愛娘
『今年は帰れそうにありません。ごめんなさい。』
エーリカからの手紙は、そう締めくくられていた。
お昼前のひととき。所在なくキッチンの椅子に腰を下ろし、私は時間を持て余していた。
居所の悪いては自然と、届いた手紙に伸ばしてしまっている。
読みはしない。眺めるだけだ。
読み返した回数は既に、足の指を加えても足りないくらいなのだ。軽くそらんじられる。
それでも暇さえあればついそうしてしまうのは、やはりそれだけ嬉しいものだからだ。
一体自分が今、どんな表情をしているのか、とても人には見せられたものではない。
けれど、結びの言葉が目に入り、そこで表情は渋いものに変わる。
今年は帰れそうにありません。ごめんなさい――口のなかで呟いてみる。
“は”ではなく、“も”だろう。
そう毒づきたくもなるというものだ。
一昨年は「どうしても有休が取れない」、去年は「禁固刑になった」、
そして今年の理由は「風邪をひいた」。酷いものだ。学校を休むんじゃないんだから。
年々ぞんざいになっていっている気がするのは、私の気のせいだろうか。
消印を見ると、投函日はもう2週間近くも前とある。優に治るでしょうに。
とは言うものの、たとえ風邪でもこじらせたら事だ。
九分九厘嘘だとは思いつつも、万が一にも本当だとしたら――そう思わずにはいられない。
とりあえず「4月とはいえ、まだ寒いでしょう」、「お大事に」と返事の手紙を書いたけれど、
果てしてちゃんとやっているのだろうか、どうにも心もとない。
ここ最近の情勢からして、ちゃんと届くかも怪しいものだ。
今年は帰れそうにありません。ごめんなさい――口のなかで呟いてみる。
一体いつになったら、家になってくる気になるのかしら。あの子ときたら――
元気でさえくれればいい。そう思う気持ちがあるのはたしかだけれど。
でも、たまには顔くらい見せてくれてたって――そう思うのが親心というものだ。
いつまで経っても子離れができない。そうそしられようと、かまわない。
お腹を痛めて産んだ私の子たちなのだ。可愛くないわけがない。
それを可愛がることの、一体なにが悪いというのだろう?
今年は帰れそうにありません。ごめんなさい――口のなかで呟いてみる。
いくら読み返したところで、文面が変わるわけでもない。ただ虚しいだけの行為だ。
頭ではわかっててもそうしてしまうのだから、もはや手に負えない。
――もう考えるのもよそう。心のが暗い方へ方へと傾くばかりだ。
私にできるのはただ待つことだけだ。だから待っていればいい。待っているだけだ。
手紙を畳んで封筒にしまって、食器棚の上にそっと置いた。
私は深く座り直し、壁に背をあずける。
窓から差し込む光はまぶしい。春の陽気にふいに意識を誘われてしまいそうになる。
そうして次第に、なんだかうとうとと。私はそれに抗うすべを持たない。
私はまどろみの中、夢を見る。
過ぎ去ってしまった時間。懐かしい風景。家族の肖像。
もうそこに戻ることはできない。
それはまだ第二次大戦が始まるよりも前のことだ。
今はもうない、ヴァイザッハの家。我が家と呼ぶべき、思い出の家。
ダイニングに鍋を抱えて行くと、聞こえてくる。
カンカンカンとスプーンでテーブルを叩く音。たちまち大合奏。
――やめなさい、エーリカ! ウルスラ! 今よそってあげるから。
蓋を開けると、湯気と匂いが私たちのまわりを満たす。
クリームシチュー。お世辞にも料理が得意ではない私の、得意料理と呼べる料理。
クリームチーズの酸味がきついから、ハチミツを加えて食べやすくしてある。
はい、ウルスラ。はい、エーリカ。
それに、父様の分に、自分の分……すべてよそって、そうして私も、自分の席に腰を下ろす。
4人の食卓。全員集合。
いただきますの声があがる。
――あなた、食事中くらい新聞を読むのをやめにしたら。ウルスラが真似するでしょう。
――エーリカ! ウルスラの分も取っちゃダメでしょ。
――ウルスラもあげないの。ちゃんとブロッコリーも食べなさい。
いつまでも見ていたい夢だった。
けれど、私は目を覚ました。
ゆっくり開いたまぶたから薄ぼんやりと目に映るものがある。
壁に掛った日めくりカレンダー。
日付けは4月19日。
それはとても特別な日。だから赤のペンで花マルにしてある。
