お姉ちゃんへ
偉人によれば、空は青いキャンバスだ。特に快晴の空は邪魔するもののない真っ青な空。そこに自らの望むカタチを描いていくのは、どんなに
気持ちのいいことだろうか。ハートを打ち抜いたり、桜を描いてみたり、螺旋を描いてみたり―――。空を見れば誰しも、そんなことを考えるだろう。
だがそれができるのはごく一部の、ほんの一握りの人だけ。だからこそ余計に人は、空のキャンバスに憧れる。一握りしかいない『絵描き』に
なろうと、ジタバタともがいてまで手を伸ばす。それが空に魅せられた者たちの宿命といっても過言ではなかった。
今も一人の魔法使いが、大空を自らのものにしようと必死に飛んでいる。だがなかなかうまく行かないようで、地上からは叱責と応援の両方が
飛び込む。当の本人は文字通り必死で、残り数日に迫った『期限』になんとしても間に合わせようと一日中空を飛んでいることも珍しくない。
「……っ、だめ……っ」
「旋回半径を制御しきれてない! だからGの変動に体がついていかないんだ!」
「はいっ……!」
空はすっかり曲線だらけになって、真っ青なキャンバスはどこへやら。それでも最近は夜になるとそこそこ風が吹いてくれるので、翌朝には大体
綺麗になっているのだが。今もまた歪な曲線が空に描かれて、結局『それ』を描こうという努力は水泡に帰した。それでも諦めることなく、空の
魔法使いは飛ぶことをやめない。そろそろ休憩を挟まなくてはできるものもできないのだが、あまりの時間の無さに焦りばかりが出てしまう。
「よし、次で午前の練習はラストだ。終わったら休憩に入る」
「で、でもっ―――
「休まないと、本来の能力を発揮しきれないよ。全力でやればできることだって、クタクタじゃできない。ね、リーネちゃん、次でもう終わろう」
「……了解」
不服そうに、リネットが答えた。そう、現在アクロバット飛行の訓練を行っているのは本来そんな真似をするようなポジションではないはずの
リネット・ビショップだ。後衛故にストライカーも安定性と防御性が高い分機動性の低いものを使っているのだが、現在はFw160D-6を装着している。
つまりゲルトルートから拝借しているというわけだ。そこまでして空に絵を描くのにはひとつの理由があって、だからこそ皆は叱責まで飛ばして
全力でサポートしている。食事の内容にまで気を配って、全員でリネットのことを応援しているのだが……慣れない超高機動旋回の連続、慣れない
ストライカー、限界をはるかに超えた長すぎる訓練時間、短い睡眠時間……。そんな状態では結果が出ないのも当然といえた。だからといって、
アクロバット飛行なんて朝飯前のジョギング程度にしか考えていないゲルトルートやエーリカでもアドバイスをすることはできない。本人がそれを
まだ望んでいない-完全に行き詰ったときは尋ねにくるが-のもあるが、一番の理由はアクロバット飛行なんてものは感覚でやるものであって頭で
考えてできるものではないからだ。密かに自分もバーティカルキューピッドやスタークロス、他編隊機動なら余裕で出来てしまう芳佳もリネットの
身を案じている。
そうしているとリネットの機動は再び理想の線からどんどんずれていき、やがてそのずれを吸収しようと無理な機動をして体がついていかなくなる。
海面への激突が考えの裏に浮かび、リネットは即座に機動を中断。機首を起こして高度を確保した。それを見て、地上の一行はため息をつかざるを
得ない。やはり、短期間に無理矢理詰め込んでできるものではないのだ。
「さあ、もう体力も限界だ。帰って来い」
「……はい」
まだ飛べるのに。そんな思いを何処かに孕んでいそうなリネットの声が聞こえて、一行はまたため息。それは決して呆れなんかから出たものでは
なく、自らの教える技術の低さとどうにもできないもどかしさから生まれたものである。果たしていつになれば出来るようになるのか、わからない。
日数は残り三日まで迫り、なのに出来る機動は数えるほどしかない。リネットもだが、全員が全員焦りを感じていた。普通にやっていては、絶対に
間に合わない。
……ひどく落胆してリネットが帰ってきて、一行はお疲れ様と一言しかかけることが出来ない。それ以上の言葉は無駄どころか本人を傷つけて
しまうことになりそうで、とてもそんなこと言える訳が無かった。結局言葉を交わすことも無いまま、リネットは自分の部屋へ向かい、他は食堂へ
