その後
世界で一番深い海溝とは何処のことだっただろうか。確か扶桑近くにあるものがそれだった記憶がある。もしくは、太平洋の真ん中
辺りに位置したものだったろうか。まあ、どうでもいいことではある。ただ確かなことは、今のわたしの心はそれよりもはるか深く沈み
こんでいるということだろう。
空気がまるで鉛のような重さを持って、わたしにまとわりついている。時刻は確か昼下がりほどのはずで、カーテンを閉め切っている
わけでもないのに部屋の光量は恐ろしく少なく、まるでうらぶれた監獄の一室に腰を下ろしているような気分にさえさせられる。空気は
からからに乾いており、ひび割れそうな喉から乾いた呼吸音が漏れて、それがいやに耳障りだ。しなびた肺はただひたすらに空気を
求め、鋭さを失った脳はただひたすらに酸素を求め、鈍い痛みを伴わせながらただ浮上する為の何かを必死に探している。
ぱたりと右腕が崩れ落ちる。まるで糸の切れた操り人形の一部のように、自分のものであるはずのそれは、何処か異質のもので
あるかのような質量感を持って、シーツに沈み込んでいた。残り支えていた左腕もやがて崩れ落ち、支えを失ったわたしは後追いする
かのようにバタリと倒れこむ。腕だけではないな、体全体が人形になったような気分だ。沈み込もうとする体を支えるベッドは、まるで
底なし沼じみた芯の無さを持ってずぶずぶとわたしを飲み込んで行く。這い上がろうにも、わたしの体はぴくりとも動かない。そもそも
そんな意志すら沸いてこない。かまわないさ、こんなわたしなど深遠の闇へと飲み込まれてしまえばいいんだ。
「おー、落ち込んでるね、トゥルーデ」
声に、ぱちりと音を立てて瞼が持ち上がった。久しぶりに目にした光景は、昼の光に溢れ整然としたありようを維持した自室であり、
先程までの感覚は自分の錯覚でしか無かったといやがおうにも自覚させられる。開いた目はいわば自動的な習慣であり、少なくとも
常日頃からやれ軍規だの規律だの口にしている自分が待機時間にあるにもかかわらずベッドに倒れこんでいるなどあってはならない
ことであり、ましてやその言葉を最も かけているだろう相手を前に晒していい醜態ではない。
そう、本来であればガバっと飛び起き、慌てて取り繕っていただろう自分は、何故かその瞬間を持っても横たわる視界を正す気すら
おきてこなかった。実際、自分は気だるげな視線を部屋の入り口に向けただけで、またその瞼を落としていたのだから。
再び昏さを取り戻した世界の中で、ギシと床が軋む音が響く。それは少しずつその大きさをまし、耳慣れたその音質は部屋の
入り口にいたはずのそいつが近づいて来ていることを示している。やがてとすんというその重さに応じた振動がベッドを介してわたしの
体を揺らし、まさしく普段どおりのポジションにそいつが着いたことを伝えてきた。
ああまったく。そしていつもの表情でそいつはわたしの顔を覗き込んでいるのだろう。瞼越しに目を指してくるその視線に耐えかねて、
わたしはついに目を開けた。そして、予想通りのにやりと言う文字をその背景に添えたくなる笑顔が再び光を取り戻した視界を埋めて
くれた。
「なんだ、ハルトマン…用が無いなら帰ってくれ」
「折角慰めに来てあげたのに、その物言いはないよね~」
何が慰めだ。そのにやけた面の何処にそんな要素が潜んでいるのかまずそれを教えろ。そもそもお前にこの気持ちが分かってたま
るものか。
「せっかくミヤフジに念願の『お姉ちゃん』って呼んでもらえたのに、跳ね除けたんだって?」
そのくせに正確に出来事を把握しているものだから性質が悪い。反射的に睨みつけたその笑顔は、ますますその色を濃くするだけで、
以前宮藤の教えてくれた扶桑のことわざがいくつか浮かんでくる。
「まったく、いないところじゃミヤフジミヤフジ言ってるくせにさ」
「な…!誰が宮藤宮藤などと!」
「言ってたよね?あのときとかあのときとかあのときとかあのときとか。ほら見てよこの耳のたこ。こんなんできちゃうくらいにはねー」
「ぐっ…」
「そのくせ本人の前では模範的な上官であろうとか、理想的な軍人であろうとか、そんな風にかっこつけてばかりいるからそんなことに
なるんだよ」
反論したいところではあるんだが、悔しいことにそれに言い返す言葉はなかった。ああ、その通りだ。元々そう心がけているつもりだっ
