夜、森林、キャンプにて。
夜間哨戒飛行に出ようとするものはそう多くない。当たり前だ、昼間は散々訓練やら何やらの軍務について夜にはクタクタなのだから。しかし
夜間哨戒という任務が必要とされている以上、そちらに人員を割かなくてはならないのは止むを得ないことだった。そうして誰かがやらされていると、
仲の良い友人が着いていこうとするのも当然の話。――サーニャの夜間哨戒にエイラがついていくことがあるように。
かくして、夜間低空侵攻訓練の成果によって渓谷突破という無茶を成功させた芳佳は夜間哨戒にも出されるようになった。夜間飛行にはずいぶんと
慣れているため問題ないが、いかんせん眠くていけない。空中で寝そうになったことが何度あっただろうか。戦争が起こっていないからいいものの、最近は
ブリタニアの動向も怪しくなっている。夜間奇襲攻撃を防ぐためには、しっかり哨戒しなくてはならないというのに――――どうしても眠気に負けそうになる。
そういう意味では、僚機が居てくれるのは心強かった。
「でもびっくりしちゃいましたよ、突然一緒に来るって言い出すんですもん」
「ははは、気が向いただけさ。それにお前と共に訓練をしていた身だ、ガーディアン(※ミーナのTACネーム)も納得するさ」
夜間哨戒に出ようとしたところに、いきなり後ろから声をかけられたときは驚いたものだ。ゲルトルートはこの日、昼間に休みを取ってまで夜間哨戒に
出ると言い張った。確かに人数が多いに越したことはない。それにサーニャは一人で飛んでいても多くを見張ることができるが、他のほとんどの人は一人では
限界がある。芳佳だけでは夜間哨戒に出られないため今まではサーニャと共に飛んでいたが、ゲルトルートが芳佳と飛べばサーニャとは別で動ける。
サーニャと話ができないのは少しだけ寂しい思いもあったが、二手に分かれることで効率をぐんとあげて範囲も大きく広げることができる。それになにより、
ゲルトルートと共に話しながら飛ぶのもまた、芳佳にとっては楽しい時間なのだ。
「今二時……はぁ、眠くなってきた」
「お前、昼間寝てるんじゃなかったのか? 大丈夫か、本当に」
「いっつも眠くなっちゃうんですよねぇ……ちゃんと目あけてないとって思うんですけど、どうしても眠気には勝てなくて」
「なら目が覚めることをしてやろうか」
――いたずらっぽく笑うゲルトルートの顔が、芳佳には見慣れない。微妙に顔が赤く見えるあたり、どう考えてもこの女はロクなことを考えていない。
ゲルトルートならそんなことはしないだろうとは思うが、最近はどうもエーリカに影響されている気がしないでもない。なんとなく肌寒さを感じ、芳佳は
丁重にお断りした。なんだつまらん、と残念そうに顔をしかめるゲルトルートが印象的だった。そんなに何かしたかったのだろうか。
ともあれ、一緒に飛んでくれる人が居ると眠気もずいぶんとマシになる。確かに眠いのに変わりはないが、いつもに比べるとずっと良かった。
そんな時。
「ん――――」
「どうしたんですか?」
「いや……ストライカーが、あ……?」
ゲルトルートのストライカーが突然咳き込み、回転が見て分かるほど落ちていく。やがて排気口から黒煙が濛々と立ち上り、危険と判断。ゲルトルートは
エンジンを一度カットし、芳佳が抱きかかえる形で飛ぶことにする。誰かを抱えて飛ぶのはクリスの教導の関係で最近は割と慣れっこだ。クリスにくらべて
どうしても幾分か重量のあるゲルトルートとはいえ、さほど重いとは感じない。
周囲はずっと遠くまで広がる広大な海。こんな場所に降りられる場所があるとも思えず、また哨戒中にも見つけたことはない。ただ普段は雲よりも高い
高度を飛行しているため、もしかして高度を下げるとあるのかもしれない。ゲルトルートがポケットに入れていた地図を開きライトで照らすと、航路上に
いくつかの無人島があることが判明する。目印になるものが何もないため付近にあるかは分からないが、とにかくまずは高度を下げなくては始まらない。
空気は澄んで天気も抜群に良いとはいえ、雲はいくつも出ているのだ。雲に隠れていては見つからない。
そうして高度を下げて飛んでいると、適当な位置に小さな無人島を見つけた。島の形状と飛行時間から推測して、恐らく基地から二百キロ程度の地点だろう。
芳佳は狭すぎるその島に慎重にアプローチし、ほぼ停止状態で垂直に着陸した。
「悪いな、芳佳」
「いえ、全然大丈夫です。でも、何で突然咳き込んだんでしょうね?」
とにかく状況を把握しなくては。来た方向が分かるように大きく線を描き、コンパスを置き迷子にならないようにした。そして二人ともストライカーを
はずし、携帯用の簡易工具セットで軽くゲルトルートのFw190D-6を分解する。まずカバーをはずし、エンジンユニットを確認し――
「過熱か?」
「夜間長期飛行を想定したチューニングになってないんだと思います」
夜間はエンジンがかかって機速もそれなりの速度を維持しているのに、機体温度は一向に上がらない。当然だ、ただでさえ寒い空中が夜になって極寒と
化すのだから。そのため逆に長時間飛行していると過冷却状態になり、熱を持ったエンジンまで冷えてきてしまう。それを回避するためエンジンは出力を
どんどん上げていき、やがてエンジン内部でオーバーヒートする。こうなると機体は自壊を恐れて緊急停止するが、既に供給されてしまったエネルギーは
行き場を失ってしまうのでそのまま使用される。これからの供給は遮断できるが、今あるものは使い切らなければならないのだ。それによって無理に
エンジンをまわすことになり、結果的に黒煙を噴くような事態に陥ったのだ。
機械的にも電気的にも特に壊れているわけではなく、過熱による一時休止状態に陥っているだけだ。しばらく時間を置いてエンジンが冷めれば、再び
離陸できるはず。これだけの時間を飛んでようやく今この現象が現れたということは、エンジンが冷めたらここから直帰すれば問題なく帰れるはずである。
「それまでしばらくここで休憩ですね」
「ああ、そうだな。すまんな芳佳、迷惑ばかりかけてしまって」
「そんな、全然迷惑なんかじゃないですよ。こんなこともあるんだって、勉強になりますから」
知識としては知っていたし、芳佳のストライカーは長期夜間活動ができるように外気に応じて適切な温度を保てるよう機構が組まれている。とはいえ、
実際に目の前でこれを見るのは初めてだった。それは芳佳にとっては新鮮で、面白いとまでは行かないが興味深いのは確かである。それを見れたのだから、
ある意味でゲルトルートには感謝の念も沸く。
……それに正直眠い。休憩がほしかったのも事実だ。
「見ろ、芳佳」
「え?」
ゲルトルートは腰の横に手をついて座りながら、空を見上げた。月明かりで見えるようにと木々の途切れた開けた場所にいるのだが、それ故に見上げると
空にきらめく星がまぶしいほどに目に入ってきた。強く光を放つもの、弱弱しくて今にもかき消されてしまいそうなもの、ほんのりと色づいているもの――、
それぞれは様々だ。しかしそれらが黒いキャンバスの上に散りばめられて、そしてきらきらと輝いて。まるで宝石箱を眺めているような、そんな不思議な
気持ちにさせられた。
芳佳も最初は見上げて感嘆の声をあげていたが、やがて草地に大の字に倒れこんだ。傍で座って見上げるゲルトルートが視界に入り、木々の『窓枠』から
眺める空を二人きりで見ているんだと改めて認識する。そうすると、なんだか気恥ずかしさが込みあがってきた。
「……綺麗ですね」
「こんな空、カールスラントでは見たことがない……本当に一切明かりがないと、ここまで綺麗に見えるものなんだな」
少ししてからゲルトルートも芳佳と同じように寝転がり、芳佳と反対向きになる。芳佳の頭のすぐ右側に、ゲルトルートの頭がある状態だ。ちらりと
目線だけ向きを変えると、その距離が思いのほか近いのに驚く。誰かとこんなに近いことを意識するのは、以前厨房でゲルトルートが倒れこんだ際に
抱きしめたあの時以来だ。
最近はリネットがよくゲルトルートに敵対の目線を向けていたり、自身に妙に寄り添ってくる。それを考えると、こうしてゲルトルートと二人きりで
空を見上げるのは少し気が引けた。心の中でリネットに謝りながら、それでもこの時間を壊そうなんて無粋なことは思い浮かびすらしなかった。
「……もう、このまま寝ちゃいたい……こんな綺麗な空を見ながらなら、野宿でもいいや……」
「同感だ。ただ風邪は引きたくないけどな」
それは私も、と苦笑気味に芳佳も同意する。しばらく二人で他愛ないことを話していたが、やがて二人とも自然と無口になった。寝息が聞こえていない
ので寝ていないのはどちらも分かっているのだが、なんというか『話をする必要性』が感じられなかった。こうして時間がゆったりと過ぎていって、
少しずつ流れていく星空をじっと眺めて。それだけで十分な気がして、二人とも口をあけようとはしない。
――――やがて十分か、二十分か、五分か、三分か。時計がないので分からないが、体感的には三十分近く経っただろうか。それぐらいして、ようやく
静寂が破られる。
「……なあ、芳佳」
「はいー?」
「……本当に、綺麗だな」
「そうですねー……」
「―――いっそ、私たちだけのものにしたいと思わないか?」
どこか意味ありげな言葉。芳佳はなんだろうと思ってゲルトルートのほうを見やると、ゲルトルートもこちらを向いていた。至近距離で向き合う形と
