学園ウィッチーズ 第23話 かけちがい
サーニャはベッドの上に座り枕を抱きしめながら、窓から漏れる光線の色の遷移をじっと観察する。
寮の玄関ドアが開き、突如変わった空気の流れを敏感に察知すると、自分の部屋だというのにやけに慎重な様子でドアの前まで進み、耳をすませ声の主をつきとめる。
ペリーヌさん、リーネさん、エイラ――
腹減った、とこの時間になるとお決まりのように放たれるエイラのつぶやきに思わず口元を緩ませる。
が、ドアに触れていた手を拳に変えふぅっとため息をついて、前髪を――額をドアに押し付けた。
次の瞬間響いたノック音にサーニャはドアから離れる。
独特の間に、サーニャはノックの主が誰であるかを見抜くが、開いた口からは一向に言葉が出ない。
ドアの外から声が響く。
「サーニャ……、入っていいか?」
目の前にあるドアノブを回せば、今一番見たい顔が見られるはずなのに。
しかし、サーニャの手は彼女の胸の前に重ねられたままで、動く気配は無い。
次の行動に移ることが出来ずにいるサーニャを置いてけぼりのまま、部屋の外で別の人物が加わり、サーニャは目を見張る。
「エイラさん、サーニャちゃんに用ですか?」
「……まあな。宮藤もか?」
「具合、どうかなって。お昼ごはんは食べてくれたんですけど」
「昼ごはん?」
「忘れ物取りに来るついでに作ってて」
「……そっか。ありがとな。けど、サーニャ今眠ってるみたいなんだ」
「なら、起こさないほうがいいですね」
「……あ、ああ」
遠ざかる足音が聞こえなくなるまで、サーニャはドアに耳を押し付けた。
無理やりにでも、開けてくれればいいのに――
サーニャは瞬間的に浮かんだ自分勝手な考えに、戒めのためなのか自分自身の頬にぺしりと手を置いた。
ミーナはとても不思議な感覚に襲われていた。
目覚めたクリスを強く抱きしめ、言葉をかけているゲルトルートの背中。
ついこの間まで一日も早く実現して欲しかった光景が目の前にある。
なのに、病室に入った途端ミーナの靴底はべったりと床とくっついてしまい、彼女自身の意識も澱の中をふわふわと漂っていた。
「ミーナ」
自身の名を呼ぶ声にミーナはようやく漂流から抜け出したかのように顔を上げ、大げさに壁に背中をぶつけた。
「……大丈夫かミーナ?」
その様子に声の主であるゲルトルートは慌てて手を差し出すがミーナは片手を顔のそばまで上げながら、彼女の手から逃れる。
指の間から困惑気味のゲルトルートの瞳が覗く。
ミーナは自身の犯した失態に頬を熱くし、なんとか抑えようと深呼吸する。
ふと、ゲルトルートの肩越しにクリスと目が合い、さらに動揺を重ねたのか体をひねってドアノブに手をかけると小さくつばを飲み込んで、顔だけゲルトルートに振り向けた。
「……少し、立ちくらみがするから風に当たってくるわ」
エーリカは自分のお腹から発せられる音で目を覚ました。
起き上がり、やわらかい髪に包まれた後ろ頭をかいてあくびする。
部屋に散乱したものがそれぞれ床の上に伸ばす影をぼんやり眺めベッドから立ち上がると机の前に立ち、自分の体の幅と同じぐらいの、表面を革で覆った木箱を取り出した。
もう一度ベッドに腰を下ろし、膝の上で箱を開け、中身を取り出す。
数通の傷みきった封筒。
それらを取り出すと、箱の中には一通の封筒を残すのみとなる。
エーリカが手にしているそれらとは異なり、ついさきほど糊付けしたかのように真新しい。
エーリカはその封筒を取り出し、宛先の人物の名前を心の中で繰り返し読み返す。
ウルスラ・ハルトマン――
出したかったけれども、出さなかった。
出すことができなかった。
出していれば、今ここで胸ふたがる思いにつぶされそうになっている自分はいなかったのだろうか。
