帰り道
ウィッチーズ隊はその所在地から、ブリタニア空軍とのかかわりも深い。運営上もブリタニアが主に管理を行っているので、何かとブリタニアと絡んで
打ち合わせやら書類処理やらをこなすこともしばしば。そのためロンドンにある空軍本部施設にはウィッチーズ隊関連の部署が設けられており、小ぶりな
執務室が作られている。また頻繁に出入りするミーナや美緒、ゲルトルートに関してはそれぞれに私室が与えられていた。
そして本日も珍しくもなくゲルトルートが書類処理にやってきていた。ただひとつ、一人余分についてきているのがいつもと違う点だ。
「しかしただの書類処理だというのに、喜び勇んでついてくるとはお前も変なやつだ」
「変ってひどいじゃないですかー、折角トゥルーデさんと一緒にいられるからって思ったのにー」
「はは、私も嬉しいよ」
傍らでこれまでの戦績などの数値を打ち込んでいるのはゲルトルートの妹分兼想い人、宮藤芳佳である。そう、エーリカ曰くヘタレであったはずの
ゲルトルートはいつの間にか『そっち』方面で大きな成長を遂げていた。いつの間にそうなったのかは知らないが、気がついたら芳佳はゲルトルートと
一緒にいて、いつの間にそうなったかは分からないがともあれいつの間にか二人は親友の域を抜けていた。いわゆる恋仲というやつである。周りはまったく
気づかなかったので、間をすっぽかしているとさえ言われるほどだ。これでも二人にとってはなかなかに苦労の連続で、思った以上につらい日々が続いたと
いう。
ともあれそんな関係なので、芳佳としても一秒でもゲルトルートとは一緒に居られたほうがいい。というわけで今日は書類処理などただの事務仕事で
来ただけに過ぎないというのに、芳佳はちゃっかりというかがっつりくっついてきた。おかげでゲルトルートとしては、昔からの相棒の面倒も見てやれて
なかなかありがたい限りである。
「そういえばハルトマンさんってどうなんですか?」
「どう、と聞かれてもな……まあ、ズボラではあるがあいつはあいつなりにがんばってるみたいだ」
「早く昇進できるといいですね」
「そうだな、やっぱり友の成長や出世は気持ちもいいし嬉しいものだ」
現在、エーリカは中尉から大尉へ昇進するための試験に向けて勉強を進めている。ウィッチーズ隊はある程度の功績と、士官試験など一部の筆記試験を
受けて合格することで昇進が認められるシステムだ。特殊な形態ではあるが、だからこそ『寄せ集め英雄団』などとも呼ばれるほど多種多様な人材の揃う
部隊を統一できる。生まれ持った能力なんかに左右されず、努力と訓練によって得られる実力でその人を判断する―――それが今の部隊のやり方だ。そして
エーリカは大尉への昇進試験受験がついに認められ、それに受かるべくがんばっている。ゲルトルートが補教師として補習に参加してエーリカにマンツー
マンで教えることで、エーリカの成績はぐんと伸びた。もともと医者を志していたこともあり、勉強さえすれば伸びる性質のエーリカはゲルトルートに
教えてもらっている間はとてもよく身についている。それでもズボラなので普段はあまり勉強しなかったりとサボりがちな面もあるが、一回一回の補習を
大事にしているようなのでさほど問題ない。自分の性格を分かった上での賢い選択だと、ゲルトルートは褒めていた。
「あいつもついに大尉か……いつまでも年下の部下だと思っていたら大間違いだな」
「なんだかそういう関係って憧れますね、頼れる先輩とかわいい後輩みたいな感じで」
「あれ、ついこの間までそうだった気がしないでもないが」
「えへへ、それとこれとはまた別です」
―――二人だけの空間。それがたまらなく幸せで、芳佳もゲルトルートも言葉数がいつもより多くなる。もう日も暮れて夜になってきているため、
だいぶ気が抜けてきているのもその要因のひとつだ。これで明日が休暇となれば最高なのだが、基本的に申告しない限りウィッチーズ隊に休みはない。
軍隊だからある意味当たり前と言えば当たり前だが、前線基地でありまたその特異性からローテーションの非番すら存在しないのだ。ほとんど常に全員が
出撃できるように待機している。まあ日ごろが休みみたいなものだし、普段休まない分誰でも申告すれば休めるので文句はない。前日であれなんであれ、