なるが、なぜか気恥ずかしさはしない。何かの予感を感じて、そちらに気が行ってしまって仕方がない。
この人は、いったい何をするつもりなんだろうか。今の芳佳には、推測はできても理解はできない。
「……どういう、ことですか?」
「誰にも邪魔させない、二人だけのものにしよう」
「……はい?」
「―――ふふ」
どこか妖艶ささえ感じるような、意味深な笑みを浮かべて。ゲルトルートはゆっくりと身を起こし、芳佳の横に並んで座った。その様子を芳佳は
まじまじと見つめながら、ゲルトルートもまるで狙い済ましたように芳佳から目を離さない。しばらくの間、見つめ合うようなじっと見ているだけの
ような――そんな時間が流れてから。
ゆっくりとゲルトルートの顔が、芳佳の顔に近づいて迫る。芳佳の左頬にゲルトルートの右手が触れて優しく包み、そしてゲルトルートの吸い込まれる
ような瞳が眼前に迫り――――。
「……すまん、なんでもない。忘れてくれ」
吐息さえも感じられるほどの距離まで近づいてから、ゲルトルートは不意に体を起こして離れた。そして一言言うと、まるで大失態で怒られることを
恐れる新兵のように座り込んでしまった。それでも空を見上げているあたり、本当にこの空に魅入られてしまったのだろう。
―――――だが芳佳もまた、魅入られていた。
「……続けて」
「―――え?」
「……続けてください。私、待ちますから」
果てさて、そんな言葉がどこから出てきたものか。自分でも不思議に思ったが、芳佳はそれだけ言うと再び空を見上げた。その口は固く結んで、しかし
どこか穏やかさを帯びて。じっと空を見つめ、そしてそれよりもいつか来るであろうゲルトルートの顔を思い浮かべていた。
――先ほど、彼女は間違いなく芳佳にキスをしようとした。それがどういう意味であるか、分からないわけはない。それでも芳佳の心は、なぜかそれを
望んでさえいるように思う。『思う』、というのは芳佳自身が良く分からないからだ。なんとも形容しがたい思いが胸の中で渦巻いて、混沌としたものが
心にあふれる。
だが一つだけ分かるのは、自分がゲルトルートのことを大事に思っているということ。リネットも他のみんなも大切だが、それよりももっと飛びぬけて、
自分はゲルトルートのことが誰より何より一番大切だということ―――これだけは、はっきりと分かった。
「……」
どこかから、決心したような息を吐く音がした。それがどこからかなんて分かりきっているが、芳佳はなんとなく他人事だった。今はただ、「来る」のを
待つだけ。
―――そうして、およそ二分程度が経過した頃。芳佳の視界の中で、ゲルトルートがゆっくりと動き出すのが見えた。先ほどと同じく、芳佳の上に覆い
被さって……空が見えなくなって、芳佳はもうゲルトルートから目が離せなくなる。恥ずかしそうに頬を赤らめている彼女の顔が、なんとも新鮮でたまらない。
だがいつまでも見ていてはきっと、彼女もやりづらいだろう。そう思って、すっと目を閉じた。はっとするのが自身の目の前から感じられた。
ゆっくりと衣服の擦れる音がして、唇に暖かな気流の流れを感じる。きっと今目を開けると、すぐ目の前には透き通るような瞳があるのだろう。
芳佳はそのままいくつか数えて、それが二桁になろうかというときに――――
唇に、やわらかくて暖かい……他の唇が重なるのを、はっきりと感じた。
「んぅ……」
どこか甘い香りがする気がした。それは気のせいだったかもしれないし、本当にそうだったかもしれない。なんとも言い難かったが、決して悪いものでは
ない。それどころか重なり合う唇の感触が芳佳の理性を徐々に焼き、段々感情が抑えられなくなりそうな気さえしてくる。そうしていると両手が貝殻合わせに
絡まりあい、二人はしばらくそのままで口付けしていた。
……まるで数時間のように感じられる時間が経過し、ゲルトルートがゆっくりと身を離していく。芳佳としてはもう少し続けていたかった気もあったが、
それを言っていてはいつまでも終わらない。少しずつ目を開くと、頬を赤らめながら満足そうに微笑むゲルトルートの顔があった。
「ありがとう、芳佳」
「いーえー。私も嬉しかったです」
やがてゲルトルートが手を解こうとする。……が、右手だけ解いて左手はぎゅっと握ってみた。ゲルトルートが一瞬たじろいだ様に目を見開いたが、
すぐに苦笑に変わった。少し手の向きを変えて、芳佳の横に寄り添うように仰向けに寝る。肩や腕をぴったりとくっつけ、互いの温度を感じられるほどの
距離で話す。視線は空に向いているが、同じものを二人きりで共有できているという意味ではそれだけで十分だった。
「……好きだ、芳佳」
「それは友達としてですか?」
「お前も随分意地の悪い事を聞くな……エーリカに何か吹き込まれでもしたのか、全く」
「あははっ」
顔を真っ赤にしながらそっぽを向くゲルトルートが面白くて、また可愛くて。芳佳はもっと遊んでやりたくなって、でもさすがに年上をからかって
遊ぶのは気が引けたのでやめることにする。その代わり、ゲルトルートのさっきの言葉に態度で示してあげよう。彼女が『好き』と言ってくれたのは
決して友達同士だからなんてものじゃない、ゲルトルートは冗談など無しに真剣に唇を重ねてくれるほどに自分を想ってくれているのだ。ならば、芳佳も
相応の態度で臨むべきである。
「トゥルーデさん、ちょっといいですか?」
「ん、どうした?」
「えへへ」
ゲルトルートが軽く振り向く。顔はほとんど隠れていて目線だけが向いている状態だが、問題ない。芳佳は勢い良く体をひっくり返して、ゲルトルートの
上に被さる。驚いたようにゲルトルートが目を見開くがお構い無しに目を閉じて、右手をゲルトルートの右手に重ねて。少し強引気味に、今度は芳佳から
ゲルトルートの唇を奪った。
少し動揺したように唇がもごもごと動いているが、ちょっとだけ強めに自分のを押し当てる。するとゲルトルートも諦めたのか、素直に静まった。
片目だけあけてみてみると、ゲルトルートも目をかたく瞑って顔を真っ赤にさせている。どうやらうまく行ったようだ。
三十秒ほど数えて、名残惜しいが唇を引き離す。そのまま左手を解いて、ゲルトルートの頭にぽんと置いてやった。いつぞや、自分のことを母親と言った
あの日のことを思い出して。
「……今日の芳佳は大胆だ」
「トゥルーデさんに対しては大胆です」
「はあ、なんだか前途多難だな……扱いづらいことこの上ない」
「あはは、トゥルーデさんはこーゆーの苦手ですか?」
苦手ではないが得意でもない、と苦笑気味に話すゲルトルート。芳佳も笑いながら、先ほどとは逆に芳佳が左側に寝そべる。身をぴったりと寄せ合って、
空を見上げて。
――――――近くに居てくれるだけで、こんなに幸せ。二人は広くて暗くて煌いて、美しい夜空を……いつまでも二人だけで堪能していた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「んぅ……あ、れ……」
ふと気がついて目を開けると、まぶしい光が目に飛び込んだ。……しまった、寝てしまった。
「わわっ!! っと、時間時間――――もう五時九分……っ!?」
今回は基地の南海上沖百キロにてサーニャと合流後、三人で基地へ帰投する予定だ。合流予定時刻は五時二十分。それから帰投して、朝食と風呂の
あとそのまま寝る予定になっている。……このまま直行したとして、どれだけ大急ぎで飛ばしても十五分はかかる。いけるとすれば音速を超えるほどの
速力があれば或いは……幸か不幸か、芳佳とゲルトルートのストライカーはマッハ級の速度が出せる。それだけなら幸といってもいいのだが、残念な
ことにゲルトルートのストライカーは絶不調なのだ。オーバーヒートして緊急停止した場合、エンジンが再始動可能な状態に回復したら巡航速度で
飛行して最寄の基地や艦に緊急着陸するのがセオリーである。エンジンが最も調子よくまわせるのが巡航速度であり、それ以上でもそれ以下でも
エンジンには巡航速度で飛行する以上の付加がかかってしまうからだ。緊急着陸後は直ちにエンジン整備に回し、場合によっては部品取り寄せなどで
時間がかかることから所属基地から迎えを出してもらう必要も出てくるほどである。そんな状況にあるストライカーで、音速を超えなくては間に合わない。
音速を出す能力があるのは幸と言うべきだが、現実問題として出すことができないというのは不幸というべきだろう。
まあ何はともあれ起こさなくては始まらない。
「トゥルーデさんっ、おきてくださいっ!!」
「んー……あ、芳――――朝だと!?」
かくかくしかじかで状況を説明すると、ゲルトルートは不敵な笑みを浮かべながら言った。―――ならば音速を出せばいい、と。しかし不調のエンジンで
ぶっ飛ばすのはあまりに危険すぎる。過去にはエンジンから出火して機体が炎上、莫大な魔力エネルギーと炎によるエネルギーとの干渉で爆発を起こす
という死亡事故も発生しているのだ。飛べるからといって無茶をするわけにはいかないのがこの世界であることは、ゲルトルート本人が最も良く知っている
はずではないのか。
そう懸念する芳佳だが、対してゲルトルートは余裕の表情だった。
「いざとならば芳佳が居る」
「へ?」
「そのときは頼むぞ、相棒」
