その後の後
「楽しそうだね、お姉ちゃん」
唐突に、それこそ何の予兆も無く響いてきたその声は、瞬時にわたしを凍らせることとなった。
ああ、この瞬間こそ自分の油断を嘆いたときはないだろう。勿論それはこの瞬間までわたしを確かな幸福に浸していたものであり、もしそれに何かの対
価が必要であったと告げられたとしてもわたしは迷うことなくそれを支払うだろうと思ってはいたのだが―ああ、なんということだ。そもそもこのケースについ
ての対処式を何一つ浮かべていなかった、いやあえて意識から遠ざけていた自分の愚かさを心底憎む。
「ク、クリス…」
部屋の入り口には車椅子に座した我が妹、クリスの姿があった。まだ体力が回復しきっていない彼女は、外出の際には車椅子が欠かせない。その世話
が要らなくなるころには、基地に呼んで皆を紹介してやろうとは思ってはいたのだが―何故今 この瞬間においてここにクリスがいるのだろうか。いや、勿
論いて悪いというわけじゃないぞ。ただこう、出来ればもう少しタイミングをずらして欲しかったというかだな。
ここに至っても宮藤の腕はわたしに絡みついたままであり、密着した状態を維持している。宮藤からはクリスは見えないだろうから、無理もないことか。
わたしの全身は即座に離れるべきという答えを導き出していたが、すがるようにわたしを抱く宮藤を跳ね除けるなんてわたしには出来るはずもない。
だがしかし、このままこの状況を維持するということは間違いなく良くない状況へと自分を追い込むものだろうと、確信じみた予感を抱かざるを得なかった
。ああ、気のせいということにして片付けられれば良かったのだが。いつもと変わらない愛らしい笑みを浮かべてるはずのクリスの背後に渦巻いているどす
黒いオーラと絶対零度もかくやといわんばかりの冷気がそれを許さない。
いや、しかしだ。この状況はおかしい。クリスは今更敢えて言うまでもない程愛らしいまさに理想的な妹であり、そして宮藤も血のつながりはないとはい
えそれ以上の絆があると信じて疑わない妹だ。その傍にあることはわたしにとって何ごとにも代えがたい幸福であるはずであり、それが二人揃うなどと最
早賞賛すべきいかなる修飾区であれそれを表しきることは出来ないだろうと思えるほどの幸せを与えてくれるはずだった。少なくともわたしがうっすらと浮
かべていた未来予想図ではそうなっていたのだが。だが実際はこの有様だ。一体何を何処でどう間違えたというのだろうか。誰か教えてくれ。
誰か―そういえば、ハルトマンは何処だ。気が付けば先程までそこにいたはずの彼女は影も形も見当たらなかった。一体何処に行ったというのか―まあ
、ハルトマンの気まぐれについて考察するほど無意味なことはあるまい。ハルトマンだしな。老後の暇つぶしにでも勘弁願いたい議題だ。
いや、それどころではない。逃避できるのであれば生産性の欠片もないそれに没頭してみるのも悪くないと思わなくもないが、本当にそれどころではな
い。
こめかみを貫通しそうな勢いで刺さってくるクリスの視線は絶賛強化中であり、このままでは本当に穴が開いてしまいそうだ。とりあえず、この体勢がい
けないのだろう。宮藤には悪いが、ここは一度離れてもらって―
「お姉ちゃん?」
思わず鼻血を噴出すところだった。それはこちらの身を離そうとする仕草へ宮藤が取った反応なのだが、怪訝さと寂寥さをまぶした上目遣いというものが
ここまで高威力だとは夢にも思わなかった。いや、夢でなら何度かお目にかかったことはあったはずだが、やはり現実は違う。もう思わず全力で抱きしめた
くなるほどの、破格の愛らしさだ。
そして同時に先程の描写が過剰だと思えるほどのまるで殺気じみた冷気に凍らされることになった。宮藤に向けられていた視線が強制的にぐるんとクリ
