シングルベッド
1.
これを自分の「ツイてない」にカウントすべきかどうか、私は少し迷っていた。
「……いくら仮設基地って言っても、これはないよな……」
今回の作戦のために移動してきた仮設基地の宿舎。ブリーフィングを終えてやってきた自室で、私は鞄を開ける気にもならずに、床の上に座り込んでいる。
「こんなところもあるダロ? しょーがないッテ」
相部屋になるイッルは暢気に言いながら、早くも自分の荷物を広げ始めている。
大荷物の鞄を開けて、その中からどんどん物を出していく。占い用の水晶玉。仰々しい文字が並んだ板に凝ったつくりの燭台。それらを取り出し、机や棚の上に手際よく並べていく。
「……変なものばっかり広げるなよな」
私が文句を言うと、イッルはフフンと鼻で笑って、さらに一つ鞄を開けた。中に入っていた軍服と私服をクローゼットにしまいこみ、本を取り出して床に積み、変な木彫りの像を棚に据えて「南無ー」と拝む。
お前一体それ何に使うんだよ、とその大荷物にあきれながらも、くるくると立ち働く彼女の姿は見ていて飽きない。こんな気分の時でなければ、愛くるしいと思ってしまってもいいぐらいだ。
いいぐらいだ。いいぐらいなんだけど。でも。
――イッルのことは置いといて、私たちが泊り込むことになる部屋、その部屋の中を見回す。
部屋のくすんだ木の壁に、採光と換気のために取り付けられた小さな窓から、わずかに外の冬景色が見えている。部屋の中には所狭しと古びた家具が並べられ、床面積を圧迫している。はっきり言って狭苦しい。私たちの部屋。
そんな部屋の中で、イッルは鞄からどんどん荷物を取り出していく。机をガラクタで占領し、棚を本であらかた埋め、しまいきれない荷物を床の上に並べ始める。
「……っておい、あんまり広げるなよ」
ぼんやりと部屋を眺めていた私は、それを見て立ち上がった。
「こっち入ってくるなよ! 私のスペースだからな」
際限なく領土を広げていくイッルのガラクタを手で押し、部屋を等分する位置まで押し戻す。
整理が出来ない奴じゃないから片付けるだろうし、どうせそのうちお互いの私物が入り乱れるんだろうけど、最初ぐらいはちゃんと主張しておきたい。領有権を。
ニパ細かいナーというイッルの声を聞きながら、ずりずりとガラクタを、部屋の真ん中まで押し戻す。押し戻しながら、イッルに向かって呼びかける。
「イッルー」
「何?」
「……お前、寝袋持ってきてる?」
「何言ってんだオマエ。そんな予定ないダロ?」
「そうかー。じゃあイッルさんはガレージで寝るわけだー」
「ひどいなニパ。寒いんだゾ今」
「じゃあ廊下? 食堂? サウナなんかあったかいんじゃないかな」
「何でそんなところで私を寝かせたいんダヨー」
「嫌か? じゃあどっちかが床だなー。後でジャンケンしようなー」
ずりずりっと。窓際の壁沿いから、部屋を縦断するように荷物を押しのけながら移動してきた私は、反対側の壁際に置かれたベッドにぶつかり、立ち上がる。
さっきから私を呆然とさせている元凶であるベッド。それを冷めた目つきで見下ろす。
「……こいつも等分してやろうか。」
半分に。
幅だけはそれなりにある白いシーツ。その上に黒々と線を引いて「ニッカのスペース(入ってくんな)」「イッルはこっち(出てくんな)」と記す所を想像する。
壁際、部屋を等分する位置に置かれたベッドが一つ。
二人部屋なのにベッドは一つ。
「えーなお、一部の人は二人部屋ですが、ベッド一つしかありません。ヨロシク!」
ブリーフィングでそう告げられ、隊内が騒然としたり一部が急に黙り込んだりしたのが、ついさっきの事。
やけに朗らかに告げられたその事態が、今動かしようのない現実として、私の目の前に横たわっている。
私とイッルの二人部屋に、ベッドは一つだけ。
部屋が狭いとか、単に貧乏だからとか、間に合わなかったんじゃないかとか、いろいろ理由はあるのかもしれないけど。ないのかもしれないけど。
(……いまどき監獄の囚人でも一人に一台ベッドがあるんじゃないかなぁ……)
今更贅沢は言わないけど、気後れを感じるぐらいは許してほしい。
大体、ベッドを二人で使うなんていうのは……
横目でイッルを見る。振り返ったイッルと目が合ってしまい、あわてて視線を外す。
(……ベッドを二人で使うなんてのは……)
……恋人とか、夫婦とか。
……いやいや。いやいやいやいやいや。
頭をぶんぶんと振って、不埒な考えを振り払う。なんてことを考えてるんだ私は。
「それじゃ、ニパー」
そんな私の前に、能天気な同居人の顔。いつの間にかベッドに上がったイッルの、やけに嬉しそうな声。
「……なんだよ」
「ふつつかものですが、ヨロシクナー」
「……」
ぱーん。
三つ指ついて頭を下げたイッルの頭を、拾い上げたスリッパではたいた。
2.