Fw190D-6は既に完全に冷却済みで、動作させるだけならば完全動作状態と言えた。ゲルトルートはそれを急いで着用すると、海岸へ向けて走っていく。
芳佳も大急ぎで追っていき、A6M3aをその足に装着した。着陸時に残した一本線が大きく地面に刻まれており、飛んで来た方向が一目見て分かる状態に
なっている。
ここまで来てしまった以上、どちらにせよ哨戒なんてしている時間は無い。一刻も早く集合場所に行かなくては行かないので、その方角に向けて真っ直ぐ
飛行する必要がある。
「よし、行―――
「待ってください! 集合場所は来た方向から三十度南向きなので出る向きはこっちです!」
「それはすまんな」
言いながら芳佳は離陸し、それにゲルトルートもついていく。止むを得ないので、少しでもエンジンに不調を感じたら緊急停止するようにゲルトルートには
厳しく言っておいた。その場合は芳佳が抱いて吹っ飛んでいけばいい。それまでは、とにかく二人で最高速で飛ばそう。できれば音速を超えられればそれが
一番良いが、千百キロがほぼ限界と言える。まだあと百キロ近く足りないので、まあ音速は無理だろう。
ともあれスピードがとにかく重要である。
「もっと早く加速して―――!」
「くそ、加速が悪い……ッ」
二人のストライカーは基地でも二、三を争う最高級の加速性能を誇っている(一番はもちろんシャーロットだが)。その二人のストライカーでも、今の
加速は遅いと感じられた。それは先に行くべき場所がありとにかく時間が無いからなのだが、二人は悲鳴を上げるほど全力でプロペラを回すストライカーに
なおも文句をつけた。ゲルトルートのほうのストライカーはいつ『逆ギレ』してもおかしくないほどの状態だが、しばらくは持ちそうである。なんとか、
出火せずに済めばいいのだが。
「やっと九百!」
「あと何分だ!」
「ええと――――残り八分!」
「よし、無理だ!」
この調子だと、順調に行ってもあと五分はかかる。……あからさまに無理である。とにかく早くつくことが先決のため亜音速飛行は続けるものの、時間に
間に合わせるのは無理なようだ。とりあえず、事情は後で説明するとして連絡は入れておいたほうが良いだろうと判断。芳佳は無線に向かって叫ぶ。
「こちらエース、スカイレーダ、聞こえますか? 聞こえたら応答してください!」
――――。
「あれ? こちらエース、スカイレーダ、応答せよ!」
……ノイズすら返ってこない。完全に、無線が通じない。
「そ、そっちはどうですか?!」
「ダメだ、こっちも通じない! くっそ、急ぐぞエース!」
「了解! ――――って、ウォーリアは絶対無理しないでくださいよっ!!」
「ハハハ、足が燃えたからってどうってことはないさ!」
「燃えるの前提で話しないでください、っていうか燃やさないで!!!」
- - - - -
「……あれ?」
サーニャは合流予定地点についても、二人がまだ来ていないことに首をかしげた。一度場所を間違えていないかと確認するが、周囲に見える島や景色から
どう考えてもこの地点であるのは間違いない。芳佳はいつも五分前には集合しているし、あのゲルトルートが遅れてくるとも思えない。まだ時間までは四分
あるが、音も聞こえてこないし静かな空である。
……まあ、待っていれば来るだろう。集合時間から五分経過ぐらいまでは静かに待っていようと、サーニャは眠さに任せてホバリング状態で眠ることにする。
「ふあぁ……眠い……エイラのベッド……うぅ」
正直、さっさと帰ってエイラのベッドで寝たいのが本音である。とはいっても今ここに待ち人が来ていない以上、待つしか方法はない。フリーガーハマーを
下にして適当に体にくくりつけ、そこに座り込む形で寝る体制に入る。一応ストライカーが下を向いているので問題ない。
「おやすみ――――」
……と言ってから、エンジン音が耳に入るまではさほど時間が無かったように思う。だが時計を見てみると、既に集合時間から二分が経過していた。
思ったより時間が経過するのは早いとまるで他人事のように思いつつ、ようやく来たかと目を凝らす。……エンジン音がやけに急速に迫っているのが気になる。
『――――らエース、スカイレーダ、聞こえる!? バリアを張って、急いで! とにかくお願い!』
……突然無線に芳佳からの叫び声がとどろく。一瞬耳と頭が痛くなりかけたが、どうもかなり危険な状況のようだ。迷わず両手を突き出してシールドを
展開し、それからわずか二秒後。
とんでもない勢いで、サーニャの両脇を何かが吹っ飛んでいった。そう、文字通り『吹っ飛んで』行った。
しばらくぽかんとしていたが、二十秒程度経ってからようやく正気を取り戻して後ろを振り向く。すると随分遠くに、芳佳とゲルトルートがなんとか
減速を終えたような状態でホバリングしているのが見えた。更に見ていると、ゆっくりとこちらに飛んできている。ふむ、どうやら大急ぎでぶっ飛ばして
ここまで来たらしい。
「そんなに急がなくても良いのに……大丈夫? エース、ウォーリア」
「ごめんねー、遅くなっちゃって」
「私たちは問題ないが、スカイレーダは大丈夫だったか? 随分待たせただろうに」
とりあえず三人合流したので、基地に向けて帰投することにする。元々余裕を大目に見ての時間なので、今から基地に戻れば十分眠れる時間である。
帰還報告は六時までとなっているので、ゆっくり飛んでも十分以上の余裕ができる。これまでの夜間哨戒の経験からして、これだけ余裕を持っておけば
ルートを回っても全然普通に帰ってこれるはずと踏んでいたのだ。
しかしそれにしても、時間だけは守るこの二人が遅れてくるとは珍しい。
「何か……あったの?」
「少しストライカーの調子が悪くなっちゃって、ごめんねー」
「私のがな」
ゲルトルートのストライカーの調子が悪くなって、それを何とかしようとして近くに下りて直した。そしてそれをかばおうとして自分のせいだと
芳佳が言おうとした。ここまでは把握した。
「……大丈夫、でした?」
「ああ、問題ない。悪いな、スカイレーダにまで心配かけさせてしまって」
「いえ、大丈夫です。……それは何時ごろのお話ですか?」
「「……」」
サーニャがたずねると、二人は互いにそっぽを向いて鼻歌を歌いだす。片方が私にできること、片方がブックマーク ア・ヘッド。開始タイミングから
曲から音量から何から全部バラバラである。目で見て分かるぐらいに動揺している模様。何か隠さなくてはならないことがあるのだろうか、サーニャは
疑問に思いつつ更に問うてみた。
「何か……言えない理由でもあるの?」
「う、ううん、ごごごめん、そういうわけじゃないんだけど……ねぇ、トゥル――――じゃない、ウォーリア」
「そ、そうだな、うむ……」
「……?」
いや、普通なら言えるだろう―――そう突っ込もうかとも思ったが、そんなキャラでもないし言うのもめんどくさいのでやめた。サーニャとしては
眠いので何でも良かったのだが、報告義務がある以上は聞かなくてはならない。任務自体に大きな変化が出たわけではないものの、予定より遅れたのは
事実である。事前申告していた予定合流時間より遅いため、どうしても聞く必要があった。
それを説明すると、二人は気まずそうにしながら――芳佳が口をあけた。
「に、二時半ごろ……」
「夜中の?」
「あ、ああ。そうだ」
さすがのサーニャでもこれは驚いた。午前二時半ごろに不時着して、どうして今頃ぎりぎりになってくるのか。とりあえず小さなあくびをひとつしてから、
もっと詳しく聞いてみる。
サーニャはさほど問い詰めているつもりはなかったものの、芳佳とゲルトルートからしてみれば尋問だったようにも思える。結局二人は、サーニャの
尋問に何も隠せず事のすべてを話した。……訂正、さすがにキスのことは話していない。まあ恐らく、いくらサーニャといえどゲルトルートの芳佳に対する
お気に入りぶりには呆れていただろうけれども。
ともあれ、基地に向けて飛行しながらサーニャは二人にくどくど注意していた。芳佳もゲルトルートも、これには頭が上がらない。
「夜間哨戒になってないじゃないですか、もう……」
「ご、ごめん」
「すまん……」
「っうー、私だって眠いのに……二人だけ任務放棄して、ずるい」
ちょっとだけ本音が漏れたようではあるが、とにかく夜間哨戒飛行中にアクシデントが起こったとはいえ寝るのはどういうことか。エンジンの冷却なんて
三十分もあれば十分だ、それから先を少し速度を出して飛行すれば問題ない話である。時間は降着地点からでも二時間や三時間分はあるのだから、
一分あたりの飛行速度を少し上げるだけで三十分のロスなんて余裕で回収できるはずなのだ。それを寝過ごして時間ぎりぎりにやってくるとは、まったく。
夜間哨戒のエースとも言えるサーニャから言わせれば、言語道断とすらいえる。
「まあ、今回は機体の不備ってことで処理しておきますけど……次からは頼みますよ、本当に」
「りょ、了解」
「了解だ……」
『――はぁ、全く。スカイレーダ、そういうのは無線を使わずに話すものだ』
突然の無線に驚く三人。恐らく基地の無線にも入ってしまったのだろう、連絡すべき上官が今の会話の内容を聞いてしまった。サーニャも寝ぼけ気味か、
それともただの天然か。いずれにしても、状況が絶望的になったのは変わりない。美緒の怒る顔が容易に浮かび、芳佳とゲルトルートは頭を抱えた。きっと
刀の鞘で思い切りたたかれるのだろう。