向かう。最近は、ほぼ毎日がこんな様子だった。緊急出撃さえリネットはシフトから外されて、三日後に迫った展示飛行に備えられている。なのに
出来ない。これだけいろんな人に応援してもらって、環境まで整えてもらって。なのに、一向に出来る気配が無い。リネットを恨むつもりは微細も
無いのだが、見守るほかの人たちからしたら歯がゆいのはどうしようもないことだった。
- - - - -
「……やっぱり私って、無能なのかな」
ベッドで体育座りでつぶやくリネットは、目じりから大粒の水滴を何粒も滴らせていた。大事な人が偶然か必然か、大事な日にわざわざ基地まで
来るというのだから気合を入れて準備を始めたのだが……うまく行ったためしがない。姉はなんでも大抵うまく行くタイプなのに、自分はどれだけ
やっても一向に出来ない。姉に能力を全部吸い取られていったのではないかとさえ思ったが、自らの姉を侮辱するような考えは一番嫌いだ。変な
考えを振り捨てると、腕に力を入れてますます小さく縮こまった。
……今回の演目は、この計画を主として進めている芳佳の出身国である扶桑皇国の部隊で使用されているものだ。四機編隊で離陸した後すぐに
ダイヤモンド編隊に組み替えて旋回する『ダイヤモンドテイクオフ&ダーティターン』を筆頭に、そこに一機加えた五機のデルタ編隊で後方から
進入して垂直上昇、編隊をブレイクする『上向き空中開花』、そこからつながって、星を描く『スタークロス』。さらに一機加えて六機編隊で
会場左から進入、全員が寸分のずれも無いまったく同じタイミングで右ロール機動を行って会場をパスしていく『ボントンロール』。それから
会場から見て右のスペースで、六機編隊で空中に大きな輪を六つ桜の形に描く『さくら』を展開。その後、中央上空の一番見やすいところで
『バーティカルキューピッド』を行う。最後に、一機加えた四機編隊で『ローリングコンバットピッチ』を行って着陸する。このうちリネットは
すべてに参加するので、一つたりとも練習を欠かしてはならないのだ。そして一番のネックはさくらとバーティカルキューピッド。ほかの機動は
まだ他の人に合わせてふらつきながらも何とかなるものの、この二つに限っては他の人と合わせることができない。スタークロスはまだ直線飛行
なのでなんとかなるのだが、特にバーティカルキューピッドはハートを担当しているのに旋回のバランスがつかめないのだ。途中から旋回半径を
変えなくてはならないのだが、それがうまくいかない。エーリカやゲルトルートは普段の機動飛行訓練でやっているので朝飯前だが、リネットには
いささか難しすぎた。
完璧にこなせるものが、まだ一つもない現状。そしてあと三日しかない練習時間。もう明々後日が当日だというのに、一つたりとも決まったことは
なかった。ただでさえ本番に弱いので訓練でうまく行かないといけないのに、訓練で失敗していたら目も当てられない。リネットはもういっそ辞退
しようかとも思ったが、言いだしっぺはリネットだ。言い出したのに降りるなんて無責任なことはできなかった。
もう一度、ため息をつく。練習すればするほど下手になっている気がして、リネットはやる気を根こそぎ持っていかれていた。
「……今日はもう寝ようかな」
日はまだまだこれから高度をあげていくところだ。昼食すらとっていないのだが、今の気分では食事など見たくもない。リネットはベッドに
寝転がって頭から布団をかぶると、そのまま眠りにつこうと目を閉じた。
……だが、疲れてクタクタのはずの体は睡眠を欲してはいなかった。いつまでも訪れない眠気に嫌気が差してまた上半身を起こす。一体、こんな
ところで何をやっているんだろうか―――。
外を眺めると、今はゲルトルートとエーリカ、芳佳が練習をしていた。三人は全種目に参加するが、どれもほぼ完璧にトレスしているので問題ない。
それに比べて自分は……、そんな考えばかりが及ぶ。ぼうっと眺めてみたが、やはりヒントになりそうな点はない。上手すぎるのは素人が見ても
参考にはならず、かえって躓かせるだけになってしまう。リネットは大きすぎる壁を感じて、ため息をついた。せめて一度だけでも成功すれば、
コツがつかめるかもしれないのに。
「……あーあ。なんで私ってこんなダメなんだろ」
自嘲気味に言ってみる。その言葉は虚しく部屋の中で反響して、リネットの耳に残った。なんで、自分はダメなんだろうか。
もういいやと考えることを投げ出して、ベッドに寝転がって天井を仰ぐ。すると少ししてからドアがノックされる。こんこん、こんこん。合計