「ごめんなさいねニッカさん。本当に」
自分は何も悪くないのに、彼女が気に病む必要なんてないのに、この人には気苦労が絶えない。
愚痴をもらした私に向かって、エル姉はまた申し訳なさそうに言った。
「……いいよ、別に」
「でも、士官だけ一人部屋ですし……」
「……エル姉のせいじゃないじゃん」
イッルを残したまま部屋を飛び出してきた私は、エル姉の部屋に転がり込み、そこにぐずぐずと居続けていた。
ベッドに腰掛けたまま、エル姉が淹れてくれたコーヒーのカップを口元に運ぶ。淡い色合いの花模様がつけられたカップの中の液体は、すでに湯気も立たないほどに冷めかけている。
エル姉の私物である可愛らしい色合いの小物と、数冊の本が置かれている、少し物寂しい部屋。その部屋の中で、ストーブの上に置かれたやかんが、しゅんしゅんと小さな音とともに湯気を上げている。
エル姉は椅子に座って何かの書類を読みながら、時々私が愚痴を漏らすと、それをなだめるかの様に謝る。私がいいって、と言うと、エル姉は困ったように笑って、また自分の仕事に戻っていく。そして私はエル姉の背中を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。
私を無理に構うでもなく、もちろんエル姉が帰れというはずもなく。私とエル姉がただここにいる部屋。穏やかな時間がこの部屋の中を流れていく。
「エル姉……」
そんな居心地のよさに甘えたくなって、私はまた口を開いた。
「なんですか?」
「……夜さ、こっち来ていい?」
「いいですけど……」
「ほんとに?」
私はそう言いながら、カップに口をつける。
エル姉は私の言葉を聴いて。淡く微笑んだ。
「……気になりますか? エイラさんと一緒なのは」
「……ぶっ」
静かに言われたとんでもない言葉を聞いて軽くむせる。
「……別に……そんなんじゃ」
顔が熱くなる。それを隠すようにうつむき、ひざに置いたカップを両手で包む。
……気になるって言うか、それは、なんかちょっと、違うんだけど。
同室だけならともかくベッドまで一緒というのは、気まずい。というか、逃げ出したい。
……考えてもみてくれ。
イッルが私のすぐ後ろとか、すぐ、隣、とか、更に言うなら、目を開けると、その、すぐ目の前にイッルの顔とか、そういう状態で寝てるわけだ。
……寝てるんですよ。
そしたら、息がかかったり、耳元で寝言をささやかれたり、そういう事が有り得るじゃないか。
あまつさえ気が付くと抱きつかれてたり! 「寒いナ……」と言いながら、無自覚にイッルがすりすり甘えてきたり!
……十分に考えられるじゃないか。そんなことになったらどうする!
……いや、あくまで仮定の話だ。仮定の。うん分かってる。落ち着け私。
でも、そんなことを考えながら……寝られるわけ、ないだろ。
……それに。それなのに。
私がそんな気持ちでいるのに、それなのにイッルはあんな、人をバカにしてるのかしてないのか分からない様な態度で。そしてそれはあまりにもいつも通りの彼女だから。そんな気持ちでいるのは、私だけだと分かってしまって。だからいたたまれない。
……更に、そんなもやもやを抱えたまま、あの部屋に居続けたら、私はまたイッルに余計なことを言ってしまいそうで。そうしたら、今まで私とイッルの間にあったものが、壊れてしまうんじゃないかと思えて、私は多分それに耐えられない気がして、それがとても怖くて。
……気にしすぎだ、と自分でも笑いたくなる。ヘタレと呼ばれても仕方ない。
そんな理由で、私は飛び出してきた自分の部屋に、戻れなくなっていた。
「……ニッカさん」
穏やかな声。ぱさり、と書類を机に置いてエル姉が立ち上がり、私の隣に座る。
私の顔を横から覗き込みながら、エル姉は微笑む。
初春の日差しのように、頼りなげで儚げで、でも確な温みを見る人の胸に残す笑み。それを浮かべながら、エル姉は私に語りかける。
「……エイラさんとうまく話せなくて、喧嘩しちゃうんじゃないかって思って、心配なんでしょう」
「……うん」
小さくうなずくと、エル姉はにっこりと笑う。
「……エイラさんは、いつもふざけてばっかりですからねー」
困ったものです。エル姉は背筋を伸ばして、はー、とため息をついた。
「そうなんだよね……」
さっき三つ指ついて頭を下げられた事を思い出す。人が悶々としてる時にあいつは。
多分私の反応が楽しいからやってるんだろうけど。理由はわかっても、腹が立つことには変わりない。こっちが怒っても怒ってもニヤニヤしてるし。
「……あいつ、そればっかりでさ」
「……照れ屋さんなんですよ。エイラさんは。
普段からあんな感じですけど、困ってたり恥ずかしかったりする時も、ついそうしてごまかしちゃうっていうか」
「そうかな……」
エル姉の言いたいこと、イッルが意外とデリケートな奴だって事は、何となく私も気付いてる。イッルだって、いつも心の中でヘラヘラニヤニヤしてるわけじゃないと思う。
でも、だけど。
たとえそうだとしても、本当はどうなのかが、それなりに付き合ってきた今になっても良く分からない。
イッルはいつもふざけてばかりいるから。私はそんなあいつのことが分からないから。
だから不安にもなるし、それに大体、イッルの事を気にしてる私に向かって、その事を冗談に紛らわされたりごまかされたりって嫌じゃないか。こっちはそれなりに真剣に悶々としてるのにさ。
だからイライラして、ついつい口か手が出てしまう。別に喧嘩なんかしたいわけじゃないのに。
「――ニッカさん?」
残り少ないコーヒーカップの底を見ながら考えに沈んでいた私は、エル姉に呼びかけられて顔を上げた。
「あ、ごめん。ぼーっとしてて」
「でもね。あまり心配しなくても大丈夫ですよ。明日になれば追加の寝具が届くそうですから」
「――え? ……そうなの?」
「ええ。さっき連絡が来てました」
「……なんだよエル姉ー。早く言ってくれればいいのにー」
机の上の書類を指差すエル姉に苦笑いを浮かべて言うと、エル姉はごめんなさい、とまた謝った。
「……なんだ。そうなのか」
「はい」
エル姉の返事を聞いて、一気に緊張が解ける。
……ここにいる間中、文字通り寝食を共にしなきゃいけないと思っていたんだけど。そうなったらどうなるかって、ずっと悩んでたんだけど、取り越し苦労だったかもしれない――別々に寝られるならば。
明日届くという追加の寝具。新しいベッド――は部屋に入らないかもしれないけど、毛布がもう一枚でもあれば、どこでも眠ることは出来る。床の上でもどこでも、少しだけ我慢すれば。
それに良く考えたら、シフトが動き始めれば、その組まれ方次第で、一人で眠る時間も取れるじゃないか。
……なんだ。考えすぎだ、私は。
急速にそんな考えを巡らせ始める私に、エル姉は言い含める様に言った。
「……でも、今日だけは別なんです。来るのは明日ですから」
「……今日だけ?」
「ええ」
そこまで言うと、エル姉は私に向かって、ずいっと身を乗り出して来る。
「え、なに?」
「今日だけなんです。ですから──」
驚いて身を引きかけた私の目の前で、エル姉は両手を握り締め、私の目を覗き込む。
「――ですから今夜が勝負ですよ? ニッカさん」
「は……?」
勝負っ……?
