無題
穏やかな昼下がり。
窓から入る涼しい風が、上気した頬を優しく撫で上げる。
ギシ、と背後でベッドが軋みをあげた。
「――エイラ」
甘く艶かしい吐息のような声が耳を擽る。
もう何度この行為を繰り返したのだろうか。
飽きる事のない拙い遊戯。
けれども勝者は何時も彼女で、負けるのは私。
私をじっ、と見つめる大きな瞳。
サラサラの前髪が風と戯れて泳ぐ。
ああ、やっぱり私の負けだ。
彼女の瞳に映る自分の顔が消える。
「また逸らす…」
ムッとした声が注がれる。
彼女は仰向けにベッドに沈む私の腰の辺りに更に深く座りこむ。
両の肩は押さえられ、身じろぎ一つ取れない。
時折、30㎝と離れない場所から彼女の甘い息が頬を撫でていく。
ゴクリと唾を飲む音がイヤに大きく聞こえる。
我慢出来ずに戻した視線に彼女は微笑みを零す。
……さて問題です。
何故に私、エイラ・イルマタル・ユーティライネンはサーニャにマウントポジションを取られているのだろうか?
事の始まりは数時間前、眠りから目覚めたサーニャの髪を梳いていた時まで遡る。
◇
少し癖のある、けれども決して自己主張し過ぎない銀色の髪。
寝起きにてふらふらと揺れるサーニャの着替えを手伝う。
その後、サーニャをベッドの縁に座らせ、私はベッドに座る。
そうして私はサーニャの髪に櫛を通す。
ゆっくり、ゆっくりと。
丁寧に、丁寧に。
そうして後頭部を梳き終えると、次は前髪の番。
ベッドから下りてサーニャの前へと回り込む。
「前髪、やるからな。目、閉じてて」
「………ん……」
うっすらと開いた瞳。
起きた事により体温が上がってきたのか、ほんのりと色付く頬。
ほにゃっと笑うサーニャに、私は毎回ドギマギさせられる。
今日も声は上擦ってなかったかな?
サーニャに変だなって思われなかったかな?
ドキドキと五月蝿い心音を宥めすかし、私はサーニャの前髪を梳く。
何時もならこれで終わり。
サーニャを連れて遅目の朝食へと向かうのだが、ふと気付いた事があったのだ。
「…サーニャ。サーニャ」
「………ん…ぅ……」
無防備なサーニャ。
私は毎度、その華奢な身体に触れる事が躊躇われる。
サーニャの為、と無意識にはいくらでも出来る事も、一度意識してしまえばそこがタイムリミット。
私には、意識的にサーニャに触れる事は出来ないらしい。
ベスト・ヘタレ・オブ・ジ・イヤー。
頭の中で、ちっちゃい私達がそんなことをステレオにて宣言する。
……二の句もない。
「サーニャ、起きて」
「………エイラ…どうしたの…?」
小さな欠伸を一つ零し、サーニャは首を傾げた。
うん、やっぱりそうだ。
「サーニャ、そろそろ…髪、切ろうか?」
「……………」
髪…と呟きながらサーニャは自分の前髪を摘む。
目を覆い隠すまでには到らないまでも、そこそこ伸びていることは明らかだ。
サーニャは何やら考えるているのか、しばらくそのまま前髪をいじっている。
チラチラとこちらを見る理由は分からないけれど、私はサーニャが答えてくれるまでそのまま待った。
「…エイラは……髪、長いのと短いの、その、どっちが好き…?」
やや間の開いた後、サーニャは前髪から手を下ろし、両手で指を合わせながら尋ねる。
……なんでいきなりそんな事を聞くのだろうか?
質問の意図はよく分からなかったが、何だか上目遣いにこちらを見るのだから、答えない訳にもいかない。
私は少し悩んだ後、正直に話した。
「短い方が好き、かな……動き易そうだし」
スオムスでは何故か私が髪を切ろうとすると嫌がられた。
というかニパや他の同僚に涙ながら懇願された。
最終的には髪を切るなと隊長命令だ。
……未だに訳がわからない。
そんなことを考えていたら、サーニャに思いっ切りジト目で睨まれていた。
……あれ、なんで?
