シカナイカナシイ幕間 シカタナイカラ
「ふざけんな!」
つい語気を荒げても、目の前の相手は表情一つ変えずに静かに佇んでいるだけだった。
「イッルが怒るのはもっともだけど、命令だから。それに、悪い話ではないと思うけど?」
「これのどこがいい話だってんだ!エイッカのバカやろう!」
机の上にある辞令にバン、と手をついてその向こうにいる“エイッカ”を睨み付ける。とは言っても5歳年上のこの
人に対して、そんな虚勢が通じるわけもなく。
部下に対してでも対等であることを好む彼女は、こういったときにも相手と同様に立ち上がって相対するのが
常だった。「私ばかりが革張りのイスに座って楽をしてるなんてなんかずるいでしょ?」そう朗らかに笑っていた
彼女だというのに、今の顔はそれとは全く違う、冷たいものなのだった。
「少なくとも、こういった場所では“隊長”をつけなさい、イッル」
「…うるさいっ!こんな命令聞けるか!私はスオムスを守りたくてウィッチになったんだ!こんなブリタニアくん
だりでのうのうと戦うためじゃない!」
「ブリタニアは西ヨーロッパ戦線の最前線だし、第501統合戦闘航空団は世界各国からの選りすぐりの集まり。
スオムスは昔から機材も、人材も、他国に頼ってきたんだからこういうときぐらいはスオムスいちのウィッチを
送り出したいとのマンネルハイム閣下の意向なの」
「そんなん、テキトーなやつ送っとけばいいんだよ!私がスオムスいちなら、なおさら私はスオムスを守らなくちゃ
だめじゃんか!!マンネルハイムのじっちゃんも何考えてんだ!」
「ユーティライネン飛行長、口を慎みなさい」
そして今もこうして冷静に、本題とは全く関係ない部分を突いてくる。普段だったら、このエイッカはコショウなんか
にこだわったりしないのだ。「まあいっか、がんばってるしね」なんて言って肩をすくめて、「私も堅苦しいのは大嫌い
だから」と伸びをするくらいなのだというのに。
エイッカことエイラ・ルーッカネン、我らがスオムス空軍第24戦隊、“L飛行隊”の隊長。ウィッチとなってすぐに
ここに配属された私を育ててくれたと言っても過言ではないその人は私のことを熟知していて。そしてまた、私も
この人のことを良く知っているのだ。
だから、ちゃんとわかってた。
ああ、エイッカは本気なんだ、って。
「ねえ、イッル」
ほら、今この瞬間もまた、エイッカと来たら手を変え品を変え私を説得しようとしている。圧迫したその直後に突然
その力を弱めて、優しげな言葉を並べて。
「守りたい、って気持ちはここでも、ブリタニアでも、変わらずに持てるよ」
「…うるさい」
「スオムスは大丈夫。私がいるし、“いらん子中隊”だってある。他のみんなだって、精一杯スオムスを守って
くれてる。イッルの肩だけにスオムスの未来が掛かってるわけじゃない」
「…うるさいっ」
「あなたがブリタニアに行けば、もしかしたらガリアを解放できるかもしれない。イッルならたくさんの人たちを
助けられる。それだけの力がある。」
「うるさい、うるさいっ!」
「そうしたらまたスオムスに戻ってきて、一緒にここを守ろう?大丈夫、私も、みんなも、イッルのことを待ってる
から。」
「うそつけ!私が我侭で、どうしようもないから厄介払いしたいだけだろう!!ガリア解放?ネウロイの巣を
消せたことなんて今まで一度もないじゃないか!待ってるとか言って、どうせ私はブリタニアでずっと戦わ
されるんだろ!?」
口を突いて出る言葉は情熱の塊ではなくて、たぶん我侭の具象だった。私はなんとしても、この命令を聞きたく
なかったのだ。…だってまるで目の前からいなくなれといわれているようじゃないか。目障りだからあんたなんて
どっかいっちゃえ、って。たぶんスオムスを守りたい、とかそんなかっこいい理由よりも私はずっと、それがショック
だったのだと思う。
言葉にしたことはないけれど、私はこの人をウィッチとして、人として、誰よりも尊敬していたんだ。自分が我侭で、
まだまだ子供だって言うのは分かってる。いたずらをして何度も同僚をからかって怒らせて、毎日追い掛け回
されて過ごしてた。けれどこの人は呆れ混じりに笑いながら、それでもそんなどうしようもない私をちゃんと見続け
てくれたから。だから嬉しかった。それなのに。
見捨てないでよ。そんなの悲しいよ。嫌いになんてならないで。
わがままな気持ちが心にもたげる。どうしようもなく泣きたくなって胸に熱いものがこみ上げたけど、泣いてしまっ