エル姉に何を言われたのか分からなくて、間抜けな声が出た。
「え……? え?」
「あ……いえ違いますね」
呆気に取られた私の反応を見て、エル姉は手を振りながら訂正した。
「違いますね……正念場? 決戦日? いやちがいますそうじゃなくて……」
あうあうとうろたえながら、この人はとんでもないことを言い続ける。
「……いやいや違うんですよニッカさん違います。
第一、今日だけは別というのはですね、あくまで私は胸にもやもやを抱えたまま寝苦しい思いをしても我慢してくださいといっているのであって、それとエイラさんと仲良く過ごせるかどうかは別々に考えていただきたくてですね……」
そこまで一息に言ったエル姉は言葉を切り――うつむいてぽっと頬を染めながら呟く。
「……そっちはむしろ我慢しなくていいのになんて、そんなことはとてもとても……」
「……」
……エル姉。何を言ってますか。
あなたひょっとして、今喜んでませんか?
顔が笑ってませんか? なんでそんなにうれしそうですか?
「……あ、いえいえいえいえ違うんですっ!」
疑念に満ちた私の視線に気付いて、エル姉はわたわたと顔と手を振り回しながら弁解をはじめる。
「……お二人が厳しい任務に備えて安らかに眠れるかどうかが私は純粋に心配なんです!
私はですね、ニッカさんとエイラさんが可愛くて可愛くてしかたなくてですね、お二人が心憂いなく床についてほしいだけであってですね、
決して断じてお二人が胸に秘めたみずみずしい想いを打ち明けあったり熱情のままに求め合ったりとか、そんなことを期待するなんて……するなんて……」
エル姉はそこで言葉を止め、
「……するなんて……」
幸せそうな表情を顔いっぱいに浮かべて固まっている。
あのー。心配になってその顔の前に手を伸ばすと、エル姉は唐突に「はっ」と顔を上げ、頭を抱えた。
「……いけませんっこんなことを考えてはーっ!」
大声で叫びながら、うずくまるエル姉。
「いけませんっいけないのです! エイラさんとニッカさんでんなことを考えるなんて!
いけません! そんなことを心に抱く人はきっと変態さんです! 行く先はきっとケモノ道です!」
いけません。いけません。ケモノ道です。ぶるぶる震えながら内心の葛藤をだだ漏れさせるエル姉。
「……」
そして私はそれをドン引きしながら眺める。
(……この人はこういう事についても気苦労が絶えないのだなあ)
頭の中に、そんな他人事のような感慨が浮かぶ。
「……だ、だめですね落ち込んでちゃ! 前向き前向き!」
やがてエル姉は、ぺちぺちと頬を叩いて自分にエールを送り始め、すぐに晴れ晴れとした顔を私に向けた。
「……というわけでニッカさん」
「……なに……エル姉……」
「エイラさんと喧嘩しちゃったらいつでも来てくださいね。私が責任もって何とかしてみせますから」
「そう……?」
「はい!」
「……そう……」
ぽんっと手を叩き合わせ、さっきまでの苦悩はどこへやら。晴れやかにエル姉は笑う。
何をどうなんとかするのか、それを深く聞いてはいけない気がした。
晴れ晴れとしたエル姉の笑み。普段は私を和ませてくれるその笑顔。何があっても前向き前向きになれるこの人の笑顔。
――でも。
前向き前向きになったその気持ちで、この人は一体、どんな方向に突き進むつもりなのか。それがなんだかとっても不安で。
「……うんありがとう。邪魔しちゃってごめん」
完全に気圧されきった気分のまま、私はエル姉の部屋を後にした。
3.