「はぁ…もういい。エイラが切って」
「………ふぇ?」
変な声が漏れた。
いやだってムリダロ。
切るんだぞ?
サーニャの髪を、だぞ?
「さ、サーニャ?ほら失敗したら大変だし…何て言うか、その」
「エイラ、前にニパって人の髪切ってやったんだって話してた」
うぐ、と言葉に詰まる。
そういえばそんな事を話したような話してないような。
ザマーミロとニヤつくニパの顔が脳内を横切る。
…ちっちゃい私達、やっちまえ。
「……嫌なら…いいよ。エイラ、ご飯食べにいこ」
スイッと私から視線を逸らすサーニャ。
どうしよう。
どうすればいいのか分からず、パニックに陥る私。
けれど、身体はどうすればいいかをかなり素直に理解しているらしい。
「……エイラ?」
サーニャの声にハッとする。
見れば、私の手はサーニャの手を掴んで引き止めていた。
目をまんまるにして驚いているサーニャ。
でも、こう…アレなんだ。
押して駄目なら引いてみろって、効果は絶大だと思うんだ。
「……やる」
「……本当?」
ん、と呟く様に返す。
どこか気恥ずかしくて目線が合わせられない。
我ながら大胆な事をしてしまった。
もはや私のヘタレメーターはオーバーロード寸前。
道具取ってくる、と言い残し私は急いで部屋を出た。
とりあえず走って気持ちを落ち着かせよう。
だから、部屋を出る時に「さすがリネットさん」とか聞こえたのも全部気のせいだと思うことにした。
◇
散髪道具と一緒に持ってきた遅い食事を食べ終え、いよいよこの時がやってきた。
右手にはハサミ。
左手には櫛。
凄まじいプレッシャーに身が凍りつく。
こんなことならリーネに教わっとけばよかった。
色々と困り果てるこの状況。
脳内ちっちゃいエイラ会議でも激論が飛び交う。
そんな中で、一人のちっちゃい私が立ち上がった。
静まる他のちっちゃい私達。
そして立ち上がったちっちゃい私は高らかに宣言した!
『オール・ハイル・サーニャ!』
……………うむ。
とりあえず私は深く深呼吸を行った。
「……サーニャ。いいか?」
「……うん」
なんだか色々と考えるのも面倒になったのだが、おかげで随分と気が楽になった。
ハサミを置いて、手が自然とサーニャの髪に伸びる。
ケープを巻いたサーニャの後ろから、手で髪を数度梳いては流す。
軽く毛束を掴んでは櫛を通す。
サラサラと手から零れ落ちる髪。
幾度となくそんな行為を繰り返し行ってゆく。
「エイラ、くすぐったい」
「こーら。サーニャ、動かない」
くすくすと笑うサーニャにつられて、私も笑みが零れる。
毛繕い。
そんなイメージが一番近いだろうか。
もっとも、流石に舐める訳にもいかないけれど。
私は霧吹きでサーニャの髪を湿気らせてゆく。
水分を含んだ髪を一束掴み、櫛を入れる。
ちょき…ちょき…
そうしてゆっくりと切ってゆく。
櫛を捻りながら、一束ずつ、ゆっくりと、ゆっくりと。
流れる時間はどこまでも緩く、一定の間隔をもってハサミの音だけが室内に響く。
「………エイラ」
「………うん?」
櫛先から切り落とされた髪が舞い落ちる。
陽の光を受けて、輝きながら舞い落ちる。
ちょき…ちょき…
髪を梳いて切る。
言うなればただそれだけの作業。
けれど、なんと言うのだろうか。
私は普段とはまた違う、とある感情を少しだけ持て余していた。
なんと言えば良いのだろうか。
呼び名の分からない感情。
それは決して不快なものでもなく、そう…ただ、どうしてよいか分からない。
「………幸せ、だね…」
ちょき……
ハサミの動きが止まる。
今、サーニャはなんと言ったか。
「……エイラ…?」
「……私も、だ」
ストンと、胸の奥で何かが噛み合わさった気がした。
急に動きが止まったからだろうか、不安そうなサーニャに、私は二度、三度と頭を撫でる。
ああ、そうか。
この気持ちは、そうなんだ。
「……私も、幸せ、だ」
噛み締める様に、口の中でもう一度繰り返す。
しあわせ。
口元が緩んでいるのが分かる。
ちょき、ちょき…
ややあって、再びハサミの音が室内に響き渡る。
――サーニャ、ありがとう。
――どうしたの、エイラ?