部隊を取り仕切るミーナからすれば『隊員がリラックスしていつでも全力を出せるように調整するのが大事』とのこと。つまりは体が休まらなければ全力も
出せないので、それなりに休暇は必要だという考えだ。そしてその休暇のタイミングはそれぞれ個々の能力やスケジュールなどによって大幅に変わって
くるので、個々が休みやすい時に申請してもらって休暇をとる。時にはそれで苦労させられることもあるが、それはそれでまた一興だ。
ともあれこれから先しばらく休暇の予定もない二人だったが、美緒の訓練から既に外れて自主訓練に入っている芳佳はほとんど仕事がないにも等しい。
ちなみにリネットも同様である。ゲルトルートは基地の運営関連でミーナや美緒とやり取りすることも多いが、丸一日そうしているわけでもない。通常の
社会人に比べれば、遥かに余裕があると言える。
「朝早いのが難だけどな」
「私が起こしにいきましょーか?」
「……お前達が起きて来ないのが一番のネックだと言うことに気づいてくれるか」
「あはは……すみません」
まったく、と苦笑する。それですら二人とも楽しんでいるので、日常会話の中からでも二人の関係が垣間見える。
時刻は七時三十分を回ったところだ。そろそろ一通り片付いて、帰れるようになる。今日は芳佳のほうが帰ってから予定が入っているので、帰りは芳佳が
先に一人で帰る予定だ。ただ、今日は大雨なので帰ること自体が正直面倒くさいという難点がある。視界を覆うのは大量の雨粒と道路にできた小川で、
場所によっては雷も鳴っているかもしれない。丁度、芳佳がサーニャの戦闘を輸送機の中から初めて見たとき――あの日の雨と似たり寄ったりだ。もう少し
すると、基地の庭でアジサイが花を咲かせる頃だろう。基地の花の世話は主にペリーヌとリネット、芳佳と美緒にゲルトルートの五人が担当している。
ミーナも好きなのでやりたいと言っていたが、部隊長の仕事と平行では難しいとゲルトルートがやめさせた。そのときの苦労と言ったら、とゲルトルートは
当時を振り返って苦い笑みを浮かべる。ゲルトルートがこういう顔をするときは大抵すさまじく面倒くさい時なので、心中お察ししますと芳佳も心の
中で合掌した。
そんな話をしながら仕事を進めれば、時間はあっという間に過ぎる。いつの間にか仕事も一通り終わって、二人とも両手を伸ばしてリラックスする。
「ふー……お疲れ様です」
「ああ、というか芳佳のほうが疲れただろう? ありがとう、助かった」
「いーえー、トゥルーデさんと一緒で楽しかったです」
ゲルトルートが文書系の仕事を担当して、芳佳が数字関係の処理を担当していた。二人で分担すれば早いもので、量は膨大だったがものの五時間程度で
終わってしまった。一人でやれば当然倍以上かかるのは必至で、ゲルトルートとしても今日はこれの半分程度の量しか考えていなかった。正直まだまだ
溜まっているものは多い上に次から次からエンドレスに積み重なっていくので、これを完全に消化しきるのは無理な話だが……。それでも、今日はかなり
捗ったほうである。ちなみに五時間でこの時間と言うのは、芳佳も昇進が近いので補習を受けに来ているためこれをはじめるの自体が遅かったのが理由
である。
「さて、それじゃ私はお先に失礼しますね」
「ああ。お疲れさん」
「はい、それではー」
手を振りながら、芳佳が部屋から出て行く。ゲルトルートは幸せそうな笑みでそれを見送ってから、自分も帰ろうと腰を上げた。一通り荷物をまとめて、
一通り部屋を確認して消し忘れなど無いかすべてチェック。問題なさそうだったので、部屋を出ようとして――――はたと気がつく。
「……あれ、無い……」
通常、どこか外出先でストライカーユニットを外す場合は鍵をかけておくものだ。空軍基地等の駐機場ならともかく、ここは普通の空軍の『建物』なので
駐機場なんて存在するわけが無い。なので近場に留めて鍵をかけておいたのだが、肝心の鍵が見当たらないのだ。しかも鍵には少し前に芳佳からもらった
大事な音符のキーホルダーがついている。正直鍵よりもそっちのほうが大事だったが、鍵が無ければ帰れないのもまた事実。仕方ないとゲルトルートは
一旦荷物を置いて、自分の行った場所をいくつか点検した。