『詳しい話は後でする。今はとりあえず帰還を優先せよ』
「了解」
サーニャが返事をするとほかの二人の返事が聞こえないと言われ、芳佳が急いで返事をする。ゲルトルートはさらにワンテンポ遅れて返事し、美緒が
ため息混じりに頭を抱えていそうな声が聞こえた。芳佳が居るだけでゲルトルートがこんなにもダメになるとは、これからシフトは慎重に考えなくては
ならない―――後に美緒はそう語ることになる。
サーニャさえ呆れる失態を抱え、三人は帰投する。奇しくも、『大失態で怒られることを恐れる』エースというシュールな光景が広がっていた。なんとも
皮肉なものである。
- - - - -
その後、軍の上層部には知られていなかったのが幸いして書類上の処理はどうにでもなった。それに関しては美緒もミーナも安堵していたが、とにかく
二度とこんなことがあってもらっては困る。芳佳とゲルトルートは、美緒による三日間の特別訓練メニューに参加させられることになった。たまに
エーリカ等がこの罰を受けているが、その後死んでいるようなエーリカを見ると生半可な気持ちでは殺されるようだ。芳佳とゲルトルートはため息をつき、
それが美緒に見つかってまたこっぴどく叱られた。二人は終始、頭を上下にぺこぺことさせていた。……それを見てミーナがついに笑いを堪えきれなくなり、
ミーナにまで美緒の怒りが飛び火したのはまた別の話である。
かくして三十分の説教からようやく解放された芳佳は、とにかく飯がほしくて厨房へ向かった。ゲルトルートはとりあえず着替えると言って部屋へ
戻った。今は芳佳一人である。
「はぁ……疲れた……」
まあ、任務を全うしなかった自分の責任である。芳佳はため息をつきながら自分を呪い、そして右手を軽く自分の唇に当ててみた。……あのとき、確かに
ここにはゲルトルートの唇が重なっていた。
それを思うと、まあこんなのもいいかとどうでもいい気持ちになってくる。たった三日間の特別訓練でこれが得られるなら、それも悪くない。なんだか
罰の意味を成さないような思考をしながら、芳佳は欠伸をつれて廊下を歩く。と、後ろから駆け寄ってくる足音がしてなんだろうと振り返る。
「芳佳ちゃーん、お疲れ様ーっ!」
「あ、リーネちゃん」
リネットは駆けてくるなり勢い良く芳佳に飛びつき、あまりに勢いがよすぎて芳佳も姿勢を崩す。ふらふらと足を右往左往させながら、なんとか
バランスを保つとリネットに微笑する。
「ただいま、ほんとに疲れちゃった」
「任務中に寝ちゃったんだって? もう、だめだよー」
「うぅ、耳が痛い……」
そんなことはどうでもいい、とリネットは自分から言っておきながら話を棚に上げる。まずはお腹が減っているだろうと、簡単で申し訳ないけど料理を
作るからと厨房に入っていった。芳佳としては自分で適当に何か作る気満々だったのでそこまでしてもらわなくても良かったのだが、人の好意は素直に
受け取っておくものである。ありがとうと一言言うと、リネットもうれしそうに満面の笑みを浮かべた。
やがて食堂に着くと、リネットは厨房に、芳佳は席にそれぞれついた。至福の朝食タイムである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ところで、バルクホルン大尉は?」
「先に着替えてくるって。シャワーもついでに浴びてきそうだし、多分来るの遅くなるよ」
「そっか……」
ぬらしたタオルでもかけておけば十分だろう、と芳佳が付け足す。リネットはあいまいに笑いながら小さくうなずき、妙によそよそしいリネットの
態度に芳佳も疑問符を浮かべた。ともあれ三人分の食事は完成し、芳佳の分とゲルトルートの分を横に並べる。リネットは、芳佳の真正面に座った。
……本当は隣に座りたかったのだろうが、なぜか今回は一歩引いている。芳佳はなんとなく理由を察し、申し訳ない思いが心の中をぐるぐると回った。
「いただきます」
「あ、いただきます」
そんなことを考えているせいで、挨拶が一歩遅れてしまった。リネットがどうしたのといわんばかりに首を傾げるが、なんでもないと手を振る。暫く
無言で二人は食べ進めていたが、やがて大分食事が進んだあたりで芳佳が口を開いた。――――もう、言わなくてはならないだろう。丁度今から言えば、
皿がきれいになる頃にまとまりそうである。……つまりは逃げ道ができる。
「あ、あのね」
「……うん」
リネットも覚悟していたように、小さく返事をした。何かに怯える幼子のように、声は震えてかすれている。……きっと聞きたくないのだろう。
それでも耳を傾けて聞いてくれるあたり、やはりリネットは親友だと思った。自分は、この親友を捨てることができない。だがだからといって、妥協を
するのはもっと嫌だった。
「トゥルーデさんのこと、なんだけど」
「うん……」
早々にリネットは食事を終え、聞くことに専念している。まだ少しサラダが残っていたが、恐らくもう食べる気にはならないだろう。芳佳は心底、
申し訳ない思いでいっぱいだった。でも、言わなきゃいけない。
「今日ね……私、その――」
「……言って。もう、遠慮しなくていいから」
芳佳が何を言おうとしているかわからないリネットではない。そこはわかっているのだが、しかし――流石にキスをしたと口にするのは、恥ずかしかった。
そしてそれを大きく上回って、申し訳なかった。リネットが自分のことを好きでいてくれるのは分かっていたので、本当は言いたくない。こんなことを
言ってしまえば、リネットの心に深い傷ができてしまうのはわかりきっていたから。大切な親友の心を、自らの手でズタズタに切り裂いてしまう。それを
しなくてはならないのが、嫌だった。そういう意味では、なんで自分はあの人のことを好きになったんだろうと自分の心を恨めしく思った。
「……トゥルーデさんと、き―――キス、しちゃった」
「……っ!」
それはリネットからしたら想像以上の衝撃だろう。告白したとか付き合うことになったとか、その過程を一気に飛ばしてしまっているのだ。リネットも
肩を大きく跳ねさせて、過敏に反応していた。……きっとリネットは自分のことを、裏切り者とでも思っているだろう。芳佳は自己嫌悪にも似たものを
感じながら、それでも話を続けた。大切な親友のリネットだからこそ、隠すことはできない。いくら相手を傷つけることになっても、親友だからこそ……
隠し事はできない。それがエゴであることなんて、百も承知だった。
「最初ね、トゥルーデさんがしようとして、でもやめたの。ぼーっとしてる私を見ながら、多分リーネちゃんのこととか、私のこととか……いろいろ
考えたんだと思う」
「……」
「でもね、私は――――してほしかった。だから、お願いした」
……今にも耳を塞いで、もうやめてと叫びそうなリネットを前に。芳佳は、淡々と話していく。二人の目には涙が浮かんで、それぞれの胸中で悲痛な
叫びが木霊している。
それでも芳佳は続ける。……リネットにこんなことを言う罪悪感が、親友を裏切った罰だ。そう自分に言い聞かせ、リネットに隠し事はしたくない
一心で。リネットもそれを理解してか、決して耳を塞がずにじっと堪えて聞いている。
「……二人で夜空を見上げてたの。すごく綺麗で、いっそそれを二人だけのものにしようって、トゥルーデさんが言い出して……」
「……そっか」
「ごめんっ……本当に……リーネちゃん、ごめん……!」
別に二股をかけているわけでもなし、リネットからしてみれば芳佳が謝ることなんて何もない。むしろリネットとしては、自分の気持ちで芳佳を
こんなに思い煩わせて申し訳ないとさえ思っている。だがそれに気づかぬ芳佳は、何度も何度もリネットに謝った。マロニーにウィッチーズ隊解散を
言い渡されたときのように、何度も、何度も、何度も――――。
「もういいの、芳佳ちゃん……私が勝手に、芳佳ちゃんのこと好きだっただけだから……」
「そんなことない!」
……咄嗟に、芳佳は叫んだ。それは決してすべてが感情的なものではなかった。――リネットが『好きだ』と明確に言ったのは、これが初めてだった
からだ。確かに言動や態度で一発で分かるのだが、それでも明確に言葉として聞いたのは今回が初めてだった。だから……その言葉にも、芳佳はなんとか
応えなくてはならなかった。
それが、リネットの望む形とは正反対であったとしても。
「リーネちゃんはいろいろ良くしてくれたし、この基地に来たばっかりで右も左も分からない私に全部教えてくれた。訓練だって私一人じゃここまで
来れなかったよ、リーネちゃんが一緒に居てくれたからがんばれたの!」
「……芳佳ちゃん……」
「でも……でもね……。確かに私はリーネちゃんのこと、今でも好きだよ。だけど―――」
……最後の引き金を、自ら引かなくてはならない。なんだか、この世の終わりのような気さえしてくる。芳佳はリネットの顔を直視できず、俯いた
まま―――聞こえるか聞こえないかの声で、言った。
「友達として―――」
「……」
「ううん、親友。大事な大事な、私の一番の親友。けど……それより上には、どうしてもならないの……」
ついに、それを言葉にして――。リネットが、声を上げて泣き始める。芳佳は拒否されるのが怖くて、その悲痛な姿に手を差し伸べてあげることすら
出来なかった。リネットの目から零れる雫が、光を跳ね返して輝く。……それはまるで、今までリネットの中で光り輝いていたであろう芳佳の姿を