エーリカはそっとまぶたを伏せてまた開き、丁寧な手つきで封筒の片側をもいで、中身を取り出した。
照明をつけるのも面倒なのか、手紙を顔に近づけ、しばらくの間読みふけったかと思うと、そっと手紙と一緒に手を下ろす。
ほんの少し唇を引き締めると眉間を強張らせ、手紙を裂こうと指に力を入れるが果たせず、逃れた手紙が床に落ちた。
両手を額に当て、大きく大きく息を吐き出して、エーリカは落ちた手紙を拾い上げると胸に抱いた。
野菜を切り裂いていく包丁がまな板にぶつかる音に時折混じる芳佳のハミングに、リーネは手を止め首をかしげた。
「芳佳ちゃん、なにかいいことあった?」
「え?」
「だって、鼻歌」
「ああ、ごめんね。つい……」
芳佳は普段から赤みが差している頬をさらに朱に染めながら、はにかんだ。
「今日ね。サーニャちゃんに昼ご飯作ってあげて、それでギリギリまで話してたら、今まで知らなかったサーニャちゃんを見れてなんだか嬉しかったんだよね」
弾んだ口調で言う芳佳に、リーネはつい視線を外して眉尻を下げる。
しばらくの間、昼間の光景を目の前に浮べるかのように話し込む芳佳の話を耳に入れながら、指先で皮のむいたじゃがいもを転がし、もう一方の手で持っていた包丁でたんと音を立て二等分した。
芳佳はその音に違和感を覚え、びくりと肩を動かすが、リーネは気にも留めずに切った野菜をまな板ごと持ち上げて鍋に入れていく。
言葉を失った芳佳に、リーネはようやく重苦しくなった空気にはっとして、うまいとは言いがたい笑顔を差し向けた。
「……そうなんだ」
タイミングがちぐはぐになり止まった会話。
気まずさをにじませながら絡まる互いの視線。
鍋からはぐつぐつという音が響く。
リーネが握った拳に力が入り、唇が開きかけるが、ぶっきらぼうな足音を響かせながら、エイラが食堂にやって来たため、芳佳の視線がそちらへ向けられた。
リーネは隙を見て芳佳から視線を外した。
「ペリーヌさん、呼んでくる」
必須でもない用事をわざわざ口にしたリーネは芳佳に背を向けて、ねめつけるような視線を寄越しながら、エイラとすれ違う。
エイラはその真意などわかるはずもなく、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま廊下を駆けるリーネの背中を見送りながら、頬を膨らませた。
「なんだよあいつ……。宮藤、お前なんかしたのか?」
「なにもしてません。なにも……」
芳佳は疑うような目つきのエイラに、自信なさげにそう返した。
廃墟となった街を背に微笑み、手を差し伸べる坂本。
状況はどうあれ、ペリーヌにとっては忘れえぬ出逢いのひとコマ――
自室にて、坂本との邂逅に想いを馳せていたペリーヌは閉じていた目を開ける。
胸に抱いている日記帳の上で細い指を移動させながら、何かを引き出し、視線を落とす。
何度も眺めたせいなのか端がぼろぼろになった、幼いペリーヌとその家族の集合写真。
手にした写真を挟んだ指先をこすりあわせるよう動かすと、家族の写真とぴったり重なっていたのか、もう一枚の写真が現れた。
まだ戦争があった頃、最前線の基地のすみっこに置かれた荷箱の上にかけ、肩を並べる坂本とペリーヌを写したものだ。
不意に現れた記者に抜き打ちで撮られたためか、二人ともわずかに目を張っていて、不自然さが垣間見える。
たまに扶桑人であることを忘れる――
坂本に扶桑の話を聞いた時、彼女が自嘲気味に漏らした言葉を思い出す。
晴れた空を見上げ、間違っても美味しいとは言えないレーションを義務的に口に入れていたペリーヌは恐る恐る横に居る坂本へ視線を差し戻した。
記憶が正しければ戦況は芳しくなく、坂本もだいぶ疲弊していて、泰然とした雰囲気に混ざる笑顔の回数も今に比べればだいぶ減っていた。