全員がむっつりと黙り込んだまま、視線だけが妙に熱っぽかったりそわそわ落ち着かなかったりと、気まずいことこの上ない夕食の後。
部屋には帰り辛いし、かといってエル姉の部屋に寄るのはなんだか怖くて、さらに言うなら他の部屋に行くととんだお邪魔をしてしまうかもしれず。私は深夜まで灯の消えた宿舎の中をうろつき、寒さで凍えかかってから、ようやく部屋に戻ってきた。
「……だだいま゙」
「……ドチラサマデスカー?」
がたがた震えながらドアを開けると、そんな声が私を迎える。ベッドの上に寝転んだイッルが、タロットを手にしながら不機嫌そうに私をにらんでいた。
「こんな遅くまでどこ行ってたんだヨー?」
「……」
苛立ちを含んだ質問に対して、私は口ごもる。
……まさか廊下でただ震えてました、とは言えない。
「なに突っ立ってんダ?」
部屋に入れずに立ち尽くしている私を見て、イッルはベッドから出てきて私の手を掴んだ。
「うわ手ぇつめた! どこにいたんだオマエ」
「……廊下、とか」
「……何ダソレ? 何やってんダヨ?」
「……」
答えられないまま、私はずずっと鼻水を啜り上げる。
イッルは荒っぽく私を部屋に引っ張り込むと、ベッドの上、ストーブに近い場所を指差した。
「コッチ座れって」
「……ん」
「これかぶれよナ」
それまで彼女の体の下に敷いていた毛布を差し出す。
「……ん」
イッルの体温ですでに暖かいその毛布を羽織り、ストーブのほうに出来るだけ近づいて、火に手をかざして暖を取る。
ストーブと毛布に暖められて、麻痺しかかっていた皮膚に、ちりちりとした痛みがよみがえってくる。次第に体の震えが治まっていく。そんな私を、イッルは少し怒った顔のまま見守っている。
(……ごめん)
薄暗い部屋の中、ストーブの火を見つめながら、心の中でイッルに謝った。
こんな遅くまで帰ってこなかった私に、怒りながらも何も聞かないで、こうしてくれるイッル。
私はお前を避けてたのに。イッルと顔を合わせたくなくてで、一人でうろうろしたのに。
「ダイジョブかオマエ? サウナ入ってくるか?」
「あ、いや……」
頬が暖かい。多分、体が温まったせいだけじゃない。
「……いいよ、別に」
ただイッルが気にしてくれるのがうれしくて――。顔の火照りを悟られないように、毛布を引っ張りあげて顔を隠す。
「……あったまったカ?」
「うん」
「……遅かったじゃんカヨ」
「悪かったって」
「待ってたんだからナ」
「……そうか?」
「そうだゾ。帰りを待つ嫁の気持ちで」
「……何だよそりゃ」
「旦那の遅い帰りを待つ嫁というシチュエーションを想像してたんだヨ。
ふきんをかけたまま冷めて行くご飯を見ながらため息をついたり、サウナの妖精さん帰ってもらった方がいいかなとはらはらしたり……」
「……また訳の分からないことを」
イッルの話が変な方向に向かい始めたのを感じて、私は身構える。ちなみに飯もサウナも済ませてる。とっくに。
「全然帰ってこないんだもんナ。夜に備えて用意もしたのにナ」
「待て……」
用意って何だ。こいつ何かやらかしたんだ。私は辺りを見回す。
それまで気にしていなかった枕元、そこに私は目を止める。
「……イッル」
キリキリと私の声が尖っていく。
「……何だ、これは」
私が見つめるベッドの枕元には、仲むつまじく並べられた枕が二つ。そのそばにいつの間にか置かれたサイドボードには、水差しを置いたお盆とティッシュ。
「……扶桑のオンセンとかいうサウナ専門の宿みたいな所の習わしでナ」
「……ほお。」
脅しをにじませた私の声に構わず、イッルは得意げに解説を続ける。
「若い二人が同じベッドで寝る時は、そこに住むオカミって妖精さんがに気を利かせてこうするらしいんダナ」
「……博識だなイッル。」
「そして若い二人は夜が更けるまで無言でじりじりした挙句『そろそろ、寝るか……?』『で、電気消せヨ』って並んでもじもじするのが作法らしくてナ」
「……」
もう何も言う気になれず、イッルのことを無言で睨む。それ以上何か言ったら殴る。そんな思いを込めて。そしてイッルはニヤニヤしながら話し続ける。
「……というわけで今日はこのまま私が嫁の役をやるからニパはしっかりと……」
「……やってられっかー!!」
がっしゃーん! ちゃぶ台返しの要領でサイドボードを引っくり返した。
ごろごろと重たい音を立てて、床に落ちた水差しが転がる。
「ああっ……」
イッルは情けない声を上げて立ち上がり、もそもそと水差しを拾い上げる。
「……ニパで楽しもうと……いやニパに楽しんでもらおうと思って準備したのにナ」
「……さっさと片付けろ! というかお前、今ものすごく失礼な事言わなかったか?」
「そんなことないゾ。この準備だって昼からずっとやってたのに……」
「……私がいなくなってからずっとネタ仕込んでたのかお前は」
「それなのにサ……」
ううっ。私の言葉を無視して、イッルはわざとらしく肩を震わせる。
「……ニパが、DVな人だったなんてナ」
ぶちん。その恨めしそうな声を聞いて頭の中で何かが切れた。
あーそうですか。あなたやっぱりノリノリですか。
何が楽しいのか知らないが、こっちがうろたえるか切れるかしかできないのを知ってて、一晩かけてじっくり私をいじくり倒す気なんでしょうか。
――やっぱり私はツイてない。他の奴の相方は、多分こんな奴じゃない。
「……もう寝る」
ぐずぐずと靴を脱いでベッドに上がり、壁にへばりつくようにして寝転がった。
イッルに背を向けて、目の前にある壁を睨む。
もうやめ。やめます。寝ます。寝る。
イッルがあくまで私をからかう気なら、こっちは徹底的に避けてやる。物理的に逃げられないなら、精神的に眠りの中へ逃げ込むまでだ。
「……ニパ? どうしたんだヨ?」