『跳ね返して』いるかのようだった。そんな悲観的な見方しかできないから、芳佳も自身の心に少しずつ傷を増やしていく。ゲルトルートと一緒に
すごせることは楽しみだったが、それを得るための代償は―――大きすぎた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……謝らないで、芳佳ちゃんは悪くないからっ」
「……ごめんなさい……」
暗号のようにつぶやく。だがそれきり、二人とも鼻を啜るだけで言葉を紡ぐことはできなかった。相手になんと声をかければいいのかが、分からない。
ただ、リネットはこの場から逃げたい一心であることは芳佳から見ても明らかだった。だがそのきっかけを与えてあげることができなくて、さらに胸が
痛む。
……自分は一体、どうするべきなのか。迷っているうち、逆にリネットが口を開いた。
「ねえ、芳佳ちゃん……」
「は、はい」
「……これからも、ずっと『親友』で居てくれる? 私の、一番大事な『友達』でいてくれる……? 私のこと、名前で呼んでくれる……?」
そう、親友。あくまで、友達の最上級。……リネットはそこを強調している気がしてならなかった。だが芳佳も、それを否定することができなくて。
だから、せめて―――――リネットが望むことは、全力で肯定してあげよう。
「リーネちゃんが、親友だって言ってくれれば……私はいつだってリーネちゃんの親友だよ……っ!」
「……ありがとう」
―――言い終わるかどうか。『ありがとう』の『う』が聞こえたかどうか。それぐらいのタイミングで、リネットは席を立った。目を腕で隠しながら、
いや腕で涙を拭いながら。リネットは脱兎の如く、食堂から走り去っていく。芳佳もそれを見て号泣したくなるほどになったが、しかし扉のそばに
茶髪のツインテールを見つけて我慢した。顔を背けて、その人の分の朝食を用意する。用意するといっても、リネットがかけておいた湿ったタオルを
はずすだけなのだが。と思ったらスプーンがなかったので、厨房へ取りに行く。
「……? 芳佳、一体何が―――
「スプーン、今用意しますね」
「そうじゃな
「飲み物何がいいですか? 入れますよ」
「いや、私の話を―――
「コップってこれで合ってましたよね、今用意しま
「宮藤少尉、私の話を聞け」
……ゲルトルートが、少し強い口調で芳佳を制した。一度言葉がとまってしまうと、先ほどまでのマシンガンのような物言いはできなくなってしまう。
芳佳はゲルトルートのコップを手に持ったまま、厨房で静止した。……その目に、大粒の涙をいくつも浮かべて。その頬から、いくつもの涙をぼろぼろと
落としながら。
「……何があったんだ。リネットが泣きながら部屋に戻っていったが」
「―――ただ、今日のことを言っただけです。リーネちゃんは、私の大事な親友だから」
「そうか……」
ゲルトルートも、あいまいな返事を返す。恐らく彼女も分かっていたのだろう。……そしてリネットの芳佳に対する好意にも、当然気づいていた。
だからこそ、彼女もまた芳佳と同じくリネットに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ただゲルトルートにはもうひとつ、申し訳ない思いがある。
――リネットに『報告』する苦しみを、芳佳だけに負わせてしまったことである。
「……すまん。お前一人に、負わせてしまって」
「い、いいんです。リーネちゃんが好きなのは私ですから。……多分、トゥルーデさんが居たら逆にリーネちゃんが苦しかったと思いますから」
……芳佳がそういうと、ゲルトルートは納得したようなしていないような曖昧な返事を返す。……芳佳は、その場から動くことができなかった。
ゲルトルートが厨房に入ってくる足音も聞こえていたが、だからといってどうしようもなかった。なにをすればいいのかが分からない。さっきはそれを
振り切るようにゲルトルートの食事の用意をしようと現実逃避に走ったが、それももうできない。
芳佳は自分でも気づかぬうちに、リネットと同じほどに自身を傷つけていた。
「……泣きたければ泣くといい。溜め込むのは良くない」
「トゥルーデ、さん……」
不意に、後ろから優しく抱かれる。ゲルトルートの右手が頭をゆっくりと撫ぜ、左手が体をしっかりと包み込んでくれる。……感じられる体温が、
今の芳佳にはなにより暖かかった。……それを感じた瞬間、今まで零れていた涙よりもはるかにたくさん、目から涙が零れ落ちる。手に持っていた
コップを近くの棚において、両手を目に当てる。一瞬で芳佳の両手は、まるで風呂に浸したように水浸しになった。
「……私なんかのために、ごめんな。お前だけ悲しい思いをさせて、すまない。……それから」
そこで一度ゲルトルートが言葉を切って、改まったように……耳元で、小さくささやいた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
芳佳は振り向いてゲルトルートに抱きつくと、そのままゲルトルートの胸の中で号泣した。声を上げて、ひたすらに泣き続けた。ゲルトルートも、
以前芳佳がしたように―――ゆっくりと頭を撫でて、そしてきつく抱いた。それが暖かくて、うれしくて……ますます涙が出てきた。まるで滝のように
止め処なくあふれてくる涙は、それから暫くゲルトルートの服をぬらし続けた。
しばらくして落ち着きを取り戻すと、泣き疲れと夜間哨戒の疲労が祟って眠気が芳佳を襲った。ゲルトルートは自身の朝食を取ったが、その間芳佳は
隣で熟睡していた。ゲルトルートは軽く頭を撫で、完食したので食器を片付けた。芳佳とリネットの分もついでに洗ったが、二人の皿には多少の食べ残しが
あった。見ているだけで胸が締め付けられたが、ゲルトルートが一番の元凶といっても過言ではない。自身を律して、決して自分は泣いてはならないと
戒めた。
その後は芳佳を抱えて部屋まで運び、服はそのままだったが布団に入れた。自身も部屋に戻り、部屋着に着替えて眠りについた。普段は服など一切着ないで
寝ているが、今日は何故か部屋着を着ていたくなったのだ。ゲルトルートも思ったより疲れが溜まっていたのか、思っていたよりもすっと寝入ることができた。
……夕方に目が覚めたとき枕が濡れているのを見て、ため息をついた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夜間哨戒明けは休みなので、ゲルトルートはすることもなくただ空を見上げていた。あの時芳佳と見上げた空は美しかったが、今日はどんより曇って
美しさの欠片もない。朝は晴れていたのだが、この様子では雷を伴う雨がやってきそうだ。まるで芳佳やリネットの心を写しているようだと思いながら、
のどの渇きを覚えて一度布団を出た。いつもの服を着て、胸の辺りが少し冷たいことに気づく。……そうか、ここで芳佳が泣いていたんだっけか。
洗濯に出して今はもう一着の方を使おうかとも思ったが、すぐにやめた。今日中には洗濯してしまうのだから、じきにこの染みも消えてしまう。そうなれば、
今日の芳佳の涙はなくなってしまう。それはなんだか、芳佳にもリネットにも悪い気がした。だから今は、冷たいのを我慢してこれを着続ける。
そうして着替えてから厨房へ降りていくと、エーリカとミーナが食事を作っているのが見えた。なんとも珍しい光景だと思いつつ、ゲルトルートは二人に
声をかける。
「なんだ、二人が料理だなんてこの嵐はそのせいか?」
「あ、トゥルーデっ……あーあ」
「はあ、間が悪いわね」
「……会って早々なんだ、その言い方は」
どうやらゲルトルートに秘密でカールスラント料理を作って、気分転換にでも出してやろうと思っていたらしい。なんとも粋な計らいではあるが、
食堂という目のつきやすい場所では秘密にするのは無理だと普通に考えて思う。せめてゲルトルートが寝ているうちに作っておいて保存し、食事時に
暖めて出すとか工夫をすればいいものを。
そんな指摘をしながら、冷蔵庫の中の牛乳をコップ二杯ほど飲んだ。とろりとした冷たさが、渇いた喉を潤していく。失ったものを取り戻した気分に
なって、二人が作っているものを見た。
「……アイスバインか」
「ええ、あなた自分でも作れるぐらい好きだったじゃない」
「ああ、昔母さんが作ってくれたのが美味しくてな。フラウのは……アウフラウフか!」
「トゥルーデの大好物だもんねー。野戦訓練ではどれだけ食べさせられたことか」
「そんなこともあったわねぇ……」
「な、お前等! 一度に沢山作れて皆で食べられるものの方が、効率がいいだろうが!」
とは言ってみたものの、好きであることは否定できない。というか大好きなのは事実だ。確かにそれを芳佳やクリスに食べさせてやれると思うと、
それはそれで幸せそうだ。
―――そこまで考えて、芳佳のことを再び思う。リネットとは引き続いて上手くやれるだろうか、果たして一人にして大丈夫だろうか。私と一緒に居て
大丈夫だろうか、自分の心を閉ざしてしまったりしないだろうか―――。考えれば考えるほど、不安でたまらない。なにかしてやれることはないかと
懸命に探してみるが、思えば自分は芳佳について何も知らないことに気がついた。扶桑料理を始めとして家事全般が得意で、夜と低空が得意で、リネットと
自分のことが好きで――――それで?