たが、あいつの前になると必要以上頑なにそれを守ろうとする自分を確かに感じていた。それは、そうだな。ある種自戒のようなものが
あるのだろう。元来それは必要ないもののはずだ。前述したとおりそれはわたしの常であり、しかしあの新人は容易くそれを崩してしま
いそうになるから、わたしはああいう態度を取らざるを得ないのだろう。
「では、どうすればよかったんだ」
「ちょっとは素直になりなよってこと。いいじゃん、ミヤフジのこと好きなら、そう言っちゃえば。自分の気持ちに素直になるってのも悪くな
いと思うよ」
それは一向に部屋を片付ける気配の無いことを一角とする自分の生活のだらしなさを指していっているのか。ああ、そうだな。こいつ
ほど自分の欲望に忠実な奴もいないだろうな。まったく、それでいて自分と肩を並べるトップエースだというのだから、世の中色々おか
しいと思わざるを得ないんだ。
「素直にか」
目を閉じ、その言葉を反芻する。
ふ、それが出来ればどんなに楽か。ああ、そうだ。確かに自分はあの新人―宮藤芳佳のことを気に入っている。いや、気に入って
いるという言葉だけでは済まないのだろうな。
そうだ、その発端はそのときまだ病床に伏していたクリスとその姿が重なったからだった。気にかけるきっかけになったのは確かに
それであり、しかし今ではそれとはいえなくなっていることも確かだ。
今でも覚えている。あの頃のわたしはまるで取り付かれたかのように戦い続けていた。いや、今でもわたしの意味は戦いにあると思
っている。だがあのときの自分は明らかにその手段と目的を取り違えていた。その妄執を解いてくれたのは、少なくともそのきっかけを
くれたのは宮藤だった。あのとき、失血と苦痛に霞む視界の中、懸命にわたしを治療してくれたあの姿を、わたしは生涯忘れることは
無いだろう。
前線に立つ軍人としてはあってはならないその甘さも、あいつの元にあればまるで光のように目映い利点に思えてしまうのは何故
なのだろうな。そうだな、あいつは決して甘いだけではない。その甘さは否定しがたいものだとしても、少なくとも何者にも負けない真っ
直ぐさを持っている。その理念が幻想に過ぎないにしても、いやそれを思い知らされたとしてもそれはきっと変わることなく、そしてその
点だけは誰にも否定することはできないのだろう。
それはまるで、憧れじみた庇護欲だ。わたしはそれを守りたいと思っているのだろう。そして、それを為し得ることが可能な、あいつに
とって特別な立ち位置にある存在でありたいと思っているのだろう。それはまさしく、あのとき宮藤が口にした単語が示すものに他なら
ない。ハルトマン、別にお前に言われなくても自覚してるさ。そう、わたしはそう呼ばれたかった。あいつにとってそう呼ばれることが
相応しい存在になりたかった。
だが、それは出来ない相談だろう。宮藤にとってわたしは頼るべき上官であり、軍人として模範となるべき存在だ。ああそうさ。それ
こそ宮藤と姉妹のように仲むつまじく戯れることができればどんなに幸せなことだろう。おまえも知ってるだろう、あいつのあの小動物
じみた愛らしさを。発育はまだまだといわざるを得ないが、だがまたそこがいい。少々跳ねたクセ毛も、活動的なあいつらしくてとても
似合っている。くりくりとした大きな目も、コロコロと変わる表情も、その全てがかわいくて仕方がない。そんなあいつから最高の笑顔で
「お姉ちゃん」なんて呼ばれようものなら、わたしはおそらくいつ死んでもかまわないとすら思えるほどの至高の幸福を手に入れることが
できるだろうさ。
「だが、そんなこと口にできると思うか?」
「いやー…無理かもね。わたしだったら、まずその正気を疑うと思う」
「そうだろうな」
ああ、だからあれは仕方がないことだったんだ。そう、仕方がないんだ。だから落ち込む意味などないことは分かっている。分かって
いるんだが。
「でもさ、やっぱりトゥルーデはそう思ってるんだよね。そう呼ばれたいって」
「…そうだな、それは認める」
「お姉ちゃんって呼ばれたい?」
呼ばれるだけでは意味が無いんだが。そうだな、端的なその表現も、それはそれで間違いではないようだ。
「そうだな」
「そうだったんですか…」
「ああ、今更嘘をついても仕方がないだろう。こんなに落ち込んでるところを見られたのならな」