四回の音が響いて、返事するのも気だるかったが一応返事はしてみた。すると意外や意外、そこに立っていたのは……。
「リーネちゃん、あの……今、いいかな」
つい先ほどまで、外で練習していたはず。なのになぜか部屋に入ってきたのは芳佳で、リネットも驚いて目を見開いた。よくよく見てみれば、
顔も汗まみれでここまで急いできたんだと分かる。なんで急いでくる必要があったのかは分からないが、とりあえず風邪を引いてもいけないので
タオルを渡した。ありがとうとやわらかい笑みを向けてくれる彼女が、今は逆に好感を持てなかった。
……何の用事か。尋ねると芳佳は、遠慮がちにぼそぼそと声を出した。
「あの、さ。もしよかったらなんだけど、午後の訓練……私の背中、乗ってみない?」
意味が分からない。なんで背中に乗らなくてはならないのか。まさかこんな時に、背中にくっつく胸の感触でも楽しみたいんだろうか。まさか
親友にまで馬鹿にされるほど、自分は落ちぶれていたのか。そんな悪い考えが過ぎって、いや親友は信じてあげないとダメだと首を大きく振る。
どうして、と聞いて芳佳の返事を耳にして、今度は何も言えなくなった。大声で謝って頭を下げようとするのに、必死だった。
……一度でも上手く行けば、感覚がつかめるかもしれないのに。さっきそう思ったばかりだったが、芳佳の考えはまさにこれだった。一度、
失敗せずに機動できる芳佳の背中に乗せてもらって、成功したときの景色を見せてもらう。それで大体の感覚をつかんだら、今度は芳佳と一緒に
手をつないで飛ぶ。上手く行くようになるまで芳佳が手取り足取りサポートして、手をつないで一緒に上手く飛べるようになったら今度こそ一人で
チャレンジする。できないものをできるようにするための、芳佳なりの一つの『答え』だったのだ。それなのに、馬鹿にされたと一瞬でも思い込んで。
きっと『できる』と一番信じていなかったのは自分自身じゃないのか。リネットは半分涙目になりながら、芳佳の手をとって何度も頷いた。ありがとう、
ありがとうと何度も言いながら。そうすると芳佳も無言で抱きしめてくれて、冷めきった心を少しずつ暖めてくれる。その時間が、リネットにとっては
とても大きかった。
しばらくして昼食ができたことを知らされ、二人そろって食堂へ降りていく。午後の訓練が、少し楽しみになった。
- - - - -
「それじゃリーネちゃん、行くよ―――出ます!」
「う、うん」
リネットはストライカーを履いた上で、芳佳の背に乗っていた。芳佳の首が絞まらないかと不安だったが、何とか大丈夫そうである。そのまま
芳佳は出力を上げていき、ゲルトルートとエーリカとそろってタイミングを合わせて離陸する。直後、後ろへとすっとスライドするように編隊を
組み替えた。普段は芳佳は組み替える必要のないポジションだが、リネットができるようになるための訓練なので今回はリネット役で飛んでいる。
……編隊を組み替えて高度をあげていくと、スモークを展開。そのまま旋回動作に入って、ダーティターンへ移っていく。景色が流れていき、
それが普段と大分異なるのに目を見張った。つまりは今までそれだけずれていたところを飛んでいたということで、なぜ上手く行かないかと言えば
正解を知らなかったからということに気がつく。今までは自分の思ったままに飛んでいたが、答えを見つけようとしなければ出てくるはずもない。
いわば、答えが分からないのに計算結果が正しいかどうかを求めようとしているようなものだ。
それから芳佳は、リネットのポジションを次々こなしていく。リネットがもっとも苦手とするさくらやバーティカルキューピッドも、いとも
簡単に成功させた。だがそれに驚く暇もなく、リネットは自分の飛ぶべきルートを景色を通して確認するのに必死だ。今までいかに間違った
飛び方をしていたかがよく分かって、どうすれば上手く行くのかがだんだん見えてくる。まるで空にリングがあるかのような正確さで飛んでいく
芳佳と、そしてそのリングを見抜くかのようなリネット。二人の相性はどうやら抜群のようで、だんだんリネットには自信が沸いてきた。
一通り芳佳が飛び終え、今度はリネットと芳佳と二人で手をつないでもう一度。ダーティターンまでは省略して、上向き空中開花から再開する。
リネットの目は先ほどと同じ景色を追って、そして長機のゲルトルートの一声で編隊は上昇を開始する――!