不意に見せつけられた弱さのせいなのか、ペリーヌは咀嚼していた食物を飲み下し、じっと坂本の横顔を眺めるに留まった。
しばらくして、坂本はペリーヌに振り向き、かたい表情をようやく解きほぐしたように片方の口角を引き上げる。
伸びる坂本の手に、ペリーヌは身を硬直させ、首の後ろを熱くする。
時の流れが変わったように、伸びた指先がペリーヌにゆっくりと近づき、彼女の口元にたどり着くと同時に唇の端についた食べ物のかけらを拭った。
「やはり、まだまだ子供だな」
「そ、そんなこと」と言いながら、ペリーヌは取り出したハンカチであらためて口元を拭って、ちらと坂本を見る。「……戦場にいる以上、私は一人の軍人です。だから、子供扱いはしないでください」
「……そうだな。気を悪くしたなら、謝る。ただ……年相応のペリーヌを、軍人としてではないお前を見てみたくもある。それは、贅沢すぎるか?」
ペリーヌを捕らえて離さないほどの坂本の強い目。
飛び込めるものであれば、今すぐにでも坂本の胸に飛び込みたい。
けれども軍人としてのペリーヌがそれを許さず、幼い曲線を残す拳が強く握られ影を作る。
それからほどなくして、ペリーヌは新たな扶桑人と出逢った――
胸元に掲げ強く握った拳にもう一方の手を重ねかけたそのとき、部屋のドアがノックされ、回想から引き戻されたペリーヌは虚をつかれたためか、大きく肩を揺らす。
日記を所定の位置にしまいなおし、ドアを小さく開ける。
ドアの隙間から覗く、手を後ろに回してもじもじと落ち着かなさげなリーネについ眉をしかめる。
「なに?」
「……あの、晩御飯……できたんで」
たかがそんなことでなぜ部屋まで?
と、言葉に出しかけたペリーヌであったが、顔をわずかに伏せ、視線を右へ左へ行ったり来たりさせるリーネを見、押しとどまる。
普段のペリーヌであれば、「人をダシに使って」ぐらいの嫌味のひとつでもこぼせたかもしれない。
が、とてもそんな気分にはなれず、小さく息を吐いて部屋を出るとリーネを置いて廊下を数歩進み止まると振り返った。
「いつまでそうしてるの?」
とげとげしくならぬよう、細心の注意を払ったペリーヌの言葉に、リーネはほんのわずかだけこわばった顔を緩ませると、彼女を追いかけた。
「見られると集中できない」
クリップボードに挟んだ紙にカリカリと鉛筆を走らせるウルスラは、自身を見つめる人物に顔も向けずそうつぶやいた。
化学室のドア枠に片方の肩を押し付け腕を組んでいたビューリングは、ほんの一瞬だけ面白くなさそうに目を細めると、ウルスラが実験器具を広げている机に近づいて、そばにある丸い椅子にどかっと腰を下ろした。
「そう急ぐものでもないだろう」
ウルスラは、ビューリングに目を側める。
直前の様子からてっきり嫌味のひとつでも言われると思ったからだ。
ビューリングはというと、液体の入ったビーカーをじっと眺めていたが、ウルスラの視線に気がついて見つめ返す。
「そろそろお開きにしないか?」
「……あともう少し」
「そう言いながら、帰ってからもレポートを作っているじゃないか。少し熱心すぎやしないか?」
「熱心なのはいけないこと?」
無表情に言うウルスラにビューリングは口角をわずかに下げたのち、ウルスラの白衣に手を伸ばし、そのまま抱き寄せる。
ちょうどウルスラの胸の辺りに頬を押し付けたまま、顔を上げた。
「一概には言えないが、今の私たちにとってはいいことではないな」
ビューリングの腕に力がこもり、ウルスラの手から落ちたクリップボードがかつんと角から床に落ちて倒れて、部屋はまた静かになる。
ウルスラはそっとビューリングから体を離し、顎を引いて座る彼女を見下ろす形となった。
ビューリングは黙って、ウルスラを見上げる。
誰を見ている?
