エース #02
夕暮れ時を過ぎて、陽はそろそろ完全に落ちる。夕闇が空を包み、ゆっくりと暗くなっていく景色。芳佳はこの光景がたまらなく好きだった。
結局エーリカの部屋の片付けはこんな時間まで長引いてしまった。時計はもう五時を指し示しており、日の短いこの時期では外はほぼ真っ暗である。
少しだけ残るオレンジが、哀愁を漂わせている。――― 一日も、もう後半に突入している。
「すまんな宮藤、こんな時間まで掛かってしまって……予定も丸つぶれだろう」
「いえ、楽しかったですし、大丈夫です」
「そうか……この後はどうするんだ?」
「夕食まで少し時間が空きますね……夕食は今日は私が作ろうかと思ってます」
久しぶりに、みんなに和食を食べてもらおう。納豆が不評なのは腑に落ちないが、まあ自分や美緒が食べる分には文句は出ないので良しとする。
その後は夜間訓練飛行に出て、それが終わったら風呂であとは寝る。明日からまた復帰するので、いつも通り体の調子は整えておかなくては。
それらを一通り告げると、ゲルトルートは少し悩むそぶりを見せた後顔を上げた。
「もし良かったら街まで買い物に行かないか? 食材がそろそろ底をつくし、私も買い物があるのでな」
「はい、喜んで! でも意外ですね」
「何がだ?」
「バルクホルンさんにお誘いを受けるなんて思いませんでした」
まさか街に行こうなんて。あってもせいぜい模擬戦の申し込みぐらいのものかと思ったが、予想外だった。ゲルトルートも自覚しているのか、苦笑して
応えた。どうやらゲルトルートが運転して車で乗せていってもらえるらしい。
そういえば、とふと思う。
「バルクホルンさんと二人で何かってしたことありませんでしたね」
「はは、まあそりゃあな。階級も全然違うし、戦闘スタイルからなにまで全部違う。共通点といったら髪の色ぐらいじゃないか?」
「目の色も同じだってリーネちゃんが言ってました」
「まあその程度だろうしな、同じことなんてそうそうないさ」
そう話すゲルトルートの顔は明るく、どこか楽しそうだった。自分と一緒に行動することを楽しんでくれているようで、芳佳としてはこの上嬉しいことは
ない。『誰かを守りたい』、『誰かの役に立ちたい』からウィッチーズ隊に入ったのだ。こんな形でそれが叶うとは、それも予想外だった。人とのつながり
というものは意外で、そして大きい。
こんなに穏やかで楽しい日々を過ごせるのは、やはり平和が訪れたからなのだろうか。あの戦争の間はとてもゆっくりなど出来なかったから、余計に
こうして緩やかに過ぎる日々が穏便に感じるのかもしれない。特に戦争終期は自分の言動に大きな責任を感じて、なかなか辛い日々だった。基地から退去
する時に目を覚ましたとき、誰も責めてこなかったのには本当に胸が痛んだ。自分のせいで皆は翼をもがれたのに、お前のせいだと問い詰められても
仕方なかったというのに。それこそ、美緒が墜とされたときのペリーヌのように――。
だがやさしく見守ってくれた仲間たちのお陰で、今でもこうして笑っていられる。信じてくれた友たちのお陰で、こうして平和なときを過ごせる。
本当に、自分だけでは何も出来ないとつくづく痛感させられた。……それが今のこの幸せを、ますます大きくさせているのだろうか。仲間と一緒に笑って
いられること、それが本当に心から幸せでたまらない。
「……どうした?」
「へ?」
「顔がにやけているぞ」
「……バルクホルンさんが昼間考えてたのと似たようなことだと思いますよ。平和だなって思っただけです」
別に包み隠すことでもないので、流すように適当に言う。ゲルトルートも深く頷いて、微笑しながら天井を見上げた。それはどこか嬉しそうで、
楽しそうで、そしてとても穏やかだった。
「あぁ……戦いのないことの、なんと素晴らしいことか」
「――カールスラントも、今頃復興が進んでるんでしょうか」
「ああ、間違いないだろう。もう一度この足で祖国の地を踏めると思うと、胸が高鳴ってたまらんな」
目を瞑りながら歩くゲルトルートは、祖国の生まれ育った故郷を思い返しているようで。懐かしそうに微笑む横顔が、芳佳には鮮やかに映った。
自分は幸いにも、祖国を占領されたりはしていない。そのせいで、あいにく今のゲルトルートの気持ちを完全に理解することは出来なかった。だが
この基地を追われるように出て、ウォーロックと戦って、すべてが終わって―――。再びこの基地に戻ってきたときの喜びは、とても言葉で表現できる
ものではなかった。それと似たようなものだろうか。
そんなことを言ってみせると、そうかもしれん、と笑ってくれた。
「私にとってはここが第二の故郷みたいなものですから」
「第二の故郷、か……私はもう、ここを『ふるさと』と呼んでも支障がないぐらいだ」
「そんな、生まれた街を捨てちゃ駄目ですよ」