「だから寝る。心配かけてごめん」
「ちょ、まだ早いんだナ」
あわててイッルが私を止める。
「待てヨー」
私の袖をつかんで発する不満げな声は無視して、壁をにらんだまま、イッルの声を意識から締め出す。
「……新婚設定は、嫌いだった…カ?」
イッルがおずおずと問いかける。なんだよ設定って。
「あ……」
そんな突っ込みを胸に沈めたまま黙り込んでいると、イッルは何かに気付いたかの様に息を呑んだ。
「……ニパ、悪い……ひょっとして、お前……」
「……」
途切れ途切れに言うイッル。何を言うのかと、ひょっとして私の気持ちを察してくれるんじゃないかと思って、次の言葉に私は耳を澄ませる。
「……お前ひょっとして……『ご主人様』とかそういう方が好みだったカ?」
「馬鹿!」
がぁ! と起き上がって怒鳴った。
――そして私はぱたんと倒れる。
壁を見つめながら、胸元に枕を引き寄せる。ぎゅう、と抱き込むように体を丸める。
……こうなる気がしてたんだ。だから嫌だったんだ。
「――ニパ?」
おそるおそる呼びかけてくる声。
――知らないから、イッルはそういう事できるんだろ? なぁ。
私がどんな気持ちでいたか、今なんで怒ってるのか。それを知らないから、こんな事が出来るんだ。出来ちゃうんだ。イッルは。
「……なんだよ。」
情けない声と一緒になって、涙がにじみ出ている。
「人の気も知らないでさ……」
つぶやきながら、枕を顔に押し付けた。
静まり返る部屋。私の背後で動かないイッル。その視線を感じながら、硬く目を閉じる。
不意にスプリングをきしませて、ベッドが沈み込む。イッルが私のすぐ後ろに手を突いて、私の顔を覗き込んでる。
「……じゃあサ」
何言われても答えるもんか、私はぐっと目を閉じる。後ろから、こいつにしてはやけに湿っぽい声が聞こえた。
「……じゃあニパは、分かってるっていうのかヨ」
「………………何が。」
その調子に、つられるように応える。きゅっと、私の襟首をイッルの手がつまんだ。
「ニパが帰ってこなくて、私がどんな気分でいたかダヨ。
……出て行ったきりぜんぜん帰ってこないし。メシのときも口利いてくれなかったし、それにこんな時間までサ……」
襟首の手が握り締められた。
「……どこいったのかって思って、もしかして帰ってこないかもって、思ってたんだカンナ」
「……」
そして離れていくイッルの手。私の後ろに寝転んだのか、マットが大きく揺れた。
「……私と一緒がそんなに嫌なら、嫌って言えばいいノニナ」
ナンダヨモー。
声に少し遅れて、ぐずっという鼻音がした。
「イッル……」
枕から顔を離して振り返る。寝転んでいる丸まった背中。
その背中を見つめながら、いくつもの感情と感覚が私の中に現れる。
最初に現れたのは驚き。そして痛み。それから微かな甘さと安堵と、それに対する罪悪感。焦り。呆れと赦しと苛立ちと切なさ。そして最後に、後悔。
私はイッルが、何を考えていたのか分かろうともしないで、ただ逃げて。そして勝手に怒って。自分のことばかりで。
だからイッルはこんなに、らしくもなく拗ねてる。
――私は、分かっていたはずなのに。こいつも変なところで素直じゃないって。
とても長く感じる時間を経て、寝転ぶイッルに身を寄せる。さらに長い時間をかけて、彼女の肩に手を回す。
「ごめん……」
背中に額を押し当てて、小さな声で言った。
「……一緒なのが、嫌だったんじゃない。ごめん」
一つ一つ。途切れ途切れに。心の中にあるものを、掬い上げる様に、私は言う。
「こんなに近くでずっと、っていうのが、怖くて
お前に変なこと言われるんじゃないかって、それも嫌で……」
自分の中の伝えたいことを、嘘じゃない気持ちを、それをあらわす言葉を選びながら。
「――ごめんな」
謝るから。悪かったって思ってるから、だからお前がそんなことすんなよ。
「……フフン」
私の言葉を聞くと、イッルがくるっと身体を回した。
「……ニパは泣き落としにも弱いんだナ」
聞こえてくる得意げな口調。
「流されやすいもんナ」
顔を上げると、いつものニヤニヤ。人を小バカにした言葉。
「……」
普段ならはたいてるところだけど。でも。
私はイッルの目尻に手を伸ばす。そしてそこに残る涙をぬぐう。
「……涙目で言うなよ。バカ」
言いながら、笑ってやると、イッルは途端に、困ったような情けない笑顔。それがおかしくてもう一度言う。
「バーカ」
私も笑う。多分同じような顔で。
「バカ……」
さらにもう一度言って、イッルの鎖骨に額を寄せると、イッルは私の頭に手を伸ばし、私の髪の中に指をうずめた。
「……髪の中、まだ冷たいじゃんカ。早く帰ってくればよかったんダヨ」
「……やめろって」
イッルの手がくすぐったたくて、笑いながら腕を跳ねのけると、ニヒ、と笑ってイッルはわしわしと私の髪をかき混ぜる。
やめろってマジで。抗議しながら、私はイッルの胸元に顔を寄せる。
次第に優しく髪をいじり始めるイッルの手つき。
胸元に顔を押し当てると、彼女の心臓の音が聞こえた。
「……」
イッルの肩に手を回したまま、私はそれを聞く。その鼓動を感じる。
なぜこうしてるのか、どうしてこうするのか、言葉には出来ないけれど。その刻みと暖かさが心地よくて。しがみつく様に、私はイッルに身を寄せる。
「……まだ、怒ってるカ?」
「……もういい」
少しずつ、私の鼓動が早まっていく。
「ニパ……?」
不意にイッルが、戸惑ったような声で私の名を呼んだ。
「あ、あのサ……」
「……イッル。」
言葉を遮る様に呼びかけながら、私はイッルにしがみつく。イッルが動きを止める。二人とも動かない。
「イッル」
もう一度名前を呼ぶと、二人の心臓がどきん、と跳ねた。
私の頭に手を載せたまま、イッルが固まっている。