まずポケット全部。これはさっきも確認したが無かったのでやっぱり無い。次は下駄箱かと思ったが、今日は下駄箱を使うような場所には行っていない。
しいて言うならこの部屋が土足厳禁だが、靴は目の前においてあるのでやっぱり違う。こんな見やすい場所で落としていればすぐ気づくはずである。あとは
補習教室だろうか。教室に行くには雨の降る中を歩かなくてはならないので気が引けたが、見つからなければ帰れない。仕方ないので部屋の傘を借りて、
部屋は電気をつけたまま扉を閉めた。部屋の鍵は南京錠で手元にあるのだが、南京錠の鍵自体は既に返却してしまっている。つまり南京錠を閉じると、
二度とあけることができないのだ。仕方ないので鍵は閉めずに扉だけ閉めておく。電気をつけていればよっぽど大丈夫だろう。まずこの施設自体が軍事
施設で立ち入り禁止なので、後はこの施設内の人間がなにかしでかさなければ問題ない。味方兵士を信頼できずに戦闘などできないという考えから、
ゲルトルートは特に不安がることも無くそのまま教室へ向かった。
傘を打つ雨粒が来たときよりも多くなっていて、ちょっと帰るのが億劫になった。……まあ、帰らなくては寝られないのだが。
ともあれ三分程度で教室のある棟に到着し、建物に入る。傘をしまって教室のある二階に向かうが、やはりどこも電気はついていない。普通は教室は
施錠しているはずだが、一部の教室は開放したままだ。エーリカやゲルトルートが使っている教室もまた開放したままなので、ガラガラと引き戸の扉を
あけて中へ入る。真っ暗な教室の中でも迷うことなく自分が使っていた机に向かい、机の中を調べて――――無いことを確認する。くそ、ここにも無い。
どうしたものかと腕を組んで時計を見ていると――
「とぅるーで……?」
「ん――」
いきなり背後から声がしたので少し驚いたが、さっと振り向くとそこには見慣れた人の姿があった。
「……フラウ、なんでこんなところに」
「ねてた」
「ふむ……一人か」
「うん」
トゥルーデはどうして、と聞くエーリカに教室の電気をつけながら事情を説明する。ああなるほどと納得して、それから間違って捨てられてないかと
ゴミ箱を漁ってくれたりと少し探すのを手伝ってくれたが成果は上がらない。トゥルーデがものを無くすなんて珍しい、とエーリカが首を傾げた。確かに
自分でもそう思う。……が、だからといって無くしたことに変わりは無い。とりあえずもう一度執務室を確認してくると言って、また傘を差して部屋に
戻った。
戻って執務室のドアを開けると先ほど出てきたときとまったく変わらない部屋がそこにはあって、そしてやはり鍵も転がっていない。どうしたものかと
頭を掻くが、どうしようもないのでとりあえず荷物を持ってまた部屋を出る。今度は電気を消して扉を閉じて、ついでに南京錠も持って出る。まだ施錠は
しないが、南京錠さえ持っていれば誰もいないからと鍵を閉められることも無いので安心だ。
ともあれそうして教室に戻ってエーリカに結果報告。うーんと二人揃って首をかしげる。
「さっきも聞いたけど鞄は確認したんだよね?」
「ああ、無かったはずなんだが……」
「一度全部出して見てみたら」
確認したと思って思わぬところにあるかもしれない、といわれて鞄を開ける。大したものは入っていないが、防水のためにビニル袋に入れられた参考書や
過去問題などがいくつかある。それと弁当に水筒。弁当は芳佳お手製である。ともあれ、まずは取り出しやすい弁当と水筒から取り出そうとして――弁当の
袋に何か引っかかっているのを見つける。
……思わず顔がひきつった。
「……あった?」
「――――なあエーリカ、これって何だと思う?」
自分でも驚くぐらい『すっごい無邪気な声』で、エーリカに聞いてみた。どっからどう見てもストライカーユニットの鍵と、それに取り付けられた音符の
形をしたキーホルダーである。
「あったねー」
「はあ……結局無くしてなかったな」
「やっぱおかしいと思ったんだよねー」
かくして、ずっと持っていた帰る手段を見つけたゲルトルート。これにて帰れるようになったのでさっさと帰ればよかったのだが、なんとなくエーリカと
