反乱
まだ起床ラッパまで数刻あるという早朝、作戦室にウィッチたちが勢揃いしていた。
非常招集が掛かったのである。
敵が奇襲を掛けてきたというなら話は別だが、今までに前例のないことであった。
「なんだよ朝っぱらからぁ~」
朝が弱いルッキーニ少尉は不機嫌そうに大あくびをする。
そんな少尉も、部屋に駆け込んできたミーナの厳めしい顔を見て姿勢を正した。
「気を付けっ」
副官バルクホルン大尉が号令を掛けるのをミーナが手で制する。
規律に厳しいカールスラント軍人としては珍しいことであるが、それだけ時間的な余裕がなかったのである。
「みんな聞いて。東欧で重要突発事案が起こりました」
いつもは冷静なミーナの声がいつになく上擦っていた。
これはいよいよ只ならぬことが起こったのだと皆が緊張する。
ネウロイとの戦いに連戦連勝を続け、敵が消滅するのももはや時間の問題と言われている昨今である。
余程のことが無い限り、人類の勝利は揺るがないものと思われていた。
「敵の反攻作戦でも始まったのか?」
「大規模な増援があったとでもおっしゃいますの?」
隊員たちが不安を隠しきれないように口々に質問してくる。
「増援? 言い得て妙だわね」
ミーナの顔が少し冷酷な笑いを浮かべたように歪んだ。
「聞いて。本日標準時午前3時00分をもってオラーシャは連合軍を離脱。単独でネウロイと和平協定を結びました」
一旦言葉を切ったミーナの顔に怒気が満ち溢れてくる。
「その上でネウロイと軍事同盟を締結。連合に対して宣戦布告してきました」
最初、その言葉を聞いた時、皆は何事が起こったのかさえ理解できなかった。
そしてジワジワと実感が湧いてくると、今度は事の余りの重大さに事実を受け入れることができないでいた。
「それって……オラーシャが……敵に回ったってこと……かな?」
いつもはマイペースのエーリカまでもが心中の驚きを隠せない。
オラーシャ帝国は欧州最東端に位置し、広大な土地に豊かな資源を埋蔵している有力な国家である。
現在はウラル川より東と中東方面に分断されているが、東部戦線の主戦力となる強国であることは疑いようのない事実だ。
そのオラーシャが敵に寝返ったとなると、連合軍は有力な友軍を失い、かつネウロイは強力な増援を得たことになる。
「ど、どうしてオラーシャ帝国が……」
裏切ったのだと、美緒はショックのあまり続けることができなかった。
扶桑皇国は東部戦線で戦うオラーシャを支援する同国の友邦なのだ。
美緒の仲間、皇国陸軍のウィッチも数多く派遣されている。
「オラーシャ帝国ではないわ。オラーシャは本日付けをもって共和国となりました」
ミーナの言葉は、オラーシャ国内で政変があったことを窺わせた。
赤化したオラーシャが敵に回ったとなると、当然西部戦線の連合軍は腹背に敵を抱えることになる。
各戦線で追い詰められていたネウロイは解放され、再び欧州を蹂躙しようと襲いかかってくるのは火を見るより明らかだ。
こうしている間にも、カレー方面のネウロイが活動を再開しているに違いない。
「ちっくしょう。だからオスケなんか信用しちゃいけなかったんだ」
シャーロットが憎々しげに吐き捨てた。
他のウィッチたちも、口にはしないものの彼女に同調する。
そんな中、エイラ一人だけが真っ青になっていた。
オラーシャが裏切ったと言うことは、自分の一番大事な人の母国が敵に回ってしまったということなのだ。
「サ、サーニャ……?」
エイラは室内にサーニャの姿を求めて──その時になって初めて彼女がいないことに気が付いた。
「あいつ。脱走しやがったな」
バルクホルン大尉が血相を変えてテーブルを殴りつけた。
「アイツとか言うナ。サーニャは私たちの戦友なんだゾ」
必死で仲間を庇おうとするエイラの努力も徒労に終わった。
サーニャが非常招集に応じなかったということは、彼女がこの事態を事前に知っていたという何よりの証拠であったのだ。
「あの子を行かせちゃダメ」
