狎れの果て
真っ白な部屋。
薬のにおい。
丁度いい室温。
冷えた心。
冷たいカラダ。
消えた灯火。
孤独感。
……絶望。
「―――――!!」
少女は飛び跳ねるように目を覚ます。またいつもと似たような夢を見て、ため息をひとつついて外をぼうっと眺める。外は少しうっすらと明るく、
それでもまだ暗い。その光加減が丁度、外の景色をほぼモノクロに染めていた。明暗しかない世界、まるで死んだように色のない世界。……しばらく
それを眺めて、そしてああこれが今の自分の心の中なんだとぼんやり思った。少女は寝なおそうかとも思ったが、また夢を見るのが怖いのでやめる。
早朝訓練に出るという建前を考えて、ひとまず外に出ようと服を着た。外はまだ肌寒く、この中をランニングするのは少々気が引ける。それでも、
なんだかこの寒さや冷たさが自分にぴったりのような気がして走り出した。……冷え切った体は、運動でもして体を動かせば少しずつでも温まる。
しかし冷え切った心は、どんなことをしてもそう簡単に復活はしない。その根が深く深く、他人にも自分にも限界のわからないほど深く張っていれば
尚のことだ。
―――少女は静かに走り出す。奇しくもそれが、物語が回りはじめる始まりになるとは、この時は思いもしなかった。
- - - - -
「んあ、トゥルーデ。おはよ」
「……ああ」
「今日は遅かったね、何かあったの?」
「お前には関係のない話だ」
一通り走り終えると、普段よりも遅くなってしまった。慣れないことはするものじゃないと思いながら食堂に入ると、いつも彼女の次に早く
起床する金髪ショートヘアが立っていた。母国の軍で戦っていた頃からの戦友で、最初は嫌いだったが『打ち解ける』ことを教えてくれた大事な
親友だ。……そして悪戯好きながらも『空気』には人一倍敏感で、だから一番最初に彼女との距離を取ったのもこの人だった。少なくともそれは、
彼女―――ゲルトルートにとっては、過ごしやすくて最適な距離だった。ある日、そのターニングポイントを迎えてからは。あの日以来、彼女が
親友、エーリカの心からの笑顔を見たことは一度もない。他の人には向けているのかもしれないが、少なくともゲルトルートに向けられた記憶は
一度もなかった。エーリカがゲルトルートに向ける笑みはあくまで社交辞令、貼り付けただけの薄っぺらいものだ。別にそれだけで十分だったし、
それ以上も望まない。むしろそのおかげでエーリカの私生活が大幅に改善されたのは、素晴らしいと言うべきことだろう。あの軍人なんて到底
言いがたい状況が懐かしくなるほどである。今は毎朝早朝に目が覚めては訓練と食事の用意を欠かさず、夜も就寝時間にはきっちり寝る。多少他の
人との馴れ合いで悪戯をすることもあるが、基本的な生活習慣があれだけしっかりしているとそれも目を瞑られる。部屋だって、ゲルトルートの
部屋とどちらが綺麗かを競い合えるほどだ。あのホームレスのような状況を知っていたゲルトルートからすれば、これほど喜ばしいことはない。
――だからといって、表向きに喜ぶことなんて絶対にあり得ないが。もはや感情なんてひとつやふたつしか残っていない彼女にとっては、喜ぶなんて
縁のない話だった。
『昔』のようにすら、なる必要もない。カールスラント軍の新人として配属されたあの頃はまだ希望に満ち溢れていて、軍規に沿った厳しい生活にも
馴染んでいって。だらけた隊員には指摘して、風紀を守るように徹底させた。その中で楽しみを見つけて、楽しいことには素直に笑った。……だが、
ただでさえ堅物と言われていたその頃にさえ、戻る必要はない。確かに時折、そんな関係でいることが悲しくなることはある。ゲルトルートも人間だ、
加えてまだまだ若い。人との接触や絡みが恋しくなるのも、また事実だ。
……だが、自分は孤独でいい。大事なものなんて、もう要らない。守りたいものだなんてそんな下らないもの、必要ない。そんなもの、増えれば
増えるだけ負担になるだけだ。戦う上では必要ない、むしろ邪魔なもの。心から愛するものだなんて、自分が誰かを愛したらその人が死ぬ。だから