「じゃあ、さっきのは嘘だったんですね。こんな妹いらん、というのは」
「勿論だ。あれはあくまで上官としての言葉であり、本心ではない」
「そうなんですか、よかった」
そこで違和感が生じた。「ですね」「ですか」―?これは一体なんだ。ハルトマンがわたしとの会話で丁寧語を使うところなんて機会には
遭遇したことは無いし、仮にあったとしたら間違いなくわたしは全身総毛立つほどの寒気を感じていただろう。
だが今その兆候はない。それは本当に何の疑いようもない自然さを持って認識へと変わっていた。だとするならば、だ。
―わたしは今誰と話しているのだろうか。
「……っ!」
それは本当に油断としか言いようが無かった。目を開けたわたしが捉えたのは先程と変わらないニヤニヤとした笑みを浮かべるハルト
マンの顔で、そしてその視線はわたしの背後を示している。さすがのハルトマンも虚空を眺めてニヤニヤする趣味はないだろう。つまりは
そこには視線を向けるべき何かがある―いやいるということであり、普段の鋭敏さを取り戻したわたしの感覚はそれを裏付けるかのように
三人目の気配を感じ取っていた。
振り返るまでもない。その声は耳にしていたし、そしてこの気配を持つ人間は、少なくともこの第501統合戦闘航空団では一人しか該当
しない。
「ハルトマン、貴様…!」
「別にわたし、一人で来たとか言ってないけど?」
「そ、それはそうだが!」
「それにさ」
急にハルトマンが真面目な表情を作る。それは戦闘時においては見慣れた表情ではあったが、平常時においてはまず一年に一度見ら
れるか見られないかというほどの希少なものであり、まさしく不意打ちと言うしかなかった。
思わず怒声を止められてしまったわたしを、ハルトマンはその表情を維持したままじっと見据えている。
「トゥルーデ、ミヤフジのこと考えた?自分が落ち込むだけだったでしょ?あんなこと言われて、ショック受けてたって思わなかったの?」
その台詞に、思わずハッとなる。確かにわたしは自分のことしか考えていなかった。いや、そもそもその必要があるとは思って無かった
のだ。わたしの思いはこちらの一方的なものであり、宮藤にとってわたしはただの上官でしかないはずだった。あの台詞はわたしにとって
は裏腹なものではあったが、決して上官という立場の範疇を超えているものではない。だから、それを問題とすべきなのは、わたしだけだ
と思っていた。
だが、ハルトマンの台詞はその間違いを指摘するものだった。つまり、事実はその逆であるということになる。
馬鹿な、そんなはずは―
「は、ハルトマンさん…」
しかし、背後から聞こえる声、その声色が、それが真実だと告げていた。
「ミヤフジ、落ち込んでたよ?そりゃそうだよ、あんなこと言われちゃさ。なんていったんだっけ?100倍?いくらなんでもそんなに差をつけ
ること無いじゃん」
「それは…場の勢いでだな」
「場の勢いがあれば、何をしてもいいわけ?」
「…すまない」
まさかハルトマンに説教をされる日が来るとは思わなかった。部隊の記録係としては是非映像として残しておきたいところだが、今はそ
んなことを考えている場合ではないだろう。
「わたしに謝られてもねー」
「そうだな…宮藤」
「は、はいっ!」
ぴょこっと小さく跳ねたような気配と共に、いつもの元気な返事が返ってくる。それに少しだけ安堵を憶える。ハルトマンの言うとおりなら、
宮藤は落ち込んでいたはずであり、けれども今の声色ならばその状態は脱せたということなのだろうから。
身を起こし、体ごと振り返る。その仕草に僅かな緊張の色をにじませた宮藤の姿は、つい先程目にしていたものであるにもかかわらず、
何故か千年のときを経て巡り合うことの出来た何者にも変えがたい大切な何かのようなそんな輝きを湛えているように見えた。
心境の変化によるものか。思わずそれに目を奪われてしまっていた自分を、早急に取り戻す。抗いようも無い情動ではあるのだが、今は
後回しにしておくべきだろう。
「すまなかった」
頭を下げる。本来であれば立場的に決して取る事を許されない行為。そう、そもそもその行為をとらざるを得ない状況を作り出すこと自体
が、彼女との相対的な立場において許されないもののはずだった。―いやあえてこのような述懐をはさむということは、またそこに逃げ場を