――私と出会ってくれて、ありがとう。
――私の方こそ。エイラ、出会ってくれて、ありがとう。
互いに無言。
けれども、私達は話し続けている。
話さなくてもサーニャの考えてる事なら分かるよ。
…時々分からなくなるけど。
「……それは、エイラが鈍感だから」
ぼそっ、とサーニャが文句を言う。
私は数度瞬きを繰り返した後、堪え切れずに笑いを漏らしてしまった。
ゴメンね、サーニャ。
嬉しいよ、サーニャ。
ちゃんと私達、分かり合えてるんだ。
なんで笑うの、と振り向くサーニャの耳元にそっと口を寄せた。
「……前髪、切るな」
「……ん…ぅ…」
砂糖菓子の様な甘く魅惑的な香りが鼻をくすぐる。
代わりに私の吐息がサーニャの耳をくすぐった様だ。
ビクンとサーニャの身体が揺れた。
サーニャの前へと回り込む。
むぅ、とジト目で睨まれてしまった。
けれど、それも長くは続かない。
「……ふふ」
どちらからとなく笑いが零れる。
それはまるで、子猫と子狐のじゃれ合い。
私はサーニャの耳に掛かる髪を払う。
「目、閉じててな」
「……うん」
…ちょき、ちょき……
ハラハラ、ハラハラ。
舞い落ちる髪がそよ風と共に宙を踊る。
素直に閉じられた瞳。
穏やかなサーニャの顔に笑みが浮かぶ。
「なんで笑うんだよー」
「ふふ、エイラだって笑ってる」
言われてみれば。
ちぇ、敵わないなー、と一通り切り終えた髪を櫛で揃えてゆく。
お返しとばかりに、顔に張り付いていた髪にふぅ、と息を吹き掛けて落とす。
驚いてこちらを見るサーニャと視線が合う。
もしも尻尾が出ていたなら、私は不満です、とたしたしと私を叩いていたかもしれない。
ほんのりと色付いた顔でぷい、と視線を逸らされてしまった。
――今回は私の勝ちだよ。
――エイラ、ズルイもん。
理由は分からないけれど、どうやらお気に召さなかったらしい。
ゴメンな。
怒らないで、サーニャ。
私がしゃがんでサーニャと視線を合わせようとすると、ケープの下からサーニャの手が伸びてきて、私の顔を固定する。
「………」
「………」
じっ、と見つめ合う。
サーニャの瞳に吸い込まれていきそうな感覚に陥る。
ああ、でも…それもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、サーニャが呆れた様に口を尖らせる。
「…やっぱり、エイラはズルイよ」
私の頬を撫でる様にして下ろされたサーニャの両手。
柔らかな指がケープの下へと再び隠れる。
静かに閉じられてゆく瞳から、私の姿が消える。
「……仕上げ、するからな」
細かな所を徐々に、徐々にと切り揃える。
始めてから、どの位の時間が流れただろう。
一瞬の様な、永久の様な。
それでも…ああ、これで終わりだ。
…ちょきん
最後の音が大きく響く。
ハラリと床に散った髪を見送った。
……うん、我ながら上手に出来たかな?
最後の仕上げとばかりに、私愛用のブラシでサーニャの髪を丁寧に梳いて終わる。
「…ん、終わったぞ、サーニャ。どうかな?」
私はケープを外して、手鏡をサーニャに手渡す。
後片付けをしながらチラリとサーニャを盗み見ると、何やらじっ、と手鏡を見つめているみたいだ。
……も、もしかしてどこか気にいらなかったのか!?
冷や汗が背中をキンキンに冷やしていく。
が、時間とサーニャに待ったは通じなかった。
「………エイラ」
「…はいっ!」
勢い余って直立してしまった。
そのまま、ゆっくりとサーニャの方を見る。
しかし、そこには何やら首を傾げたサーニャがいた。
……あれ、怒って…ない?