たら際限がなくなりそうだったから懸命にこらえた。ちょっと、どころじゃなくすごく寂しくて仕方がない。
「エイッカの、ばか!」
捨て台詞にもならない言葉を吐いて踵を返す。これ以上この場所で、いつもの温かさのないエイッカの目を見て
いたらどうかなりそうで。逃げるように私は執務室を出た。勢い任せに扉を閉めたら、ばしん、と簡素なつくりの
軽い音。行き場のない気持ちをつい、こぶしにこめて壁にぶつける。握り締めたこぶしは鈍い音を鳴らして壁に
当たって腕にびりりとした痺れをもたらした。
(いたい)
さっきまでこらえていた涙がこぼれてくる。隊長は私なんてもう要らないんだ。だから厄介払いするんだ。ブリタ
ニアなんていってしまったら、もしかしたらもう会えないかもしれないじゃないか。一緒に飛ぶことも、ないかもしれ
ないじゃないか。それでもいいとあの人は言うのだ。そんなの、余りにもあんまりだ。…絶対言うことなんて聞いて
やらない。しばらく部屋にこもって布団を被ってじっとしていたい。そんなことを考えながら涙を拭った、そのとき。
「おー、イッルじゃんか。そんなとこで何してんだー?」
「…ニパかよ、よりによって…」
こんな来て欲しくないタイミングに限ってやつは現れると決まっていた。もっとも、同じ部隊でしかも相部屋である
以上いつかは出会うのが当たり前なのだけれど、よりによってなんでこんなときに。ついてないどころか空気の
読めないやつだ、お前は。心の中で悪態をつくけれど、今日ばかりは言葉にする元気がない。
「なんか元気ないな。イッルらしくない。隊長とケンカでもしたのかー?」
「…しらねー」
「ははーん、さてはお前も、ハンガー掃除やらされることになったな?」
「ちげーよっ!なんで私がそんなこと…って、“お前も”?」
「ん?ああ、私しばらくハンガー掃除やらされるらしい。さっきエイッカに素行が悪いとか、ストライカー壊しすぎ
とか、散々言われた。まー、隊長に言われたら仕方ないけどさ」
ちくしょー、腹立つなー。そう叫んでいる割に、こいつは自分に与えられたおおよそエースウィッチらしからぬ
その仕事を自分なりに享受しようとしているように見受けられる。空が飛びたくて、スオムスを守りたくて、ウィッチ
になった。根本的なその気持ちは私もニパも同じはずなのに、たかが転属ぐらいで駄々をこねている私よりも
ハンガーの掃除係なんてやらされるってのにけろりとしているニパが大人びて見えて、なんだか情けなくなる。
同い年のはずなのに、腹が立つ。
「いいのかよ、ニパはそれで!いつ戻れるか分からないんだぞ!その間、スオムスを守れないんだぞ!」
「知ってるよ。でも、エイッカの判断ならひとまず私は従うさ。」
「なんでそんな悠長なんだよ、お前は!…私は嫌だぞ。スオムスの空を飛べなくなるのも、スオムスから離れる
のも!」
「はあ?何言ってんだイッル。そんなカリカリしてるなんてらしくない」
「…いやなんでもない」
脳裏に浮かぶのは、かつて私を危ないところから助けてくれた一人のウィッチ。震える体で私を背負って、それ
でも果敢にネウロイに対峙してくれた。怯えながらも、泣きそうになりながらも、私一人のために戦ってくれた。
ウィッチだって怖いものは怖い。それでも、「スオムスを、国のみんなを、守る」その一心から勇気を振り絞って
くれたのだ。その背中の温かさは今でもよく覚えている。忘れるはずがない。私はいつか、その人にちゃんと
お礼が言いたくて。出来ることなら一緒に肩を並べて、戦ってみたいのだ。そのささやかな夢はいまだ、誰にも
話したことがない。
それは多分その人にとって見たら何てことのない、業務の一つに過ぎなかったろうと思う。どんなに臆病だって
ウィッチである以上、一般市民を守るのが勤めだ。だからきっと、彼女は私のことなんておぼえてないだろうと
思うんだ。それでも、その人は私に、私のこの力の使い道を気付かせてくれた。だからウィッチになりたいと思った
んだ。その人が私を守ってくれたのと同じように、私もまた、この国を守りたいって。それは淡い淡い、恋にも似た
憧れで。
「ま、ハンガー掃除ならストライカーがすぐ近くにあるんだし、飛んじまったらこっちの勝ちだしな!そんなことより、」
いたずらっぽく笑うニパの声のトーンが、突然低くなった。
*
「うう、ん…」
窓から差し込む朝日に目を覚ました。やけに明るい朝だ。
(ここは…?)
