無題
ねえ、これはどういったことなのでしょうか。
貴女は蒼を見ると私を思い出すと、そういったのに、
どうして私が、この蒼を見て貴女を思い出すでしょう。
それは私と彼女が─正確には第501統合戦闘航空団が─離れ離れになるその日に、彼女に手渡された
花の種なのだった。
「あのね、ペリーヌさん。お願いがあるの」
いたずらっぽく耳打ちして、掌の上に乗せられた小さな小さな小袋。不審に彼女を見上げると、ふふふ、
と、またあのどうしても慣れない笑顔が私を見返した。赤い赤い瞳にとらわれて何も言えなくなるわたしを
見透かしているのかいないのか。きっと勘付いてさえいないのだろうと思うけれど。
脳裏に蘇るのは、祖母の姿。これは貴女のお守りよ、と、マリーゴールドの花の種を私にくれた。それを
受け取った当時の私は魔法医学にも薬学にも興味が無く、ただ空を駆って憎きネウロイを退治する、映画
のヒロインのようなウィッチに憧れていたものだから、祖母の心遣いをありがたく思いつつもさして重宝は
していなかったのだと思う。
けれどもそれは皮肉にもこうして故郷を追われて、着の身着のままブリタニアに渡った私の唯一の心の
支えになってくれた。あの頃散々と野暮ったいと文句を言っていたそれにすがっている自分が情けなくて、
けれどもそれを失ったら心許なくてたまらなくて、耐え切れずに故郷のシャトーの風景を手繰り寄せるよう
にその花の種を植えたのだっけ。
綺麗な金色の花をつけたのを見つけたときは、それはそれは嬉しかった。けれどそれと同時に、この場に
両親や祖母がいたらならばそれはそれは喜んでくれたのに違いない、と考えて更に涙が溢れたのだ。
(マリーゴールドの花言葉って、確か『健康』とか『いつもかわいい』だったわよね)
花壇に咲き誇るマリーゴールドの花を見やっていとおしげに撫でながら、彼女はそういったことを思い出す。
初めてあの花壇で彼女に出会ったその日から、お互いの暇が合えばその場所で過ごすことが暗黙の了解
となっていたのだ。別に約束していたわけではないけれど、いつの間にか心のどこかで彼女が待っていて
くれることを期待している私がいた。
彼女のその姿をみるにつけ、私は緊張で泣きたいぐらいの気持ちになってしまうのに。その瞳にとらわれて、
射抜かれてしまうのが恐ろしくて、直視することさえ恐ろしいと思っているのに。
(愛されていたのね、貴女は)
…今となっては、祖母が私のマリーゴールドの種を持たせたその真意など確かめようも無いのだけれど。
けれど彼女はいとも容易くそう言ってのけたのだった。妙な説得力のある物言いに、また心臓がどきりと
はねたのをよく覚えている。そんなこと、わかりませんわ。苦し紛れにそう答えたら、彼女は「そんなこと
ないわよ」と、平然と答えた。
(愛されていたのよ、貴女は)
同じ言葉を更に重ねて、臆病な私の心を上から力強く押し上げて。それと同時に、塩水さえも海から私の
体へ、目頭へ押し上げる。
(ううん、愛されているのね、今も)
そしても、もう一発。止めとばかりに打ち込まれては、私の涙腺は崩壊するしかない。気取られるのが
嫌でそっぽを向いて、紅に染まっているであろう頬はちょうど朱に染められ始めた空と海のせいなのだと
思うことにした。彼女はそれ以上何も言わず黙っていてくれたから、悟られているはずは無いだろうと
思った。そう思っていないと自分が弱くなってしまいそうで嫌だったから。
私のような弱い人間は、いつも足に力を込めていなければ立ってさえいられないのだ。己の弱さを痛感して
いるからこそ、支え無しに立っていられるのだから。
こんなところで支えを得てしまったら、恐らく私は独りぼっちになったときにどうしようもなくなる。だから前を
向く。そこには憧れの人の力強い背中があって、決して届かないことも知っていて。けれどもそれを追い
かけていれば、後ろから迫り来る過去の後悔にとらわれずに生きていけるような気がしていたから。
同じ背中を見やって歩いている彼女と私は、もしかしたらその目の前の人よりもずっと傍にいるのかもしれ
なかった。だからこんなにも、彼女は私の気持ちを見透かすのかもしれなくて。
心のどこかですがれたら、と願っている自分が恨めしくて、私は心ににじり寄ってくるようなその気持ちに
ふたをすることに決めた。
「──お守りとか、そういうのじゃないのだけれど」
歌うような彼女の声ではっと我に返る。目の前の人物が記憶に残る祖母の姿から、もっと高貴で可憐で、
美しい年上の少女に瞬時に変わった。途端にまた、あの赤い色が目に飛び込んできてどうしようもない
気持ちになる。
「…ペリーヌさん?大丈夫?」
「だ、だ、だいじょうぶですわっ!なんでもありません!!」
わからない。どうしてこんなにもこの紅にとらわれてしまうのか。見惚れていた?いや、そんなはずは無い。
でもそうではないのだとしたらこの胸をドクドクと力強く叩く鼓動の音は、一体どんな気持ちに由来するもの?