リネットならばもっと多くを知っているのだろう。しかし付き合いの短いゲルトルートでは、芳佳について多くは知らなかった。訓練を共にするなど
軍務に関係する内容ではよく一緒に行動しているが、私生活に関してはほとんど無知と言っても過言ではない。
どうしたらいいのか。肝心なときに、その選択肢が一切出てこなかった。それが悔しくて、手に持っていたままのコップを静かに置いてぼうっと遠くを
見つめた。……八つ当たりしようという気にもならず、ただ芳佳のことを考えるだけで精一杯だった。あいつは今、ちゃんと自己を保っていられる
だろうか。
「……思いつめているようね」
「え? あ、ああ……まあな」
「どーせ宮藤のこったろー? 最近のトゥルーデ、そればっかりだもん」
「あー……そうだったか」
「……うわ、重症ー……」
エーリカとしては冷やかすつもりで言ったのだろうが、今のゲルトルートには冷やかしにすらならなかった。単なる事実確認程度で終わってしまい、
これは流石にやばいとエーリカも冷や汗を垂らす。
「……よく宮藤さんが言ってることだわ。今あなたに出来ることを、全力でやればいいのよ」
「私に出来ることってなんだ? 私は今あいつのために、何をしてやれる……?」
「それは自分で見つけるしかないんじゃないかなー。これだっていう模範解答なんて無いし、宮藤がどうしてほしいかなんて私らには分からないしね。
それに私らがアドバイスしてそれに従ったとして、そんな他人の意見を頼りにしてるようじゃ長くは持たないよ」
「……そうか」
こういう方面には如何せん疎い。人付き合いの多いミーナやエーリカのほうが、この分野に関してはずいぶんと先輩だった。……まあ、先輩故に
答えはもらえなかったが。結局戦闘訓練なんかと同じで、答えをもらってそれを行うのは簡単だ。事実、低空機動訓練を初めてやったときも芳佳に
抜け方を教えてもらいながら飛んだので初めてでも上手くいった。だが、あれは同じルートを飛行しているから出来るのだ。確かにそれで基礎基本を
マスターできればほかの場所にも応用が利くが、ただ言われたことをこなしているだけでは上は目指せない。ゲルトルートだって、ただ芳佳について
飛ぶだけでなく自分でいろいろと考えて飛んでいるからこそ良いタイムが出るのである。もし芳佳が言ったとおりに飛ぶだけだったら、渓谷を
抜けることもままならないはずだ。
それと同じで、これにも答えなんてものは存在しない。何かを見つけて、それを元にもっとよく出来る点を探して。ただひたすら、それの繰り返しだ。
何かしらのアクションを起こしたとして、それについて相手が嫌そうな反応を返したらそれをやめる。もし相手が喜んでくれれば、次にどうすれば相手が
喜んでくれるかを探す。ひたすら、手探りの連続である。
「……そう、だな」
「で、トゥルーデはこれからどうすんの?」
「今からあいつのところに行っても、寝ているか気まずくなるかのどちらかだけだろう。……二人を手伝うよ」
「なんか私たちからしたら本末転倒ね……まあいいわ」
どっちにしろ、自分たちが作ることで誰かが元気になるのなら何でも良い。二人はそんなことを考えながら、手を動かし続けた。ゲルトルートも幾分か
元気を取り戻したので、腕をまくって包丁を握る。……最近、料理することがやけに多いように思う。
さて、何を作ろうか。芳佳とリネットを飛び切り元気にさせられるような、美味いものを作ろう。気合を入れながら、冷蔵庫から食材を取り出した。
- - - - -
「お? なんだなんだ、今日はずいぶん豪勢じゃないかー。何これ、バルクホルンが作ったの?」
「ザワークラウトとかその辺はな」
「トゥルーデったらなんかやたら気合入れて楽しそうにやるからさー、何かと思っちゃったよ」
楽しそうに話しながら、食堂には料理の盛り付けられた皿と隊員たちがぞろぞろと入って来る。その中にはリネットの姿もあり、割と早めに来ては
居たのだが一言も喋っていない。ところどころオイルの汚れがあるので、ストライカーか銃器の整備でもしていたのだろう。気分転換でもしていたのかも
知れない。……何はともあれ、ゲルトルートが今声をかけられる相手ではない。ミーナや美緒、サーニャなど仲の良い連中に任せておくべきと判断する。
芳佳に関しては自分が近くに居てやるのがいいかとも思うが、リネットがどういう反応をするかが分からない。どうしようかと悩む思いもあるが、まずは
芳佳が元気を取り戻さないことには始まらない。リネットの隣に座らせて、反対側に自分が座る形をとることにした。
しばらくして料理がすべて並び終わって、大方人も揃う。後は芳佳とサーニャが来ていないので、呼びにいくことに。
「それじゃあ私は二人を呼んでくる。先に食べていてくれ」
「分かったわ」
「了解~」
二人に言い残して、軽く手を洗ってから厨房を出る。そのまま居住区へと向かおうとすると、食堂から誰か走ってくるのを感じた。……行かせてやろう。
「……あのっ」
「芳佳ならお前に任せる。頼む、リネット」
「……はい」
顔も見ずに分かったので、それだけ言う。そのまま急いで走り去ろうとするリネットを一度足止めしてから、横に並んで目を合わせる。そういえば
最近はリネットとこうして向かい合うことも少なかった気がする。……なんだかんだで、結構悪いことをしてしまっていた。
「……すまない。お前にはいろいろと迷惑をかけて」
「―――気に、しないでください」
複雑な表情を浮かべて、リネットは走り去った。ゲルトルートはどうしたものかと頭をかきながら、とりあえずサーニャの部屋へ向かうことにした。
これからいろいろと、大変そうである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ハンガーから、音がする。
ぱちん、ぱちん。かちゃん、かちゃん。
戦車さえも貫通できそうな大口径ライフルが、床に転がっている。
ぱちん、ぱちん。がしゃん。
明かりもなく、夜中で真っ暗なハンガーで響く音。静かな中にただひとつだけ、その音がする。
がちゃん、がちゃん。かちゃん、かちゃん。
マガジンがひとつ、誰かの手に握られている。そこには口径に見合った大きな弾丸がはまっていて、また傍らにもいくつも転がっている。
かちゃん、かちゃん。がしゃん、がしゃん。
やがてその人は立ち上がると、自身の得物であるライフルを手に取った。
――――ガシャン。
マガジンがライフルに綺麗にはめ込まれ、やがて安全装置が解除される。ライフルは今、いつでも火を噴ける状態になった。
ボーイズ対装甲ライフルを担いで、三つ編みのテールを揺らした少女が暗闇に消える。ハンガーは、再び静寂に包まれた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
食事はそれなりに楽しく進み、芳佳もリネットも多少は笑みを見せてくれるようになった。片づけを手伝ってくれたりと、少しずつ打ち解けているように
思う。明日からはどうなるか、それはゲルトルートにも分からない。だが……少なくとも、悪い方向には転がらないような気がする。そんなことを天井を
見上げながら考え、今度は窓の外に目をやった。夕方とは違って、今度は綺麗に晴れている。今日の天気はずいぶん不安定だ。まあ、雨は降ってないので
少し厚い雲が通っただけなのかもしれないが。
そうして、就寝時間を少し過ぎたぐらいの時間をベッドでごろごろして潰す。寝ようかとも思ったが、眠気があまりこないのだ。昼過ぎまで寝ていたから
仕方ないのかもしれないが、明日は休みではない。きちんと寝なくては、明日に響く。……だが眠れないものは仕方がないので、こうして暇を潰している。
……そんなときだった。
「ん、誰か居るのか? ちょっと待ってくれ、今服を着る」
部屋が軽く二回ノックされ、ゲルトルートは身を起こす。こんな時間に誰だろうか、何の用事だろうか。服を着ながら、念のため小型ナイフを仕込む。
これは服を着ている間はいつでもやっていることで、私服でも制服でもこれは変わらない。ひとまず手早く部屋着を着ると、急ぎながら扉を開けた。
すると視界に入るのは、俯いた様子でやってきたリネットだった。
「……まあ、入れ」
「お邪魔します……」
何を話すか、いろいろと頭の中を駆け巡る。リネットとは話さなくてはならないことが多すぎて、どれを話せば良いのかが分からない。とりあえず部屋に
招き入れたは良いが、果たしてどうするべきか。ゲルトルートは電気をつけようと紐に手を伸ばしかけて―――――。
後ろで、重い金属音がするのに気がついた。
「ッ!!」
まずい。第六感が直感でそう伝え、ゲルトルートはナイフを躊躇することなく引き抜いて思い切り振り向こうとうする。ナイフを構えて、いつでも『敵』を
切り裂けるように―――!
