海辺の芳佳


海が見たいな。

そんな事を思った。 寝台から半身だけを起こした状態で、窓の外に目をやる。
傾きかけた太陽が、診療所の中を優しいオレンジに染め上げる。
気だるい。 力の入らない、はっきりしない私の体。 それが日常になってしまった体。

つと。 涙が、頬をつたう。 こんな顔、あの人に見せたくない。
慌てて涙を拭おうと上げた手は、私が思っていたよりも低い位置で空を切った。 思うように動かない、私の手。
あぁ。 実感がある。 今日が。 宮藤芳佳、最後の日。

「宮藤。 起きていたのか。 ……寝ていなくては、体に障るぞ。 ご母堂から薬を戴いてきた。 飲むといい。」
「平気です。 なんだか今日はいつもより調子がいいみたい。」
扉を開けて、坂本さんが入ってきた。 シーツに顔をこすりつけて、咄嗟に涙を拭き取る。
扶桑に帰ってきて、うちの診療所に転がり込んできた人。 愛しいあなた。
私はこの通り、元気ですよって、にこっと笑いかけてみる。 けれど。
坂本さんが返した笑顔は、とても悲しいもの。 なんて嘘が下手な人なんだろう。 そんな所までがいとおしい。

「……変な気分。 あまりに気だるくて、私が私でないようで。 こうしていると、ウィッチとして戦ってたのが遠い昔みたい。」
「宮藤。 お前さえその気なら、またウィッチにだって戻れるさ。 今はゆっくり治療に専念する事だ。」
微笑が漏れる。 坂本さんだって、それが気休めだと分かっているはずなのに、らしくない。
そう。 らしくない坂本さん。 これは、私にしか見せない、私だけの坂本さん。 それが無性に嬉しくて。
上官と部下という関係を捨て切れない私たち。 それに安堵してる私たち。
この関係を手放す時が迫っている。 それが何だか寂しくて。 私は、ささやかな我侭を口にした。

「ね、坂本さん。 私、本当に調子がいいんです。 こんなに頭がスッキリしてるのは久し振り。
 だから一つだけ、お願い、聞いてほしいんです。 ……そこの浜辺。 二人で散歩しませんか。」
「宮藤。 お前の体は、散歩なんてできる状態じゃないんだ。 明日のためにも、しっかり休んでくれ。 お願いだ……。」
坂本さんの瞳が潤んでいる。
思えばお互い譲らない性格で、ぶつかり合って口を聞かない日も沢山あった。 それでも。
私が泣いたことはあっても、坂本さんが泣いたことなんて記憶に無くて。
坂本さんを泣かせてしまう自分が、これほど憎らしく思えるなんて知らなくて。 譲ることができたら、どんなに良かっただろう。

「……私の体です。 私が一番よく分かっています。 明日のため、なんて。 もう今日しかないんです。
 今日という日を、坂本さんにもずっと覚えていてほしい。 宮藤芳佳が喪われてしまう前に。 最後の……我侭です。」
思えばお互い譲らない性格で。 いつでも最後には私が折れていた。 そうならなかったのは、今日が初めてだった。

「静かな夜ですね。 潮騒しか聞こえない。 ふふ。 まるで、この世界に私たち二人だけしかいないみたい。」
「……そうだな。 あながち間違っていない。 お前だけでいい。 私は、お前だけいてくれればいい。」
「坂本さん……。」
坂本さんに手を引かれて、波打ち際を歩く。 まだ一度も使った事のなかったビーチサンダルを引っ張り出してきて、履いた。
私の足とサンダルの間を、押し寄せた波が洗っていく。 ささやかな幸福。 ずっと私が求めていたもの。
次の夏。 その次の夏。 その次の次。 この海を訪れた夜に。 坂本さんは、今日という日を思い出してくれるだろうか。
屈みこんで、海の水を手の平に掬う。 坂本さんへ向けて、ぱしゃっとかける。

「えいっ。」
「うわっ。 やったな、こいつ!」
「うふふ。 坂本さん、こっちですよー。」
「あっ、おい! 走るな! お前は走れる体じゃないんだぞ!」
砂に足を取られて、うまく走れない。 あぁ、でも、気持ちいい。 こんな風に体を動かすのは、本当にいつ以来だろう。
掴まえてください、坂本さん。 私たちが、これからも、いつまでも。 ずっとずっと離れないように。
そんな他愛のない言葉が口をつきそうなほどに、空には満天の星。 海に映りこんだ月。 世界は安らぎに満たされていた。

「こっちこっちー。 それでも毎日訓練してるんですかぁー!」
「こらっ、宮藤。 ふふ、まったく。 お前、本当に具合が悪いんだろうな?」
夜の浜辺で、二人きりの追いかけっこ。 あまりに少女で、笑われそうで、これまで言えなかったけど。
ずっとやってみたかったんです。 夢だったんです。 好きな人と、こんな風に、波打ち際で戯れてみたかったんです。
私、忘れません。 絶対に忘れません。
満たされていたはずの世界。 それなのに、突然、私の天地は失われて。 私の体は、自律を失って砂浜に投げ出された。

「あ、あれ。 あはは。 かっこ悪い。 転んじゃいました……。」
「芳佳っっっ!!!」
抱き起こされる私の体。 平衡感覚さえ保てないほど弱っている体よりも。
自分の体が思うままにならない衝撃なんかよりも、もっともっと。 私にとって大事な出来事が、今、起きた。