どうしてだろう、なにも、なにもわからない。
「あの、何が入っているのですか?」
「花の種よ。何の花なのかはお楽しみ。強い花だから、きっと花を咲かせてくれると思うの」
「何でわたくしに」
「咲かせて欲しいと思ったから、貴女に。──だめかしら?」
そんなこと、任されても困ります。
そう答えようと思って、けれど彼女の瞳をもう一度見やった瞬間否応無しに首を振る自分がいた。
いいえ。いいえ。咲かせてみせます。気がついたら力強く答えていた。
(貴女のために。)
のどのところまででかかった続きの一言は、なんとなく口にしてはいけないような気がしていえなかった。
*
「ペリーヌさん、」
私の傍らで、リーネさんがほう、と感嘆の息をつく。
復興の最中のガリアには、空き地がたくさんある。私の実家のシャトーもネウロイによって焦土と化して
しまっていたから、幸か不幸か種をまく場所には困らなかった。
ある日、その一角にふと思いついてそれを蒔いたのは気まぐれと言ってしまったら確かにそれまでで。
秋がすぎ、冬を過ごして、春が来て──草花の彩りが、暗がりのガリアをほんのり照らし始めたその季節に
その花は咲いた。それはとても堂々と、胸を張って。
高貴ささえ感じるその色は正に「咲き誇る」といった表現がもっともよく似合う。
「綺麗ですね──コーンフラワーブルー、というのでしたっけ?」
「コーンフラワーブルー?」
「あれ?ペリーヌさん自分で育てていたのに知らなかったんですか?
ヤグルマギク──コーンフラワーの青い色って、とてもとても綺麗でしょう?だから、最高級のサファイアの
色を『コーンフラワーブルー』っていうんですよ。
前にミーナ中佐に教えてもらったことがあるんです。ヤグルマギクはカールスラントの花なんですって。」
「……カールスラントの、花…」
知らなかった。だってそんなこと、一言も彼女は言わなかったから。この蒼い色は、彼女の故郷の色だと
いうのか。いま、彼女が取り戻そうと必死になって戦っている、あの国の。
もしかしたらこの蒼い景色は、かつて彼女が愛した故郷の景色なのかもしれない。今も焦がれてやまない、
平和なあのころの、カールスラントの。
(この蒼を見るとペリーヌさん、貴女を思い出すわ)
かつてブリタニアの、あの私の花畑で。彼女が私に微笑んで聞かせたその言葉が耳に蘇る。私と彼女が
あの日に見たあの鮮やかな蒼さと、今目の前に広がる蒼はそう言えばとてもとても似ている気がする。
吸い込まれそうなほどに深い深い蒼なのだ。
私に咲かせて欲しいから、と彼女は言った。彼女は私に一体何を願ったろう。何を思って、この故郷の
蒼の色を託したのだろう。
「ねえ、リーネさん」
「はい?」
「ミーナ中佐は、この花の、花言葉とか──あなたにおっしゃいまして?」
「ああ、はい。えーっと……『信頼』だったとおもいます。なんかミーナ中佐らしいですよね」
「しんらい…」
ああ、なんて回りくどい人なのだろう。唇をかみ締める。蒼さがやけに目に染みて、目頭が熱くなってくる。
周りの優しさすべてをつっけんどんに返して、我侭ばかり言っていた私に一番不似合いの言葉ではないか。
それだのに彼女はそんな言葉を私に託したというのか。そんな花を私に咲かせて欲しいと願ったというのか。
「え、あ、あれ、どどどど、どうしたんですか、ペリーヌさんっ!!」
「な、なんでもっ、なんでもありませんわ…っ…ただ……ただ、綺麗な蒼、だから…っ」
もう、どうして。
蒼を見ると私を思い出す、と言ったのは彼女のほうなのに、この蒼を見て私は彼女ばかりを思うだろう。
髪も瞳も睫毛さえも紅の色をした、彼女を想ってやまないのだろう。
「いつか──ミーナ中佐に、いいえ、隊のみんなにも、見せて差し上げたいと、思って…」
「…そうですね。本当に、綺麗な蒼、ですもんね」
ほろほろと流れる涙を、私はもう隠さない。たとえ彼女の前でも、決して。
ふんわりと抱きしめてくれるリーネさんの腕に、どうしてかまたミーナ中佐を思い出してしまうのは、多分
瞳の裏にまで蒼い色が焼きついているからだろうと思った。
了