笑いながら、そう言った。対してゲルトルートは一瞬顔を陰らせて、しかしまるで何事もなかったかのように笑い飛ばした。祖国を捨てるとは、私も
カールスラント軍人として失格だな、そう言って。
話しながら歩いているうちに車に到着し、二人は乗り込むと夕日の残る空を横目に見ながら基地を出発した。ブリタニアの街はいつでも活気付いていて、
戦時中でもその活気が止むことは決してなかったという。芳佳としてはその街を見に行くこと、そしてゲルトルートの買い物、どちらも魅力的だった。だが
そんなことより、今はさっきのことが気がかりだった。――ゲルトルートが一瞬陰らせた顔が、本当に一瞬だったにも関わらず脳裏に焼きついて離れない。
「あの」
「ん? どうした」
「もし……もし触れちゃいけないことだったら申し訳ないんですけど」
「なんだ、言ってみろ」
微笑しながら答えるゲルトルートに、本当に尋ねていいものかわからず……それでもここまで言った以上は聞くべきだろう。芳佳は遠慮がちに、ゆっくり
口を開いた。
「……バルクホルンさんの『ふるさと』って、何処にあるんですか?」
「っ!」
聞くなり、ゲルトルートは顔を強張らせる。やはり、聞いてはいけなかったことだろうか。遠まわしにではあるが、恐らくゲルトルートは先ほど顔に
出てしまったことを聞かれているとわかったのだろう。生まれた街を捨てる、ということに対して何か負い目があるのかもしれない。そこまで立ち入って
話を聞けるほどの間柄ではないため聞いていいものか迷ったが、まあ言ってしまった以上は仕方がない。ゲルトルートがどう返してくるかを待つしか
ないだろう。
……少しの間を空けて、ゲルトルートの顔がほころび苦笑に変わる。
「……目聡いな。一瞬だけ顔に出たのは分かったが、まさか見抜かれてるとは」
「分かりやすいですもん」
「……実はな」
改まったようにゲルトルートが、少し間を空けて話し始める。芳佳は椅子に深くもたれかかり、聴く姿勢に入った。
「―――実は、生まれた場所がどこか、育った場所がどこか……思い出せないんだ」
クリスが生まれて、妹が出来たと喜んで。あの時にはすでに、あの街に住んでいた。今でも覚えている、ネウロイに焼き尽くされた真っ赤に燃え盛る
住み慣れた街―――。まだ平和だった頃は毎日楽しくて、妹のクリスにはよく自分の生まれた場所なんかを話していた記憶がある。生まれた場所がどんな
風景で何が近くにあって、どんなことをして遊んでいたか。今思えば、それも又聞きしたことでしかなかったような気もする。クリスとの年の差を
考えると、自分の記憶であった可能性も又聞きした記憶であった可能性もどちらもありえた。いずれにせよ、あの日までは昔の記憶があった。
……それがきれいに全部吹っ飛んで消えてなくなったのは、ネウロイに街が襲撃されたあの日だった。すべてが焼き尽くされ、その光景が記憶をすべて
埋め尽くしていく。『記憶』が『今』に燃やされていく―――脳が悲鳴を上げ、激しい頭痛に襲われた。何を守れたのか、何が残ったのか、自分がそこで
何をしたのか、何ができたのか……目の前が真っ白になって、もう何を考えればいいのか分からなかった。ただ気がつけば、我武者羅に突っ込んでいった
結果敵を撃墜していた。白い破片が降り注ぎ、そして……燃え盛る街の中央に、愛しい妹の姿を見つけて。
急いで駆けつけたまでは良かったが、その後自分も半狂乱になってしまったのがいけなかった。お陰で、そのまま保護すればすぐ助かったものを
昏睡状態に追い込んでしまった。それからしばらく立ち直れず、何をどうすればいいかまったく分からず。芳佳と出会いその価値観が大きく変貌するまで、
ずっとあの日のことで頭がいっぱいだった。そのせいで、いつの間にかあの街に住むより以前の記憶――――いや、もっと言えばクリスが生まれるより
前の記憶がきれいさっぱり抜け落ちてしまったのだ。
「自分でも思っていた以上にショックだったらしい。まあ、思い出せないものをいつまで考えていても思い出せるものではないしな」
「……」
「最近はもう諦めているんだ。いつか思い出せればそれに越したことはないが、ここまで考えて出てこないんだ。そう簡単に出てくるモンじゃあない」
何度となく思い出そうとした。焼け跡から見つけた自分の愛用品、自分の周囲にいた人物で生き残った人、さまざまなものを片っ端から調べて回った。
住民票やらなにやら、全部を探して回った。それでも、自分の記憶を証明するものはあっても記憶そのものは戻ってこなかった。写真でもあれば或いは
思い出せたかもしれないが、全部焼失してしまった。
クリスが目覚めてからも、何度かクリスに聞いた。私は当時お前になんと教えたのか、と。……聞いても聞いても、何度聞いても。その情景は全く