ミーナが厳しい口調でそう言った時、エイラはホッと胸を撫で下ろした。
やはり隊長のミーナは部下のことを信じていてくれているのだ。
しかし、続けて発せられた命令が、エイラを絶望の淵に叩き落とした。
「あの子はこの基地の隅々まで知ってるの。敵を先導されたら厄介なことになるわ。敵と接触する前に撃墜しなさい」
その命令にウィッチたちは狼狽える。
昨日まで共に戦っていた仲間を撃てと言われて、直ぐにハイそうですかとはいかないのは無理もなかった。
「何をしてるのっ。1秒ためらえば、それだけ多く罪のない民間人が命を失うことになるのよ」
ミーナの命令が絶叫となった。
ウィッチたちも改めて事の重大さに気付き、バラバラと敬礼して作戦室を出ていった。
戸惑いを隠せなかったウィッチたちだったが、格納庫へ入った途端に怒りの感情が爆発した。
なんと、そこら中に整備員の死体が転がっていたのだ。
そればかりか、ハンガーに収納されていたストライカーユニットの全てが破壊されていた。
「……ひでぇ」
「サーニャの奴……」
耳を澄ますと、遠くでストライカーユニットの爆音が聞こえた。
窓辺に駆け寄ると、遙か彼方を一人のウィッチが東へと消えていくところだった。
魔眼を使うまでもなく、美緒にはそれがサーニャであることが分かった。
追いかけるには引退した旧式ストライカーを使うしかないが、どう急いでも整備に30分は掛かる。
それではとてもではないがサーニャに追いつけない。
「エイラ……頼む。サーニャを追えるのはお前しかいない」
美緒はエイラに非情とも思える命令を下した。
2人の仲を知らぬ美緒ではなかったが、実戦の指揮官としては命令せずにはいられない立場にあったのだ。
「けど……」
エイラは躊躇いを見せる。
「頼む。アイツを止めてやってくれ。心苦しいが、お前にしか頼めない」
墜とせとは言わなかった美緒の真意を計り、エイラはゆっくり、しかし大きく頷いた。
エイラの膝下に組み込まれたJumo-004からジェット噴射が長く伸びている。
もの凄い空気摩擦で、体の周囲に張り巡らせた不可視フィールドが今にも火を噴きそうだ。
音速を超える速度を維持していると、やがて前方にMig60を履いたサーニャの姿が見え始めた。
「サーニャ、待つんダーッ」
その叫びは伝わらずとも、全方位レーダーで周囲を監視していたサーニャは、背後に迫るエイラの存在に気付いた。
エイラは有速を活かしてアッと言う間にサーニャに並ぶ。
そしてMig60の最高速度に合わせるように出力を絞る。
「サーニャ、引き返すんダ。じゃないと撃墜するゾ」
エイラが叫ぶのを見て、サーニャは黙ってほくそ笑む。
できっこないくせに、と言わんばかりの冷笑であった。
「あぁっ、笑ったナ。こっちは本気なんだゾ」
バカにされたと思い、エイラは真っ赤になって怒る。
サーニャはそれを無視して東へと飛び続ける。
「なぁ、サーニャは知らなかったんダロ? 上から何にも聞かされてなかったんダロ?」
エイラは戦友を追いかけながら必死で説得を試みる。
それでもサーニャの冷たく強張った顔が緩むことはなく、エイラを一顧だにしなかった。
そうこうしながら飛び続けているうち、前方にカレーの町が見えてきた。
カレーはまだ敵の残存勢力がはびこる西欧におけるネウロイの拠点だ。
「ヤバイ」
エイラは自分がネウロイの勢力圏に入り込んでしまったことに気付いた。
既に前方からは無数のラロス7が近づきつつある。
「サーニャ、今ならまだ間に合う。一緒に基地に帰ろ」
もはや残された時間が少ないことを悟ったエイラは、切実な顔で最後の説得を続ける。
「一緒にミーナに謝ってやるから。サーニャ、帰ろ」
エイラの必死さは、ようやくサーニャに届いた。
冷たい顔をして東を目指していたサーニャが、チラリとエイラに一瞥をくれたのだ。
だが、彼女の口から発せられた言葉は残酷なものであった。
「あなたのそういうところ、ウザイわ……だいっきらいなの」