上半身を起こしてしばらくあたりをぐるりと見回す。やけにだだっ広い部屋だった。部屋の中心に備え付けられた
机の上には水晶玉、タロット。私の宝物であるはずのそれを見やってやっと、ここが自分の部屋であることを認識
する。はあ、と大きく息を吐いたら、肩まで一緒にがくりと落ちた。なんなんだよ、もう。理解不能なこの状況に、
頭を抱えることしかできない。
「ん…」
そのときだ私のすぐ脇から、別の声が聞こえた。ニパか、と思ったけれどここはどう考えてもこの部屋の様相は
ニパとの相部屋ではなく。大体ニパが私のベッドの入り込んでこようものなら即座に蹴り落とすはずだから、
ニパであるはずがない。
じゃあ一体誰だというのか。一つ深呼吸をして傍らを見やって、そして。
(ななななななな、なんだこいつ!!!!!)
ぎょっとした。
それは銀色のふわふわとした髪をした女の子で、今が恐らく夏であるせいもあるのだろう、下着のみの姿で私の
傍らで眠りこけているのだった。窓の外を見やるに相当遅い時間だというのにぐっすりと眠りこけている。とりあえ
ず、自分に掛かっている毛布を彼女にかけてやろうと起き上がり、手を伸ばそうとしたそのときに気付いた。
右手。右手がぎゅうと握られているのだ。離すまいとするかのように、両手でしっかと握られている。これでは
動くに動けない。
(ど、どうすりゃいいんだよ、もう!!)
今すぐこの子を揺り起こして尋ねたくなったけど、そんなこと出来る雰囲気では決してなくて。
私は懸命に、ここまでの出来事を思い起こす。そして、一つの出来事に思い至った。
(あー、そっか、私…)
──“今の私”の記憶の始まりは、一昨日からだった。…というのも、それ以前の記憶が私にとって定かではない
からで。いや正確に言うとその時間は確かに存在しているし、その間の私を見てきた人たちが確かにこの場所
にはいるのだけれど、私の中でそれは「なかったことになっている」らしい。なんでもここは1944年のブリタニア
で、と言うことは私は15歳で、しかも少尉に昇進していて、第501統合戦闘航空団とか言うこの部隊に所属して
いることになっているのだ。
私の感覚では、突然未来に体ごと引っ張り込まれたような、そんな感覚で。
こちらにいるやつらにとってみたら、私はこの部隊に所属している間の記憶をなくした、ということになる。
(エイラ・イルマタル・ユーティライネン、スオムス空軍少尉…年齢15歳、第501統合戦闘航空団所属、か)
私の記憶では“私”は確かに13歳で、スオムス空軍第24戦隊、“L飛行隊”に准尉として所属していたはず、
だった。L飛行隊というのはルーッカネン分遣隊のことで、固定の所属基地を持たず、凍湖の上の仮設基地や
他の基地を転々としていく機動部隊で。私はウィッチになってからこの方、ずっとそこで、エイラ・ルーッカネン
隊長の下で戦ってきたのだった。
傍らでぐっすり眠りこける、年上らしき──いや、私が今15歳らしいということを考えると、もしかしたら年下なの
かもしれない──その少女を見やってもう一度ため息をつく。いつもの癖で頭をかいて、そのままかいたその
左手を眼前へと伸ばした。
それは、すらりと伸びた長い腕だった。その先の手のひらは私の記憶に残るものよりもよっぽど長い指をして
いて戸惑う。そう言えば目を覚ましてからというもののまともに姿見を見ていないから、私はいまの自分の姿を
良く知らない。
天井を仰ぐとシャンデリア、ドーム型の天井。ああ、そう言えば私はニパと話した後戻った自室で不貞寝に就き
ながら、どんな無理難題をぶつけてやろうかと考えていたのだ。サウナがないと嫌だとか、こんな部屋がいい
だとか。そんな風に我侭を突きつけて、勘弁してくださいとあちらから願い下げられるのを内心期待しながら。
…結論から言うと、その私の目論みは見事に失敗したらしかった。だって基地内には大浴場はおろか立派な