「……イッル」
イッルが動かない事が逆に不安で、戸惑っているイッルが、逃げてしまうんじゃないかと思えて、イッルを抱く手に力を込める。私は彼女にしがみつく。
その間も同じ鼓動を、私達が刻んでいる。その事実にかすかに勇気付けられながら。
「ニパ……」
長い時間の後で、彼女が私の名前を呼んだ。ゆっくりとイッルの手が、私の背中を這い上がる。
それがとても嬉しくて、私は顔を上げる。目に映るイッルの、少し泣きそうな顔。驚きと恐れの入り混じった真っ赤な顔。それが少し可笑しくて私は微笑む。
息が溶け合う距離から、深い青をたたえた彼女の瞳を見つめる。イッルも私を見つめ返す。鼓動がさらに早くなる。
外からは夜半を告げる梟の声。部屋の中で揺れるランプの光。その光を透かして輝くイッルの髪。廊下から流れ込む冷気と、埃っぽい年月の匂い。
(……ん?)
そこに微かな違和感を感じて、私は周りに意識を向ける。イッルの目を見ると、そこにもやはり不審の色が浮かんでいる。
(……廊下?)
私とイッルは視線を交わし、ゆっくりとドアの方に目をやり――
「……え?」
――青白い顔でこちらを見ているエル姉と目が合った。
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「うわぁあああぁああああああああああああああああああああああああああ!」
「えええええナニナニうわあああああああああああああああああ!」
「きゃあああああああああああああああああああああああああああ!!」
私とイッル、一瞬遅れてエル姉の叫び声が基地中に響き渡る。
イッルはばっと起き上がり、ベッドのヘッドボードを飛び越え、その後ろに転がり落ちる。
私はベッドの上をわたわたと這って壁にぶつかる。毛布を引き寄せて顔を隠した。
「あっあの……大きな音が聞こえたから、それで……っ!」
そんな私達に、慌てきったエル姉の声。
「……あの」
毛布の陰からそーっと顔を出して覗く。
「……エル姉……?」
イッルもベッドの後ろから顔を出す。
「あのあの……」
エル姉はしばらくあうあうと口を動かしていたが、私と目が合うと必死にフォローを始めた。
「……大丈夫っセーフです! 見てませんっ私は何も見てませんっ! ただ声をかけづらくてそれで……っ!」
「ほんとに……?」
恐る恐る尋ねる私に、エル姉は両手をわたわたと盛大に振りながらまくしたてる。
「……見てませんっ! ほんっとに何も見てません!
エイラさんとニッカさんが、初々しくも濃厚に青春を交わし合うさまを、息を詰めて見守っていただなんてそんな!」
おっ恐ろしい、おそろしいことです……。エル姉はぶつぶつ呟く。
「……見てたじゃないかー!」
毛布をかぶって縮こまる私たちをよそに、なおもエル姉の弁解は続く。
「……お互いを求め合うがゆえのかわいらしい痴話喧嘩の果てに、おずおずと触れ合うさまがかわいらしくていとおしくて! ああもうどっちがお嫁なんだろうとか……いやどっちでも、いやむしろどちらも、お嫁でいいんですと心の中で声援を送ったりとか……いけませんっ! いけませんこんな事を考えるなんてっ!」
「……」
……あなたは何を言ってますか。というか最初から見てましたか。
頭を抱える私達の前で、さらにエル姉は自爆し続ける。
「それでもなかなか歩み寄ろうとしないお二人に歯がゆい気持ちを感じながら、二人ともヘタレなんだからとそれをほほえましく思い、そしてお互いの中にあるかすかなためらいが内からこみ上げる熱情によって溶けていくさまを……」
墓穴を堀り続けるエル姉。基地中に響く様な大声で言うから、その墓穴はそのまま私たち三人の墓穴だ。
「……そのさまを網膜と脳裏にじっくりと焼き付けたいとか! 出来れば後で再生したいとか! そんな大それたことをまさか私がまさか……!」
「ヤメヤメ! エル姉やめテー!!」
叫び続けるエル姉の口をふさぐべく、ベッドの陰にいたイッルが駆け寄る。ちなみに私は腰が抜けてる。
「……ご、ごめんなさい! ごめんなさいいいい!」
地獄におちるんです~! という叫び声を残して、エル姉は逃げ去っていった。
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「……」
ばたん。エル姉を戸口まで追っかけて、走り去る背中を見送ったイッルが、無言でドアを閉めた。
ようやく腰が入るようになった私が立ち上がる。むー、と、お互い真っ赤な顔で、イッルとにらみ合う。
「……さっさと寝るゾ」
「……そだな」
それだけの言葉を交わして、ばたん、ばたん、と二人ともベッドに倒れこむ。
私はまた、イッルに背中を向けて壁の方を向いた。
――危なかった。まず、浮かんできた感想はそれ。枕を胸に抱いて、ばくばくする心臓を押さえ込む。
なんか、流されたっていうか。いや、明らかにこっちが流そうとしてた様な。
何しようとしてましたか。私は。イッルに。
冷静になってみると、ものすごい事をしてしまった気がして、後ろを振り向けない。
腕に、額に、胸元に。まだ残っている彼女の感触と鼓動。それを思い出す。
いつものがざがざしたふれあいからは想像もつかないやわらかさと快さ。それを思い出してしまって、さらにイッルから体を離す。
頭にちらつく考えを追い払うように、無理やり目を閉じる。でも眠れるわけもなくて。
思うのは背中合わせに寝転ぶ相手のこと。
――イッルは、どう思ってるんだろう。
「ううー……」
うなり声とともに、背後のマットが沈み込む。イッルが私のすぐ後ろで起き上がる。
(……あ……)
心臓の音がイッルに聞こえてしまいそうで、思わず枕を胸に抱きしめる。今度は自分の鼓動だけ。
(……イ、イッル……?)