「そう、その調子!」
芳佳が叫ぶ。リネットは先ほど芳佳の背中で見たラインをトレスしていき、息ぴったりでゲルトルートとエーリカと合流。さらにゲルトルートの
合図とともにスモークを炊いて、数秒の後に散開する!
まるで午前までの失敗が嘘のように、綺麗な弧を描いて決まっていく。そしてインカム越しのゲルトルートの止めの合図でスモークを炊き終え、
そのままスタークロスへと移行していく。先ほど見たのと同じ光景、同じ感覚。景色もだが、体にかかるGがなにより先ほどの感覚を思い起こさせて
くれる。一定距離を置いてからターンし、そして再びスモークを炊いて星を描く……!
「いいよ、その調子……っと、速度をあわせて、すこし速い!」
「う、うんっ」
芳佳と共に空を駆け、白煙を吹き上げる。ぴたりと決まっていく一刻一刻、それらがとても愛おしくて気持ちがいい。空を飛ぶことの快感をもう一度
叩き込まれたような気がして、リネットはどこか初心に返ったように先を見据える。
やがてスタークロスも終わり、芳佳が担当する分の一本が足りない以外は完璧なまでの星を描き出す。リネットの飛行はまさに非の打ち所がないと
言ったところだ。続けてボントンロールも行ったが、タイミングのずれは地上からでは分からないほどに抑えられた。今まで一機だけ孤立していた
ところから比べると、凄まじい進歩である。
そうして、もっとも苦手とする種目の一つ、さくらの時がやってくる。旋回を終えて定位置につき、ゲルトルートの声と共に旋回を―――
『ライトターン、ナウ!』
ゆっくりと円を描くように旋回していく。体にかかるGが先ほどとほぼ同じで、芳佳が飛んでくれたラインを綺麗にトレスしているのが自分でも
分かる。芳佳も満面の笑みを浮かべて、リネットと共に大きな円を描くように飛ぶ。そうしていると時がたつのは早いもので、今までは苦痛で
たまらなかったこの時間が一瞬で過ぎてしまった。振り返ってみるとほぼ真円を描いていて、それがとても美しい。本当に自分が描いたものか、
理解に苦しむほどの出来だった。他のみんなも息を呑んでいるようで、なにやら希望が見えてきたように思う。
そしてついに最難関、バーティカルキューピッド。だが不思議とリネットは上手く行くような自信に満ちていて、それが反対側の線を描く
エーリカにも伝わったかエーリカがくすりと笑った。
「頼んだよ、リーネ」
「はい、やってみます!」
「うっし、いっちょやってみよう! トゥルーデ、いいね!」
『もちろんだ!』
エーリカが一つ合図をして、そして二機は徐々に旋回を始める。リネットの体に襲い掛かるG、しかしそれが逆に心地よくさえ感じる。今まで
失敗し続けていたのが夢のようだ。先ほど芳佳が飛んだルートとおおよそ変わらないラインを飛んで、やがてエーリカと激突するかしないかという
ギリギリの所を速度を殺さぬまま飛びぬける!