もう、誰も愛さない。
ゲルトルート・バルクホルン。冷め切った、というには少し違う心を持った彼女。周りに疑われない『自然な死』を求めて戦場にやってきた結果、
その才が開花してエースになってしまったのが、すべての始まりだった。悲しみに暮れた彼女が死を望んで得たものは、死から霞むほど遠い何か。
天涯孤独は、果たして幸か不幸か。今はその答えを出せる人はいない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
何もかもは、あの日がきっかけだった。ゲルトルートが本当の『心』を失ったのも、そこから周囲が少しずつ崩壊を始めたのも、そして今の所属先、
『ストライクウィッチーズ』が結成されたのも。
1939年、突如この星を襲った、ネウロイと名づけられた怪異。それは人々の住まいを焼いていき、多くの命を奪った。カールスラントもまた例に
漏れずネウロイに焼かれていき、そしてゲルトルートの人生は『終わった』。その日、故郷に侵攻してきたネウロイを迎撃しようとゲルトルートは
出撃。しかしまだ新人だった彼女では、そのとき偶然同じチームとして居合わせたエーリカとミーナと三人がかりでやってもなかなか倒せなかった。
梃子摺ったおかげで街は真っ赤に燃え盛り、故郷のあるべき姿はいつの間にかそこから消えていた。それを目の当たりにして、ゲルトルートは
とにかく我武者羅に銃を振り回した。結果なんとかネウロイは撃墜できたが、それで街の状況が変わるわけでもない。絶望の中見下ろした街の中で、
ゲルトルートはあるものを見つけた。見つけてしまった。
……チームメイトなんかよりはるかに大事だった、愛していた無二の妹。それが、炎の中でまるでごみくずのように転がっていた。
今度こそ我を失って、武器もその場に捨てて急降下した。気づいたエーリカが一緒について来てくれて、持ち前のシュトルムで一帯の火をかき消して
くれた。……そうして拾い上げた妹は、すでに一部が火に飲まれていて出血していて―――それからゲルトルートの記憶はすっぽり無くなっている。
ただ気づくと取り押さえられていて、それからまるで吸い込まれるように眠って。やがて目が覚めると病室で倒れていて、傍らにエーリカがいた。
エーリカはマシンガンのようにずっと話しかけていたが、それどころではない。ゲルトルートは話をさえぎって妹について詰め寄ると、エーリカは
あきらめたような顔をした。ゲルトルートにはその意味がわからず、エーリカが死んだ魚のような目でゲルトルートの後ろを見ているのに気づいて
その目を追う。
隣のベッドで、包帯も一切巻かれずにただベッドに横たえられただけの妹――クリス。一応布団はかけられていたが、一切の処置が施されて
いなかった。
なんで治療しない。なんで助けない。なんでクリスを放っておくんだ。助けてくれ。妹を助けてくれよ。
そう誰かに詰め寄ろうとした。詰め寄りたかった。『何か』を、信じたかった。
でも、クリスに触れた手でゲルトルートにはすべてが分かった。分かりたくないことまで、分かってしまった。エーリカが必死にクリスが眠るこの
ベッドとは逆方向から話しかけていたのは、これを見せたくなかったからか。何を見ればいいかわからなくなった目で立ち尽くすゲルトルートの
後ろで、エーリカが泣き叫んでいた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――。なんでエーリカが謝るのかゲルトルートには理解できず、
泣くなと一言言った。しかしそれはずいぶんとぶっきらぼうだった気がして、しかし今と比べればごく自然だった。
「……お前は何も悪くないだろう。謝る必要などない」
……手に触れる感覚は、ひたすらに冷たい。氷のように、このままでは手が凍ってしまうのではないかというほどに冷たい。……クリスの体は
冷え切って、血も一切流れていないことが容易に分かる。もう、クリスティアーネ・バルクホルンは二度と目を覚まさない。この子は、完全に―――
