飛んだククルス
それはいわば野生の勘とも言えるような、むしろそうとしか言えないくらいの曖昧で不確かな感覚だったから。だからあえて
口にしたりだとか、言い及んだりだとかして、そうして彼女の奥に触れることをあたしはあえて避けることにした。目のあった
そのときにふと胸に沸いたのは親近感とはとても言いがたい、むしろ同属嫌悪にも似た感情だったから、たぶんあたしはとても
とてもぶしつけな瞳で彼女を見上げたのだろうと思った。
よろしくな。
と、そう、抑揚の無い声音で言って。彼女は口の端を軽く吊り上げた。薄っぺらい笑顔だと思った。これは貼り付けた
だけの表情だ。何もない表情だ。そう感じた。そこには確かに何かがあるのが普通なのに何も感じない、その顔。歩み
寄るわけではない。けれども突き放すわけでもない。中途半端なその態度。
よろしくね。
彼女よりかはよっぽど彩りのある声で、マーマが可愛らしいねと言ってくれた自慢の八重歯を見せるように笑顔を浮かべた
瞬間、彼女もまた「おや、」とした顔をしたから、きっとあちらも同じことを思ったのだろう。
あなたとあたしはよくにている。
って、そう。
「エイラー、入るねー」
おそるおそる、音を立てないようにかの部屋の扉を開きながら、その主にそう語りかけることは無意味だと知っている。だって
今この部屋の中にいる"人たち"はこの時間でだってぐっすりと眠りについているのだと、賢いあたしはよく知っているんだから。
そしてどんなときだっていつも、エイラの部屋の鍵が開いていることも、その理由だって。
「えいらー」
他のみんなが見ていたら「お前らしくない」と笑われそうな微かなささやき声は、エイラをたたき起こすためじゃない。むしろそう
して呼びかけても応ずる声がないことで、彼女が目を覚ましていないことを確かめたいだけ。
進める足取りはお得意の、抜き足差し足忍び足。本当に猫みたいだな、なんていつもシャーリーが笑うように、いつも騒が
しいばかりだと思われているあたしでも実はこんなに静かでいられるのだ。だからほら、そうして部屋の奥にあるベッドにたどり
着いたって、その上にいる人たちは起きる素振りなんて全然なくて、くーすか眠りこけているのにきまってるんだから。
真っ白いシーツに手をつく。身を寄せ合うようにして眠っている二人の女の子がいる。その足元のほうを見れば彼女たちの
衣服がきちんと折り目正しく畳んであって、それはつまり、この部屋の主があたしよりも前にこの部屋に訪れた不法侵入者
をいつもの口癖を以ってすべて許しきって招き入れ、そして受け止めたことを表しているのだ。
(しあわせそうな、かお)
身を乗り出してその主の顔を見てみる。これだけ近づいても、この部屋の主であるところのエイラはふ抜けた顔ですうすうと
寝息を立てているばかり。軽く身じろいで、むにゃむにゃと声にならない寝言まであげる。その上、不確かな響きで誰かの
名前まで呟いてしまうおまけつき。とてもじゃないけれど空の上にいるときの彼女と同一人物とは思えない。ネウロイの縦横
無尽な攻撃をこともなげに縫っては、正確無比にそれを撃墜してのける、あのエイラ・イルマタル・ユーティライネンと同一
人物とは。
年若くしてその才能を認められたエースなのだというのは風の噂で聞いた。最下の階級から叩き上げられて、あっという
間に准尉まで上り詰めたスオムスの誇る至宝、通称"ダイヤのエース"。その功績を讃えられ、スオムスはおろか軍人として
きわめて異例の、士官教育を伴わない少尉、つまり仕官への昇進が認められてエイラは今あたしと同じ階級でこの部隊に
所属している。スコアから見るともっと上の階級への昇進が認められてもおかしくないくらいなんだぞ、と、笑いながら話して
いたのはシャーリーだったっけ。つまりそれは大尉に昇進したシャーリーでさえ手離しで認めるくらいの確かな才能をエイラが
持っているということで。
つまり、彼女は「天才」なのだった。
しばらく彼女の寝顔を見ていたら、ふっと彼女の表情から元々淡かった色が掻き消えて、温度のない彫刻のような顔に
なった。つい頬に手を伸ばすとその肌は透き通るような白をしていて、褐色の強い私の肌と重なるとひどく映える。どうして
だかほっとした。
あの、はじまりの日に。
エイラと同じ笑顔を浮かべた瞬間に胸をよぎったあの感情を、あたしは今でもよく覚えている。けれどもそれは決して
親近感の類ではなく、どこか胸をかきむしりたくなるような嫌悪感だったことさえもありありと思い出せる。
あたしと彼女とは確かによく似ていた。それは見た目とかではなくて、心の奥底だとか、魂の根本とか、そういったところ。
あたしがそうであるように、きっとエイラも挫折を感じたことがない。身体の周りを包む風は常に背中を押すように吹いていて、