真横で、質量が超高速で抜けていく風切音が鳴った。それはエーリカと高速ですれ違った何よりの証拠で、そしてそれはつまりバーティカル
キューピッドのリネットが担当する部分が完璧に出来たことを意味する。見上げるとちょうどゲルトルートがハートの中央を打ち抜いたところで、
これで501のバーティカルキューピッドはようやく完全な完成形となった。
「……やった、出来た!」
今までずっと、一番やりたくて一番出来なかった種目。それがこんなにも綺麗にできるなんて、思っても見なかった。結局、ローリングコンバット
ピッチも寸分の違いもなく成功させることが出来た。そのまま着陸して、一息つく。……本当に、今まで百を超える失敗を重ねてきたのがただの
妄想だったとさえ思えるほどの数分間だったように思う。
そして自分でも気づかぬうちに、リネットは芳佳に飛びついていた。
「ありがとう芳佳ちゃん! 芳佳ちゃんのおかげで私、ちゃんとできたよ!!」
「わっぷ……あ、あの、わ、わかったからっ……うぐぐ、ぐ、ぐるじい……」
「ありがとう!! ほんとにありがとう!!」
芳佳としては本望やら、苦しいやら。それを笑うゲルトルートとエーリカも、今回の結果には驚嘆している。まさか一度正解を見せるだけで、芳佳と
一緒とはいえあんなにも完璧に飛んでしまうとは。それはリネット自身がもっとも強く感じている驚きだったが、これで心配の種は大分なくなったと
言ってもいいだろう。
「よし、リーネ。次は芳佳に本来の位置についてもらって、もう一度全員でやってみよう」
「はい! がんばります!」
威勢のいい返事。こんなに元気な返事が出来るのはどれだけ振りだろうかと、自分でも振り返るほどだ。最近はかなり塞ぎこんでいたので、随分と
久しぶりなように思う。
―――さて。期待を裏切らないよう、精一杯がんばろう。リネット・ビショップはやれば出来るんだ。そうしてリネットは滑走路の右端に着くと、
ゲルトルートとエーリカ、芳佳と共に加速していく。今度は上空で美緒とミーナが待機していて、フルメンバーでの演技になる。……やってやろう、
さっきの感覚を忘れなければほぼ完璧に出来る!
リネットはみんなとほぼ同時にふわりと浮かび、そしてゲルトルートの合図と共にスモークと旋回を開始する。ここは芳佳と一緒にやったことは
ないが、やはり一回目に芳佳が飛んでくれた感覚が体にしっかり染み付いているようだ。ほとんどずれることなく機動についていくことが出来、初めて
ダイヤモンドテイクオフ&ダーティターンを成功させる。……この調子なら、絶対いける! リネットは意気込んで、上向き空中開花へと挑んだ。
――――数分後、今まで練習していたよりも数百メートル高い上空には、ほぼ完璧に描かれた数々の作品が並んでいた。リネットはようやく
一通りの演技を完全にこなすことが出来るようになって、自信がついてくる。あと三日間しかないが、むしろ三日間で十分な気さえしてくる。この
感覚を忘れないようにと、この後合計五回ほど続けて練習してから今日の訓練はお開きとなった。五回も続けて練習をやったというのに、今日の
『アガリ』の時間はいつもより四時間近く早かった。
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本番前日。
一行は翌日に向けての最終調整に入っていた。リネットもゲルトルート並に楽にこなせるようになってきていたので、単純な訓練ではなく音楽に
合わせて次の演目のポイントまでの移動など総合的な訓練に入っている。それももう今日の午前中で完全にぴったり合い、現在は細かい調整中だ。
今ではリネットもいろいろと口を挟んで意見を出すようになってきて、ようやくエースとしての貫禄が出てきたといったところである。
「うーん、雲を避けるのが面倒ですね……なんとかこう、雲をうまく使えればいいんですけど」
「エーリカ、吹っ飛ばせ」
「ええええええぇぇぇ……いやできるけどさぁ、すっごい強引だよね。ていうか利用しようという気がまったくない所がトゥルーデらしいというか」
「じゃあ真ん中だけ飛ばしてドーナツ状にして、さくらのときにピアスみたいに使ってみたらどうでしょうか」
今日は雲がぼちぼち出ているが、明日はもっと多い予報だ。そうなると演技の邪魔なので、実際問題どうにかしたいところではあった。ただ、
ドーナツ状にしても地上から見れば同じ。他に利用方法なんてあるわけもないので、事実上ゲルトルートの言ったようにエーリカが全部吹っ飛ばすか
我慢するかどちらかしかなかった。