スの方を向く。それは生存本能にも似た衝動だったが、果たしてそうすることが何らかの防衛手段になっていたかという自信は欠片も無かった。ああ、そ
れでも確認せざるを得なかったのだろう。
微笑は先程のまま。愛らしいはずのその笑顔を彩るのは、これこそ絶対零度の世界だと言わんばかりの冷気とどす黒いどころか一切の光も逃さぬとた
だひたすらに深淵の如き黒さを増しつつある空気だった。勿論それはわたしの主観的な情景に過ぎないのだろうが、今このときにおいてはまさしく真実に
他ならない。
この状況をどうすればいいのか。いや、このまま行けばどうなってしまうのか。ああ、一体なんでこんなことになっているのだ。それを知ったところで打開
策に繋がるとは到底思えないが、そう考えざるを得ない。逃避だと分かっていたとしても。
きしりと再び床が軋む音が聞こえた。クリスの車椅子の車輪が回り、床を移動する音だ。そう、クリスは少しずつこちらに近付いてきている。勿論、先程
描写した情景を一切変えないままでだ。ああ、わたしはどうなってしまうのか。
そこでわたしは気がついた。クリスが僅かなりとも移動した為だろう。おそらくはその対象はそれに気が付かなかったに違いない。何故なら、それに気が
付かなくてもおかしくないほどの状態にあるようだから。
ふわりと見慣れた金髪が揺れている。ああ、そうだ。ドアの影からこちらを伺っていたハルトマンは、懸命に声を押し殺しながら―笑い転げていた。
「ハルトマンッッ!!!!」
「あ、しまった」
わたしの怒声に、ハルトマンは全くしまったと思っているとは思えないあっけらかんとした表情で、そう言った。ぷちりとこめかみ辺りの血管が切れたよう
な音が頭蓋に響く。どうしてこうもこいつはわたしを怒らせることにかけては天才的なんだ。先程までの様子が嘘のようにあっさりと緩んだ宮藤の腕を抜け
、わたしはハルトマンに詰め寄る。
「貴様、どういうつもりだ!何故ここにクリスを連れてきた!」
「クリスに頼まれたからだよ。"お姉ちゃん"の働いてる場所を見たいっていわれちゃ、断れないよね」
それこそ鼻歌でも歌いだしそうなのほほんとした気軽さでわたしに応対するハルトマン。確かにそうこられては―無論軍規的な意味では問題がないわけ
ではないが、正当な手続きさえ取ってあれば問題はない―ずぼらなハルトマンがそこまで手を回しているとは考えがたいが―いや、こいつは悪巧みの為
の努力は惜しまない奴だ―それに現状それを確認する術はなく、それを反対理由に挙げるわけにも行かない―わたしに言い返す術はなくなる。それが狙
ってたとしか思えないタイミングを伴っていたとしても、偶然と言い張られてはそれを突き崩すことは難しいだろう。
「いや…だが、わたしに内緒というのはどうなんだ」
すっかり勢いをそがれ、それでも何か言わねばとかろうじて反論を搾り出してみる。
「びっくりさせたかったんじゃない?」
ああ、やはりそう返されるよな。ああ、確かにびっくりさせられたさ。微笑ましさとは正反対の方向性においてだがな。
「それよりさ、ほっといていいの、あれ?」
「え?」
ハルトマンがわたしの背後を指差す。それに釣られて振り返ると―
「あなたが"現地妹"の宮藤さんですね。姉がいつもお世話になっていると聞いています」
「ううん、あなたが"本妹"のクリスちゃんだね。こちらこそ、お姉ちゃんにはお世話になっています」
そこには対峙する二人の妹たちがいた。
ギシギシと空間が軋む音がする。おかしい、確かに先程まで桃色の空気を纏っていたはずの宮藤が―何故今は先程のクリスをも凌駕しそうなほどの漆