目の前に広がる進路を阻みはしなかった。天才だと誉めそやされて、必要だといわれたから空を駆った。後生だと懇願
されたから武器を取った。そうしたらまるで最初からそう形作られて生まれたかのように体は自由に動いたし、出来ないこと
なんて何もなかった。だからこそ、出来ない人たちのことなんて理解できずにそんな人たちのことを疑問にさえ思っていた。
挙句、抱えたのは孤独。身を包んでいるのは上空の、冷たい空気ばかりで、人の温もりはいつの間にか通り過ぎて
遥か後方にあった。そうして「適わないよ」と決め付けられて、「君なら出来るよ」と言いくるめられて。誰もその傍らに立って
くれる事はなかった。
一番悲しいのは、そうして一人にされても全く恐れを感じない、無謀だと思えない、孤独に慣れた自分の才能だった
ことに誰も気付いてなんてくれなかった。あなたと他のみんなは違うから。そんなことを言って、飽きもせずあたしが基地を
抜け出した理由だって考えてもくれなかった。
あたしはエイラの経歴なんて余り知らないし、興味があるかときかれたら全くない。聞きたいかといわれたら「どうでもいいよ」
と答える自信がある。けれども目があったその瞬間から分かってた。あたしとエイラとは、同じように曇った瞳の輝きをしていた
こと。
胸にぽっかりと開いた穴を埋めるように何の質量も持っていない笑顔を浮かべてみて、目先ばかりの『楽しいこと』を追って
みる。そうして他人も自分も欺いて、満たされないままに日々を過ごしている。そんなところまでもそっくりで、自分を見ている
かのようで内心とてもいらだった。けれど同調せざるを得なかった。
だってあたしたちは結局、寂しかったのだもの。歳相応の体に不相応の能力を負わされた精神は、表には出ないだけで
いつだって悲鳴を上げて泣き叫んでいた。誰かわかってと、すがっていた。
そんなあたしとエイラだった。同じ秘密を胸に抱えて、それでもへらりと笑って見せる。私たちは共犯者だった。それは多分
シャーリーも気付いていない、見えないけれども確かな繋がり。
そしてたぶん、サーニャだって。
そう思いながら視線をエイラの向こうにやった瞬間、示し合わせたようにふわふわとした銀色が身じろいだ。今日も来ちゃっ
たんだね。ねえこれは故意なの?それとも無意識?エイラが部屋の鍵をかけて眠ることが出来ないその原因にそう心の中で
語りかけていたら、彼女は寝返りを一つうったあとにこう一つ、呟いた。小さいけれども、はっきりした声で。
えいら。
いとおしそうな、その響き。幸せをかみ締めるかのような、その紡ぎ。
可愛いなあ。一応この人はあたしより年上だというのに、思わず笑みまでこぼれてしまう。この眠り姫さまは王子様のお城
にガラスの靴を置いていくくらいじゃ飽き足らないのだ。服まで脱ぎ散らかしてベッドにまで潜り込んで、そうして欲しいもの
すべてをその無言の視線で提示してみせる。あなたはわたしの欲しいものをもっているのよ。だからちょうだい、満たすくらいに。
それは、エイラがサーニャの欲するものをちゃんと携えているという、何よりもの証拠で。
だからきっと、エイラはサーニャのことが大好きなんだろう。与えてばかりの癖に、こんなにも幸せそうな表情を浮かべているん
だろう。サーニャの我侭はエイラにとって、その傍らに自分をつなぎとめていてくれるよすがなのにちがいない。
「えいらのばあか」
思わず声に出してそんなことを言ってしまう。そんな幸せそうな顔をして、エイラばっかり満たされて、ずるいよ。あなたはあたし
の仲間じゃなかったの?
『仲間』をみつけたそのとき、あたしはむしろ嫌悪感さえ抱いたのに、それなのにどうしてかな今はどこか寂しい。私とエイラが
共にしたのは、何もない自分をごまかすための他愛ない戯れだったのに。それにさえ心のどこかで救われていたなんて、今の
今まで気付かなかった。
「さーにゃんの、ばあか」
そしてそれを与えてしまった人にも、悪態を一つ。あたしがまだ手に入れていないもの。あたしがまだ分からない気持ち。やり
きれない気持ちでいっぱいになって、心が渇きを訴えている。寂しい、寂しいよ。
「ばあか」
もう一度、つぶやいて。あたしはふと胸に浮かんだ悪戯を実行に移すことにする。空虚な心を埋める為のうつろなでしか
ないその行為でも、その場限りでは寂しさをごまかすことができるから。
サーニャから少し距離を空けるようにして横たわっているエイラをぐいと押して、人一人ぶんのスペースを作った。携えていた
ブランケットをそこに広げると、窮屈そうに身を捩じらせるエイラなんて無視してあたしはそこに横になってしまう。その衝撃に、
ようやっと傍らの人がむくりと起き上がって声を上げた。
「んん?……なんだよもー…って、ルッキーニじゃんかよー。もー、なにしにきたんだよー」
狭いじゃないかあ。
暑苦しいだろおー。
サ、サーニャのかおがこんなちかくに!!!