あとは当日の朝を待つしかないので、今出来ることはあまりない。強いて言うなら、明日のために体調を万全にしておくことぐらいか。
「さて、そろそろ今日は終わりにしよう。ペリーヌが紅茶を入れてるらしいから、みんなで頂こうか」
「はーい」
「うむ」
「あいよー」
「分かりました」
「了解ー」
……果てさて、明日はどうなることやら。不思議と不安はほとんど沸いてこなかった。ゲルトルート、エーリカ、美緒、ミーナ、芳佳、そして
リネット。六人のエースたちは、キャンバスを自分色に染めるべく歩を進めていった。
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翌日。
いつもより少々寝坊気味に目の覚めたリネットは、ぼんやりした頭で制服に着替える。致命的な何かを忘れているような気がして数十秒考え、
そして今日がアクロバット飛行の当日であることを思い出す。そういえばそうだと頭を入れ替え、この日のために練習してきた機動飛行を脳内で
復習する。……大丈夫、問題ないはずだ。普段は本番になるとてんでダメだが、今回は戦闘でもなければ親友の芳佳もエースのゲルトルートや
エーリカも一緒に飛んでくれる。不安要素もないので、割と楽観的だった。
食堂へ降りるとアクロバット組は既に全員集まっていて朝食を摂っていた。リネットもそこに加わって最後の机上打ち合わせを進める。天気は
良いが予報どおり雲が多いので、最終練習は予定を変更してスモークを炊いて練習することにした。最終的にエーリカに全部吹き飛ばしてもらうので、
ならばいっそスモークを炊いて練習したほうが実践的でいいという意見だ。エーリカは面倒くさそうにしているが、まあキャンバスに汚れがあっては
絵師も乗り気になれない。エーリカ自身のやる気のためにも、固有魔法を使わなくてはならないのは仕方のない話だった。
「つってもさあ、あんだけの範囲に強風起こすのって疲れるんだけど」
「だから早くから練習をするんだろうが。どうせ帰ってきても寝るしかやることないんだろ?」
「まーそーだけどー」
どこか腑に落ちないといった風なエーリカに、一行も苦笑する。
とは言いつつ、そろそろ訓練に移らないと時間的にエーリカの休む時間も少なくなってしまう。リネットも比較的早いペースで食を進めていたので、
もう食事を終えて腹も落ち着いてきている。腹ごしらえがすんで大体いい感じに体も目が覚めてきているので、ちょうど良いだろう。一行は自分の
食べていた食器などを片付けると、ハンガーへと向かっていった。
- - - - -
「お疲れ様ー」
「お疲れ様です」
「ご苦労だったな、午後はよろしく頼む」
「あーい……づがれだよー」
一通り練習を終えて、一時的に解散。輸送機の到着予定は十四時なので、十三時までは暇だ。現在時刻もまだ九時で余裕があるので、エーリカは
固有魔法の酷使でクタクタになった体を休めるため早々に自室へ戻っていった。他の面子もいつもよりゆっくりして、体を十分に休める。リネットも
問題なく飛行できるので、後は体調の調整のみだ。
穏やかな時間が過ぎて行き、徐々に本番が近づいてくる。高鳴る鼓動に、気分も高揚せざるを得なかった。
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空に大型プロペラ機のエンジン音が轟いて、その先にはうっすらと基地が見えている。逆に言えば基地から上がってきた歓迎のアクロバット
チームからすれば丸見えなわけで、輸送機の中からもそれは見えていることになる。
「―――輸送機を視認。これより機動飛行に移る」
ゲルトルートがそう言うと、一行は適度な距離を保って輸送機へ真正面から接近。そして一定の場所まで近づくとスモークを炊いて、そのまま
輸送機とすれ違った。結果、輸送機はスモークのトンネルを通ることになり、それはそれでなかなか美しかった。やがて反転した六機が輸送機を
中心として編隊を組むと、ミーナが輸送機に乗ってやってきた人に向けて無線を開いた。
「ようこそ、第501統合戦闘航空団、ストライクウィッチーズへ。歓迎します、ウィルマ・ビショップ軍曹」
『どうもー』
――ウィルマは輸送機から手を振って一行に挨拶した後、妹のほうへ満面の笑みを向ける。リネットも嬉しくて笑顔になって、大きく手を振った。
エスコートされるように輸送機はウィッチーズ基地の滑走路へと着陸して行き、アクロバットチームも編隊着陸する。……そしてこの着陸が、
