ハルトママンの日
日曜日の朝のことだ。
床になにかを盛大にぶちまけた音で私は目を覚ました。
時計を見ると、6時を少し回ったところだった。
なんだというのだろう? 今日くらい、ゆっくり寝ていたかったのに。
あの人は夜勤で家にはいないし、泥棒としたら時間はずれだろう。
とすれば、残りは一人しかいない。
ともかく私は、音のしたキッチンへと向かった。
――けれど、そこにいたのは二人だった。
ウルスラ、それにエーリカ。
先月、7歳になったばかりの、双子の娘たち。
そうだった。私の娘は二人いたのだ。
忘れていたのではない。一人を見当に入れていなかったのだ。
いつもなにをしても一向に起きない、ねぼすけのエーリカの方を。
それが、こんな朝っぱらから目を覚ましているということ自体、私には驚きだった。
この子だけではない。ウルスラにしたっていつもなら寝ている時間だ。
それに今日は日曜日なのだ。学校は休みなのに。
「母様、もう起きちゃったの!?」
「姉様がうるさくするから……」
「だって――」
二人はそのまま、口げんかでも始めてしまいそうだ。
そんな二人の足元には、ひっくり返った鍋と、その中身であったらしい食材がこぼれている。
「なにしてるの?」
訊かずともその有り様を見れば、なんとなく二人がやろうとしていたことはわかる。
けれど、頭がそれを拒否していた。
そんな私にかまうことなく、二人は声を合わせて答えた。
「「朝ごはんつくってる」」
ああ、そう。そうよね。見ればわかるわよね。
私は窓の外を確認した。晴れている。
なのに、なんだというのかしら? この子たちは。
とにかく。散らかしてくれた床を片づけないといけない。
「なにやってるの、まったく」
私は二人の方へと歩みよろうとして――けれど、それは途中で遮られた。
「だめ」
ウルスラが私の腰のあたりに手を回して、立ちふさがってきたのだ。
「今日一日、母様はゆっくりして」
たかだか7歳の力だ。振りほどいてしまうことはたやすい。
けれど私は、そうすることができなかった。
「どうしたの?」
「今日はMuttertagって日だって、学校の先生がいってた」
今の学校はなんてことを教えてくれるのか。そうか、今日はそんな日だったわけね。
だから朝ごはんを作っているのか。私のかわりに。
「だから、母様はなにもしないで」
「でも……」
「しんぱいないから」
まるで自分に言い聞かせるよう、ウルスラは言った。
私のため(なんと甘美な響きだろう)に娘たちがなにかをしてくれる。それは素直に嬉しいことだ。
その気持ちだけでもう、私の胸はいっぱいになる。
でも、この子たちにそんなことさせて、本当に大丈夫なのだろうか――
無理だわ。間違いなく。
ただ事で済むわけがない。確信にかぎりなく近い予感がする。
だってこの子たちはこんなこと、生まれてこの方やったことないんだもの。
それでも、今度はエーリカが言ってきた。
「へーきだって。私たちにまかせて」
まかせてと言われてもねえ……。
こういうのをなんと言うのか、私の頭にある言葉が遮った。
――けれど、それを口にはしなかった。
「わかったわ。……けど、本当に大丈夫なの?」
二人は顔を見合わせて少しの時間考え込み、そして言った。
「「がんばる」」
やはり懸念のとおり、大丈夫なんかではけっしてなかった。
けれど言葉のとおり、二人とも本当に頑張ってくれている。
私は食卓の椅子に座り、じっと二人を見守っていた。
そわそわする。とても気が気じゃなかった。
包丁で手を切ってしまったら……、火なんか使って火傷してしまったら……。
不安が不安を呼び、すっかり私の全身は暗い気持ちに支配されていた。
何度声をあげ、どれほどもうやめてと言いかけそうになったことか。
ゆっくりなんて、できるわけがなかった。
「母様、できたよ。ちょっとおそくなったけど」
エーリカはそう言って、食卓に皿を並べていく。ウルスラもそれを手伝う。
もちろん、かかった時間はちょっとどころではない。
並べられていく“それら”に目を落として、いささか私は苦渋を浮かべてしまった。
スクランブルエッグ……のつもりなのだろう。もはやそれは、消し炭と言った方が近い。
他にも不気味な色をしたスープに、見てくれの悪いサラダ。まともなのは買ってあったパンだけだ。
「ささ、食べて食べて」「母様、食べて」
4つの瞳が私に向けられ、口々に言ってくる。
この子たちときたら、こんなものを人に食べろというのか。
私はそれを残さず食べた。
もちろん、それだけでは終わらなかった。
掃除に洗濯、食器洗いに庭の草むしりもしてくれた。
私はすっかり任せることにした。
この際だ、めいいっぱいこき使ってやろう。そんな気に変わっていた。
何一つとしてまともにできないけれど、それは本人たちだってようくわかっていたはずのことだ。
それでも彼女たちは言ってくれたのだ。
私たちにまかせて、と。がんばる、と。
それはすべて、私のことを思ってのことだもの……結果はともかくとして。
顔がほころんでしまって、なにをやらかしてくれても、これじゃ怒るに怒れない。
逆に仕事を増やしてくれちゃって……。
明日のことを思うと頭が痛い。やはり、受け取るのは気持ちだけでよかっただろうか。
後悔がないでもないけど、やはりそれは些細なものでしかない。
年に1回くらい、こんな日があったっていいと、そう思うことにする。
どれだけ手を焼いても、それは私にはなんの苦にもならない。むしろ私は、それを望みさえする。
つくづく実感せずにはいられない。
ああ、やっぱり、この子たちを愛している。私ってとんだ親馬鹿だわ、と。
一仕事終えた二人はといえば、寄り添うようにソファーに腰掛け、ぐっすりと眠ってしまっている。
やれやれ。今日はまだ半分以上残っているというのに。
まあ、慣れないことをして疲れたんだものね。今日は早起きだったのだし。
やっぱりその言葉のとおりだった。
“ありがた迷惑”。
だからこそ、眠れる愛しい娘たちに毛布をかけて、その言葉を伝えた。
「ありがとう、二人とも」
食卓に飾られた花が目に映る。
赤いカーネーション。
数日で枯れてしまうその花を思うと、ふいに物寂しい気持ちに襲われた。
そんなことわかりきっているのに。なのに、なぜなのだろう?
仕方ないと割り切れたら楽なんだけど。
それと同じに、この子たちだっていつかは大人になっていく。それもまた、私を物寂しくさせた。
けれど、心の灯火は消えることはない。
この思い出は心の中で永遠に生き続ける。
だから私は今日この日のことを、新しい5月をむかえるたびに思い出すに違いない。