しばらく話していたいという思いもあって教室に留まった。最近はこうしてゆっくり話す機会もあまり無かったので、積もる話もそれなりにある。帰るのが
面倒と言う二人の共通見解もあって、時間を浪費するのにはそう苦労しなかった。最初は芳佳とうまくいっているかと聞かれてからの惚気話に始まり、
エーリカにはそういうのはないのかとか、そこから発展してミーナや美緒はどんな人が似合うかとか、いろんな話をした。エーリカが放送禁止方面に
走ろうとするので、ゲルトルートまでそれに流されそうになっていいや自分はそんなキャラじゃないとそのたびに首を振る。それが面白くて、エーリカは
ケラケラ笑い転げていた。ちなみにエーリカが寝ていたのは、予定まで時間が空くから暇になったからだそうだ。
しばらくして話がひと段落すると、面倒だけど帰るかと意見が一致する。時間もずいぶん遅くなり、執務室を出たのが七時四十五分ごろであったはずだが
気づくと八時五十分を回っている。
「はー、雨ひっどいなぁ」
「まったくだ。正直、基地で仕事ができればどれだけいいか」
「ほんとだねー」
二人は荷物をまとめると、大雨の降りしきる外へと繰り出した。エーリカは傘を持ってきていなかったので、必然的に相合傘をすることになる。きっと
芳佳が見ていたら激怒するだろうなと、心の中で謝った。それが顔に出ていたか、エーリカがひじでうりうりと突っついてくるのがなんだか楽しい。
今日はずいぶん充実した一日だったと思いながら、まず執務室の鍵を閉めに行く。まだ南京錠は持ったままなので、鍵は閉まっていないのだ。ドアに
ツルを通して引っ掛け、ぐっと押し込む。……前にエーリカに、この南京錠を閉める感覚がたまらないと話したら変人だと言われて相当ショックを受けた
ことを思い出した。
「……お前って案外ドライだよな」
「は? 何言ってんの?」
「いや、南京錠でちょっと思い出しただけだ」
「……あれは普通に変人だと思う」
「だから変人とか言うなぁ!!」
ともあれ二人はどうでもいい会話をしつつ、それぞれのストライカーを履いて帰路に着いた。合羽も持ってきていたが、どうせ帰ったら洗濯するので
面倒だからと着なかった。基地まではここから十五分ほど、全速力で飛ばせば十分程度である。ゆっくり二人で談笑しつつ、大雨の夜空を飛んでいった。
- - - - -
「それじゃ、私ここだから」
「ああそうか、お前は今日は原隊だったな」
「うん。じゃ、おつかれー」
そう言ってエーリカは旋回して、ゲルトルートから見て左方に飛び去っていく。ぼーっとそれを見送っていたゲルトルートだが、少しして微笑した。
たまにはこんな雨もいいかと思いながら、またゆっくりと基地に向けて飛んでいく。本当に、今日は良い一日だった。ゆっくりと飛びながら、芳佳の
ことを想う。
そうして、鞄と犬耳をぱたぱたと風にはためかせて飛ぶゲルトルートは、普段からは想像できないほどに穏やかで軽快だった。いつもぴりぴりして
いそうだと評価する人も少なくないが、根は優しくて少し不器用な、年頃の『女の子』である。
「へっくし……あー、やっぱり濡れると冷えるなあ……」
ゲルトルートはゆっくりと、大好きな子の待つ基地へと帰っていく。空は今も、大雨である。
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着陸許可を得てから滑走路にアプローチしていると、ハンガーのほうに人影を見つける。……どうやら、帰りが遅かったことを心配してミーナが様子を
見に来てくれたようだ。着陸するとストライカーが盛大な水しぶきを上げ、滑走路の水を吐き出す。この滑走路に水がたまるほどなので、地域によっては
飛行禁止だろう。
そんなことを考えながら、ハンガーへ向かう。
「お帰りなさい、トゥルーデ」
「ああ、ただいま。遅くなってしまったな」
「宮藤さんが心配していたわ」
後で声をかけようと決めて、機体を留める。服も鞄も髪もすべてびしょびしょで気持ち悪いので、正直さっさと洗濯してしまいたい。ゲルトルートは
今すぐ全部脱ぎたい衝動を抑えて、ミーナが渡してくれたタオルでとりあえず頭を拭いた。なんとなく見覚えがあると思ったら芳佳の愛用品で、どうやら
心配した芳佳がミーナに渡すよう言ったものらしい。気を遣わせてしまったなと少し後悔する。一通り頭を拭き終わってから、上着を脱いで軽く絞る。
