えりたん! その2
不思議な気分だ。そう彼女は言って、少し引きつったような笑顔を浮かべた。どうしてですか。そう言わん
ばかりに彼女を見返すと、いやあ、何と言うか、その、と言葉を濁す。
ううう。
途端に漏れる、微かな呻き。それはすっかりと片付いたその空間に予想外にも大きく響いたから、私も彼女も
ついビクリと肩を震わせてしまう。もぞもぞと動くベッドの上の、毛布にくるまれたその中の塊。いよいよ羽化の
瞬間を迎えるかに思われたその蝶だか蛾だかは2・3度またもぞもぞと動くと、私たちの期待を見事に裏切っ
て、再び動きを止める。
はあ、と。大きな溜め息を吐いたのはあちらの方だった。びっくりさせるよな、もう。そしてまた、あの少し恐れの
見え隠れする不思議な笑顔をこちらに浮かべるのだ。
私も不思議な気分です。
そう、口にしたら一体彼女はどんな顔をするだろう。あの奇妙な笑顔を再び浮かべるだろうか。それとも、
困った顔をするだろうか。私にはどうも、予測しがたい。
私が今、所属している北欧スオムスから、私の姉が今、活躍しているこのブリタニアにたどり着いたのは今朝
のこと。ストライカーユニット及び銃器の補充。また、フリーガーハマーの視察。彼女の上官にそう一応の
伝達はしたはずだけれど、あの茶目っ気のある笑顔の姉の上官は何を思ったか、むしろ何も思わずすっかり
と忘れてしまっていたのか、部隊のメンバーにそれを通達していなかったようなのだった。おかげで飛行機か
ら降り立った瞬間大わらわ。やれドッペルゲンガーだ、ついに分身しただなどとまるで嵐のような噂がたち
どころに舞い上がって城のような風貌の基地をぐるぐるとひっかき回していった。もっとも、一番大騒ぎして
いた茶髪と黒髪のウィッチは、最終的に誰かの拳骨を食らったようでそのうち頭を押さえて黙りこくってしまった
のだけれど。
通された執務室らしき部屋で私ははじめて姉の上官をみた。かつての手紙で彼女が褒めて称えてはばから
なかった、そのウィッチを目の前にした。傍らには黒髪で眼帯をした、たしかサカモトとか言うウィッチがいた
けれど私の目はその赤色に釘付けで。そんなに見つめられたら穴が開いてしまうわ、と彼女に言われるほど
だった。
(ごめんなさいね。フラウ…エーリカ中尉はまだ眠っているの)
(そうですか)
(きっとお昼過ぎまで眠っているだろうから、くつろいでいて。基地を案内してもいいし)
(いえ、いい、です)
(あら、そう?)
人当たりのいい、その笑顔がまっすぐに私を射止める。見透かされたような心地になって、思わず目を泳がせ
…ようとして、できなかった。だってもう、私の瞳は彼女の赤い色に見えない釘で打ち付けられていたのだから。
(じゃあ、あなたのお姉さんの部屋に行きましょうか。いま、ちょうどいい具合に散らかっているのよ。)
ミーナはすごいんだよ。かつて、手紙に書かれていたその文句が、たやすく耳の奥で、姉の声で、再生された。
*
「調子が狂うな。なんだか、フラ…エーリカが、部屋の掃除をしているみたいだ」
本当に、そっくりなんだな。
ははは。乾いた笑いとともに部屋に響いたのは、今度は彼女──ゲルトルート・バルクホルン大尉の声だった
。茶色い髪をしたその彼女は、エーリカの手紙の中で何度も目にした「トゥルーデ」その人なのであろう。茶色く
て、二つに下げた髪。けれどどこか不自然さを感じるのは、エーリカがいつもいつも書き連ねる「口うるさい」だ
とか「くどい」だとか、そういった部分がすっかり鳴りを潜めているからで。だってこの人ときたら、私がこの部屋
にやってきてからというもののずっと、ほぼだんまりを決め込んでいたのだ。