頭に浮かばず、思い出すどころか想像すら出来なかった。ここ数日はさらに悪化して、思い出そうとすると何かに躓いて思い出せなくなり、その結果ひどい
頭痛と眩暈に襲われるようになった。
―――芳佳が入りたての頃、ミーナに『クリスの知っている姉はあの日死んだ』と言った。あれはある意味で事実だったのだ。幼い頃の自分はもう
記憶の中にも存在せず、自分が何の基盤の上に立っているか分からない。幼少時代の自分はもう、『死んだ』のだ。
「情けないな、本当に」
……まるで疲れた老人のように話すゲルトルートに、芳佳はどう声をかければいいのか分からなかった。そんなに深刻なことに自分は陥ったことがないし、
記憶の欠如なんて話に聞いただけで実際にそんな人なんて会ったことも見たこともなかった。それが、こんなに身近なところに居たのだ。正直、なにをどう
言えばいいのか分からない。
「すまない、私のせいで空気が悪くなってしまったな。別の話でもしよう」
「……いえ、言い出したのは私ですから。気にしないでください」
それでも。
なにかこの人にしてあげられることはないかと、必死で模索する自分が居る。
経験もしたことないし、話に聞いたことも『耳にしたことがある』程度だ。分かるわけなんてないのに―――それでもどうにか力になりたい。
……だが、どうしても。考えれば考えるほど。
―――それは、無理な話だった。
「……思い出すきっかけになりそうなものすら、出てこないんですよね」
「物的証拠はいくつか出てくるけどな。さっきも言ったとおり、思い出そうとすると頭が痛くて仕方ないんだ。まるでこれ以上深入りするなと言っている
かのようにな」
まるでマロニーに脅されるミーナのようだ、と苦笑しながらぼやくゲルトルート。だが芳佳がいまいち腑に落ちないのは、今頃になってようやく頭痛が
訪れた点である。もしそれが『思い出す』という行動に対して発生するだけならば、ずっと起こっていてもおかしくないはずなのに。なぜ最近になって、
今頃頭痛が発生するのか。
ゲルトルートは「特にここ数日は」という言い方をしていた。ならば、ここ数日で大きく変化したことが何かあるのではないか。……探してみるが、
クリスがウィッチーズ隊に入隊したことぐらいだった。クリスが近くに来ただけならば、ゲルトルートも何度も過去のことについては聞いているらしいので
特に変化にはならない。まあもしくは、『昔のこと』に絡んでいるクリスが近いから頭痛などの現象が起こるのかもしれないが。
「お前は」
「え?」
「お前は……絶対に忘れるな」
ゲルトルートは、まるで決意した戦士のように鋭い目で――――しかしそれは虚で、本当はとても悲しそうにそう言った。芳佳はそれを聞いて、もう
何も言えなくなった。……『諦めた』と言いながら、この人は悲しんでいるのだ。そういえば、諦めたのなら『ここ数日』になぜ頭痛がするのかが
おかしい。――きっと毎晩、必死に思い出そうとしては激しい頭痛と眩暈と、下手をすれば吐き気なんかにも襲われているのだろうか。
なんとかしてあげたい。助けてあげたい。救いの手を差し伸べてあげたい。そんな気持ちばかりが先に進んで逸るが、しかしやはりどう考えても自分に
出来ることなんて何一つなかった。思えば思うほど、考えれば考えるほど、何も出来ない事実が浮き彫りになっていく。……そんなただ無力なだけの
自分が、酷く残酷で悔しく思えた。
「……どうした?」
「――――っ、は、はい?」
「いや、なにか思いつめているようだったからな。もし私が原因なら謝るが」
「いいいいえ、そそそんなことはッ!! ……私が自分で墓穴掘っただけなんで」
あはは、と苦笑して見せた。だがその瞳の奥で揺らいでいた気持ちは、どうやらゲルトルートには隠しきれなかったらしい。全く、目聡い人だ。
そういえばゲルトルートも、さっき自分に目聡いと言っていた。もしかして案外、気が合うのかもしれない―――そんなことをぼんやり考えた。
「……嘘は良くない」
「ゔっ」
「全く、お前は変なところで遠慮するなぁ……。ほら、言ってみろ。言えば楽になるぞ」
「うー」
余計な気を使わせてしまいそうだし、出来れば言いたくはなかったのだが……ここまで問い詰められてしまっては回避のしようもない。仕方がないので、
渋々ながら口を開いた。
「……どうにかしたいなって」
「私にか?」
「はい……バルクホルンさんがそんなに苦しんでるのに、私にはなにもできないのかなって……そんなことを」
はぁ、こんなこと本人の目の前で言うことじゃないのに。内心そうぼやきながら、芳佳は気恥ずかしくなってゲルトルートから顔を背けた。すると
少しして車が停車する。何かあるのかと思って前を見てみたが、道のど真ん中で何もない。強いて言うなら、街の明かりがだいぶ大きく見えてきたこと
ぐらいか。