とりあえず手招きをするサーニャの前へと向かう。
「…エイラ、ありがとう」
「え、あ…ああ。なんてこと、ないって……あの…サーニャ…?」
サーニャの前にしゃがみ込むと…ふとデジャヴを覚えた。
しっかりと両手で固定された私の顔。
少し意地の悪そうな笑顔のサーニャが、視界いっぱいに広がっている。
ごくり。
生唾を飲む音が耳を突いて響く。
その愛らしい瞳に吸い込まれる。
私が、瞳が、ココロが。
くりくりとしたサーニャの瞳に取り込まれていく。
――ふい。
…ああ、ムリだ。
顔が沸騰するかの様に真っ赤になるのが分かる。
けれど、無下にサーニャの手を振り払える訳もなく、目だけをサーニャの視線から外すだけで精一杯。
そんな私に、何が可笑しいのか、サーニャがくすくすと笑いながら呼びかける。
「エイラ。どうして目を逸らすの?」
「…いやぁ、その……えっと……」
視界の端で動く何か。
チラリと視界を戻すと、さっきより大きく感じるサーニャの顔。
……待て。
いくらなんでも近すぎでは……
くすり、と笑うサーニャの吐息が鼻をくすぐった。
「あ、あああのっ、サーニャ近すぎ…うわ!?」
「……あ」
ボスンとベッドに沈む身体。
慌てて立ち上がった拍子にバランスを崩して、すぐ後ろにあったベッドに倒れ込んでしまったのだ。
ドキドキと高鳴っていた鼓動に今更気付く。
熱にうなされた様に視線が揺らぐ。
なのに
「……なんで逃げるの、エイラ」
腰に乗る暖かな感触。
ギシリと軋むベッド。
逃がさないよ、とばかりにちょこんと両肩に下ろされた腕。
ムッ、とした様な、笑っている様な声。
そして……ああ、やっぱりムッとしてる……ツン、と口を尖らせたサーニャの顔。
――逃げたら嫌だよ、エイラ?
――いや、でも…恥ずかしい……
――……エイラさん、エイラさん
――…?
――睨めっこしましょ、逸らしちゃヤダよ、じっと見て?
以前、確か宮藤がリーネ達とやってたのを覚えている。
でも、あれは視線を逸らさせるゲームだったのに……
「………ぁぅ」
「また逸らす…」
目を顔ごと逸らす。
きめ細やかなサーニャの腕が視線いっぱいに広がった。
髪を少し切っただけなのに、サーニャの顔が見える範囲がほんの少し増えただけなのに、サーニャの魅力が格段に増してしまった様に思える。
だけどやっぱりサーニャの顔をチラリと見てしまうのは、サーニャが愛らし過ぎるから。
何故サーニャはマウントポジションを取って私を押さえているのだろう。
……毛繕いを終えた黒猫は、ちゃんと綺麗になったのか褒めて欲しいのかもしれない。
……他に思い当たらないし。
意を決してサーニャに向き合う私。
なのに、振り向いた先には驚いた様に目をパチクリと瞬いたサーニャの目。
……何をしようとしていたのか、鼻が触れ合いそうな距離にあったサーニャの顔。
ゴメンね、サーニャ。
私、ギヴ……
意識が遠退く私。
何故か桃色の空間に沈み落ちて行く前に、どこかで、はぁ…と呟く声を最後に聞いた気がした。
◇
数時間後、私が目を覚ますと、何故かサーニャの他にリーネや宮藤、シャーリーにミーナ隊長までもに囲まれて、延々て身に覚えのない、というか何の話しか分からない説教を受ける羽目になった。
……さーにゃぁー、なんでため息吐いてるんだよぅー。
その問いに返ってきたのは、その場全員からのジト目の視線。
な、なんだよ…?
ワタシヲソンナメデミンナー!!
窓から吹き込んだ柔らかな風が、床に散っていたサーニャの髪を巻き上げ、悪戯っ子の様に私の頬をくすぐった。
おーわり