それだけ言うと、サーニャは赤ブーストで加速してエイラを引き離した。
一瞬、呆気にとられたエイラに怒気が蘇ってくる。
「……なんだとぉ~っ。誰のためにこんな体になったと思ってるんだぁ」
エイラは両足に内蔵されたJumo-004を噴かして加速を図る。
しかし一旦出力を落としたジェットエンジンはなかなかパワーが回復せず、エイラはもどかしさを覚えた。
運の悪いことに真上に迫ったラロス7が降下体勢に入りつつある。
こんなところに攻撃を受けたら、如何にサイボーグウィッチと言えどもひとたまりもない。
「早く掛かレ、早く掛かレ……」
ようやくアフターバーナーが点火し、エイラの体は蹴っ飛ばされたように加速した。
「サーニャ、許さないゾ。許さないゾォッ」
エイラは加速しながらサーニャを睨み付ける。
対するサーニャはケファラスの機首に降り立つと、腕組みをしてエイラと対峙する。
そしてラロス7にエイラを始末させるため、冷たい表情のまま右手を振り下ろした。
(つづく)
ラロスの大軍が一斉にダイブに入った。
そしてただ1人、エイラに標的を定めて無数の光弾を放つ。
背筋も凍りそうなその光景は、さながらナイアガラの大瀑布のよう。
だが、エイラはジェットの力を振り絞り、水平飛行で必殺の射弾をかわしきる。
光弾をくぐり抜けたエイラは、急上昇で天空へ駆け上がっていく。
そのままループから背面に入ったところで、半捻りを加えて反転する。
もの凄いGが掛かり、脳を生かしている維持装置のポンプ圧を上回る。
「くっ……くぅぅ……」
血流が止まり一瞬気を失いかけるが、エイラは必死で耐え抜いた。
鮮やかなインメルマンターンが決まった時、彼我の態勢は完全に入れ替わっていた。
MK108が吼え、上昇しかけたばかりのラロス軍団にカウンターパンチを加える。
30ミリの威力は申し分なく、ラロスは紙飛行機のようにバタバタと落ちていった。
「ど、どんなモンだ……」
ようやく維持装置が機能を回復し、エイラの意識がハッキリとしてくる。
肩越しに振り返ると、突っ込んでくるケファラスが目に入った。
その機首の上には、腕組みしたサーニャが立っている。
「サーニャ、観念シロッ」
エイラは身を翻すと、ケファラスの前上方から突入する。
対するサーニャは冷たい目のまま、無言で右手をサッと振り下ろした。
ケファラスの対空火器が前上方に向けて吐き出される。
「わわっ」
目を開けていられないような集中砲火がエイラの突入を遮る。
未来予知で光弾をかわしても、次から次では回避が追いつかない。
たまらずダイブで逃れ、ケファラスの下に潜り込む。
下面の対空火器は幾分少なく、エイラは一息つくことができた。
「くっそぉ~。サーニャの奴、本気ダナ」
エイラはJumo-004を全開にすると、いったん逆落としにダイブする。
勢いの付いたところで強引に引き起こし、急上昇でケファラスを突き上げる。
「これでも喰らえェェェッ」
激突寸前、MK108が火を噴いた。
垂直上昇で離脱したエイラが振り返ると、ケファラスの胴体が真っ二つに折れて爆炎に包まれるところだった。
「サーニャは?」
あちこちと首を巡らせると、黒煙の中から飛び出てくる影が目に入った。
フリーガーハマーを抱えたサーニャである。
「やってくれたわね、エイラ。501の基地を空襲できなくなったわ」
サーニャの氷のような冷たい目がエイラを射抜く。
「させるわけないダロ、そんなこと。冗談でも言うナ」
エイラが負けじとサーニャを睨み付ける。
「そう……代わりにあなたの首を手土産にするわ……死んでちょうだい……」
フリーガーハマーの砲身が持ち上がる。
「そんなモン、当たりっこないダロ」
ボーイズライフルの高速弾すら余裕で避けるエイラである。
弾速の遅いフリーガーハマーで仕留めることなどできるわけがない。
「そんなことより、一緒に帰るゾ。みんな待ってるんダ」