……ぼーっとしていると、突如頭の上に手が乗せられて一瞬驚く。ゲルトルートの方に目をやると、彼女は目に涙をためながら―――笑っていた。
「……ありがとう」
「へ?」
「私なんかのために……すまんな、ありがとう」
一瞬何のことか分からなかった。自分が感謝されているんだと気づいたのは十秒ぐらい経ってからで、そしてふと気づけばいつの間にか頭だけ
抱かれていた。それはとても軽く、スキンシップにも入るかはいらないかその程度だったが――――頭に乗せられた手と、僅かに服から感じられる彼女の
体温は酷く冷たかった。そしてそれがゆっくりと暖かくなっていくのを、ぼんやりと感じ取った。
……そうか、これが今の自分に出来ることか。冷え切った彼女の体を、ゆっくりと温めてあげる。それが今の『わたしにできること』。
芳佳はゆっくりゲルトルートの背中に手を回す。ゲルトルートも一瞬驚いて、だがその意図を理解して……芳佳を抱きしめた。それはどちらかというと、
『ゲルトルートが芳佳を抱きしめた』というよりは『芳佳が抱きしめられてあげた』と表現したほうが正しいのかもしれない。
……頬に一滴、涙が零れ落ちた。ゲルトルートのものだった。彼女は必死で声を殺しながら、泣いていた。理由は分からない、悲しんでいるのか
嬉しいのか。今の芳佳には分からなかったが……それでも自分を抱きしめて、肩を震わせているこの人は―――この少女は、私が守っていかなくては。
そのために、もっと強くなろう。強くなって、この人が進むべき道を今度は自分が切り開こう。未熟だった自分に『故郷に帰れ』とまで言って、強くなる
意志を与えてくれたこの人のために。今度は、自分がこの人に強い意思を与えてあげよう。
「……っ」
「え?」
ゲルトルートがなにかを言ったような気がして、しかし聞き取れなかった芳佳は思わず聞きなおした。
「……ありがとう、芳佳――」
……名前で呼ばれた気がした。
全く、いつもこの人はいきなりだ。突然出てきて『故郷に帰れ』と言い出したり、突然ズボンを脱いで『私のを貸してやろう』と言い出したり、突然
ストライカーユニットを履いて『病院に行ってくる!!』と豪語したり……。でも、それも賑やかでいいと思える。まあ、常日頃からそんな感じのエーリカや
ルッキーニはそれはそれでどうかと思うのだが。
ともあれ、名前で呼んでもらえたのだ。それだけ相手が自分のことを認めてくれたのだろう。ならば、こちらも相応の態度で応えるべきだ。
「……いえ、これぐらいしかできませんが、お力になれればいつでも頼ってください。トゥルーデさん」
「っはは、なんだかお前にその名で呼ばれると気恥ずかしいな」
「むー、トゥルーデさんに名前で呼ばれるのもなんだか落ち着きません」
「じゃあ宮藤でいいか」
「そ、それはそれで悲しいですーっ」
……目と鼻を赤くしたゲルトルートが、ようやく芳佳を解放した。正直気温的に寒い芳佳としてはもう少しぬくぬくしていたかったのだが、それは
あくまで副作用だったので素直に諦めることにする。
「すまんな、苦しくなかったか?」
「全然。むしろ今寒いので暖かかったぐらいです」
「なんだ、寒いならそう言え」
「……トゥルーデさん、すぐ自分のもの人に貸そうとするから……」
言っているそばから、上着を渡してくる。断るのもなんなので仕方なく受け取るが、こうして人に世話を焼かれるのは正直慣れない。嬉しいのは当然
なのだが、どうも慣れないのだ。もう何度もいろんな人に世話を焼いてもらっているのに、そのたびにどぎまぎしてしまう。人に好意を振りまくのは
好きだが、人からの好意を受け取るのは苦手だった。
「それで大丈夫か?」
「トゥルーデさんは大丈夫なんですか」
「あぁ、お前と違って体が丈夫なんでな」
「うー……なんか屈辱的」
そう思うならもっと強くなれ、と頭を撫でられた。先ほどは自分が守らないと、なんて思ったりもしたが……やはりこの人には敵いそうもない。頭を
ぽりぽりと掻きつつ、それでも先ほど見せてくれた『弱さ』を今度は誰にも見せなくて済むように。いずれにしろ、いつかは自分が前に立って彼女を
導こう。そんなことを、顔に出ないように極力気をつけながら心の中でひっそりと決心した。……早速、今晩から訓練メニューを増やそう。体が持てば
いいのだが……そのためにはまたランニングをがんばる必要がありそうだ。いろいろと考えていくと、やはり課題は山積みである。
「ああぁー……もっと基礎体力があればなー。いろいろ出来るのに」
「そうだなぁ。お前はいろいろやる前にまだ決定的に基礎が足りてないからな」
「うーん……」
「まあ、それでもあの化け物と対等に張り合ってたのは純粋にすごいと思ったぞ。芳佳もここまで来たか、と」
恐らくウォーロックのことだろう。美緒もあの時、ウォーロックのことを化け物と呼んでいた。まあ確かに、体力がそろそろ限界でいったん休憩が