今日は父様は仕事でいない。だから、私一人で過ごすことになるかもしれない。
13回目にして初めてのことだ。
もしそうなったら――そう思うと身の毛がよだつ。それは声の出せない恐怖だった。
ケーキだって用意してあるのというのに。
ホールのケーキを一人で食べるなんて考えたくもない。もし食べ切れても、その後が怖いんじゃないの。
もういい。もう一度眠ろう。
できればまた同じ夢が見れますよう――
その時だった。
チャイムが鳴った。
私の意識は早急に呼び戻され、たちまち覚醒する。
不穏な臭いが鼻につく。鍋を火にかけたまま、すっかり忘れてしまっていたのだ。
嫌な予感がする。確信と言っていいほど、かなり強く。どうしようか、私はためらう。
そしてまた、チャイムが鳴らされる。
火だけを止めて、焦げついていないことを祈りつつ、私は早足で玄関へと向かった。
「どなた?」
覗き穴から確認することなく、私は玄関のドアを開ける。
誰だかはわかっている。すっかり私の心は弾んでいた。
――けれど、その見当は外れていた。
思わぬ来客に意表をつかれた格好になる。
なんだというのだろう、この子は――
そう思わずにはいられない。私の表情は図らずも、憮然としたものになってしまった。
まあいい――なにか考えがあってのことなのだろう。
だったら私も、それに相応しい出迎えをしよう。
待ちに待った我が子の帰省なのだ。いつまでもこんな顔では似つかわしくない。
しかめていた眉を改めて、私は笑顔で娘の帰りを出迎えた。
「おかえりなさい、エーリカ」
「ただいまーっ」
エーリカは家に入るなり着ていた厚手のコートをもごもごと脱ぎ出すと、さっそく床に投げ捨てて、
簡単に我が家を蹂躙していってしまう。
やれやれ。私はそれを拾い上げて、その後ろ姿を追った。
もうこの子も十代も半ばだ。何年も会っていなければ、すっかり容姿も見違えてしまっている。
とはいえ、胸や腰回りの発育はよろしくない。悲しいかな、これは遺伝なようだ。
「あれ?」
と、扉を開けて、間の抜けた声をエーリカは出す。
「いきなりトイレに用事?」
私が皮肉を言うとエーリカは、あはは、と笑った。
「ごめんごめん。1年ぶりだったから」
「そう」
「それより私、お腹空いた」
「あっ」
いけない。まただ。鍋のことをすっかり忘れてしまっていた。
「もう準備してあるから。待ってて」
私はそう言い、一人キッチンへと向かった。
カンカンカンと懐かしい音色がする。
けれど、それは独奏。寂しい響き。
「わあ。母様のシチューだー」
エーリカはぐるぐるとスプーンでシチューをかき回す。
私はテーブルに頬杖をつき、それに見とれていた。
エーリカはせっせとスプーンを口に運び――ふいに手を止める。
「どうかしたの?」
私は微笑みかけて、訊ねてみた。
「――ううん、なんでも」
もぐもぐと咀嚼しながら言うエーリカ。
そしてまた、がっつき出す。
この子のこんなところを見れるなんてね。私はすっかり嬉しくなっていた。
「おかわりはどう?」
「うん。でも、母様は食べないの?」
「なんだかあなたの顔を見ているだけで、もういっぱいで」
これはどうしようもない本音だ。エーリカは一瞬だけぽかんとして、すぐに照れくさそうに笑った。
ウィッチに志願する。
エーリカがそう言い出したのは、彼女がまだ十歳の時だった。
父様のような立派な医者になりたい、そう言っていたエーリカの口から聞かされた言葉に、
私の胸中はとても穏やかなものではなかった。
それでもそれを容認してしまったのは、どんな言葉を尽くしても、止めることは無理だと思ったから。
この子にウィッチとして才能があることは、幼い時分から知っていたことでもある。
みんなのことをを守りたい。その決心を私は誇らしくすらあった。
私も、ウィッチに志願する。
ウルスラがそう言い出したのは、そのすぐ後のことだ。
母様のようなウィッチになりたい、そう言っていたウルスラの口からも、
そう聞かされることになるのは必然だった。
私はそれを、とても容認することはできなかった。
――あなたまで行ってしまうの。
そして私は言ってしまった。
――行かないで。
この子だって胸に秘めた思いは、エーリカと変わらなかったはず。
それでも私が引き止めてしまった。
――母様、どうして?