ぱん、ぱん、と。落ち着かない様子で体についたほこりを彼女は払う。部屋を見渡したらすっかりと片付いて
いて、いまそこで眠っているエーリカが目を覚ましたら相当にいやな顔をするのではないかと思われた。あれと
きたら全くもって不可思議な性格をしていて、散らかった場所のほうが落ち着くなどとのたまうのだ。それは
小さいころからの彼女の性質で、バルクホルン大尉によっておおかた片付けられてはいたものの彼女の
散らかし癖の名残はその部屋の雰囲気から如実に感じられて、私はエーリカが、私の知っている彼女その
ままであることに非常に安心を覚えたのだった。
そう、ヴィルケ中佐に伴われてたどり着いたエーリカの部屋では、どうしてかもう一人の人物が黙々と作業を
行っていたのだった。ご苦労様、トゥルーデ。そう言われて顔を上げたその人物の、あんぐりした顔が私は
今も忘れられない。ふふふ、と楽しそうな笑い声を上げたヴィルケ中佐の目的は、もしかしたらこれであった
のではないかと思われるようなほどの、その反応。
ふらう?
毛布にくるまれた何かの塊を、つい今しがたベッドに乗せなおしていたところだった彼女は、大事そうに抱えた
それと、扉のところにいる私とを交互に見返してやっとそんな呟きをもらした。それはおそらく、私の姉に対して
呼びかけられたもので、そしてそれは私の知らない呼称で。先ほどヴィルケ中佐もこぼしていたそれに、
なんともいえない不思議な気持ちを抱いた。だって、そこには私の知らないエーリカの世界があったのだった。
私の姉は本当に、昔から相当にずぼらなひとで、私は彼女のそばにいつもいて、彼女の世話を焼いてやる
のが常だった。そんな性格をしている割に、彼女はずいぶんと器用で、類まれなありとあらゆる才能を持って
いて。しかもそれをひけらかしても人に疎まれることのない、愛嬌さえ備え持っていた。いまだって、ほら。
おじょうさん、なんて呼ばれてこんなにもかわいがられていて。けれど本人はそんなことさえ気づかないで
ぐっすりと、夢の世界で幸せに暮らしているのだ。
(フラウはそこでしょ、この子は、ウルスラ・ハルトマン。知っているでしょう?フラウの妹さん)
ヴィルケ中佐にそういわれて、ようやっとバルクホルン大尉は我に帰ったように目を細めた。ああ、うん、
ああ、そうか。うめき声のような呟きをもらして、ようやっと腕の中のそれをベッドの上に下ろして。ウルスラか、
よろしく。なんて言いながらあの、奇妙な笑顔を浮かべたのだ。
そしてそれは、今も彼女の顔に張り付いたままで。
「しらなかった。二人でやると、早いんだな」
「そうですね」
「…エーリカは、まあ、戦力にならないし」
「そうですね」
「その…手伝ってくれて、ありがとう」
「…いえ」
エーリカも大喜びだと思うよ。助かった。
私の逡巡に気づかず、重ねられる言葉にどこか怒りや、寂しさにも似た感情がわくのはどうしてだろう。この
状態の、何をエーリカが喜ぶというのか。散らかすのが大好きで、世話をかけるのが大好きで。だから私は
ずっとずっと、別れるそのときまで彼女の世話を焼いていた。それは別に私が望んだからでも、命令された
からでもなくて、ただそうしなければいけないのだと思ったからだった。そう、私を見つめたまま突っ立って
いたバルクホルン大尉をよそに、私がエーリカの部屋の掃除を始めたのは別にバルクホルン大尉のため
ではないのだ。そしてエーリカのためでもない。ただ、そうしなければいけないと思ったからそうした、それだけで。
このひとは、かつての私と同じだ、と思った。
損得勘定とかではなくて、ただ妙な使命感に駆られているから彼女もまた、私と同じようにエーリカの世話を