……軽く絞ったつもりが大量に水が漏れてきて、思った以上に水を含んでいたことに驚く。これで飛んでいたのか。それからシャツも脱いで絞って、下着は
さすがにここで脱ぐとミーナに叱られるのでやめておいた。髪留めのリボンも解いて、靴は脱ぐに脱げないので仕方なく履いていくことにする。
「雨は後の処理が大変だな……」
「そうねえ……一日基地に引きこもってた私からしたら、なかなか面白いものが見れるけれど」
「面白いもの?」
「人目を憚らずに脱いで服を絞る人とか、それとまったく同じことをする人とか」
よく分からず少し考えていて、ようやく答えにいたって顔が赤くなる。……つまり芳佳も同じことをやっていたのだ。なんとなく恥ずかしくなって、
ミーナには『本当に仲良しさんね』と冷やかされた。思わずいつもの癖で否定しそうになったが、それを否定したら元も子もない。ゲルトルートはぐっと
抑えて、逆に突っ込んでやった。お前もなにかやったらどうだ、と。あまり芳しくない返事のミーナに美緒を勧めてみると、顔を真っ赤にしてそれが
できれば苦労しないと力説された。ああやっぱり美緒を狙ってるんだと落ち着き払って言うと、どうやらミーナもようやくゲルトルートの罠にかかって
いたことを悟ったらしくさらに顔を真っ赤にした。つまりは誘導尋問だったが、これでゲルトルートはひとつミーナの秘密を知ったことになる。というか
気づいてないのは本人達(ミーナと美緒)だけなのだが。
「まあ、誰にだって好きな人はできるもんさ。がんばれ若人、私は応援しているぞ」
「な、なによその年寄りくさい台詞っ」
「……お前のほう
「何かしらトゥルーデ?」
……殺気が見えた。ゲルトルートはなんでもないよと引きつった笑みで言うと、脱兎のごとくその場から逃げ出した。ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ、
恐ろしい子である。
- - - - -
普段は大嫌いな雨も、なぜだか今日は楽しく思えた。後片付けや体調管理が特に面倒で嫌なのだが、それさえも今日はどこか気持ちがいい。鼻歌なんか
歌いながらシャワーを浴びたり、着替えたり。普段のゲルトルートからは想像もできないほど、今の彼女は『今』を楽しんでいた。
一通り後片付けが済んで、腹も減ったので食堂へ向かう。おそらく冷蔵庫にでもとってあるはずだ。今日の飯はなんだろうと心を躍らせながら向かうが、
廊下に漏れる明かりに気がついた。食堂の照明がまだついているようで、少し首をかしげる。誰か居るのだろうか。時間はだいぶ遅くなっているので、
こんな時間に誰か居るとしても何が目的かさっぱり分からない。まあ、別に目的がないと居てはいけないとかそういうわけではないのだが。
だが誰か居そうなその扉を開けてみても、見渡したところ誰も居ない。ただの消し忘れかとも思いながら厨房のほうへ歩いていくと、ようやく明かりが
ついていた理由を見つけた。
厨房の調理台には紙とノートがぱらぱらといくつかあって、それから色のついたファイルがひとつ。ペンも転がっていた。そしてその主が、子猫のように
すやすやと眠っている。その存在に気づいてみると、確かに寝息も聞こえてきた。ゲルトルートは微笑しながら、起こすか寝かしておくか迷って結局起こす。
どうせ自分が食事の準備をしていると起きてしまうだろうと思ったので、だったら先に起こしたほうがいい。
「ただいま、芳佳」
「……んぅ」
……芳佳は程なくして意識を取り戻すが、細くなった目で辺りをきょろきょろ見渡す。それからゲルトルートの姿を見つけ、じーっと見つめる。まだ
寝ぼけているようだったが、それでもゲルトルートのことは判別できたらしい。きっかり三秒後、いきなり目が覚めたようにぱあっと顔が明るくなる。
「おかえりなさい!」
「ああ。すまないな、待たせてしまって」
「ううん、ちゃんと帰ってきてくれるの分かってたから」
えへへ、とはにかむ芳佳。それが可愛くて、ゲルトルートも微笑しながら頭を撫でてやった。芳佳は気持ちよさそうに目を細めて、満面の笑みを浮かべる。
どうやら、ゲルトルートの帰りを待ちながら訓練のレポートを書いていたらしい。だがそれも一通り書き終わってしまったので、帰ってくるまで寝ようと
