無題
なあ、シャーリー。
すぐ隣に座っているエイラが眠そうな声で耳打ちした。
だだっ広い講義室みたいなこのブリーフィングルームに、人影はまばらだ。前のほうでは隊長であるミーナ・
ディートリンデ・ヴィルケ中佐が朝礼をしているけれどもイマイチ頭に入ってこない。何しろ昨日のネウロイは
夜遅くに出現したのだ。当直だったあたしは当然仮眠から叩き起こされて出撃した。戻ってくるときには空は
白み始めていたから、それからほとんど寝ていない。要するに、眠い。
それは隣のエイラも同じようで、さっきからしきりにあくびをしようとしては、かみ殺しているのが見て取れる。
ぼんやりとした頭で理解したことには、明日から三日間、あたしらが二人一組で交代してが夜間哨戒の当番
に当たれとのこと。次のネウロイがやってくるまで間があるだろうから、これを期にみんなにもう一度ここでの
夜間哨戒を担当させておこう、と言うことらしかった。
(サーニャさんに任せきりにしておくわけにもいかないでしょう)
と言うのが、隊長の弁。そのサーニャサンって言うのがまずイマイチぴんとこなくて、隊長命令なら仕方ない、
とばかりにはあいと生返事を返す。バディは…バルクホルン大尉か。真面目で堅実過ぎるところが玉に傷だ
けれど彼女ならまあ仕事はしっかりこなすだろう。これは楽が出来そうだ。
私の普段の素行に文句をつけられそうな予感がひしひしとするのはともかく、体力的な部分では。まったく
あの堅物大尉と来たら『怪力』なんていう見た目ぴったりの特殊能力を持っている割には恐ろしく仕事が
細かくて、デスクワークも苦にならないと来ている。ちなみに私は真っ平ゴメンだね。何故って?そんないつ
終わるか分からないような書類の山と戦うなんて、始める前からゲンナリしてくるじゃないか。
「どしたー、エイラぁー?」
間延びした声で私も返す。大口を開けてあくびをしたいところだけれどここでそれをしたら中佐に怒られそうだ
からしない。…まあ、あたしもエイラも割と後ろのほうに座っているからばれないかもしれないけれど。隣の
ブロック、一番前の席に坂本少佐、その背中を眺め回したいのか後ろにペリーヌが座っている。あたしたちの
ブロックの一番前にはカールスラントの二人組が座していて、あたしたちはその二つ後ろに座っているの
だった。これからまた人員補充があるんだそうだけど、とりあえず今のところはその面子と教卓で話をしている
中佐が、この部隊の全部だ。
…と思っていたのだけれど、そうではなかったらしい。
恥ずかしいことに、エイラの囁きで私はその存在を思い出した。今まさに彼女についての話を聞いていたところ
だというのに、なんと言うことだろう。
「リトヴャク中尉、ダイジョウブかなあ。」
体壊してるんじゃないかな、とエイラは言う。聞きなれないその呼び名に首をかしげると、ちょい、ちょいと
エイラはすぐ後ろを指差した。ちらりと後ろを見ると、あたしやエイラなんて目じゃないくらいに疲れた顔で、
ひどく眠りたそうな目で、そこに座っている女の子がいる。うつらうつらして、それでも寝まいと必死に体を
起こして。
…ああ、そうだ、この子がサーニャ・V・リトヴャク中尉だ。夜目がとても利いて、地平線の向こうまで見渡せる
と言うその能力から夜間哨戒を担当している。昨日のネウロイを迅速に撃破出来たのだってこのリトヴャク
中尉がネウロイを即座に発見してくれたからだった。
「気になるのか?」
尋ねたら、「そんなわけじゃないって!!!」と不満げに返された。それでも白い頬が朱に染まる様でそれが
本心ではないとすぐに分かってしまうのだからこいつは面白い。歳なんて私と1つしか変わらないのに、なんで
こいつはこんなにも小さな子供みたいに無垢で単純なんだろう。そう思うのは私が擦れてるだけなのかな。
なんて、自分で自分に苦笑いをしたら、エイラは自分が笑われたのだと思ったらしい。彼女の顔の両側に
ある桃色が、ぷくう、と風船みたいに膨れた。
ごめんごめん、まあ今度ハンバーガーでも一緒につくろうじゃないか。そうやってごまかそうとした、その瞬間、
エイラの表情がすとん、と沈んだ。おや、と思う間もなく、「でも、」から続く次の一言。
「…あのこ、休んでないみたいだから。昼も、夜も、ずっと」
「…そうなのか?」
その発言に、実際のところ私は驚きを隠せず固まってしまったのだった。
ついこの間この部隊に配属されたばかりの彼女は、その能力を買われただけあって最初からナイトウィッチ
要員だった。主に昼に出撃するあたしたちとちがって彼女の勤務時間は夜だ。つまりは私たちと全く逆転した
生活をしていることになる。事実、最初の顔合わせのとき以来あたしはまともに声を聞いたことさえなかった