サウナや水浴び場まで備え付けられて、私の部屋も、恐ろしいぐらい私の理想どおりに仕上がっている。難癖を
つける部分を探し出すほうが困難なくらい、この基地は完璧な様相をもって私に迫っていた。
これはまだ噂なんだけどさ、と前置きして、私に耳打ちしたニパの声が蘇る。私が一番最後に聞いた、スオムス
の仲間の声だ。
──ブリタニアに新設されるらしい統合戦闘航空団への派遣組なんだけど、“いらん子中隊”じゃなくて、この
部隊から引き抜かれるらしいぞ──
誰だかしらねーけど、ブリタニアまで飛ばされるよりかは、ハンガー掃除のほうがましだよな。
いつもいたずらしてからかって遊んでいるせいか、私の顔を見るだけで顔をしかめるはずのニパが妙に朗らか
だった理由が、そのときになってようやっと分かって。私は、ずっと一緒に戦ってきたこの戦友からも見捨てられた
気分になったのだった。またこぼれそうになる涙を懸命にこらえて拭って、うるせー、と一言ぼそりと返して部屋
へと駆け戻った。どうやったら断ることが出来るかを幼い頭で懸命に考えながら、結局泣きつかれて眠ってしまった。
そして目を覚ましたその瞬間、私は15歳になっていた。
視界が明るくなったから、朝が来たのだと思った。エイラ、と呼ばれたから、誰かが私を起こしているのだろうと
思った。エイッカ隊長と同じ“エイラ”という名前を持つ私のことをわざわざファーストネームで呼ぶ人間なんて
思い至らなかったけど、とにかく起きればいいのだ、ということだけは分かったから。
一番最初に目にしたのは…そうだ、確かそのときも、この子がすぐ傍らにいた。見慣れない顔だったから隊の
新入りなのかと思ったことを覚えている。
誰だ、と尋ねたら泣きそうな顔をされた。綺麗な顔がくしゃくしゃになって何度も何度も私の名前を繰り返した。
エイラ、エイラと、とてもなれた口調で。
忘れちゃったの?と、彼女は言った。とてもとても悲しそうな顔をしていた。
私には彼女の言葉の意味など何も分からなかったけれど、けど、たった一つこみ上げた気持ちがあったんだ。
私の心の内側から、何かが強く語りかけてきて、それが私をたどたどしく動かした。
実際のところ、私は混乱していた。でも、だからこそ、私はおとなしくその心の内側からの声にしたがうことに
したのだ。
──泣かせないで。この子を、泣かせないで。
心のどこかから、そんな声ばかりが繰り返し響いていて。
いつもいたずらばかりしていたから、人に優しくする方法なんて私はよく知らなかった。だけど、なんとかするしか
なかったから懸命に、記憶の中のエイッカ隊長や、私をかつて助けてくれたあの人のくれたものを手繰り寄せた。
うつむく彼女の頭に手を伸ばしてゆっくりと動かして。その瞬間、彼女がひどく驚いた顔をしたことを覚えている。
触れた彼女の銀髪は温かくて、柔らかくて、どうしてかひどく懐かしかった。
“私”は階段から転げ落ちて、頭をしこたま打ったらしい。それが原因で、この部隊に所属されてからの記憶が
全部吹っ飛んだのでは、と私の今の隊長らしき赤毛のウィッチが言っていた。こんなところで嘘をついたって何の
特にもならないし、どう考えてもここはスオムスじゃないから恐らくそれは間違いないのだろう。だって、私は実際
記憶を失ってここにいるのだから。タロット占いでどんな札が出ようとも、未来は確実に現在となってやってくる。
未来は努力次第で形を変えることが出来るけれど、現在はそんなこと出来ない。だから、否定することも出来
ない。だからその事実自体はすんなり受け入れることが出来たのだ。受け入れるというよりも、諦めに近いもの
かもしれない。
…けれど。
それ以上に私を打ちのめしたのは、私があれだけエイッカに啖呵を切って拒否したはずの部隊に、私がすんなり
所属されているという事実だった。スオムスを離れたくないと、あんなにも思っていたはずの私は、少なくとも出会