欲しかった頃に容赦なく撃ってきたりと化け物級だったが。
再発進した車は、まっすぐ街へと向かっていった。車内では、二人の声が絶えず響く。今夜は明るい夜が訪れそうである。
- - - - -
「うーん、芳佳ちゃんもバルクホルン大尉も遅いなぁ……」
「あら、今日はリネットさんだけなんですの?」
「あ、ペリーヌさん」
厨房でデザート類を作っていたリネットは、今日は私たちで用意するといっていた芳佳とゲルトルートが遅いのを心配していた。まあ、夕食の時間には
まだ全然早いので問題ないのだが。ちなみにそんな早い時間にリネットが厨房に居るのは、二人が料理を始める前に先にデザートを仕込んでおくのが目的だ。
結果として、まだ帰ってこないので全然余裕なわけだが。
ペリーヌはペリーヌで、一足先に今日の業務を終えたため何か作ろうかと思っていたところだった。芳佳とゲルトルートが作るとは知らなかったため、
無駄足だったとため息をつく。それでも何か一品作ろうかと思い至り冷蔵庫を開けたところ、スッカラカンなのに絶望した。
「……で、宮藤さんが買い出しに行っているわけね」
「それはいいんですけど、まだ帰ってこなくて……まあ、出て行ったの自体がちょっと遅かったので仕方ないんですけど」
「それまで暇になるわねぇ……それかあるもので作ってしまおうかしら」
見たところ、全く作れないほどではなかった。まあ、オードブル程度しか作れないが。いずれにしろメインは二人の作る料理なのだから、小さいもので
構わない。いっそコース風に数人でいろいろ作っても良いといえば良かったが、ゴチャゴチャして統一感のない食卓になるよりは誰かがまとめて作ったほうが
いいだろう。仕方がない、今日は諦めることにする。
「しかしそれだけ遅くなると、結構な荷物を持ってきそうね」
「冷蔵庫の中身的にもそうなりそうですねぇ」
「仕方ありませんわね、帰ってきたら手伝いま―――
そこまで言って、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。きっと芳佳だろう。案の定、姿を現したのは――
「ごめーん、遅くなっちゃった! 悪いんだけど運ぶの手伝ってもらっていい?」
「今丁度そうしようって話してたところですわ」
「あ、ペリーヌさん! すみませんーっ」
「車まで取りに行けばいいの?」
恐らく、ゲルトルートを残してとりあえず人手を確保に来ただけなのだろう。急いでいる様子だったので、リネットもペリーヌも急ぎ足で車へ向かった。
最近はペリーヌも随分芳佳に対して丸くなった。といっても相変わらず吹っ掛けるのに変わりはないのだが。それでも、以前のようにいきなり決闘を
申し込んだりはしなくなった。それにちんちくりんだの豆狸だのと呼ぶこともなくなった。
リネットは輪をかけて芳佳と親交を深めていたが、ここ最近はクリスの関係でゲルトルートと芳佳が絡むことが多くなっているのが気がかりだ。やっと
だいぶ進展してきたというのに、ここで茶々を入れられては困る。地味に美緒に対するペリーヌとほぼ同化してきていることに気づかない本人は、心の内で
嫉妬心をむくむくと成長させているのだった。
「トゥルーデさん、お待たせしましたー」
「ん、ペリーヌも居るのか。助かる」
「これ全部運べばよろしいんですね?」
「ああ、頼む。リネットはそっちを頼んだ」
「……分かりました」
リネットの返事に間があったのは無論『トゥルーデさん』があったから。まあ芳佳もゲルトルートも気づいていないが。
四人で運ぶことは想定していなかったので、三人で二回の計六箱に分けておいた。だがその必要もなくなり、芳佳とゲルトルートが二箱持つことで全部
運ぶことが出来た。全部厨房に運び入れ、箱から出して一つ一つ冷蔵庫にしまっていく。すると丁度美緒が通りかかり、人手は多いほうがいいだろうと
手伝い始めた。結局五分も掛からず片付け終わり、リネットのデザートを崩さないように気をつけながら芳佳は調理を始めた。
「あれ?」
「ん、どうしたの?」
「……バルクホルン大尉と一緒に作るんじゃなかったの?」
「何?」
ゲルトルートが立ち去ろうとしたとき、リネットが首を傾げながら芳佳に尋ねた。ゲルトルートも首をかしげて振り返るが、そんな話は誰からも聞いて
いない。別に芳佳との間でもそんな話はしていなかったし、他に誰かとそんな話をした記憶もない。
「……そんなこと全然決めてないけど?」
「あれ? え? え?」
「どこからそんな話が……」
「……ハルトマン中尉もミーナ中佐も坂本少佐も、皆言ってましたけど……」
……何故だ。何故そんな話になっている。
しかし隊長やら何やらがそんなことを言っているのでは、二人で作業せざるを得ない。止むを得ずゲルトルートは厨房に入ると、芳佳に何か出来ることは