その問いかけに、私は答えられなかった。
どうしてだったのだろう? 今でも私には、その答えが出ないでいた。
けれど、ウルスラは思っている。私が姉様と違って……と。
羨望、嫉妬、劣等感。ウルスラがエーリカに、そうした感情を抱いていたのは私にもわかっていた。
それなのに私は引き止めてしまった。
今さら謝ることはできない。それは認めてしまうことでもあるからだ。
ウルスラは家出するように行ってしまった。
「どうかしたの、母様? ぼーっとして」
昔のことを思い出していた私に、エーリカが訊いてきた。
なんと答えるべきか、私は言葉を探して、沈黙する。
その時だった。
チャイムが鳴った。
エーリカはビクリと体を震わせた。
「あら、誰かしら」
そうは言うものの、見当はついていた。
私は立ち上がり、玄関へ向かおうとした――と、その前に。
「逃げちゃダメよ」
念のため、釘を刺しておく。
「なんのこと?」
と、エーリカは首をかしげる。さて、なんのことでしょう?
「どなた?」
覗き穴から確認することなく、私は玄関のドアを開ける。
誰だかはわかっている。心の弾みは一塩だった。
待ちに待っていた――私は笑顔で娘の帰りを出迎えた。
「おかえりなさい、ウルスラ」
「ただいま」
ぽつりつぶやくようにそう言うと、ウルスラは家に入ってくる。
「ちょうどよかった。私たち、ずっと待ってたのよ」
すたすたと歩き出すウルスラ。私は遅れないように、そのすぐ後について歩く。
ダイニングの扉を開けると、そこにはちゃんとエーリカが座っていた。
「「どうして?」」
声が重なりあう。
ウルスラとエーリカはジロジロとお互いを食い入るように伺いあっている。
おかしな子たちね。
まるで鏡合わせのようでいて、けれどそれは、別々の二人の人間なのだ。
「どうかしたの?」
そう訊くと、二人は私の顔を食い入るように見つめてきた。
「ううん、なんでも」
「別に」
「ウルスラ、お腹空いてるでしょう。今ちょうど、昼ごはんだったの。待ってて」
私はそう言うと、キッチンへと向かった。
まだ鍋にはたくさんシチューが残っている。私はそれを皿によそう。
カンカンカンと音が聞こえてきた。
エーリカがスプーンでテーブルを叩いている。ウルスラはそれを真似する。
そして、たちまち大合奏。
それは私の胸をぎゅっと締めつけてくる響き。
二人には会話らしい会話はなかった。食事を終えた後もそれは変わらない。
時折ちらちらと互いに視線を送りあい、なにか言いたげにするだけ。
食卓を満たしているのは私の声ばかりだ。
まあ、それでもいい。
帰って来てくれた。しかも二人も。
またすぐに行ってしまうとわかってはいても、今この瞬間、この嬉しい気持ちはたしかなことだ。
「そうだ」
私はパンッと手を叩く。
「ケーキがあったのを忘れてた。今から食べましょう」
私はキッチンからホールのケーキを持って来て、テーブルの真ん中に置いた。
ろうそくを刺して、マッチでそれに火をつけていく。
カーテンは閉めてある。昼間とはいえ、雰囲気が出てきた。
そして26本のろうそくに火が灯り、やさしい光が二人の顔を浮き上がらせる。
さあ、吹き消して。そう言ってもいい状況だ。
――だけど、それにはまだ早い。
「ところで二人とも、私になにか言うことはないの」
私の言葉に、二人はともに無言。
なにを言ってるんだと、きょとんとした表情を浮かべている。
私はエーリカをじっと見据えた。
「産んでくれてありがとう」
「ええ。どういたしまして」
次いでその視線をウルスラへと移した。
「ひさしぶり」
「そうね。本当ならもっと頻繁に帰ってきてほしいんだけど」
私は視線を中央に戻した。いい加減にしてくれないと、ろうそくが燃え尽きてしまう。
「――それで、他には?」
私の問いかけに、二人とも答えない。
まったくこの子たちときたら、まだしらばっくれるつもりなのか。
あるいは本当に、なんのことだか見当がついていないのだろうか。
母親を見くびってもらっては困る。
まさか私が、こんなことに気づかないはずがないというのに。
「なんのこと?」
と、エーリカは首をかしげる。ウルスラは無言を貫いた。
――そこで私はカチンときた。もう遊びにつきあうのも終わりにしてしまおう。
「エーリカ」
「だから、なんのことだか……」
「あなたじゃないわ」
私は強引にその言葉を遮り、視線をじっと彼女に据えた。
「あなたに言っているのよ、エーリカ」
と、私はウルスラに言った。
いや、これは正しくない。もうお遊びは終わったのだから。
私はエーリカに言ったのだ。
正しくは“ウルスラの振りをしている”エーリカに。
「バレてたの?」
べー、と舌を出して見せて、いたずらっ子の表情をエーリカは浮かべる。
「バレてないと思ってたの?」