作ろうとしているのか。
かまうものか。
今こうして彼女と相対している自分は、バルクホルン大尉としてではなく、ゲルトルートという一個の存在としてあるべきなのだ。ならば、
躊躇う理由など何一つ存在しない。
「そ、そんな!頭を上げてください!」
慌て戸惑う声色が後頭部に当る。だが、それは聞けない。これは贖罪だけではなく、罰でもあるのだ。
繰り返されるその台詞を、わたしは全てきちんと胸に焼き付け、その上で黙殺した。それこそが自己満足と分かっていながらも、今の
わたしにはそのような振る舞いしか出来ないのだから。
やがて言葉が止む。数えるほどの瞬間、静寂が室内を支配する。
「わかりました」
そして紡がれたその言葉と同時に、わたしの両即頭部に何か柔らかいものが触れる感触が生じた。
それを認識した瞬間、床を移していたはずのわたしの視界がぐいっと音を立ててスライドした。何ごとかとそれを確認する間もなく、突然
目の前に現れた宮藤の顔にわたしは冷静さを取り戻す機会を失ってしまう。いまだかつて無い距離にあるその瞳―驚愕に染まる自分の
顔が映し出されるほどの近さにある―に、まるで魅入られたかのように身動きが取れなくなる。
ああ、違うな。かのように、ではなくまさしくその通りなのだろう。
「謝る必要なんてありません」
その言葉にゆっくりと硬直していた意識が動き出す。
わたしの頭は宮藤の両腕でまるで抱えられるかのように持ち上げられており、ああつまりこいつはいくら言っても頭を上げないわたしに
業を煮やしてこういう強硬手段に出たということか。ふふ、全く、本来であれば怒るべきであろうに、それが全くこいつらしいゆえに笑いしか
浮かんでこない。
だが、その言葉は聞けない。何故ならわたしはお前を悲しませてしまった。
「違います。そりゃ、確かに悲しかったですけど…でも今は嬉しいんです」
合わせた眼差しは、確かに微笑を象っており、それが嘘ではないということを教えてくれる。
「何故だ」
「だって、今こうしてバルクホルンさんの気持ちを確かめることが出来ましたから…だから、もう謝られても困るんです」
それでも疑問を返すわたしに宮藤はそう告げた。なるほどな、本当に自己満足以外の何者でも無かったらしい。
「そうか」
それを合図に、わたしは全身の力を抜いていまだわたしの頭を抱えたままの腕に体を委ねる。それに合わせてわたしを支えようと、
その腕に小さく力が篭る。それが、自分で思っていたよりもずっと暖かいものをわたしの胸に生じさせてくれた。
今のわたしの状態は、戦士としては程遠い形にある。その観点で見れば隙だらけであり、撃墜を重ねてきたエースの姿にはとても
見えないだろう。けれども、それでも宮藤はわたしを支えてくれており、わたしと言う確かな形は今ここに存在している。そう、それを離れ
ても、わたしは確かに存在しているのだ。
それはもう忘れかけていた自分であり、それをこいつが確かに思い出させてくれた。ああ、きっと宮藤はずっと―意識的にではないの
だろうが、わたしにこの形を思い出させようとしていたのだろうか。そうだな、こいつのおかげでわたしは出会ったあのときよりもずっと
こちら側へと歩いてこれていた。そして今、その最後の一歩を踏み出せたということなのだろう。
そして気が付く。これは甘さなどではなく、これがあるからこそ戦士としてのわたしがいるということに。
これをなくしては、決して戦士などとは自称できないだろうということに。
「バルクホルンさん」
「…なんだ」
かすかな緊張が、腕越しに伝わる。それで、その先の言葉が予想できた。
「お姉ちゃん、と呼んでいいですか」
ああ、全く予想通りだ。そして、それはわたしがずっと待ち望んでいた言葉でもあり、それを今こんなにも自然に受けられていることに、
わたしは感謝すべきなのだろう。
「勿論だ。プライベートにおいてならな」
「はい!ありがとうございます!…その」
くっくっと喉がなる。その呼称をはじめてつかうことに小さな羞恥を憶えている宮藤と、そしてそれを今か今かと千秋の思いを持って
待ち焦がれている自分に。
「…お姉ちゃん」
鼓膜越しに脳髄を溶かそうとするその甘美な響きに、わたしは最早こみ上げて来る笑いをかみ殺すことなく、ただそのぬくもりに身を
委ねることにした。