今度は自分の鼓動だけ。それが気恥ずかしくて、息を詰めたまま私は硬く目を閉じる。
「……フン」
ややあって、頭をぼりぼりとかく音。私の上にかかっていた毛布が乱暴に剥ぎ取られ、イッルがベッドから降りていく。
ころり、床の上にイッルが横たわる柔らかな音。かすかな呼吸の音が聞こえだす。
「……?」
音を立てないように起き上がり、そっとうかがう。床に毛布を敷いて寝転んでいるイッル。
しばらく見ていると、イッルが振り返り、そして私が見ているのを見て、慌ててそっぽを向いた。
(寝たふりかよ……)
……もしかして、照れてんのか? イッルはそっぽを向いたまま。
何だかほっとしながら、笑いが漏れる。
本当、しょうがないやつ。
でも、しょうがないよな。
(お前も私も、ヘタレだよなー……)
苦笑いを浮かべながら、唇だけを動かして、そう呟いた。
4.
翌朝。
「――イッル! このバカ!」
食堂のベンチに座ってぼーっとしている後頭部に向かって、駆け寄りながらスパナを投げつけた。ひょいと首だけを動かして、それをかわすイッル。
「お前だろ!? 私のストライカーどこにやったー!!」
「……お出かけに備えて暖めてゴザイマス。」
とぼけた顔のまま、イッルは手を上げ、部屋の一隅を指差す。その指差す先を見ると、そこには火がかんかんにおこった暖炉と、
「うっわー……」
そこに立てかけられて火あぶりにされてる私のストライカー。
「……おー、気が利くなイッル! そうだよなーストライカー冷たいと出撃のとき寒くていやだしなー足元冷える季節だもんなー。
おまけに暖機まで済んでるし、これでいつ出撃がかかってもあったか~♪ ……って熱過ぎるわぁ!!」
「……ノリノリだナニパ」
「あち、あち、おい! おま、どうすんだよこれ!? 下手すりゃオーバーホール行きじゃないか!?」
あまりのことに半笑いになりながら、ストライカーをちょいちょいと触る。
熱い。鉄板熱い。手で触ろうと何度か無駄な努力をした挙句、足でストライカーを蹴って横倒しにし、暖炉から引き離した。
「……なんでこんな事するんだ! ひどいじゃないか!」
「さあ……」
ふっ、とイッルが含み笑いを漏らしながら立ち上がった。
「何となく、って感じかナ……」
鼻歌を歌いながら食堂を出て行こうとするイッル。
「おい逃げんなコラ!」
そんな彼女を追って、私は走り出す。
そして──
「……え?」
床に転がったストライカーの一本に足を引っ掛けて、
「……ぐっ!」
よろめきながらベンチにむこうずねを打ち付け、
「~~~~~!!」
声にならない声をあげてうずくまった。
「あー……」
うずくまる私の元に戻ってきたイッルが、しゃがんで私の顔を覗き込む。
「……後半は、私のせいじゃないゾ」
「……分かったから、手を貸せ」
イッルに助けられてベンチに座り、すねを抱え込みながら痛みが引くのを待つ。治るのが早いとはいえ、痛さは人と変わらない。
「……ダイジョブか?」
「あー。治ってきた……」
イッルに呼びかけられて、足を二、三度軽く振る。よし、痛くない。
体を起こし、隣に座るイッルと顔を合わせる。
さて、と。私はすうっと息を吸い込み、
「──何すんだ馬鹿!」
「昨日帰ってこなかったお返しなんだナ!」
私とイッルは怒鳴りあう。
「どうすんだよストライカー直せなかったら! イタズラにしたって他にあるだろ!」
「他って、たとえば何ダヨ」
「もっと大人しめの、落とし穴とか! 金ダライとか!」
「……ほう? ニパはバイオレントな方面が好みカ」
「そんなわけないだろ! 何言わせんだ!」
あまりにも馬鹿らしい、いつものやり取り。二人とも目の下にクマができてることは口に出さない。
怒鳴りあいながら、私は安心する。今朝はイッルの顔をまともに見らないんじゃないかって心配したけど、今日も私とイッルはこんな感じ。
イタズラと私の不運のせいで、みっともないけど、気まずさは紛れた。
いつもどおりの私とイッル。ついてないのもたまにはいいさ。
「あら、おはようございます」
そして軽やかな挨拶とともに、エル姉が姿を現す。私とイッルが一緒にいるのを見て、顔をほころばせた。
「昨日はごめんなさいね……大声が聞こえたから、一体何があったのか気になって……
……あああいえいえ、何があったのかといってもですね……良いんですよその後のことは話してくれなくても……察しますから」
「……モウイイデス」
どう察しているのか、聞いてはいけない気がするけど、問い詰めてやりたくもある。
心もち熱っぽい目で私とイッルを見るエル姉。なんで私の周りはこんな人たちばっかりなんだ。
