無題
「あら」
トイレから出てきたミーナは、ふと、ミーティングルームから明かりがもれていることに気付いた。ポケットから時計を取り出し時間を確認すると、0時を少しまわったところ。
もちろん消灯時間はとうに過ぎている。かといって話し声が聞こえるわけでもないので、誰かがランプを消し忘れたのかもしれない。
「しょうがないわね…」
ため息をひとつついてから、ミーナは明かりを消しにミーティングルームに入る。やはり中には誰もいないようで、ソファの横のテーブルに置かれたランプがひとつ、あかあかと点いているだけだった。
しかし、ミーナが明かりを消そうとランプに近づいていくと、入り口からは死角になっていたソファの背もたれの向こうに小さな影をみつけた。
「あら」
エーリカだ。ソファの肘掛に頭をのせ、背もたれとは反対を向いて寝息をたてている。Tシャツにスパッツという格好で、シャツはめくれておなかが出ていた。ソファの下に本が落ちているので、おそらく本を読みながら寝てしまったのだろう。
ミーナは本を拾ってテーブルに載せ、シャツをなおしてやってから、エーリカの寝顔を覗き込む。昼間のやんちゃさをまったく感じさせないくらいのかわいい寝顔だが、こんなところで寝かせておくわけにもいかないので、残念だが起こさなければ。
「フラウ、起きて。風邪引くわよ。」
「んー…」
ミーナがエーリカの肩を揺すると、エーリカは軽く呻いて背もたれの方を向いてしまった。
「フラウ、自分の部屋で寝なさい。ほら、起きて。」 ミーナがエーリカの腕をとろうとするが、エーリカはソファの背もたれにしがみついて抵抗する。
「あと30分だけ」
「怒るわよ」
「…わかったよー…じゃああと5分、5分したら部屋に行くから。ぜったいだから。」
「…本当ね、絶対あと5分したら部屋に戻るのよ。」
「うん」
ミーナは絶対嘘だと思いながら、今自分の部屋で執務を手伝ってくれている補佐官の顔を思い浮べた。あともう少しで仕事が終わる。帰りに回収してもらえばいいか。
「…と、いうわけだからよろしくね。」
「いやいやいや。」
今、ミーナとゲルトルートは、たまっていた事務作業を終えて、コーヒーを飲んでいた。
「だって早く仕事を片付けてしまいたかったし…あの子を起こすのがどんなに大変か、あなたも知っているでしょ?」
「いや、だからって…」
「それは、あなたも迷惑かもしれないでしょうけど、どうせ通り道なんだから…」
「そうじゃなくて、」
ゲルトルートがかぶりをふりながらコーヒーのカップを持ちあげる。
「…あんなところに放っておいたら、フラウが風邪を引いてしまうだろ。」
「え?」
ミーナはゲルトルートの反応に、口をつけようとしていたカップを持つ手をとめた。
「…フフッ」
「…!」
ゲルトルートが、はっとしてミーナを見る。
「いや…、…いや、な、なにがおかしいんだ!おかしくないだろ、別に!」
ゲルトルートは反射的に否定しようとしたが、少し考えて、笑われた理由を見つけられないようだった。
「ごめんなさい、あなたがそうやって口に出してフラウの心配するところ、久しぶりに見たから」
「そ…そんなことないだろ…」
ゲルトルートはスプーンでしきりにコーヒーをかき混ぜている。
「…大丈夫よ。フラウにはちゃんとタオルケットをかけておいたから。」
「…そ、そうか…ならいいんだ。」
「ええ」
「…じゃあ、そろそろ…」 空気に耐えられなくなったのか、エーリカを案じたのか、ゲルトルートはスプーンの動きを止めてそう切り出した。
「そうね…ありがとう、トゥールーデ。手伝ってくれて。」
「ああ、私は補佐役なんだから当然だ。他はもう大丈夫か?」
「ええ、あとは私がサインするだけだから。」
「無理しないようにな、ここしばらく徹夜だったんだろう。」
「ええ、でも今日はあなたが手伝ってくれたからもう寝むれそう」
「それはよかった」
ふいにいつもの調子に戻ると、ゲルトルートは立ち上がった。ミーナも続いて二人で入り口まで行く。
「たぶん約束は守っていないと思うけど、あんまりフラウを叱らないでやってね。」
「え?」
そういうとミーナはにこっと笑っておやすみ、と言うと、扉を閉めた。
ゲルトルートが廊下を行くと、なるほどミーティングルームから明かりがもれていた。そして中に入ると、窓が開いているのだろうか、どこからか微かな風が吹いてきている。
ソファの上にはミーナの言うとおりタオルケットにくるまって小さくなっているエーリカがいた。
「まったく…仕方のないやつだな…」
果たして、エーリカはミーナとの約束を守らずにすやすやと眠っていたのである。ゲルトルートが呆れてため息をつくと、ふとそばのテーブルが目に入った。
テーブルの上にはランプともうひとつ、分厚い本がのっている。おそらく目の前のお嬢さんはこの本を読みながら寝てしまったのだろう。確かに眠くなりそうなくらいに分厚い本で、そしてゲルトルートには見覚えがあった。
カールスラントの文字で書かれたそれは、古い医学書だった。ぱらぱらとページをめくると、青いインクの文字が所々図解を補足している。学生時代に使っていたのか、試験の範囲なんかも書き込まれている。
エーリカが医師である父親の部屋からくすねてきたもので、彼女がこれを眺めているときは両親が恋しくなった時だということをゲルトルートは知っていた。もちろん、ミーナも。