無いかと尋ねた。和食に関しては何も分からないので、とりあえず食材の下ごしらえをすることにする。
料理なんて、どれだけ振りだろうか。最近は面倒なのでジャガイモを茹でて皮をむいて終わりにしていた。それでも皆は文句のひとつも言わずに
美味しそうに食べてくれていたのだから、本当に自分は恵まれた環境に居ると思う。夕飯の担当なんて最初のうちしかせず、最近は全くしていなかったのに
誰もそれを突っ込まない。まあ、芳佳が来てからはリネットと芳佳が担当することが多かったので問題はなかったのだが。
包丁なんてどれだけ振りに握っただろうか。イモの皮なんてコツさえ分かっていれば切れ目を入れるだけで剥けてしまうので、包丁を食材を切るのに
使ったのは本当に久しぶりだった。そういえばいつだったか使った記憶があったが、いつのことだっただろうか。確かアイントプフを作って――――
「ッ!!!」
突如目の前が真っ暗になり、包丁を落としかける。危ういところだったがなんとか机にたたきつけて落とすことを免れると、そのまま前のめりに
倒れこんだ。鋭く重い痛みが頭を駆け巡り、眩暈と吐き気が湧き上がってくる。意識が遠のき、まるでこれでもかというほどハンマーで頭を殴られて
いるかのようだった。
……遠くで誰かの声がする。必死に何かを叫んでいる声がするが、あいまいにぼやけて何を言っているか分からない。全身から力が抜け、立つ事も
ままならず―――――体がゆっくりと落ちていくのが感じられた。ずるずると沈んでいき、床にぺったりと座り込む。しばらくその体勢のままで……、
それでも一向に引く気配のない痛みについに声が漏れてきた。
「っが……あ゙あ゙……ッ!」
必死に頭を押さえる。意識は遠く消えそうなのに、どこかはっきりと覚醒している。それがますます苦しくて、やがて頭を駆け巡っていた痛みは
全身にまで回っているのに気づいた。体中が痛くて熱くて、どうすればいいのかが分からない。とにかく助けて欲しかった。誰かに優しく抱いて欲しかった。
誰かの体温が恋しかった。真っ暗な闇の中で激しい痛みに包まれて、周りの音も聞こえず恐怖で体が凍えていく。高い耳鳴りがあちこちから響き、徐々に
気が狂い始める。……一体、自分の体に何が起きているのか分からない。
ついに覚醒していた意識が朦朧とし始める。今度こそ、本気で意識が遠のく。音が聞こえてきそうなまでに揺さぶられているような頭が、なんだか自分の
ものではないように思えて……。
「あ゙あ゙あ゙あ゙ぁぁあ゙ぁッ―――!!」
地の底から響くような呻き声が漏れる。もう駄目だ、これ以上は耐えられない。気が狂って暴れだす前に、さっさと意識が途絶えて欲しかった。これ以上、
誰かに迷惑をかけることは―――――!
……不意に、痛みがすっと引いた。全てがまるで嘘だったかのように引いていき、暖かい何かに包まれる。体温を失った体が温度を取り戻し、遠のいて
いった意識が体に戻ってくる。それはどこか懐かしい感覚で、それを思い出そうとして……また痛みに襲われるのではないかと一瞬恐ろしくなった。だが、
どこからか聞こえる声が勇気をくれる。……これはきっと、自分の名前を呼んでいる声だ。不思議と、この声が背中を押してくれる。
……相変わらず目の前は真っ暗だ。目を開けようとしても、この暗闇を手放してしまうことが怖くて開けられない。代わりに、懐かしさがどこから来た
ものなのかを探ろうとする心は大きく肥大化していく。
今度こそ、勇気を振り絞って。ゲルトルートはゆっくり、意識の中で手を伸ばしていった。暗闇の中に吸い込まれていくように、その手を差し出して――。
『トゥルーデ……大丈夫……?』
誰かの声が聞こえた。それはとても懐かしくて、とても頼れて、何より愛しくて……。
『もう大丈夫……私がついて……から……』
微妙に途切れ途切れで聞こえず、声自体もかすれて遠い。それでも、この感覚はどこかで知っている。そう、例えれば何かの恐怖に襲われたとき、
母親に抱きしめられて慰められる子供のように――――。
『怖くなんてない…………大丈夫……』
……母親に抱きしめられて慰められる子供……?
それはあまりに具体的すぎる例のような気がして、なにか思い当たる節がないかを探した。そして――――
「……母さん……?」
昔怖い夢を見たのを思い出した。クリスなんかよりももっともっと幼かった頃、金縛りにあって体が動かなくなって。怖くて怖くて、震えて泣いた
事があった。あの時は体が痛いように感じられたが、考えてみればただの金縛りだったように思う。
――それを思い出した時、まるでパズルのピースが見つかったかのように全てがぽつぽつと浮かび上がってきた。幼い頃の記憶、クリスや周りの
人たちから聞いた情景が次々と目に浮かぶ。そうだ、ここは私の故郷、カールスラントの―――――!