「まだそんなこと言ってるの……もう……遅いの……」
サーニャがゆっくりと首を左右に振る。
「なら……なら、あたしも連れてけ。ネウロイのところへ連れてけッ」
エイラの叫びはほとんど悲鳴に近かった。
「サーニャ1人を裏切らせるなんてできるわけないダロ。あたしが一緒に行ってやるから」
最後の方は哀願になっていた。
元々、エイラにサーニャを撃てるはずがないのだ。
サーニャが戻らない限り、エイラにとって取る道は一つしかなかったのだった。
「ふ、ふざけないで……あなたなんて連れて行けるわけないでしょ」
サーニャの眉が吊り上がった。
「やっぱりヘタレとは相容れないわ。さあ……勝負よ、エイラ。遠慮しないから」
サーニャはMig60を全開にさせ、一気に間合いを詰めてきた。
距離を詰めることで、弾速の遅さをカバーしようというのだ。
それでもエイラは余裕があるのか、空中でホバリングしたままである。
「バカにしないでっ」
照準器の中のエイラがグングン大きくなる。
至近と言える距離まで近づいた時、サーニャの指がトリガーを引き絞った。
フリーガーハマーからロケット弾が飛び出す。
煙の尾を引いて飛来したロケット弾は、エイラの胸に当たって炸裂した。
「ずるいわエイラ……わざと当たったでしょ……」
サーニャは夕日に向かって飛びながら、腕に抱えたエイラの耳に呟いた。
「お前だって……わざと外そうとしたダロ……」
サーニャの腕の中でエイラが力なく微笑む。
胸の生命維持装置が壊れたエイラは瀕死の重傷だった。
生体脳への血流が止まれば、サイボーグと言えども生きてはいられない。
それを知っているからこそ、発射の寸前でサーニャは照準をずらせたのだった。
つまり、最後の最後でサーニャはエイラを撃てなかったのだ。
それなのに、エイラは未来予知でロケットの弾道を見切り、わざと胸で受け止めたのだった。
「ずるいわ……こうすると私があなたを基地に運ぶしかないって計算してたんでしょ」
夕日を浴びたサーニャの頬は、少しだけ膨らんでいた。
「ま、まあナ……サーニャがあたしを見捨てるわけないもんナ……」
その実、どうせ死ぬのならサーニャの手によって自らの命を絶とうと考えたエイラであった。
だが、サーニャを慕うエイラの愚直なまでの思いが、土壇場で奇跡を生み出したのだった。
海面に激突する寸前、エイラはサーニャによって抱え上げられたのだ。
「けど、サーニャ……お前……」
このまま西へ飛べば501の基地に帰ることになる。
そうなればサーニャは──。
「黙ってて……私のことなら……もういいの……国は国、私は私だもの……」
サーニャの口元がフッと緩む。
その横顔を見ながら、エイラは心に誓った。
全力でサーニャを弁護してやろうと。
どんなことをしてもサーニャを守ってみせると。
そう念じながら、エイラは深い眠りに陥った。
どのくらい眠っていたのだろう。
エイラが目を覚ますと、目の前に見知らぬ天井が広がっていた。
微かなクレオソートの匂いで、ここが病院であることを悟る。
「サーニャはっ?」
ガバッと半身を起こそうとして何者かに遮られた。
「ダメです、エイラさん。まだ寝ていないと」
それは心配そうな顔をした宮藤芳佳であった。
「脳内の酸素が欠乏して、かなり危険な状態だったんですよ」
エイラが自分の胸を見ると、生命維持装置のところにパイプやコードが繋がっていた。
まだ機能が回復しておらず、外部の機械を接続することによって血流を保っているのだ。
それでもエイラはまだ生きていた。
「それよりサーニャ……サーニャは?」
エイラは不安を隠そうともせず、芳佳を問い質した。
「…………」
芳佳は黙り込み、視線をずらせてしまった。
それがエイラの不安を煽る。
「ミヤフジ……サーニャはどうしてるんダ?」
エイラは芳佳の手を振り解き、更に食い下がろうと詰め寄る。
「私が答えましょう」
ドアが開いて病室に入ってきたのは、隊長のミーナ中佐であった。