不意にそんなことを口走りそうになり、ビューリングは感づかれないよう、歯を食いしばる。
が、両頬をウルスラの小さな手が包み、急接近したウルスラの顔に強張った顎が一瞬で緩んだ。
ビューリングの頬にそっと寄せられるウルスラの唇。
ほんのさっき頭に浮かんだ質問に対するごまかしをはらんだ回答のような気がして、ビューリングは高揚を覚えつつも、バツの悪そうな表情をウルスラに差し向けた。
ウルスラは器用にビューリングから顔を背けると、実験器具を片付け始めた。
ミーナはジープの運転席に深く背中を預けながら、夜の装いへと移り変わる暮色の空を眺めていた。
さきほど、ゲルトルートの腕を振り払ってしまったこと、その様子を不思議そうに眺めていたクリスを思い出し、体を起こしハンドルへ手を、額を乗せ大きく息を吐く。
「馬鹿みたい……」
あえて口に出し、ミーナは内省を試みた。
ゲルトルートがクリスを大切に思う。
家族なら当たり前のことだ。
ましてや、クリスの昏睡はゲルトルートがもっとも心を痛めていたこと。
その彼女がようやく目覚めた。
なのにそれを快く思っていない自分がいる。
理由は――
ミーナが思い至りかけたそのとき、運転席側のドアに指が掛けられ、ミーナは顔を上げ振り向いた。
互いに驚いた顔を見せつけあい、ようやくゲルトルートが口を開いた。
「……具合が悪いようであれば運転を変わるか?」
「いいえ、大丈夫よ。今日はもういいの?」
「ああ」と言いながら、ゲルトルートは助手席側に回り込んでドアを開け乗り込んだ。「定期的にかけてもらっていた治癒魔法のおかげで、普通の食事もそれなりに摂れるようだし、リハビリもそう長くはならないらしい」
「じゃあすぐにでも?」
「それが一番だが、もうしばらくは……。そうだな。めどとしては来年の春までには」
「……ちょうどいいわね」
心の弾みをにじませるゲルトルートとは対象的にミーナは伏し目がちに返しながら、エンジンをかけ発車する。
ゲルトルートは浮かない表情のミーナに首を傾げ、言葉を接ぎかけるが、見つめたミーナの横顔がそれを望んでいないような気がして、押し黙ると背中をシートに押し付けた。
じゃらじゃらと、歩くたびに鍵束から発せられる音が廊下に響く二組の足音と混ざり合いながら、奇妙な雰囲気を作り出す。
がちりと施錠の音が響いて、坂本は腰に手を置いた。
「すっかり遅くなってしまったな」
「ええ。それじゃあ先に行ってて、すぐに追いつくから」
「ああ」
踵を返す醇子の後姿を見送ると、坂本は校舎を出て校庭を歩きながら、正門へと進んでいく。
ふと正門の向こうに広がる稜線を遠望し、立ち止まった。
温くなった風が指の間を通り抜ける。
心地よいはずなのに、どこかむず痒さを感じて思わず拳を作ろうとするが、どこからともなく別の手が伸びて坂本の手を握り締め阻止する。
顔を向けると、曇りのない表情で醇子がおだやかに笑った。
坂本もその笑顔に応えるように笑んで、醇子の手を握り返す。
醇子はほんの少しだけ坂本と距離を詰め、つい今しがたまで彼女が眺めていたものを視界に入れた。
「綺麗ね」
「ああ、そのはずなんだが……」
言葉を濁す坂本の腕に醇子の腕が絡む。
大げさに坂本の体が動いて、その様子に醇子は図らずも笑ってしまう。
「あの時と同じ」
揺れるトラックの中、激戦区へ行くというのに、醇子は弾む心を押さえつけられない。
ふと視線を変えれば、様々な国の少女たちが時折大きく揺れるトラックに、シートとは名ばかりの板状の腰掛に指をかけ振り落とされないよう踏ん張っている。
がたがたという音に混じり、波が船縁を叩くような低い音が響いて、醇子がはっと顔を上げると同時にトラックが急停止し、少女たちは危うく吹き飛びそうになって、なんとか持ちこたえる。
醇子はトラックから飛び降りると遥か向こうの夕空に点在する影を発見し、トラックの前方に向かい、運転席側のドアに手をかけて体を引き上げた。
「状況は?」
カーキ色のキャップのつばの下でひっそり汗をにじませたドライバーがインカムから聞きつけた情報を口に出す。
「帰投中だった第一中隊が敵の増援に…」