黒のオーラを纏っているのか。いや、クリスもまたその密度を上げている。二人の優劣関係は皆無に等しい。―いや、そんな実況している場合ではないだ
ろう。
というかだな、本妹とか現地妹とは何だ。そんな単語ははじめて聞いたぞ。
「なれない妹役、ご苦労様です。"本妹"のわたしが来ましたから、もう無理にしなくていいんですよ」
「平気平気、クリスちゃんもずっと妹は大変だと思から、ここにいるときは担当のわたしに任せてくれてもいいんだよ」
「心遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。"現地妹"は、そろそろ遠慮してもらえませんか」
「自分で言うより、随分疲れてるみたいだね。大人しく本国で休んでていいよ。その間は―そうだね、その間とも言わず、ずっと代わってあげてもいいかな」
「うふふ、宮藤さんって面白い方なんですね」
「クリスちゃんも、面白いと思うよ、うふふ…」
ああ、妹同士の微笑ましい会話のはずなのに。何故わたしはこう悪寒と恐怖に苛まれながらそれを聞かなければならないのか。
いや、いかん。折角の妹同士だ。仲良くあるべきだ。しかしこの状況において、わたしになにができるというのか。いや、それでもわたしは二人の姉だ。
何とかしないといけない。
とりあえず歩み寄ろうと一歩踏み出そうとしたその瞬間、猛禽類の如き二対の眼差しがわたしを射抜いた。一瞬後錯覚だと気が付く。わたしへ振り向い
た二つの顔は、変わらぬ愛らしさを湛えているものであった。だが、その背後に渦巻くものはその形容からは程遠いものであり、ひょっとしたら錯覚では無
かったのかもしれんなと瞬時に評価を反転させられることとなった。
「「おねえちゃん?」」
ぴくりと体が震える。わたしの望む呼称ランキング永年一位に位置するそのフレーズのはずなのだが、何故だ。何故こうもそれが寒気を呼び起こすのか
。
硬直したわたしを尻目に、二人は再び顔をあわせる。そこには先程までの緊張感はなく、傍目から見れば仲の良い二人組みともいえそうな、そのフレー
ズを感じさせるアイコンタクトだった。
「折角ですからお姉ちゃんに決めてもらいましょうか」
「そうだね、わたしもそれがいいと思う」
「結果は考えるまでもないですけどね」
「うん、そうだね」
そしてこのひしひしと競りあがってくる悪い予感は何だ。何か、芳しくない状況にジリジリと追い詰められているような、そんな気がする。戦場であるなら
ば、戦略的撤退を試みるべき場面だろう。だがしかし、二人の間で渦巻く何かは今はわたしの体に絡みつき、それを許そうとしない。
こいつに頼むのは癪だが、ここは第三者の助けが必要なようだ。
「おい、ハルトマン…って!」
だがしかし、唯一この場で助けを超えそうな相手は、既に廊下の先へと歩み去っていた。
「じゃねー。これ以上いるとお邪魔みたいだからね」
「ま、待て!戻って来い、ハルトマン!…エーリカ!」
「んふふ、その呼び名、もう少し早く使ってれば、考えたかもね?」
一瞬足を止め、それでもそれを捨て台詞として、ハルトマンは角へと消えた。これでわたしに助力しうる存在はなくなってしまったということか。いや、それ
ならば自力で―
「「お姉ちゃん?」」
ぽんと二つの手がわたしの両肩にそれぞれ置かれた。わたしの体が、先程の比ではないほどに、カチリと硬直する。
「「どっちがいい?」」
時既に遅し、というわけだ。
臨む二つの笑顔はまるで大型ネウロイの大群のような威圧感を持ってわたしに返答を迫る。だが、さて、それに答えうる言葉は一体何処にあると言うの
だろうか。
視界の端に映った窓の外では、陽はまだ日没とは程遠い高さにあり、長い午後になりそうだと溜息混じりの諦観をわたしに与え、そしてそれすらも許さ