中佐のいつになく厳しい顔を見て、エイラは焦燥感に駆られる。
「…………」
「サーニャさんはあなたを基地に連れ帰った後、直ぐさま軍法会議に掛けられました……」
ゴクリとエイラの喉が鳴る。
「そして、脱走と反逆の罪で有罪となり、即日……絞首刑になりました……」
エイラは頭をガンと殴られたような衝撃を感じた。
「えっ……?」
ミーナが何か重要なことを言った気がした。
しかし、何を言っているのか内容が良く理解できない。
「トレバー……マロニー大将お一人が猛反対なさってくれたのですが……残念ながら、判決は覆りませんでした……」
「…………?」
ミーナを見詰めて瞬きを繰り返すエイラの目に、涙が一杯溜まってくる。
「うそ……ダロ……?」
エイラは知っていた、目の前のカールスラント女が、冗談など口にする人間ではないことを。
青ざめて震える頬に、熱いモノが伝ってくる。
「ウソだぁぁぁーぁぁっ」
エイラの口から絶叫がほとばしった。
「ウソだ、ウソだぁっ……サーニャが死ぬもんカァァァッ」
暴れた拍子にエイラがベッドから転落する。
芳佳が助け起こそうとして近づくも、エイラは床を転げ回って絶叫を続ける。
余りの勢いに芳佳も手が出せない。
「ギャアァァァッ……ウソだぁぁぁーぁぁっ……」
死にかけた自分を救ってくれたのはサーニャだった。
サーニャは仲間を捨て祖国へ走ったのに、その祖国まで捨てて自分を救ってくれたのである。
自分が辛い立場に置かれるとハッキリ分かった上で──。
どんなことをしても助けてあげるつもりだった。
命に替えても守ってあげるはずだったのに。
「ごめんナ……ごめんナ、サーニャ……ギャアァァァッ……」
叫び続けるうちに、エイラは喉の奥から何かが込み上げてくるのを感じた。
内臓と共に、既に失ってしまった嘔吐感である。
「オゲェェェ~ェェッ……グェェェェ~ェェ……」
吐くものなど何もないエイラは地獄の苦しみにのたうち回る。
やがてラジェーターのパイプが破れ、エイラは冷却液を吐きまくる。
「ホゲェェェ~ェェ……オエッ、オェェェェッ……」
ミーナ中佐は液まみれになって悶絶するエイラに声を掛けようとして──結局何も言い出せずに部屋を後にした。
それから数分後、エイラは海岸を全力で走っていた。
愛しいサーニャの元へ行くために。
自決が許されないエイラにはそうするしかなかった。
胸の接続孔からは人工血液が滴り落ちている。
それが尽きれば生体脳は活動を止め、エイラは死ぬだろう。
だが、サーニャのいないこの世に未練などなかった。
「サーニャ……今……行くゾ……」
エイラは段々と呼吸が苦しくなってくるのを感じていた。
人工心肺が機能不全を起こし、脳内酸素が欠乏してきているのだ。
もう何をするのも億劫な、そんな空虚な気分になってくる。
やがてエイラの足がもつれ始め、規則的だった足跡が波うつようになる。
横目で水平線を見ると、夕日が沈んでいくところだった。
最後になったあの時も、こんな夕日の中を2人きりで飛んでいた。
エイラの脳裏に、サーニャが見せた寂しそうな笑顔が蘇る。
あの夕日が沈む時、再びサーニャと会える。
薄れ行く意識の片隅で、エイラはそんなことを考えていた。
ふと気が付くと、エイラは自分が波打ち際に倒れているのを知った。
もう自分の意思では指一本動かせない。
上げ潮なのか、繰り返し打ち寄せる波が長い髪を浚い砂まみれにしていた。
夕日は殆ど沈みきり、マジックアワーの残光が辺りを幻想的に照らしている。
ボンヤリと聞こえるのは波の音とウミネコの鳴き声だけ。
急激に暗闇が襲いかかり、エイラはいよいよ最期の時が近づいたことを知る。
それでも恐怖はなかった。
あるのはサーニャに会えるという幸福感だけ。
そして、戦線離脱することになったが、やれるだけのことはやったという満足感だけがあった。
「みんな……ありがとナ……」
弱々しい呟きが聞こえた後には、波の音だけがいつまでも続いていた。