「痛みは無いか!? 苦しさは!? くそ、私はなんて愚かだったんだ……!」
「……初めて、名前で呼んでくれましたね。 私のこと。」
「え?」
分かっていた。 いつまでも上官と部下という関係を捨て切れなかった私たち。 でも本当は、憧れていた。
私は芳佳。 あなたは美緒。 それだけ。 何の不純物も混じらない、ただの二人。 そういう関係に憧れていた。
意識を保つのがつらい。 骨の髄まで沁みこんだ疲労が、私という人間をぼやけさせる。
宮藤芳佳、最後の日。 ようやく私たちは、ただの芳佳と美緒になった。

「……ずっと恐れていた。 お前を芳佳と呼ぶ事で、何かが変わってしまうかもと、恐れていたんだ。
 こんな事なら。 もっと早く、呼んでいればよかった。 お前を愛している。 愛しているよ、芳佳……。」
「……私も、愛しています。 美緒さん……。」

いつも頼もしさを覚えていた腕に体を預ける。 あぁ、なんて嘘が下手な人なんだろう。 なんていとおしい人なんだろう。
この人は、私に隠し事ができない。 美緒さんがハラハラと零す涙で、私は、私の状態を悟った。
……もう自分では。 具合がいいのか悪いのかすら、分からない。

かつてこの人の右目には、全てを見通す輝きが宿っていた。
魔力を失った今、そこに見られるのは普通の瞳。 扶桑に生れ落ちた証、漆黒の瞳。
この暗がりの中でも、私の姿が映っているのがハッキリと分かる。 その事実に、小さな幸福を感じる。

あぁ、嬉しいな。 今は、今だけは確実に。 この人の世界は私だけで構成されているんだ。
嬉しいな。 ここになってようやく。 私たちの間にあった、全ての壁がなくなった。 嬉しいな……。

「美緒さん。 宮藤芳佳がいなくなっても。 宮藤芳佳を覚えていてくれますか。 この時間は。 色褪せませんか……?」
「いくらでも色褪せればいい! 明日がある。 来年がある。 忘れる度に、新しく刻み込めばいい!
 芳佳。 愛してる。 いつも、いつまでも。 この身が朽ちて、生まれ変わったとしても。 私の傍にいてくれ!!!」

涙が溢れ出した。 止められない。 愛しくて。 ただただ愛しくて。
私は、分かっていなかった。 まだまだ分かっていなかった。 愛しさというものの、本当のかたちを。
美緒さんの涙が、私の頬を濡らす。 それが私の涙と交じり合って、月明かりの中で柔らかな光を放っている。

ずっと恐れていた。 宮藤芳佳という物語の終わりを恐れていた。 でも、もう怖くない。
あなたに巡り逢えてよかった。 いつも、いつまでも。 この身が朽ちて、生まれ変わっても。 あなたの傍にいます。

「おい、芳佳! 芳佳っっ!!」
もう、意識が繋ぎとめられない。 でも、もう怖くない。 心がとても暖かい。
この瞳を閉じた時、一つの物語が終わるんだね。 でも、何も怖くない。 それは新しいはじまりだから。

目が霞む。 閉じていく瞼。 美緒さんの声がとても遠い。

さよなら、宮藤芳佳。

愛してます。 美緒さん……。



「ペリーヌさん、いやにご機嫌ですね。 何かあったんですか?」
「あらリーネさん。 ふふ。 特に何というわけでもないのですけれど。 我々宛に、坂本少佐からのエアメールですわ。」
手振りに合わせてSakamotoの字がヒラヒラと揺れる。 懐かしいスペル。
くすっ。 なるほど。 それは一大事ですね、ペリーヌさん。

一人で楽しませてあげようと思ってドアから出て行こうとした、その時。
ガシャーン!! ティーセットの割れる音にハッと振り向くと、ペリーヌさんがテーブルに倒れこんでいた。
その顔が病人のように真っ青で、私は思わず彼女に駆け寄った。

「ど、どうしたんですかペリーヌさん? 一体何があったんですか!?」
「……う……嘘よ……。 こんなの嘘……。」
聞こえているのかいないのか、虚ろなペリーヌさんの瞳。 救いを求めるような色。 私と目が合うと、泣き笑いのような顔で呟いた。

「みっ。 宮藤さんが……。」
「!! よ、芳佳ちゃん? 手紙に芳佳ちゃんの事が書いてあったんですか? 芳佳ちゃんに何かあったんですか!!?」
ペリーヌさんの口から出た名前に、私の心臓が竦み上がる。 芳佳ちゃん。 芳佳ちゃん!
我を忘れたままのペリーヌさんから手紙をひったくって目を通した瞬間。 私の世界は、足元からガラガラと崩れ落ちていった。
震えが酷くて立っていられない。 呆然とその場にへたりこむ。

嘘。 こんなの嘘。 ペリーヌさんの呟きが耳を通り過ぎてゆく。 心は麻痺したまま、私の目はもう一度手紙の内容を追いかける。

 * リーネちゃん、ペリーヌさん、お元気ですか? 連絡が突然になってしまってすみません。
 * えーと、何から書いたらいいかな? 言いたい事たくさんあるけど、それはまた直接会った時にでも。
 * とりあえず、この写真。 どう見ても紅さしすぎだよね、私。
 * 前日までいっぱい患者さんを治療してたせいで、凄く青白い顔してたんだよねー、この時。
 * まぁ、そのおかげで美緒さんに凄く優しくしてもらっちゃったから、いいんだけどねー。 えへへ。
 * あ、えーっと、ごめんなさい。 こういうのって、ばかっぷる、って言うんだよね?
 * 気をつけなくっちゃ! にへへ~。 ……まぁ、そんなこんなで。


のろけムードたっぷりな文の上には、白無垢姿の坂本少佐が、ウェディングドレス姿の芳佳ちゃんをお姫様だっこしている写真。
そこに書かれた一文を読んで、ペリーヌさんと目を合わせて。 私たちは仲良く卒倒した。

 ―― 坂本芳佳になりました!

おしまい


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