死んだ。
涙が出てこない自分を殺したくなったが、代わりにエーリカが涙を流してくれている気がしてやめた。ただクリスの死を知ったその瞬間から、
ゲルトルートの感情が死んだことは間違いない。ある種、ゲルトルートは自分を『殺した』といえる。泣くのも笑うのも悲しむのもやめて、冷徹で
冷酷で親友にすら冷たい言葉しか返せない『機械人間』に成り下がった。それでいいと、心の底から思った。それほどまでにゲルトルートの心は
ズタズタで、涙を流さないせいで余計にそれが発散できない。それは業火に焼かれながらもなお意識が途絶えないような苦しみにも等しい痛みだった。
やがて笑い方も泣き方も判らなくなって、どうやったら笑えるのか、笑顔というのはどうすれば周りに『笑顔』と映るのかさえ判らなくなって。
それでも、ゲルトルートとしてはそれがお似合いだった。もう笑みなんていらない、涙なんて必要ない。自分はもう、人間である理由なんてないから。
何のために生きているのか分からない日々。それが今の、ゲルトルートの日常だった。
「そういえばトゥルーデはさ、ミヤフジのことどう思う?」
「誰だ」
「この間入った新人だよ。ほら、つい二、三日前に挨拶してたじゃん」
エーリカが貼り付けただけの笑顔でそう言って、ゲルトルートもああそういえばと思い出す。そんなやつもいたっけか、最近は新参者の名前なんて
覚えるだけ無駄と思っていたから忘れていた。どこの軍隊においても新人は税金で飯を食わせてもらって、下手糞でろくに戦う決心もできてない
くせに口先だけは一丁前で生意気。そしてようやく戦場に出られるころになったかと思えばその日のうちに落とされて帰ってくる。自分にもそんな
頃があったことなんてとうに忘れているゲルトルートは、そんな新人が疎ましくて仕方ない。
ゲルトルートは忌々しげにその話題を流すと、今日の訓練の予定を打ち合わせ始めた。エーリカは少し残念そうな顔を作って、それからは真面目に
ゲルトルートと話を進める。エーリカの数少ない、心からの顔。それが、今ここにある真面目な顔だった。
「あ」
「?」
そうして話し合っていると、どこからか聞きなれない声がしてゲルトルートは振り向く。そこには茶髪のショートヘアで、小さくてくりくりした
目でこちらを見てくる少女――。一瞬ゲルトルートは目を疑って、しかしそんなことはないと落胆する。クリスかと刹那の間期待したのだが、
もちろんそんなわけあるはずがない。そこに立っていた少女こそ、先日新たに入った宮藤芳佳軍曹だった。……クリスと見紛うほどにそっくりな
見た目は、ゲルトルートの精神を打ち壊すには容易い。ゲルトルートは取り乱すと、そのままいすを蹴飛ばして食堂を後にした。
「あ、あのっ!」
後ろで何かを叫ぶ声がしたが、気になんてしていられない。食器もそのままに食堂を飛び出して、後ろからエーリカが走ってくるのが聞こえた。
- - - - -
「なんだ、ハルトマン。用事がなければ帰れ」
いつも通り冷たい口調で言い放つが、エーリカはまだ訓練の打ち合わせが終わってないからと動き出す気配はない。ゲルトルートだって、そうなる
ことぐらい分かっていた。仕方なくため息をひとつつくと、部屋の片隅から椅子と机を持ってきて窓際に置く。二人は向かい合うように座って、
そしてゲルトルートは窓のほうを眺める。
……エーリカがそのとき、驚いたようにゲルトルートを見ていたことに当のゲルトルートは気づいていなかった。本人も気づかぬうちに、彼女の
目はどこか懐かしむような、それでいて悲しむような慈悲に満ちたものになっていた。何年ぶりか分からない『感情』の表れに、エーリカも思わず
戸惑う。
「……なんだあいつは」
「なんだって、新人のミヤフジだけど」
「そんなこと言われなくとも分かっているに決まっているだろうが……いったい奴は何者なんだ」
「宮藤芳佳。扶桑皇国出身。階級は軍曹―――
「死に急ぐことはないんだぞ、ハルトマン」
エーリカがあくまで芳佳の紹介しかしたがらないので、ゲルトルートも頭に来て思わずそんなことを口走る。それが持ち前の凍えるような冷たさ