本番前の最後の着陸となった。これから建物に戻ることなく、この滑走路から飛び立っていく。つまりここから演技が始まるのだ。それどころか、
ミーナと美緒は着陸せずに空中待機をしている。つまりはこのまま演技に入るわけで、むしろもう始まっているといっても過言ではなかった。
「ゲルトルート・バルクホルンだ。よろしく」
「妹がお世話になってます」
ウィルマとゲルトルートが握手をして、その間にいそいそと準備するエーリカと芳佳。それを雰囲気だけで確認すると、ゲルトルートはリネットを
呼んで自らもそれとなく滑走路の中央へ並んだ。輸送機がいる関係で、ウィルマがいる場所からは編隊の状態で並んでいるとは分からない。
「ちょっとお姉ちゃんに見せたいものがあるんだ、ここで待っててもらっていい?」
「私に? いーけど、何々?」
「それ言ったら面白くないよー」
どこか含み笑いをしながら、リネットもまた輸送機の向こう側、滑走路の中央へと移動していく。……全機の準備が整い、いつでも発進可能に
なった。ゲルトルートがインカムで小声でそれを報せると、放送室にスタンバイしていたシャーロットがあるボタンを押す。―――ついに、演技が
始まる。全員の心臓がはちきれそうなまでに活発に動いて、緊張を露にしていた。それでも不安にはならないあたり、相当の自信である。
エレキベースが五つの音を鳴らして、エレキギターとドラムが入る。典型的なロックだが、この時代には本来ないはずのもの。エーリカがウルスラと
結託して作った新曲―――"DANGER ZONE"が基地中に鳴り響く。
『リーダー、スタンバイ。全機、離陸開始せよ』
指示と共に滑走路に四機分のストライカーの爆音が轟き、やがてそれが動き出す。何事かとウィルマが輸送機の陰から出ると、そこには既に加速を
開始した四機編隊の姿があった。右端は最愛の妹、リネット・ビショップである。
『状況開始。テイクオフ』
全機がほぼ同時に浮かび上がり、地上に浮かんでいた魔法陣が消える。すこしの間を空けてリネットがゲルトルートの真後ろに着き、デルタ編隊が
ダイヤモンド編隊へと変化する。高度を徐々にとって行き、そしてある程度の高度まで浮いたところで―――スモークが展開、エーリカと芳佳、
リネットの後方三機が真っ青なキャンバスに筆を走らせる!
「おわー……」
ぐるりと半周回りこむ。翼端の航空灯が煌き、八つが綺麗に並んで――――そして会場の真上をパスする! 轟音が轟き、ウィルマの髪が大きく
靡く。四機編隊は一旦建物の向こうへと姿を消し、そして少しの間を空けて……今度は美緒を加えた五機編隊が、デルタ編隊を組んで建物の向こうから
飛来。同時に上昇機動を開始してから五角形を作り出しスモークを展開、上昇しながらある地点で同時に一定角度で散開を始めた。
"Revvin' up your engine Listen to her howlin' roar"
音楽に合わせて徐々に編隊は開いていき、やがて開ききると美しい花が空に姿を現す。ウィルマは目を輝かせて拍手を送り、五機編隊はそのまま展開。
そしてある一定地点で全機が同時に旋回し、それぞれのいる場所へと向かって飛行を開始する。やがて五機編隊はだんだん小さくなって行き、そして!
「わ……」
全機が同時にスモークを炊いて、一直線に飛行していく。それぞれがそれぞれの始点へと向かっていき、煙と煙が交差し、真っ青なキャンバスの中で
一つの大きな星が輝いた。誰一人ずれることなく真っ直ぐ伸びた直線は、設計図ともいえるほどの精度。芸術である。ウィルマは再び拍手を送って、
続いて編隊はさらにミーナを加えて六機編隊へと移行する。会場から見て左へと飛び去った六機編隊は、やがてデルタ編隊を組んで舞い戻ってくる。
デルタ編隊のままスモークを炊いて会場へ進入してきた六機は、ウィルマの真正面でスモークをカット。なんと編隊全部の機体が、わずかなずれさえ
なしに同時に同じレートで右ロールを展開。ロールによる高度の低下もなく、全機は針路・高度・隊形を維持したまま同時にロールをやってのけた。
「す、すごい……」
あまりに見事なまでのボントンロール。ウィルマは釘付けになって手を叩いて、やがて右方へ飛び去った六機編隊はばらばらに散っていく。それを
見届けていると、六機が一定の間隔を置いて並んでいるのに気がつく。そして―――再び六機は同時にスモークを展開。二機、三機、一機の順に並んだ
各機はまったく同じタイミング、まったく同じレートで左旋回を開始した。それは徐々に円を描いていって、円と円は一部が重なり合う。描かれていく