そこまで聞いて、醇子はほんの一瞬険しい顔をすると、自分が乗っていたトラックの後方のトラックへとインカムを耳に差し込みながら駆け出した。
「出ます! ストライカーの準備を!」
他のウィッチたちは目の前を通り過ぎる醇子を呆けた顔で見届け、互いに顔を見合わせ頷くと彼女を追いかけた。
乱戦の中、軽機関銃が弾切れを示す金属音がはっきりとペリーヌの耳に届く。
ため息をつく間も惜しんで、ペリーヌは姿勢を変えるとレイピアを抜き、すばやく小型ネウロイへと落下し撃墜した。
その様子にまるで興味を示したかのように、十機ほどのネウロイが集まる。
ペリーヌはじわりと背筋を凍らせながらも、なんとか笑顔を見せつけて叫んだ。
「トネール!」
ペリーヌが発する光の点滅を視界の隅に入れながら、坂本は目の前にいる大型のネウロイの放つ攻撃をシールドで弾くと、すばやく上空へと移動し上を取って眼帯をめくりあげた。
運良く迅速にコアを発見し、狙いを定める。
「足りるといいが…」
計算が正しければ弾数はもう残り少ない。
他の者たちも、ほとんどが機関銃を背負い、ハンドガンに持ち替えてしのいでいる。
ネウロイが放った二度目の攻撃を最小のシールドで防ぐ。
防ぎ損ねたものが頬と耳たぶを切り裂くが、かまわず、坂本はコアを覆う層へ向け漏らさず発射した。
しかし、あと一歩のところで弾が切れ、みるみる修復されていく。
「少佐!」
ペリーヌが上空を仰ぎながら、ストライカーの出力を上げたが、その音に混じり、複数のストライカーのエンジン音が重なったことに気がつく。
舌打ちした坂本が背負った刀の柄を握り締めたその瞬間、複数の機影が彼女のそばを通り抜けた。
多数の銃撃音。
修復しかけたネウロイの表層がまた破壊され、そのまま露出したコアも破壊される。
ネウロイのかけらが誰もいない村へ落ちていくのを眺め、坂本は空を仰ぐ。
やけにしみる夕日を逆光にした、見覚えのあるシルエットに目を見張るが、眩しさのあまり顔をそらす。
「久しぶりね、美緒」
その声とともに、坂本の腕にそっと腕が回される。
「醇……子」
光点がちらちらと浮かぶ坂本の視界に、彼女にとっては懐かしく、そして、もっとも会いたかった人物の笑顔が収められる。
坂本へと距離を縮めていたペリーヌはその様子に驚いて、その場に留まる。
坂本の頬と耳から流れる血が彼女の白い軍服に赤いしみをつけている。
ぴくりと坂本の肩が動くのに気づいて、ペリーヌは心の中で叫んだ。
やめて――
しかし、彼女の願いもむなしく、坂本は慎重に大切そうに引き寄せた醇子の背中に手を回した。
不意にペリーヌは思い出す。
坂本が扶桑の事を話す際によく口にした名前を――
「はじめまして、竹井醇子です」
その声にペリーヌは見上げていたはずの醇子と坂本が高度を落とし、ペリーヌの目の前にやって来たことにようやく気づく。
空の色と相まってか、差し向けられる醇子のあたたかな笑顔に、ほんの少し前の身勝手な考えに恥を覚える。
しかし、その考えとは裏腹に、表情は言う事をきかず、なかば疎ましげな視線を醇子に投げた。
坂本は醇子から離れ、ペリーヌの肩に手を置いた。
「どうかしたか?」
「いえ……。少し、疲れただけです。血が…」
ペリーヌは震えそうになっている声に気づかれぬよう、唇を引き締めながら言葉を発し、血で汚れた坂本の頬にハンカチをあてがった。
二人を眺める醇子の笑顔に寂しさが混ざる。
「あの時……?」
見当がつかないといった様子で坂本が眉をしかめた。
醇子はかすかに目を張って、絡ませた腕をするりと離し、坂本の肩の向こうに、あの日ペリーヌに差し向けられた視線を思い出す。
大事なものをとられた、そう言いたげな顔だった――
記憶の中のペリーヌの表情が鮮明になるにつれ、つい顔に渋さがにじみかけるが、坂本のまなざしにそれ以上の疑問が混じらぬ前に、より距離を置くよう彼女の前に進み出た。
あの日以来、醇子が選択した距離感を保つために。
坂本はさきほどまで醇子が身を寄せていた腕を無意識にひとなですると、歩き出した彼女を追いかけた。
第23話 終