れる状況にある自分の身をただ嘆くのだった。
数刻後、わたしは食堂のテーブルに突っ伏していた。近付く気配に、それを視認できる分だけ頭を上げると、いかにも興味津々と言う表情を浮かべたエ
イラの姿があった。
「なあ、どうなったんだ、大尉」
嘆息が漏れる。ああ、これがハルトマンであればまだよかったか。が、あの場にいなかったエイラがこう尋ねてきているということは、つまりはあの臀部か
ら尻尾が生えているに違いない子悪魔は、基地中に先程の一連の状況を触れ回ってくれたに違いない。勿論それは想定の範囲内ではあるのだが、頭痛
の種であることもまた確かだ。
本来であれば黙秘を通すべきであることなのだろうが、最早それすらどうでも良かった。
「どっちもと答えたら、心底呆れられた」
「…ああ、なるほどな」
その二人の表情は、まさしくわたしの気力全てを奪うに相応しい破壊力だった。あの二対揃った蔑んだ眼差し。思い出すだけで興奮…いや、何を言って
るんだわたしは。思い出すだけで、どんよりと気分が沈んでいく。ネウロイよ、襲ってくるなら今だぞ。今なら容易くわたしを討ち取ることができるに違いない
。
「で、件の二人はどうしたんだ?」
「あれから意気投合してな、今は二人で中庭でも回ってるはずだ」
「そっか」
エイラはふーんと声を上げつつ、二人がいるであろう中庭のほうへと目を向ける。わたしの角度からは見えないが、直立する彼女の視線からなら、窓越し
に二人の様子を見て取ることが出来ているのかもしれない。
「じゃあ、よかったんじゃないか?」
「なにがだ」
「二人、仲良くなったんだろ」
エイラの言葉に、わたしは一瞬制止し、そしてふんと息を付いた。なるほどそうか、そういう考え方も出来るのか。そうだな、確かにわたしはこうしてどんよ
りと落ち込む羽目になったのだが、それをきっかけとしてあの二人が仲良くなれたのなら、それはそれで喜ぶべきなのだろう。わたし個人としても、そして
あの二人の姉としても、だ。
「すまんな」
むくりと上体を起こし、気まぐれで悪戯好きと称される、それでいて心根の優しいスオムス空軍少尉へと向き直った。
「励ましに来てくれたのだろう」
「あー…そういう言い方も出来るのか」
エイラはわたしの言葉に暫く思慮深げに天井を見上げ、それに対して似つかわしくないなとわたしが感想を浮かべる直前に、まさしく彼女らしいにいっと
した笑みを浮かべつつこちらに視線を戻した。
「新たなヘタレ仲間に先輩として挨拶に来ただけなんだけどな」
「…なんだそれは」
というより、こいつは自覚していたのか。あまりにあんまりなその言い様に、思わずみぞおち辺りから笑いがこみ上げてくる。普段であればその物言いを
注意すべき場面ではあるのだが―そうだな、確かにその分野においてはわたしの方が若輩なのだろう。尤も、誇れるべきことではないのは確かだが。
さて、伏している場合ではない。こんな機会は、そうそう訪れるわけではないのだから。
「悪いが早速卒業させてもらうことにしよう」
席を立つ。ニヤニヤ笑みを浮かべながら見送るエイラに感謝を残し、わたしは食堂を後にした。先ほどの情景を鑑みるに、この行動が蛮勇と呼ぶべきか
勇敢と呼ぶべきか英断と呼ぶべきかは分からない。
だが陽はまだ高く、この気持ちの良い午後はまだ暫くはその猶予を残している。ならば、姉妹三人で過ごしたいと思うのは、姉として不自然なことではな
いだろう。
向かった中庭、わたしを認めた二人が並んで大きく手を振っているその光景に迎えられ、わたしは自分が如何に幸せ者であるかということを深く実感す
ることとなった。
(おわり)