮の形と呼べるものをこうも崩してくれる
のか。
―ああ、それに、確かにわたくしを乱しはしますけれど。
まだ眠るその髪をそっと撫でる。ふさっと跳ねたクセ毛をなぞるように指先を動かすと、くすぐったいのか小さく身じろぎをしてみせ
る。それはまさしく愛らしいと言う言葉がぴたりと当てはまる様相で。くすくすと漏れてくる笑いを抑えることが出来なかった。
もう暫くこのまま、この稀有な状況で惰眠を貪るのも悪くない。どうせがっちりと自分を捕まえたこの手は、彼女が目覚めるまで離
れることはないのだろう。それならばそれでこのぬくもりに身を委ねてしまおう。
―おかしなこと。あの方の傍ではないというのに、どうしてこうも落ち着いた気持ちにさせられるのでしょうね。
それ以上思考を進める気は無く、苦笑とも微笑とも言えぬものでそれを統括し、ベッドへと体を沈める。丁度彼女の頭を胸に抱え
るような仕草で。自分の頭がそこにあることを睡眠下でも感じたのか、彼女は小さく擦り寄るような動きを見せた。なるほど、彼女に
対するある種の疑惑はそれなりに信憑性のあるものかもしれないと思わされる。
横たわったベッドは、そう意識してしまえば普段の自分とは違う匂いがして、その肌触りもぬくもりも別の種類のように思えてしまう。
それはおそらく自分の胸で変わらぬ寝息を立てている彼女固有のものなのだろう。その場所に自分がいることを、彼女は許容して
くれている。それはやはり、暖かいものなのだろう。事実、こんなにも暖かい。
それに身を委ねるように、目を閉じた。規定の時間まで、まだもう暫く余裕がある。せめてそれまでは、この珍しい時間を堪能して
みるのも悪くない。
―そうですわね、今度少し、優しくしてみるのも悪くないかもしれませんわね。
そんなことを思い浮かべながら、ゆっくりと再び遠のいていく意識を追いかけることを放棄した。