ゲルトルートは本を静かに閉じると、幸せそうに眠る小さな友人の顔を見ようとしゃがみ込んだ。エーリカは寝呆けて耳を出している。
ああそうか、この部屋に入ったときに感じた風はこいつだったんだな。ゲルトルートが耳のつけねを指でなでてやると、エーリカは気持ち良さそうに身をよじった。
「ん…んー…トゥルーデ…?」
エーリカは半分開いた目でゲルトルートを確認したようだ。そのまま起き上がり、目の前にしゃがんでいたゲルトルートに抱きついてきた。ゲルトルートはそれを拒まずに抱きとめてやると、エーリカの機嫌をそこねないように頭をなで、やさしくうながした。
「フラウ、ほら、部屋で寝よう」
「ん…」
寝起きの頭で聞いているのかいないのか、エーリカはそのままじっとしている。
「……床が…」
「ん?」
「…床が寒いんだもん」
エーリカはしばらくしてやっとそう言うと、甘えてゲルトルートに額をこすりつけた。
「お前…それはお前がベッドの上にものを置いたままにしておくからだ」
「…トゥルーデのベッドに入れてよ…明日片付けるから…きょうだけ」
「毎回そう言って片付けたためしがないぞ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「…クシッ」
「ほらみろ、こんなところで寝てるから…」
くしゃみをしたエーリカをとりあえずはやく連れていこうと、ゲルトルートはエーリカの脇をつかんで自分から引き離し、立たせようとした。そしてそこで初めてエーリカの格好に気付いた。
「だっ!…お前!何で穿いてないんだよ!」
斯くして、エーリカは下に何も穿いていないのだった。辺りを探すとソファの下の床に彼女のものとおぼしきスパッツが落ちていた。ゲルトルートはエーリカを抱えたまま腕をのばしてそれを拾いあげる。
「自分の部屋ならともかく、こんなところで脱ぐな!」
「だってー…しっぽがー…」
「しっぽがどうした」
「しっぽがくるしい」
「ならはやくしまってこれを穿け!」
ゲルトルートはエーリカをソファに座らせるとスパッツをなげた。
「ん~…」
エーリカはそれをもたもたと身につける。
「ったく…もしかしてお前が朝何も穿いてないのは寝呆けて使い魔をだしているからなのか?」
「んー…?えへへ」
「えへへじゃないだろ…ほら、いくぞ」
ゲルトルートは脇に置いていた本をとり、エーリカによこすと、ランプを消して自室に向かった。
「…明日はちゃんと部屋を片付けるんだぞ」
「わかった」
本当に分かったのかあやしい口振りで返事をすると、エーリカはうれしそうにベッドに入ってきてゲルトルートにしがみつく。ゲルトルートはエーリカを抱きしめて、あやすように背中をぽんぽんとたたいてやる。
「よしよし」
「…トゥ…トゥルーデ?」
エーリカが驚いた顔を向ける。いつもなら煩わしそうに振り払われるところだ。
「なんか今日はやさしいんだ、トゥルーデ。どうしたの?」
「まあ、たまにはな」
「えへへ、うれしいな。よくママにもこうしてもらったんだよ。」
「そうか」
「トゥルーデ、あったかい…」
そう言ってしばらくすると、エーリカは寝息をたてはじめた。16歳といってもまだまだ子どもなのだろう、親が恋しくなることもあるのだ。自分だってそうだったし、今でもそうだ。この子が甘えたいときはなるべく甘えさせてやるか。
そんなことを思いながら、ゲルトルートはエーリカの本をめくる。ミスター・ハルトマンの文字は少しやわらかくて、その人柄を感じさせた。と、ゲルトルートは、ところどころの空白に本の内容とは関係ない文字が並んでいることに気が付いた。
これは…エーリカの父が愛する人を想って綴ったちょっとした落書きのようだ。講義の合間に書いたのか、教授の似顔絵なんかも並んで書かれていたりする。すごくへたくそだ。ミスター・ハルトマンの想い人はエーリカの母親だろうか。そうだったらいいなと思う。
翌朝、いつものように目覚めたゲルトルートは、自身の部屋の光景に唖然とした。
「な…なんだこれは…」
ゲルトルートはいまだかつてこれほど惨烈な自室を見たことがないというふうに茫然とつぶやいた。もうむちゃくちゃだった。かかっていた服は床に散らばり、本棚の本も床に散らばっていた。とにかく棚の上のものは例外なく床に落ち、これはまるで…
「おい!ハルトマン!」
「むにゃ…」
「!」
エーリカは耳としっぽこそはえていなかったが、ズボンは脱げて床に落ちていた。
「なぁに…まだ朝じゃん…」
「フラウ、まさかお前の部屋がいつも散らかってるのは…」
「あ…」
エーリカも事態に気づいたようで、きまりわるそうに身をすくめる。
「あ…あ…ご…ごめんトゥールーデ!一緒に寝るときは気をつけてるつもりだったんだけど…昨日はあんまり安心して寝ちゃったもんだから…つい…」
「お前はー!使い魔をだして尻をだせ!私がそのバカ犬ごと性根を叩きなおしてやる!」
「し、しっぽはやめてよ!いたいんだから!」
「うるさいっ!!普段から弛んでるからこういうことになるんだ!」
「ちょっ…!トゥルーデ!」
このあと、泣きながらやってきたエーリカのために仕事がたまり、ミーナは再び徹夜をするはめになる。ゲルトルートがそれを手伝わされたことは、言うまでもない。
終