円はただそれだけで美しくて、だがそれが完成するとまるで桜の花のように美しく空に映える。ウィルマは再び盛大な拍手を送って、六機編隊が散開
していくのを見届けた。
やがてそのうち三機が、会場正面上空、ぽっかり開いたスペースへ集まっていく。その中にリネットの姿を見つけて、ウィルマの顔に笑みが浮かんだ。
三機のうち二機は互いの腹を合わせる形で近距離で向き合い、垂直上昇していく。
『高度9000……9500―――ナウ!』
エーリカの掛け声と同時にスモークが放出され、リネットとエーリカは同じ角度を描いてぐるりと大きく旋回し始める。それが何を描き出すかは
ウィルマにも察しが着いて、食い入るように見つめる。やがて二機の旋回レートは徐々に大きくなって、最後は斜めに降下を始めた。降下地点の果てで
二機は、ほぼ同じ点を目指すゆえに空中衝突の危険を孕み――――ロール動作で華麗に回避する。ウィルマはそれだけで盛大に拍手を送るが、更に
加えてゲルトルートが会場側からハートの中央へ突っ込んで行き、スモークを展開。ちょうどハートのど真ん中で一度区切った後、再びハートの輪郭の
外側でスモークを展開。地上から見ればハートが綺麗に矢によって射抜かれていて、ウィルマは手が真っ赤になるほどに手を叩いてはしゃいだ。
輸送機のパイロットもこれを見上げて拍手している。
『ラストだ。行くぞ』
BGMの効果も相まっていい感じにヴォルテージを高められ、最後の演目へと移っていく編隊。三機編隊に芳佳が加わって四機編隊になり、それが
エシュロン編隊で進入してくる。スモークを炊いてやってきた四機は、やがて270度ロールした後に大きく旋回していく。一機ずつのタイミングが
すこし間隔をあけていることで編隊の間隔は大きくなっていき、広範囲に広がった四機が一斉に旋回を決めれば美しくも決まるのは必然だった。
ウィルマはまた盛大に拍手を送る。それを終わりとして各機は着陸態勢に入り、先ほどの四機に加えてミーナと美緒の二機が後ろに加わる。丁度
着陸のタイミングでDANGER ZONEも終わりを迎え、六機は静かに滑走路へアプローチする。だがウィルマの中の感動は燃え上がるばかりで、
なにかをしたい思いでいっぱいになっていく。
やがて先頭機のゲルトルートが着陸し、続いてエーリカもタッチダウン。芳佳も着陸して―――――リネットが、急に出力を上げた。真上に
上昇して行き、真っ青に白の筆が走ったキャンバスへと向かっていく。美緒とミーナは事前に打ち合わせていたので対応したが、ゲルトルートと
エーリカ、芳佳は驚きの顔を隠せない。
「ふふっ」
リネットがほくそ笑んで、やがて上空にスモークで文字を描き始めた。先ほどのバーティカルキューピッドの左から順に、アルファベットを二文字。
そしてバーティカルキューピッドの右に、またアルファベットを二文字。
――――HB、DW。ウィルマはしばらく意味が分からなくて、しかし無線機越しに放送で流されたリネット自身の声でようやく意図をつかんだ。
『Happy Birthday,Dear Wilma! 誕生日おめでとう、お姉ちゃん!』
……リネットからの、ささやかな誕生日プレゼント。空にでかでかと描かれた文字は、ウィルマの涙腺を撃破するには容易かった。リネットが
着陸すると、速度も落ちていないのにウィルマが抱きついてきて盛大に転んだ。
「わあッ―――お、お姉ちゃんッ!?」
「リーネぇぇーっ、ありがとぉーっ!!」
涙ながらに抱きついて感謝を述べる姉は、リネットにはどう映ったか。
最後はゲルトルートやエーリカ、芳佳さえハメられた。苦笑いを浮かべて、意外とリネットも行動派なんだなとどこかズレた感想を抱く三人。
空は青くて、そして白い。今日は風がほとんどなく、リネットが描いたばかりの四文字のアルファベットは特にずっと残っている。今日一日は、
なかなかにうるさい一日になりそうだ。
「誕生日おめでとう。面識はないが……まあ、リネットには世話になっているんでな」
「ていうかトゥルーデ、相手年上だよ」
「む、そうだな……ご無礼を
「気にしないでっ……みんなも、ありがとうっ」
泣きながら笑って、ウィルマが礼を言う。一行はそれで何も言えなくなって、微笑を返すだけだった。
――――偉人に寄れば、空は青いキャンバスだ。邪魔するもののない真っ青な空。
だから愛情も、いっそう伝わる。青い中に堂々と白く描かれれば、嫌だって伝わってしまう。それが大切な家族からのメッセージなら、尚のこと。
今日は五月二十日。ウィルマ・ビショップ、誕生日おめでとう。そんな想いを込めて―――。
fin.