ぶつぶつと重ねられる呟き。けれどもあたしは知っている。あたしも知っている。散々文句を並べた後に、エイラが口にする
その言葉を。何も持たないエイラの思考が行き着くその先を。
「きょうだけだかんなー…ったく。あ、サーニャが風邪を引いちゃうじゃんか、これじゃあ」
いそいそもぞもぞと動くのは多分、そのすぐとなりにいる人に毛布をかけなおしてやっているのだろう。しかたないなあ、なんて
悪態半分の言葉を吐きながら、その顔はきっと綻んでいる。必要とされていることはとてもとても嬉しいことだ。
「いいゆめみろよ」
ふいにぽつりと呟かれたその言葉が誰に対するものなのかは分からなかったけれど、確かめたらもっと悲しくなるような気が
してあたしは遠くなる意識をお気に入りのブランケットと一緒に抱え込むことにした。
*
こんなところにいたのね、フラン、フランカ、フランチェスカ。
やさしくあたしを呼ぶ声がする。やわらかで温かいまどろみの中で、あたしは夢を見ていた。誰かがあたしの額をなでている。
指先からぬくもりが伝わって、体の奥へまろやかに溶けてゆく。凝り固まった心がほどけてゆく感覚。
(まーま)
思わず呟いた声は、ちゃんと音になっていただろうか。でもこの人ならきっと、言わなくてもあたしのことをちゃんと理解して
くれると信じていた。信じたかった。あたしのことを決して「天才」だなんて呼ばない人。「すごい」なんて言葉で突き放さない
人。唯一無二で絶対の、たいせつな、たいせつな、あたしだけの。
ねえマーマ、だあれもわかってくれないの、あたしの本当にほしいもの。誰も与えてくれないの。
マーマだけだよ。マーマだけが、あたしをわかってくれるのよ。
「マーマだって、かわいいなあ、もう。エイラもそう思うだろ?」
「しらねーよ。つーか、早く連れて帰ってくれよ。起きたら絶対うるさくなるんだからさあ。サーニャが起きたらどうすんだよ」
「まーまーいいじゃない。ほら、こんなにぐっすりと眠ってるんだぞ。かわいそうだと思わないのか」
「お前はルッキーニを甘やかしすぎるの。そんなんだから……ほら、こいつ寝ながらお前の胸触ってんだぞ。
うらやま…いやなんでもない」
手に触れるのは懐かしい感触大きくてやわらかくてあったかい、そしてどこかあまい香りのするそれ。どこか遠くで誰かがあたし
のことを話しているような気がするけれど、曇りガラスの向こうのようなその世界は、夢の中からじゃ掴み取れない。
「でも、ま、変わったよな、ルッキーニ」
「…そう?」
「なんていえばいいのかわからないけどさ。昔はもっとこう、さめた感じだったから。」
「それを言うならエイラ、お前だってそうじゃないのか?」
「えー、そっかー?」
「似てたよ、お前とルッキーニって」
戦闘に関してはむしろこっちが負けそうなくらいなのに、なんか危うい、感じ。
曇りガラスの向こうで、明るい髪をした彼女がそんなことを言う。ふっ、とひとつ息をついたのは、果たして慈しみのそれだった
のだろうか。
「ちぇ、人のベッドに侵入しといて、しあわせそうなかおしてんなあ、もう」
「かわいいっていうんだぞ、こういうときは」
「そんなの私の役どころじゃねーもん」
「ははは。エイラもいってやれよ。よろこぶぞう。かわいいなあ、ルッキーニ。かわいいかわいい。」
よく見えないその向こう側の世界で、好き勝手にそんなことを語り合う人たちがいる。あれ?しあわせそうなかお、なんて、
それはあたしのせりふでしょう?
ねえどうして?目の奥が熱くなって来るの。何にもないはずのあたしの体の中から、満たされてこぼれた何かがあふれてきて
いる。
「いい夢見ろよ、ルッキーニ」
かつてあたしとよく似ていた彼女が、あのころとぜんぜん違う声音でそんなことを言う。ああ、でも、本当は。変わってしまった
のはあたしのほうなのかもしれなかった。
額をなでるのも、優しい言葉をささやくのも、マーマじゃないのに、知ってるのに、どうしてかしら、いま、こんなにも満たされて
いる。
あたしは、もしかしたらとてもとても幸せなのかもしれないとおもった。
おわり