ここで眠っていたとか。寝た場所がここなのは、当然『確実に間違いなくゲルトルートと会えるから』だ。
少し談笑してから、芳佳が今日の帰りのことをたずねてくる。どうやらミーナが言っていたとおり随分心配をかけさせてしまっていたようで、申し訳ない。
まあ、一緒に同じ場所に居たのに帰りがまったく違うとなれば心配もするだろう。ゲルトルートはすまないと言いながらまた撫でてやったが、芳佳は気持ち
よさそうにはするものの微妙な反応だった。
「んー……いつものしてくれたらゆるしてあげます」
「いつもの………ってお前、ここでか?」
甘えた声で芳佳が言ってくるので一瞬流されそうになったが、ここは食堂。全員共同のスペースである。振り向いてばっと見てみるが、まあ誰も居ないのは
至極当然なことだ。芳佳にもそういわれるが、経験上こういう場所でなにかやらかすと大抵良いことがない。丁度良いタイミングで誰か入ってきたり、
まるで見ていたかのようなタイミングで金髪の知り合いが入ってきたり――。……想像したのがすべてエーリカだったので萎えた。まったくあいつは。
「だれもいませんよ?」
「はあ、仕方ないな」
「えへへっ」
嬉しそうに笑って、ゲルトルートに向き直る。ゲルトルートも少し頬を赤らめながら芳佳の頬に手を当てて、軽く目を閉じてから――『触れる程度』の
軽い口付け。だが芳佳も満足したようで、満面の笑みを浮かべながら鍋に視線を戻した。今日の晩御飯は芳佳お手製のクリームシチューである。
邪魔者も入ることなく、二人は二人きりの至福の時間を過ごす。二人で準備したシチューを食べて-芳佳はもう食べた後なので隣に座るだけだが-、
一緒に笑って。ちょっと前にはこんな幸せ、想像できなかったが……世の中分からないものである。いつからから芳佳が気になって仕方がなくて、当時は
自分の姉馬鹿がまた出たかと自分でもあきれていたのを思い出す。ふふっと笑うと、芳佳も気になって声をかけてきたので二人で思い出話に浸り始めた。
可愛がっていた大事なあの妹が倒れてしまったのだ。だから、自分としては妹が気になって仕方がないというのは多少は仕方ないだろうと割り切っていた。
仲間の間でもネタにされてばかりだったが、正直あれを楽しいと思えるのはあまり多くなかった気がする。
クリスの目は覚めなくて、ずっと眠ったまま。それを見守るしかなくて、見舞いに行ってもこちらから一方的に声をかけることしかできない。それが
辛くて、だからいつの間にか芳佳にクリスを重ねていた。しばらくはそれで良かったのだが、やがてクリスの目が覚めると芳佳にクリスを重ねるのも
自然になくなっていく。なくなっていくのだが、なぜかいつまでも芳佳を愛でる気持ちは衰えなかった。それどころか日に日に増す一方で、それが徐々に
『姉』としての想いではなくなってきていることにもうっすらと気がつく。……それでもその想いの正体に確信がもてなくて、一度ミーナに相談した
こともあった。
「あの頃はあの頃で、まあ思い出になってしまえば面白いというかなんというか」
「思い出になれば何でもきれいになるってよく聞きます」
「確かに、そうかもしれんな」
ともあれようやく自分の気持ちに気がついて、芳佳のことが好きなんだと気づいて。だがだからといって、芳佳にそれを打ち明けることなんて自他共に
認めるヘタレなゲルトルートには難しかった。あのエイラにまでヘタレと言われた時は正直へこんだが、事実なので仕方がない。どうしたものかと暫く
苦悩の日々が続いたが、ある日の夜。それは本当に偶然で、会話の流れから生まれたことだった。
「……あの時ってお前はそのつもりだったのか?」
「いえ、まったく。なんか勢いで」
「勢いであんなこといえるのか……凄いなぁ」
「え、いや、そんな、ぜんぜん」
その頃から二人きりになることは日常茶飯事で、あの時は風呂にも二人きりで入っていた。二人で笑いながら、今日あったこと、これからの予定、
今までの面白い話、そんな他愛ないことをずっと話していた。……それが徐々に色恋話になっていって、最初はミーナをネタにして笑っていた。だが