ではなく、怒りの感情であることに気づいてエーリカは再び驚く。しかしやはり当の本人は気づいていない様子で、ゲルトルートは挙動不審とも
いえるエーリカの言動にうんざりしつつあった。
……ゲルトルートはため息もそこそこに、適当に話を始めた。
一瞬、クリスかと見間違えた少女。芳佳はたった一目見ただけで、ゲルトルートの心を苦しいぐらいに鷲づかみした。ゲルトルートにはその正体が
分からず困惑するばかりで、しかし少女が自分に向けた悲しそうな顔はどこかクリスと共通性があった。そして何より不審なのは、今までの新人と
違って『いきなり実戦で戦えた』ことである。当然美緒のフォローがなければ一瞬で死んでいたし、むしろ離陸すらできなかったかも知れない。
それでも彼女はしっかりネウロイの皮膜を撃ち抜いてコアを露出させ、ルッキーニが狙撃するための穴を開けた。本人はその意思はまったくなかった
だろうが、彼女のおかげでネウロイが撃墜できたというのは紛れもない事実である。いつ死んでもおかしくない機動でありながら、それでもあの女は
死ななかった。
……無抵抗で安全な場所にいたはずのクリスは別れの言葉もなく死んでいったというのに、あのミヤフジとかいう女はいきなり危険な実戦で生還して
みせた。見かけはクリスにそっくりなのに、その境遇は正反対なのだ。ゲルトルートもある意味、気に病むのも仕方ないといえるだろう。
「くそ、こんなに掻き乱されるのは初めてだ……この数年間、心なんてとっくに置いてきたものと思っていたが」
「もしかしてミヤフジが取り戻させようとしてるんじゃない?」
「そんな馬鹿な話があるか、阿呆が」
……まあ、たかが偶然の産物だろう。そう決め付けてゲルトルートは一旦芳佳の話を棚に上げたが、その後の訓練の打ち合わせでもどこか上の
空で聞いていなかったため今日の訓練は中止となった。エーリカが心底心配そうな顔をしていたが、ゲルトルートは関係ないといった素振りで
無視を決め込んだ。美緒やミーナに中止の報せを伝えると、ならばと芳佳の教導を頼まれてしまう。全力で断ったが、あいにく命令だったので無理
だった。何故こんな仕事を任せられなくてはならないのか分からないが、まあいい機会だろう。もしダメだと判断したらすぐにゲルトルートが
普段行っている訓練のメニューでも組んで、つまらんからとさっさと出て行ってくれるのを待つのも悪くない。それか適当に育てて実戦で落ちて
もらうのも手だろう。いずれにしろ、完璧なはずの自分の機動を乱す障害は蹴散らすべきだ。ゲルトルートはそう考え、しぶしぶ承諾した。
心の中を掻き乱されて集中できなくなるよりは、さっさと消えてくれたほうがいい。
ひとまずゲルトルートは芳佳の部屋へと向かった。それがどんな結果を導くか、『あるひとつの可能性』なんてまったく考えず――。
「よ、よろしくお願いしますっ」
「まずお前に足りんのは体力と聞いたが――」
教導を担当するのなんてどれだけ振りだろうか。本国に居た頃はまだ教導される側だった。ここに来てから何度か何人かに教えたことはあるが、
それも数える程度だ。しかももう一年以上前の話。そのときどうやって教えたかなんてもう覚えているはずもなく、それにこんなに本格的に教導を
行うのは初めてだ。そのわずかな緊張故か、ゲルトルートも芳佳のことは特別意識することもなかった。
かくして訓練が始まる―――のはいいのだが、美緒の教導を見ていないので体力がどれぐらいなのかもさっぱり分からない。それで試しに滑走路を
走らせてはみたのだが……なんというかこう、本気で帰ったほうがいいのではないかと思うぐらいだった。確かにゲルトルートからすれば、私生活に
おいてもなぜかいつもの調子を狂わされる。それ故にさっさとどこかへ消えてほしいという思いはあるのだが、それとはまったく別に芳佳のことが
純粋に心配だった。こんな調子ではいつまでたっても成長しないし、多少成長したとしてすぐ死ぬのが関の山だ。そんなことになるよりかは、実家で