──さっきの訂正。ついてないの、やっぱり要らない……。
肩を落とした私に向かって、エル姉は、ああそうそう、と微笑みかけた。
「追加の寝具来ましたので、取りに来てくださいね」
「ほんとに?」
「ええ。それで探してたんです」
エル姉は廊下に向かって歩きだす。私とイッルはその後に着いていく。歩きながら考える。
(……何にしても、安心は安心かな……)
毛布でも寝袋でも、何でも。寝るところを確保出来れば。毎晩これだと心臓持たないし。今眠くて仕方ないし。
(……惜しい気もするけどさ……)
隣を歩いているイッルの顔をちらりと盗み見た。
「……はい! これです」
通用口に着くと、エル姉は誇らしげに腕を広げる。がっちりと組まれた木枠の中の、一塊の荷物。
「……なんか、小さくない?」
その、全員分の寝具にしては小さい包みに、ちょっとだけ違和感を感じた。
「……いやでも、寝袋ってたたむと小さくなったよな……」
「……ソウダナ」
そんな言い訳めいた言葉を発しながら、イッルと二人で荷物を取り出した。
「ん……?」
梱包の上に貼られた送り状に、見慣れない文字を認めて、私は手を止める。
「ああ、それですか? この中味、なんと扶桑製らしいんですよー」
「へぇ。珍しく奮発したのカナ」
「……そうか?」
うきうきと梱包を解いていくイッルをよそに、不運の匂いに敏感な私は、嫌な予感を感じ始める。
――わざわざあんなところから? っていうか寝具有名だったっけ。
紙でくるまれた梱包の紐を切って、包装紙を破る。中のビニールを破ると、その中から全くわからない文字で書かれた注意書きと、嗅ぎなれない匂い。
「コレカ……?」
「うん」
さらに寝具を包み込む、樹脂製のカバー。中身が分からないその上を、まず押してみる。手触りは寝袋よりも、さらにやわらかい感触。
「……」
何かおかしいとさすがに気づいたのか、口数ががくんと減ったイッルと顔を見合わせる。
「……開けるゾ」
「……おお」
頷きあってカバーの口を開け、中を覗き込む。顔をのぞかせたのは――
「……枕?」
「……枕だナ」
……いや枕足りてるから。もう要らないから。
おかしい。絶対おかしい。そう思ったとき、私の中のついてないセンサーが警告の叫びを上げ始めた。
「はい! 枕です!
……この枕はですねー。相手の方の要求に対して、ある種の事情というか心情を直截的に説明することにためらいを感じる、ニッカさんみたいにヘタレな方の心理をおもんぱかって開発された商品でしてー……」
頼んでもないのに始まったエル姉の解説を聞きながら、枕をカバーの中から引っ張り出す。その向こうにはまた枕。
……いくらなんでも中味が枕だけってことはないよね。寝袋とか毛布とか、ちゃんとあるよな。
自分を元気付けながら、枕を次々と引っ張り出し、後ろに向かって放り投げていく。
枕。枕。枕。カバーの中は、多分全員分の枕だけ。
少しだけ、気が遠くなる。軽いめまいが私を襲う。
……ああ、この感覚は良く知ってる。
墜落する時のあの感覚、なすすべもなく地面が近づいてくる時の感覚と、とても良く似ている。
「……なさりたいときはYESと書かれた面を上に、なさりたくないときはNOと書かれた面を上にしながら、眠るもしくは寝たふりをすることによって、婉曲かつダイレクトに意向を伝達し、スムーズにことに及んだり及ばなかったりすることが可能になりますから……」
エル姉の声を遠くに聞きながら、私は枕を引っ張り出し続ける。
枕。枕。また枕。かすかな耳鳴りが聞こえる。視界が暗くなる。どこかに向かって私は墜ちていく。
枕だらけの荷物の中を、別の寝具を求めてかき分け続け、ようやくその中に現れたのは、水色とピンクの文字がプリントされた、枕カバーの束。
「……これは、毛布じゃないよな」
私の顔に浮かぶ諦めの笑み。
「……ウン」
イッルも妙にきれいな顔で笑いながら、私に向かって頷く。
ひとかたまりにくくられたカバーの束を引っ張り出し、エル姉に示した。
「エル姉……」
にこにこと笑っているエル姉。墜落の衝撃はシールドで防げるけど――
「……これ、なに……?」
――この現実を、受け止めるのは、多分、無理。
「はい!」
ぽんっと手を叩き合わせ、花が咲くようにエル姉は笑った。
「YES/NOまくらです!」
「……」
その笑みを前に、私たちは立ち尽くす。
「これで今夜から、安心して眠ったり眠らなかったりできますよー?」
エル姉が朗らかに、私の希望に止めを刺す。
「エル姉……」
……ひどいじゃないか。
もうやだこの軍。
寝苦しい日々はまだ続きそうだった。
おわれ