気がつくとエーリカやエイラを経由してサーニャとリーネの話になり、いつの間にか自分たちの所に話題が来ているのに気づく。なんで回りまわって
よりにもよって自分たちのところに話題が来たのかは分からなかったが、ゲルトルートにとってはあまり喜ばしくない状況だった。その頃は自分に
自信がなかったからだ。
だが話していくうちに、互いの悩みや思っていることが似たり寄ったりであることに気がついて。そのときにゲルトルートがなんでだろうと純粋に
疑問を投げかけたことから発展して、いつの間にか話がまとまっていた。あの時は、最終的に芳佳がリードする形で互いの気持ちを伝え合った。
「なんか今思い出すと恥ずかしいですね」
「そうだなあ……まさかあんなことを言うことになるとは思わなかった」
色恋沙汰など、自分には似合わないと思っていたが。そうゲルトルートが言うと、芳佳が不満そうに頬を膨らませた。むしろゲルトルートこそ、
こういう話には進んで首を突っ込むべきだと。ゲルトルートには理由がわからなかったが、聞けば『なかなかそういう機会がないから』だそうだ。
……つまり、これはあれか、芳佳からの宣戦布告か。
「……どうせ私は堅物のヘタレで出会いの機会なんてまったくない晩熟さ、だがそれで文句があるかっ」
「えええ!? ちょ、なんでそうなるんですかぁ!?」
「違うのか? だって『そういう機会がない』んだろう? んん?」
「ごごごめんなさい私が悪かったからそんなに怒らないでくださいーっ!」
「『いつもの』一回」
ゲルトルートがそう言うと、芳佳は少し恥ずかしそうにしてから先ほどとは逆の立場で芳佳がゲルトルートに軽いキスをする。それに満足して、
芳佳の頭をなでるとゲルトルートは席を立った。話しているうちにもう食事は終わっていたので、食器を片付ける。片付けながら、芳佳がクレープも
作ったから後で一緒に食べようと嬉しそうにはしゃいでいた。まだまだ、夜は長そうである。
二人はその後、ロビーでクレープと紅茶でちょっとしたお茶会を開いた。窓際に椅子とテーブルを並べて、外を眺めながら談笑。部屋の明かりは
あえてつけず、外の景色を楽しみながら。いつの間にかこんなことが似合うようになった芳佳と、それを眺めて微笑するゲルトルートと。二人が
そうしているのはとても自然なようで、すっかりお似合いになっていた。話している内容こそ他愛のないものだったが、だからこそ逆に風情がある。
笑顔の尽きない二人は、きっと見ているだけでも頬が緩んでくる。まあ、幸いというか生憎というか、この場には二人以外のものは居合わせて
いないのだが。
やがて夜は更けて、就寝時間がやってきて。それぞれ食器を片付けて、そして自分の部屋へと戻っていく。それぞれの自室は宿舎を半分にした
反対側な上に階も違うので、階段のところで別れることになる。それでも二人は、またすぐ明日も一緒だというのになかなか別れるのが惜しかった。
「……まあ、このままいつまでもずるずる行くわけにもいかんしな。そろそろ寝よう」
「そうですね……。じゃあ、一日の最後に」
それからは特に改めて合わせる間でもなく、二人は手をつないで顔を近づけて――。
奇しくも今日は満月。窓の丁度真ん中に月が鎮座していて、そして二人が口付けを交わしたのもまた窓の丁度真ん中。月に照らさるる美しい空と、
そこで交わされる愛と。そこに拍車をかけるのは降りしきる雨で、降り注いだ雨は昼間にこもった熱がたまりやすいこの基地においては地表付近で
水蒸気に変わる。それがもわもわとして、景色をぼんやりとソフトに包んでいた。
――幻想的なほどに美しい光景。二人は図らずして、最高の夜を迎えた。
少し長いキスが終わると、二人は軽く抱き合う。
「……じゃあな、芳佳。また明日」
「はい、また明日です。おやすみなさい、トゥルーデさん」
「ああ、おやすみ」
微笑しながら離れて、手を振って歩き出す。芳佳は廊下、ゲルトルートは階段なのですぐに姿は見えなくなる。それが逆に別れるには名残惜しさも
なくて丁度よかった。
今日は二人きりの時間が、いつもより長かった。雨の中だったが、その雨でさえ今日はいとおしく感じる。二人はまた明日は幸せになれるといいなと
ぼんやり考えながら、余韻に浸ったまま眠りについたのだった。
外は今も、大雨である。
fin.