った人たちの様子ではすっかりこの場所に馴染んでいるようだった。“エイラ”と呼ばれて、他の国のやつらと
ロッテを組んで、ネウロイと戦って。──お国柄もあって、決して社交的とは言えない私に、そんな仲間が今ここ
にいるということ事態が信じられなくて。けど、認めざるを得なかった。頬をつねっても頭を叩いても顔を洗っても
夢から醒める気がしない。ここはきっと、現実に違いなくて。しかたないから、どうしようもなかった。
ひとまず、原隊の返答があるまでは絶対安静ということになった。以前、記憶をなくしてスオムスのいらん子中隊
に配属されたウィッチがネウロイに操られていたという事件があったらしいから、きっと慎重になっているんだろう。
もっとも、そのときと私とではまたケースが違うのだろうけれど。
意識が戻り、外相もほとんど見当たらないと言うことで私は医務室から自室へと移された。普段生活していた
ところにいれば記憶を取り戻すかもしれない、という一縷の望みにかけたのだろうけど、残念ながらどれもこれも
目新しいばかりで何も思い出せない。
(…そんなことよりも、だ)
記憶を巡らせたあと、もう一度ぐるりと視線をもめぐらせたところで、最後に行き着くのはやはりすぐ傍らの女の子。
一応起こさないように毛布をかけなおしてやったはいいものの、依然として手は握り締められたままで。スオ
ムスにいた頃はこんな風に手を握られるなんてことなかったからその柔らかさと温かさがひどく気恥ずかしい。
(なまえ、なんだったかな。)
何だかすごく長い名前を、そう言えば最初にあったとき口にしていた気がする。けれどもあの赤毛の隊長や黒髪
の豪快な笑い方をするウィッチは、それとはまた別の名称で呼んでいたっけ。あれは愛称なのだろうか。私に
とっての「イッル」のような。
うう、と彼女が身じろぎをする。そしてぽつりと呟いた。えいら。
彼女にとって見たら呼びなれているはずのその響きが、私にはひどく異質に感じるのが申し訳ない。私の手を
包み込んで、抱きしめるように眠りについている彼女は、もしかしたら記憶を失う前の私との夢を見ているの
だろうか。その寝顔はひどく穏やかで、幸せそうだ。…まさかこんな、ベッドがひとつしかない部屋で相部屋と
いうわけではあるまいし、確か部屋に案内してくれたとき「隣が私の部屋です」と彼女も言っていた。と言うことは、
この人は私の部屋にわざわざやってきて、今ここで眠っているということになる。
「…ん?……おいおい…」
ふと視線をドアのほうにやると、開け放した扉と散乱した衣服。記憶の限りでは、この子のものだ。人の部屋に
脱ぎ散らかしたまま、人の部屋で寝るなんてどんな神経してるんだ?こいつ。…それとも。
(…それくらい、気を許してたのかな、私に)
今こうしていることさえ無意識のものだというのなら、きっとこの子にとって私は「とくべつ」だったんだろう。たぶん、
きっと、絶対。
早く出て来いよ。そう、心の中に語りかける。そこにいるんだろ?知ってるんだよ。
胸にこみ上げてくるこの気持ちは、どうせお前が私に差し出しているんだろう?15歳のエイラ・イルマタル・ユー
ティライネン。さっさと出て来てやれよ。この子は、私じゃ駄目なんだよ。13歳の心のまま、体ばかりが大きく
なってしまったこの私に何が出来るって言うんだよ。
懸命に心をノックしても、15歳の私と来たら閉じこもったまま出て来てくれない。自分でなんとかしろよと言わん
ばかりにそっぽを向いて、まるでニパから逃げ出した後の私みたいに不貞寝を決め込んでいる。
(ねえ、きみのなまえを、おしえて?)
胸の奥から出てきそうで出てこない彼女の名前を懸命にたどる。出来れば呼んであげたい。それでこの子が
一瞬でも微笑んでくれるのなら。君のこと全部忘れたわけじゃないよって、そう言って安心させてあげたいから。
でもきっと無理だろうから、起きたら、なるたけ笑顔で、そう聞こうと思った。