と、私は言い返す。
いくら見た目が瓜二つであろうが、どれだけ懸命に相手の振りをしようが、
そんなことで母親の目がごまかせるなんて、あるはずがないでしょう。
薄情な親だと思われているのかしら。憤慨ものもいいところだ。
「いつから?」
と、さっそく開き直ったエーリカは訊いてくる。
「最初からよ」
そう教えてやると、エーリカはウルスラを見た。ウルスラは逃れるように顔をそらす。
「エーリカ。ウルスラは関係ないでしょう」
「でも、最初からって……」
「だから、2年前からよ」
「へ?」
間の抜けた声を出すエーリカ。そんなエーリカをウルスラは困惑顔で見た。
まあ、この際だ。ウルスラは事情を呑み込めてないだろうから、もう全部言ってしまおう。
「どうして毎年、ウルスラの振りをして帰ってくるの? ご丁寧に帰れませんとか手紙まで出して」
「それもバレてたの!?」
自分の失言をすっかり理解したのだろう。ウルスラは小さく「あ」と声を出した。
1年ぶりだったから――と、“エーリカの振りをした”ウルスラは言った。
けれど、これは間違いだ。
なぜならエーリカはエーリカの姿で、3年間、家に帰って来てはいないのだから。
本当ならこう言うべきだった――3年ぶりだったから、と。
他にもポカはまだあった。
エーリカの振りをしてコートを脱ぎ散らかしてくれたけれど、そのコートは厚手のものだった。
4月とはいえ、スオムスではまだ肌寒いからだろう。
そもそもスオムスなんてところ、寒がりのこの子には辛いはずだ。
ウルスラとしては、初犯で、しかもこの子としては信じられないアクシデントまであって、
(まさかエーリカが“ウルスラの振りをして”やってくるなんてこと、考えられようはずがない)
口から心臓が飛び出るくらいびっくりしたことだろう。
いい気味だ。おかげで今日は存分に楽しませてもらった。
「――それで、どうして?」
「だって誕生日なのにウルスラがいないと、母様が悲しい顔をすると思って」
とうとうエーリカは白状した。
生意気にもなにを言い出すんだろう。胸に熱いものが込み上げてくる――だけどそれは秘密だ。
「それであなたが帰ってこれないんじゃ意味ないでしょう」
双子とは言っても、やはり一人一人違う。
人格が違う。資質が違う。置かれた境遇が違う。抱えている思いが違う。
あるいはそれは、この世で最も不公平なことなのかもしれない。
――でもせめて、と私は思う。
私がこの子たちに注げる愛情だけは、もう二度と、どちらにも贔屓をしたくはない。
「ウルスラ、あなたまでなんなの」
「………………」
うつむいたまま、ウルスラは無言。貝になるつもりなのか。
まあいい。この子には3年分、言いたいことがたっぷりとあるから。
「ウルスラ、まだブロッコリーが食べられないの」
「今日は食べた」
「手が止まっていたけど? せっかくおいしく作ったのに」
「焦げてた」
と、ウルスラは一言で一蹴。
ええ、ええ。焦がしましたとも。ついつい考えごとをしていたせいでね。
「もういいわ。どうして?」
閑話休題。私は再び、ウルスラに訊いた。
「手紙が来たから」
「手紙?」
「姉様が風邪ひいてる、って」
エーリカに送った手紙と同じ文面で、ウルスラにも手紙を出しておいた。
4月とはいえまだ寒いでしょう。お大事に――それについ、こう書き添えてしまっていた。
エーリカも風邪をひいて、もしかしたら帰ってこれないかもしれないというし、と。
「それで――姉様がいないと、母様が悲しむから」
なんだというのかしら、この子まで。
そんな風に思われてるなんて、思いもしなかった。
ずっと嫌われてると思ってた。ずっと怖かった。でも、そんなことはなかった。
じわっと目頭に熱いものが込み上げてくる。
だけど私は泣くわけにはいかない。だってここは、笑顔で祝福する場面なのだから。
「でも気づいてるんなら、言ってくれればよかったのにさ」
「だって、なんだか面白かったんだもの」
私は満面の笑みで言ってやった。
「なにそれーっ」
と、エーリカはむくれて、それにウルスラもうなずく。
「あなたたちが言うことじゃないでしょう――さあ、いい加減ろうそくを吹き消したら」
すっかり話し込んでしまったせいで、もうろうそくも残りわずかとなってしまっている。
エーリカとウルスラは顔を向き合わせ、合図をして、同時にふぅと息を吹きかけた。
私の方こそ、言わなければいけない。家族思いの、自慢の愛娘たちに向けて。
生まれてくれてありがとう、と。
だから私は、祈らずにはいられない。
ケーキに刺すろうそくが、毎年ちゃんと2本ずつ、いつまでも増えていきますように。
これからもそういう、4月19日でありますように。
来年もまたこうやって、今度は父様も一緒に、同じ食卓を囲みましょう。