「遅いです」
だが振り向いた瞬間、腹部に強烈な打撃を感じて体勢を崩す。思わずナイフが手から離れ、そのままベッドに仰向けに押し倒される。急いで横に転がって
逃れようとしたが、胸部に大口径の銃口を突きつけられて身動きが取れなくなった。……リネットの手に握られたボーイズ対装甲ライフルが今、ゲルトルートの
胸に突きつけられている。文字通り、ぴたりとくっついて。
左手がベッドからだらんと垂れているため、なんとかナイフに手を伸ばせないかと一瞬目をやった。それを見たリネットは、傍らに転がるナイフを蹴飛ばして
遠くへ放りやった。ついにゲルトルートには反撃の手がなくなり、冷や汗を垂らしながらきっとリネットをにらみつけた。
「一体、何のつもりだ」
「……こうでもしないと、あなたに勝てないんです」
そういいながらリネットは、冷血を装った目をゲルトルートに突き刺す。……しかしゲルトルートは、その奥に哀しみを見抜いた。この子は今、自分を
恨んでいるのではない。この子は『この子自身』に悔しさを感じている。
それが分かって、だがだからといってこの銃をどうにかすることは出来なかった。ずっしりと伝わる銃の重み、その中に込められたリネットの想い。
だがこんなことをしても芳佳が喜ばないのは、リネットだって分かっているはずだ。ならばどうして―――
「!?」
「……少しぐらい」
しかしゲルトルートがどう静止させようか考えるのに対して、リネットはゆっくりと引き金に指をかけて力を込める。いつの間にかリネットの目からは
涙が零れ落ちて、それがさらに引き金を加速させる。……このままでは、爆音と共に自分の体は四散してしまう――――!
「……少しぐらい、私に勝たせてくれても……」
どうやったら止められる。今から手を伸ばす? いや、先ほど目線だけ動かしたのさえ察し取る相手だ、そんなことしようものなら一瞬で引き金を
引かれる。ならばどうすれば良い、どうやったら自分は死なないで済む、どうやったら彼女を殺人鬼にしないで済む―――いくら考えても、いい案は
浮かばなかった。
「私に勝たせてくれても、いいじゃないですか―――ッ!!」
……それからリネットは決意したように、引き金を引く指にぐっと力を入れる。……ああ、終わったな。ゲルトルートはすべてを察して、目を閉じた。
もし自分が芳佳とかかわっていなければ、自分は死ななくて済んだだろうか。もし自分が芳佳とかかわっていなければ、こんな形でリネットを、そして
芳佳を傷つけることにはならなくて済んだだろうか。……そんなことを考えても、もう手遅れだ。全部、自分が悪いんだ。
ああ、これが私の受けるべき罰か。そんな風に、他人事のように考えていた。
――――次の瞬間、リネットの指が引き金を思い切り引いた。引ける限界ぎりぎりまで引ききって、確かに何かの弾ける音がした。……ライフルは、
装填された弾を発射する――――。
「?」
だがゲルトルートには何の異常も感じられない。疑問に思って目を開くと、銃口がふるふると震えている。リネットに目をやると、目からぼろぼろと
涙をこぼして泣いていた。やがてライフルがリネットの手から離れ、ゲルトルートの体を伝って床に落ちる。がしゃん、と重いのか軽いのか分からない
金属音が響いて、それからリネットも膝から崩れ落ちるように地面に倒れこんだ。
……一瞬あっけに取られたゲルトルートだが、我に返ってリネットの肩を抱く。リネットはひたすら泣いていて、声も出せないようだった。
「大丈夫か、リネット」
「うぅ……っ……」
ふとライフルを見てみると、きちんと安全装置は解除されていて撃てる状態になっている。ならばどうして、と思いマガジンをはずしてみてみた。
――――中身が、空っぽだった。ボーイズライフルが発射したのは、ただの空気だった。食事の時にオイルの汚れがあったのは、わざわざマガジンに
装填されていた弾を全て抜いてきていたからだ―――ようやくわかった。
「……なんでこんなことを」
「さっきも言いました……、こうでもしないと、大尉には……勝てないん、です」
もう一度聞いて、ようやくリネットが言っていた意味が分かった。……そうか、そういうことか。
「私のほうが大尉よりも先に芳佳ちゃんと仲良くなって、一緒に訓練に励んで、一緒にご飯も作って、一緒にお洗濯もして、一緒に掃除もして、一緒に
実戦を戦って――――なのに! 芳佳ちゃんは私じゃなくて、大尉を……あなたを選んだんですっ」
涙ながらに、リネットが訴えてくる。……否、違う。胸中の悲痛な叫びを、ゲルトルートにぶつけてくる。これは愚痴なんかじゃない、相談でも、
訴えでもない。――――ただの、悲鳴だ。
ゲルトルートは、それをリネットに言わせているのは自分であることをよく理解していた。もし自分が居なければ、芳佳は確実にリネットと一生を
共にしていただろう。それなのに、ゲルトルートが横から首を突っ込んだ上に芳佳を掻っ攫っていったのだ。リネットから、芳佳を奪っていったのだ。
「戦闘技術も戦果も、断然バルクホルン大尉のほうが上です。訓練の錬度だって、大尉に負けます。お料理だって、今日の大尉の作ったご飯はとても
美味しかったです。一緒に過ごしている時間は私のほうが長いはずなのに、短い期間で大尉は芳佳ちゃんの心をあっという間に奪っていった」
「……」
「―――私は、大尉に何もかも負けてるんですっ! 私が無能で、何も出来ないから……だから芳佳ちゃんはあなたのところに行った。……無能な私では、
これぐらいしないと大尉に勝てないんですっ!!」
……無能? 笑わせる。リネットが無能なら、自分はどうなる。そんなことを考え、口にしようと今でも口を開こうとした。だが、まるで全身が
凍りついたように動かない。……リネットの悲鳴に圧倒されて、自分は何も言うことが出来ない。ゲルトルートは、思った以上に自分が何も出来ないことに
気がついた。
「……ひとつぐらい、大尉に勝てるところがあっても……いくら私が無能でも、それぐらい……あってもいいじゃないですか………」
「……」
「今までは、芳佳ちゃんは私を見て笑ってくれるから、大尉には勝ってると思ってました。大尉が芳佳ちゃんに好意を持ってたのは気づいてましたから、
たったそれだけで、勝ててると思ってました。……でも違った」
先ほどから勝ち負けがどうのと、リネットはそれに固執しているようだった。だが仕方のないことなのかもしれない、もともとウィッチーズ隊に入隊して
しばらくは自分の能力に気づきすらせず実戦でも戦果が挙げられなかったのだ。今だって、そのせいで伸び悩んでいるのは事実である。それが目の前で
自分の愛した人を持っていかれれば、自信を喪失するのも仕方のないことなのかもしれない。
それでも、リネットの言っていることは―――分からないこともないが、だからといってうなずけはしなかった。
「……だから、せめて……一回ぐらい、大尉を『撃墜判定』にしたかった……」
「そうか――――だがな、お前は――
「いいんですッ! ……もう、これで私は満足です。……時間外の銃器の持ち出し、味方に対する発砲行為……重罪ですね」
リネットが自嘲気味に笑った。すべてを失ったかのように、俯きながらどこか遠くを見ている。……完全に、ゲルトルートに対して大敗を喫したつもりで
居るのだろう。
だが、それは大きな勘違いだ。ゲルトルートは、今日リネットに対して明らかに負けている。正直ここまで出来るものとは思っていなかったのだ。
自分の大事な人、守りたい人のために味方にまで銃を向けられる。……行為そのものはとても褒められたことではないが、その心意気は見上げたものだ。
ゲルトルートも、これぐらいの心がないといけないのだろうとひとつ学び取りすらした。
「……なぜ、そんな結論に至る」
「だって私は軍規に大きく違反したんですよ、もし抜いたつもりでも弾が入っていれば大尉は死んでいた」