「トゥルーデさんっ!」
……次に耳に飛び込んだのは、明瞭に聞こえたその悲痛な叫びだった。思わず目を開けて、今の状況を把握する。
「あ……?」
……見ると、自分は芳佳の胸の中に居た。右手をまっすぐに伸ばしていて、芳佳がそれを握っている。そうか、暖かかったのはこれが理由か。そんな
ことをぼんやりと考えながら、まるで他人事のようにぼーっとしていた。
――――あぁそうか、金縛りにあって怖かったあの時、母さんが優しく抱いてくれたんだっけ。痛くて、苦しくて、怖いとき、母さんは抱いてくれたんだ。
そうか、さっきの私は確かに痛くて、苦しくて、怖かった。芳佳が私を抱いてくれたから――――
「トゥルーデさんっ……大丈夫ですかっ……」
涙ながらに訴えてくる芳佳の声が、耳に残る。……どうやら、また助けられたようだ。それも今度は半端なことではない。ずっと思い出せないと思っていた
記憶が、ようやく戻ってきたのだ。
「……ああ、大丈夫だ。心配かけてすまないな」
予想外にはっきりとしゃべれたことに自分でも驚いた。芳佳の頭を何度か撫でてやって、でもそれは逆に今自分がされるべきことじゃないかと思った。
こう言うのも変だが、今の芳佳は――――ある意味『母親』なのだ。あの頃の記憶を思い出させてくれた、あの時の母親と同じことをしてくれた人。だから、
きっと今は自分が芳佳を慰めるべき時ではない。……自分が芳佳に、慰めてもらうときなのだろう。
「いきなり倒れたからびっくりしたんですよ? もう大丈夫だって言ってみても返事がないし……」
「すまない、ちょっと思い出したことがあってな。……悪いんだが、少し撫でてもらってもいいか?」
「へ? い、いいですけど……どうしたんですか?」
「力になれればいつでも頼れ、と言ったのは芳佳だろう」
少し気恥ずかしそうにしながら、芳佳は抱いたまま撫でてくれた。それが昔の感覚によく似ていて、心の底から元気を貰えるような気がした。力の抜けた
全身に再び力がよみがえり、今度こそ二本の足で立ってみせると体が主張している。……ようやく、『思い出』にたどり着けた。
「……ありがとう。もういい」
「本当に大丈夫ですか? すごい呻き声でしたけど……」
「ああ。昔のことを思い出そうとして、また頭が痛くなっただけさ」
だけ、というには酷い痛みだったが。しかし得たものが大きすぎただけに、あの程度ならば怖くないと思えてしまう。それになにより、今は心から頼れる
人がすぐそばに居てくれる。全く、この女は恐ろしいものだ。無意識のうちに人を癒す能力があるのだから、ある種敵には回したくないと思った。いろいろと
面倒なことになりそうである。
ともあれ、芳佳はゲルトルートにとって救世主である。助けてくれた人に事の概要を話さないわけにも行かないので、顔を洗って気分を落ち着かせてから
調理を再開しつつ話し始めた。
「いや、包丁を持ったのがどれぐらいぶりかと考えはじめてな? そういえば昔握ったことがある気がする、まではよかったんだが」
「そこからああなった、と」
「本気で死ぬかと思った。けど、芳佳が居てくれたから戻ってこれた」
「ええぇ、そ、そんな大層なことは」
「いや、お前が居なかったら多分、本当に倒れていただろうな。……ああやって抱いてくれたから、昔のことを思い出せた」
「え――――お、思い出せたって」
「ああ。随分昔な、それこそ今のクリスより幼い頃だ。怖い夢を見て、金縛りにあって、泣いたことがあった」
あったとおりのことを、隠すこともせず話す。昔のことを話すのは誰でも恥ずかしいものだが、不思議と芳佳に話すのは恥ずかしいとは思わなかった。
すらすらと言葉が出てきて、まるでそこにレールがあるかのように次々と話せる。これも、芳佳の影響を何かしら受けているのだろうか。不思議な感覚だった。
今までは自分が芳佳を守ってやらなくては、と考えていた。だが、その考えを改める必要があるように思う。……ウォーロックとの戦闘を見ても思ったが、
芳佳はもう十分にエースと言って胸を張れるまでになっている。ただ基礎体力が劣っているだけで、技術は本物だ。そういう意味でも、もう一方的に守る
立場ではなくなった。
……それに加えて、さっきの一件だ。
「……あの時の母さんは、何よりも心強くて暖かかった」
「その気持ちよく分かります。私も実は坂本さんに連れられてここに来るとき、船の中でネウロイの攻撃を受けて怖くて、母さんがいてくれればって」
「親の影響力は大きいものだ。――――それで、さっきの状態だ」
「体中痛くて、ってやつですか?」
「目の前は真っ暗になるわ、頭どころか全身痛いわ、体は凍えるわ、意識は遠のくわ……最悪だな」
我ながら情けないと思う。何故あんな風になるのやら。だが良く考えてみると、あれがなければ記憶を思い出すことはなかった。ここ数日間酷い痛みに
襲われていたが、あれはクリスを通して芳佳との距離が近くなったのが原因だったのではないかと今になって思う。
「……そこでお前だ」
「わ、私ですか?」
「まだ分からんか? いまいち口にすると恥ずかしいんだがな……要は、昔と似たような状況になって、そのとき抱きしめてくれる人がいたって話だ」
「……は、はぁ」
要領をつかんでない模様。二度も三度も言えることではないので一度で理解して欲しかったが、もっと具体的に言う必要があるようだ。こんな恥ずかしい
話、さっさと終わらせてしまいたいのが本音だ。それでも、恩人に恩を返さないわけにも行かないので続けることにする。
「だから、昔の私と母さんが、今の私とお前ってことだ。分かるか? お前はさっきの私にしてみれば母親だったんだよ」