焼くのに違いない。そしてそれは自分ひとりに許された特権なのだと思い込んで、心のどこかで鼻高々に
なっているのに違いない。そう、かつての私と同じように。その昔私に許されていたその特権を、彼女が今
知らず知らずのうちに持っている。きっと、胸に沸くこの不思議な気持ちはそんな嫉妬心から来ているのだ。
もしも私とこの人、どちらかを選べといわれたらエーリカはどうするだろうか?ふと、そんな疑問が頭をもた
げる。そんなことを考えてしまう自分がなんだかすこし情けない。それでもやっぱり、私の居場所であった
そこに別に誰かが座しているのを見るのは、とてもとても寂しいことなのだ。そんなこと本人に向かっては
決して言えないけれど。
今すぐエーリカが目を覚ましてくれたらいいのに。だって彼女ときたら私の思っても見ないような答えを、
ひょいとたやすく導き出してしまうのだ。マニュアルの表にないその裏まで見透かして、まるでポケットから
ハンカチを取り出すような気軽さで差し出してくる。
「不思議な気分だよ、本当に」
ぽつり。彼女の声として、私の心のつぶやきとして。今日何度聞いたかわからないその呟きを、私は再び聞く。
ふしぎなきぶんだ、ほんとうに。どうしたらいいのかわからないのだ。
そうですね。当たり障りないその答えを、私は繰り返す。ほかになんと答えたらいいものか、もうわからなく
なってしまった。私がエーリカの何であるかも、どうして自分はここにきたのかも、ぜんぶ、ぜんぶ。妙に泣き
たい気持ちになって、でも泣くわけにはいかないからうつむいたら、その頭にふわり、と柔らかな触感。思わず
「え、」と声を上げて見上げたらそこにはバルクホルン大尉の手があって、けれどもそうした彼女のほうが
よっぽど驚いた顔をしていた。
「あ、いや、その…なあ、ウルスラ?………もうちょっと、力抜いてもいいんじゃないか?
…そこのハルトマンは抜きすぎだが…
その、誕生日くらいは、少しぐらいだらけたり、わがままいったり、してもいいんと、思うんだ」
エーリカもおきたらそういうと思う、絶対。
恐る恐る続けられるその言葉に、私は彼女の本意を見て目を見開く。…エーリカの代わりとか、私の代わりと
か、この人は、決してそんなことを考えていたのではなかったのだと。
ただ、彼女は、彼女なりに私のことも、エーリカのことも、気遣ってくれていたのだ、きっと。エーリカによく似た
人物としてではなくて、ただひたすらに、ウルスラ・ハルトマンとして。
換気のために開け放した窓から、美味しそうなにおいがもれてくる。これは、今晩のために特別に用意された
ものなのだろうか。姉のために、もしかしたら、私のためにも。
おそらく気の弾みで伸ばした手を引き戻せずに、あやすように私の頭の上で動く手がある。…ああ、もしか
したらエーリカは、この人のこんなところを好いているのかもしれない。優しくて、でも不器用なところを。
「…ハルトマン、いや、エーリカが起きたらまとめて言おうと思っていたんだが、起きないならしかたないな。
…誕生日おめでとう、エーリカ、ウルスラ」
「ありがとう、ございます」
本でも読んでやろうか、恥ずかしいものだが、朗読は案外得意なんだぞ。
そう促してくる彼女に甘えるように、私は姉の脇に入り込む。かつてよくそうしていたように、彼女から毛布を
半分奪って。それでも起きる気配がない姉は、本当の本当に大物だ。
むかしむかし、あるところに…
聞こえてくるのは懐かしい、枕元でのささやき。そういえば小さいころ、こうして二人で寄り添って、母様に
物語を読んでもらった。
心地よいぬくもりと優しい言葉につつまれて、私の意識はかすかに赤みを帯び始めた外の景色にとけていった。
その2・了