「それは『イフ』の話だろう。歴史にはイフなんてものは存在しない。……リネット、お手上げだ。私はお前に撃墜された」
「……そう、ですね」
「いやそうじゃない、お前が思っているのとは違う。……お前のそこまで出来る心意気に、少し感動した」
「はい?」
不思議そうにこっちを振り向くリネットが、少しおかしかった。ゲルトルートはそれで少し笑って、リネットがきっとにらんだ。悪い悪いと謝ると、
ゲルトルートはリネットにとりあえずベッドに座るよう促した。ライフルを一時的に預かって(撃たせないためではなく、自首をさせないため)、窓際で
外を見ながら話をする。
確かに今回、リネットが取った行動そのものは間違っている。それは認めざるを得ないことだ。だが、ゲルトルートにはそこまでやれるほどの勇気はない。
誰かを守るというのがどういうことなのか、ゲルトルートはよく理解していなかった。単に傷ついた人や弱った人を守りその人の盾となって、またその人の
行く先々で敵となるものを切り裂く刃となる―――そんなことを考えていた。だがそれは、少し違ったかもしれない。
大切な人、守りたい人のためならば、どんな『敵』に対してでも刃を向けられるほどの強い意志。それが、人を守るということなのだ。それは芳佳が以前の
大戦でこの基地から脱走してまでネウロイとの融和を望んだのと、同じようなものかもしれない。あれが明らかに違反であることは芳佳だって分かっていた
はずだ。脱走すれば最悪撃たれるかもしれないということも、考えていたはず。それはすなわち味方に歯向かうのと同義である。しかしそれでも彼女は、
戦いのない世界のため、多くの人を守るため―――空へ飛び立った。
それと同じことを、リネットもしたまでだ。まあ、多分に私欲が含まれていたのも否定できない事実ではあるが。
「それにな? 私はお前が思っているほど料理も出来ないし、家事も苦手だ。機械はストライカーの整備も手一杯だし、戦闘だって過去のトラウマが
あるからそうならないよう我武者羅にやってるだけだ。我武者羅と言ってもむやみやたらとはまた違うがな」
「でも、今日の晩御飯は私なんかじゃ敵わないぐらい美味しかったです」
「そりゃあ、自分の得意料理や自分の国の料理なら作れるさ。でもリネットと同じものを作れといわれたら私はまず作れない。下手に作ったら、皆が
卒倒しそうだな」
「えええ、そんなっ」
「それぐらい、実際は苦手なんだ。得意なのは本当に、カールスラントの料理だけさ。最近芋を蒸しただけの朝食が多かったのも知っているだろう?」
他にも沢山、ゲルトルートがリネットに負けている点はある。アウトレンジでの狙撃や弾道計算なんて、両手に重機関砲を持ってとにかく前線を張る
ゲルトルートには無理な話だ。照準なんて、今でこそ大分感覚でも狙えるようになったがいずれにしても感覚で撃っていることに変わりはない。それに
比べて、しっかり軌道を読んで数キロ先のターゲットすら狙撃してしまうリネットはゲルトルートからしてみれば達人の域を超えている。
またコーナー速度での戦闘は得意だが、低速や音速前後の超高速での戦闘はとことん苦手だ。まだ超高速は対地戦ならば上空を飛びながら真下に
撃っていれば何とかなるものの、低速では話にならない。それがリネットは後衛という立場ゆえ、安定性の高い低速機動に特に優れる。被弾しかねない
低速での機動なんて、ゲルトルートは怖くてとてもやっていられない。訓練でやることはあっても、実戦で使う気になど到底なれない。
そして何より、一番リネットが勝っている点がある。
「……お前は、私より遥かに芳佳のことを知っているじゃないか」
「そんな……ぜんぜん知りません」
「どういう服が好きだとか、どんな色をよく使っているかとか、日常生活での癖とか……」
「それぐらいは分かりますけど……」
「私はそれすら知らん」
一番大事なところで、お前は私に勝っている。……そう言って撫でてやると、リネットは少し気恥ずかしそうに俯いていた。どうやら、自分の立場に
ようやく気づいたようだ。まったく世話の焼ける、手のかかる女だ―――そう思いながら、やはり仲間想いの良いやつだとも改めて思った。芳佳には
リネットのほうが似合うのではないかと思いながら、だが『イフ』は存在しないとは自分でも言ったこと。芳佳は自分のことを好いてくれているのだ、
その気持ちには前向きに応えるべきである。
少しして、リネットが口を開いた。
「……単なる、私の早とちりだったんですね」
「やっと気づいたか、この鈍感」
「ど、鈍感って……ひどいですぅ!」
「自分で無能だとか言っておきながらよく言う。本当は周りから言われるどころか自分で言いながらヘコんでるだろ」
「……はい」
「だったら言うな。お前はちゃんと才能が沢山あるんだから、自信を持って胸を張れ」
幾分か晴れたリネットの顔を見ながら、ゲルトルートは撫でながら再び空を見上げた。なるほど、空が晴れたのはこういう理由だったのかもしれない。
そんなことを思いつつ、そういえばとふと思い至った。
「芳佳ならまだ起きてる筈だ。あいつは自分の訓練の結果をいつも自分用にまとめているからな、寝るのが他の皆より遅いんだ。あと、夜間飛行で
昼間寝ていたから寝付けないかも知れんな」
「……やっぱり詳しいじゃないですか」
「戦闘に関してだけはな。訓練とかその辺は良く知ってるが、日常生活に関しては疎い。まあともあれ、まだ起きてるだろう。てっぺんの屋根にでも
二人で上ってきたらどうだ? 綺麗な空が見れると思うぞ」
次の瞬間、リネットがこの人は何言っているのだろうという不思議な目で見てきた。当たり前だ、ゲルトルートと芳佳は現状すでに恋仲にあると
言うのに、わざわざ同じく芳佳に好意を抱くリネットに二人きりになってみてはどうかと勧めているのだから。リネットからしたら理解不能だったが、
ゲルトルートとしてもそれほどまでに『芳佳を取られない自信』があった。
「銃は私が返しておいてやるから、お前は行って来ると良い」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
「ああ。……それと」
「はい?」
「……いろいろと世話になると思う。そのときはよろしく頼む」
「――――任せてください、バルクホルンさん!」
……リネットにさん付けで呼ばれたのは初めてだが、まあこれも悪くないかと思った。先ほども自分で言ったとおり日常生活面では芳佳のことを
ほとんど知らない。そのためゲルトルートとしてはリネットに頼るしか方法がないので、芳佳のことで分からないことがあったらリネットに聞く以外
ないのだ。
ともあれ、これでリネットとも打ち解けることが出来た。さて、まずは『自分に今やれること』をやらなくては。
「……コイツを返してくるか」
廊下でこれを持ち歩くのには気が引けたが、まあ誰かに会ったら適当に流しておけば良いだろう。幸いゲルトルートはこの基地で副官的な立場に
あるので、割と融通が利くのだ。
明日から、いろいろがんばろう。そのためにはまず――――
「……鬼の訓練か……くそっ」
嫌なことを思い出してしまった。ああ、憂鬱だ。
とりあえずゲルトルートは、リネットのストライカーの所にボーイズライフルを片付けると自室に戻ってベッドに向かった。さっきの、文字通り
死ぬかと思ったアレで大分精神的に疲れた。程よく眠気も来たので、さっさと寝てしまおう。手早く服を脱いでリネットに蹴飛ばされたナイフを
片付けると、そそくさベッドに入った。
今日は良く眠れそうである。……寝起きは悪そうだが。
その後一時間半ほど経ってからリネットが再び部屋に入ってきて、寝ているゲルトルートの耳元でこっそりと『ありがとうございます』と囁いて
帰っていったことをゲルトルートは知らない。
ともあれ、これでゲルトルートと芳佳の新しい生活が始まる。二人の胸は、高鳴ったまま暫くやみそうもなかった。
――――fin.