「……ええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇーーーー!!??」
「う、うるさい! 耳が割れるだろうが!」
それにあんまり人に聞いて欲しい話ではない。野次馬に集まられるのは面倒だったので、とりあえず黙らせた。
それからしばらくフォローやらなにやらで忙しかったが、決して悪い時間ではなかったように思う。なんだかんだで美味しそうな肉じゃがも完成、
あれやこれやで気づかないうちに和食で一通りテーブルが満たされていた。野菜を適当に切ったり肉を炒めたりと大したことはしていないはずだが、
それでもそれらしく出来上がっているのはやはり芳佳の料理のセンスがずば抜けているのだろう。戦闘面でも徐々に頭角を現しつつあるが、料理の面では
ゲルトルートは完全に大敗を喫していた。
「あ、そういえば」
「ん? どうしました?」
「……いや、以前納豆を出しただろう? あの時、私はほとんど手をつけていなかったからな……味見すらしていないんだ」
「あー、そういえばそうでしたね。どうです、食べてみません? 美味しいですよ、坂本さんも好きって言ってますし」
……正直言えば腐った豆である。が、食べてみたいという好奇心もある。ねばねばと糸を引くのはどうかと思うが、まあ芳佳も美緒も好んで食べていると
言うから困ったら頼ればいいか。以前肝油を相手にしたときに『栄養があるなら味など関係ない』と言ってしまった手前、退くことも出来なかった。こういう
のが、扶桑で言う『墓穴を掘る』ということなのだろうか。
ともあれ、嵐の予感がした。
- - - - -
「また納豆ね……」
「また納豆だよ……」
「また納豆ですわね……」
「また納豆だぁー」
「また納豆だな……」
「また納豆……」
「また納豆ダヨ……」
「また、納豆……」
「うむ、納豆だ」
「ええ、納豆です」
「納豆だな……」
「なんですかこれ……腐った豆……?」
「腐ってなんかないぞ、失敬な」
初見が約一名、クリスティアーネ・バルクホルン。二度目だが食べるのは初めて、ゲルトルート・バルクホルン。あとは美緒と芳佳の計四人以外の
トレーには納豆は乗っていない。食べなくてもいいとされた人たちは心底安心したようだったが、クリスには同情の目が向いていた。ゲルトルートに対しては
『お前も物好きだな』と言わんばかりの目だ。
「それじゃいっただっきまーっす☆」
芳佳が元気よく号令をかけると、全員とりあえず自分の分に着手し始めた。クリスとゲルトルートのことは気にしないようにしている。ゲルトルートは
しばらくまじまじと見つめた後、おもむろに醤油をかけてぐりぐりとかき混ぜ始めた。糸を引く豆、豆、豆、豆、豆。
やがて程よい感じに混ざった納豆をまたしばらく見た後、少しだけご飯に乗せてそのままご飯ごと食べた。さすがに納豆単体で食べる気にはならなかった
らしい。全員が手を止め、じっとゲルトルートの方を見つめる。
「……言うほどマズいか?」
「え゙……トゥルーデ、それ本気?」
「私は結構気に入った……まあ、糸を引くのがアレだが」
「そうなの……? 私にはどう見ても腐った豆にしか見えないんだけど」
「腐ってないってば!」
納豆対ゲルトルート・バルクホルン、勝者ゲルトルート。その後も調子よくご飯と一緒に食べていた。が、肉じゃがやらインゲンやらおかずが多い中では
納豆が余るのも当然だった。最後は納豆を単体で掻きこみ、美味しかったと一言。ちなみにゲルトルートが納豆を食べるたびに美緒と芳佳を除く全員が
視線を集中していたため、ゲルトルートが一番乗りである。
「……いちいち見ないでもらえないか」
「だってトゥルーデ、そんなゲテモノ食べてたら
「ハルトマン中尉、ゲテモノとは何のことだ?」
「ナンデモアリマセンゴメンナサイ坂本少佐」
そんな姉を見て、クリスも残り少ないご飯に少しだけ納豆を乗せて一口。ちなみに今から納豆を使ってもご飯が圧倒的に少ない。おかわりしない限り
納豆が大量に余って、納豆をおかずとしてではなく単品として食べる羽目になる。そしてクリスの胃袋はご飯をおかわりできるほど大きくはない。
……クリス、一言。
「……お姉ちゃんおかしいよ……」
「な!? なんでお前、この味が分からんのだ!?」
「えー、クリスちゃんおかしいよー」
「全く、マトモなのはバルクホルン……もとい、ゲルトルート大尉ぐらいのものだな」
「もうなんでもいいや……まずい」
納豆対クリスティアーネ・バルクホルン、勝者納豆。仕方ないのでゲルトルートが二杯目のご飯をよそい、クリスの分の納豆を完食した。終始、クリスが
不思議そう、場合によっては不気味そうに見ていたのは見てみぬフリである。しかしさすがに臭いが気になるので、後で口臭対策に果物でも食べようと
思った。
その後リネットのデザートで腹を満たし、夕食の時間は終わりを迎えた。一行はこれから入浴に向かうが、芳佳とゲルトルートは片付けである。
「お姉ちゃん、手伝おうか?」
「いや、大丈夫だ。お前も風呂に行くといい」
「うー、ルッキーニさんに遊ばれるんだよー」
「な……んだと?」
「こ、こらクリスちゃん、そういうことトゥルーデさんに言っちゃ駄目! トゥルーデさん本気で殺しに掛かるから!!」
ゲルトルートのいつかぶっ殺すリストに同じ人の名前が一度に十回ぐらい書かれたのは後にも先にもこのときだけである。フランチェスカ・ルッキーニが
これから背後に気をつけて生活しなくてはならないのは、恐らくクリスの口から語られるであろう。
―――――続く