んだ。その声さえも今となってはもうおぼろげで、よく思い出せないくらいなのに。
けれどエイラはためらいなくウン、と頷くのだった。気付いてなかったのか?そう言わんばかりの顔であたしを
見てくる。すみません気付いてませんでした、なんてとてもとても言えないような表情で。
だいじょうぶかな。もう一度、エイラが呟く。あまり機微の多いほうではない表情がゆがめられて、視線はず
っと、後ろを見ようとちらちらと動いて。なんだよ、気になるのか?もう一度尋ねてみたくなったけれど、そんな
のもう聞かなくたって分かるから止めた。同時に、自分の心の中にどこかもやもやした気持ちが生まれている
ことに気が付いてうろたえる。なんだろうこの気分。胃がもたれるような、落ち着かないような。嫉妬とはまた
違う、なんて言うんだろう、気に入っていたおもちゃをなくした気分。
何を考えているのか分からないスオミのウィッチ。確かきっかけは、お互い暇な時間はストライカーの整備に
時間を割くことが多かったからだった。もっともあちらは何の含みも無い、正真正銘、純粋な『整備』ってやつ
で、私のそれはどっちかって言うと『改造』ってやつに近いというか、改造そのものだったのだけれど相違
打った細かいところはこの際目を瞑ってもよいと思う。
工具を借してくれないか、とか、そんな口実をつけてたぶん初めて言葉を交わした。いや、そのずっと前に
「キミ、かわいいね」なんて冗談めかして話しかけてみたら相当不審な目で見られてしまったという事件が
あったけれど、それはノーカンで行こう。
寂しい、とかじゃ、決して無いけど。断じて無いけれど。すぐ後ろから聞こえてくる微かな微かな息遣いに、
衣擦れの音にああ、確かに背後に誰かがいるのである、ということを聞いて取る。さっきまで全く気付かな
かったけれど、顔だってよく見てないからまだおぼろげだけれど、でも傍らでソワソワと落ち着かないエイラを
見ていればそれは如実に現れている。それは、共に過ごしたあの整備場でいつも眺めていた、何を考えて
いるのか分からない、だからこそ妙な引力を持ったあの横顔よりもずっと、ずっと、生身の人間らしい体温を
孕んでいて。なにより、ストライカーの整備をしていても、いたずらをしていても、占いをしていても。もちろん
空を飛んでいるときでさえ失われること無かったある種の冷静さをこんなにも欠いている。まともに話したこと
も無いやつにそんなに懸想するなんて、お前ちょっと惚れっぽすぎるんじゃないか?なんて自分のことは
棚に上げて心の中で呟いて。
「そんなに気になるなら、ぐずぐずしてないで話しかけてこいよ」
「え?」
ふ、と息をついて、囁くように耳打ち。
「今夜だったら、ほら。いつもうざったいあたしも、夜口うるさいバルクホルンもいないぞ」
「はぁ?」
なんてちょっと嫌みったらしい言葉を続けてしまうのくらいは、許して欲しい。だってお前、一応あたしのいる
横で全然違う女の子のことばっかり気に掛けるとか、失礼だと思わないの?そこまで言うのは流石にこちら
が情けないからしないけれども。
とはいえ、私の言葉の真意を測りかねているのだろう。訝しげな顔を返してくるエイラに、慌ててフォローを
入れる。
「…ま、お前は今晩は待機だし、リトヴァク中尉も夜間哨戒休みだろうし、ちょうどいいだろ、ってこと。な?」
「ああ、そっか」
あまり気持ちに余裕が無いのだろうか。普段だったらぼけっとした顔をしたままこちらの痛いところを鋭く
ついてきそうなもののエイラが妙に単純に納得して引き下がったので、私はほっとするやら、けれどちょっと
拍子抜けするやらでまた複雑な気持ちになってしまう。ううむ、やっぱりこれは嫉妬だろうか、なんて考えて、
いやいや違う、断じて違うぞと首をぶんぶんと振ったら「シャーリーさん!何をしているの!」とたしなめられて
しまった。怒られてやんの、といたずらっぽく笑うエイラに、お前のせいだよ、と口を尖らせる。
「…そっか、今夜かー…」
ぽつり、と呟かれたその一言と、いつもと同じようでちょっとだけ違うその横顔に、妙な決意を見て取る。
なんだか置いてけぼりを食らったような気持ちになったけれど、私はエイラよりもよっぽど大人だから顔にな
んて出してやらない。
明日の朝、夜間哨戒から帰ってきたら何かまた変わっているんだろうか。
もしかして、同じ北欧から来たよしみで意気投合して、まさかの同衾…なんて、ありえないか。
机をじいとみやりながら何かを考えているエイラは、もうこちらを見る余裕も無いようだった。そのくせ、後ろに
ちらちらと視線をやることだけは忘れないのが少し恨めしい。
ふう、と一息をついて、私はミーナ中佐の話に耳を傾けたら、もうすぐロマーニャから新しいウィッチの補充が
あるといったようなどうでもいい報せが胸に飛び込んできた。
了