家業を継いだほうがよっぽど平和的でいい。
そんなことをぼんやり考えて、しかし訓練前には『実戦で落ちてもらう』なんてことまで考えていたのを思い出す。そうだ、今はあいつをなんとか
追い出すことに集中しよう。ゲルトルートは頭を二~三回振ると、芳佳に声をかけてランニングを終わらせた。
「……あるとかないとかそれ以前の問題だな」
「はぁ、はぁ、す、すみませんっ……」
「このままでは飛行訓練なんてできやしないぞ」
一瞬、本気でゲルトルートの通常訓練のメニューを組んでやろうかとも思った。が、芳佳にはそれさえ効き目がないとすぐに判断する。キツさを
感じるよりもっと手前で、燃料不足で中止になるのが目に見えているのだ。だったらいっそ、毎日単調にずっと面白くない基礎体力訓練を続ければ
いい。それで飽きてくれればこちらのものだし、多少体力がつけばいつものメニューでやってやる。どちらにしても消えてくれればそれでいいと
まるで確かめるように何度も心中で確認して、今日の訓練はランニングと腕立て・腹筋・背筋それぞれ200本ずつにした。だがたったそれだけでも
今の芳佳には厳しいらしい。この程度なら高等学校の運動部連中なら余裕で出来そうなものだが、芳佳は丸々一日という時間を必要とした。
終わり際に見せた安堵の表情と、どこか少し緊張の抜けた芳佳の顔が印象的だった。ゲルトルートは払拭するように頭を何度か振ったが、それでも
芳佳の顔が頭から消えることはなかった。
シャワーを浴びてから自室に戻り教導のレポートを書いていると、三回ノックする音が部屋に響く。三回も叩くのはそうするよう決めている人だけ
なので、大体誰なのかは察しが着く。特に拒むような相手でもなかったので返事をすると、ドアが軋んで人が一人入ってくる。……黒髪のポニー
テール、なるほどそういうことか。
「どうだバルクホルン、宮藤の奴は」
「基礎がなってないと言おうと思ったが、そんな高等な話が出来る相手ではない」
「はっはっは、まあ元は民間人だからな、仕方ない」
「あれならさっさと本国に帰したほうがいい。ここに居ても邪魔だ」
そうは言ってみたが、美緒がそれを冗談として流してしまうのも分かっていた。案の定、まだ訓練を始めたばかりの新人だからそう責めるなと
窘められる。内心ではそんなもの知ったことかと呟いていたが、表向きは上官であり先輩である美緒に敬意を表して同調しておいた。……見ると
美緒がずいぶんと驚いたような表情を浮かべてそこに立っていたので、なんだろうと声をかける。そういえばエーリカもこんな顔をよくしていたと
今日一日を振り返って、何をそんなに驚くことがあるのかと疑問だった。
「いや、お前がそんな反応をするとは思わなくてな……バルクホルンなら、そんなこと知るかと斬り捨てるもんだとばかり」
「……建前という奴だ」
「そんな機能がお前に備わっているとは思わなかったんだよ」
「機能とはずいぶんな言い草だな。私は機械か」
自分では相変わらず冷たい、冷めた声で言ったつもりだった。しかし美緒は一瞬の間を空けてから爆発するように大笑いをはじめ、いったい何が
そんなに面白いのかとゲルトルートは少し慌てて大分イライラしていた。
まったく、今日顔をあわせた連中はどいつもこいつも様子がおかしい。そんなことをぼんやり考えながら、美緒とその他打ち合わせをしてその日は
終わった。―――最も変化している人は、未だ自分の変化に気がつかない様子だ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
数日後。ゲルトルートの計算に、ちょっとした誤差が生じ始めた。
芳佳の基礎体力は見る見る成長していき、いつものメニューならば三時間で出来るようになった。それでも体育会系の連中に比べればまだまだ
全然と言わざるを得ないが、丸一日かかっていたのからすればずいぶんな成長振りである。これなら空も飛べるだろうとストライカーを履かせた
のはいいのだが、この制御がまた全然駄目。ロッテを組んで編隊飛行だと言ったはずなのだが、どうしてか基地の棟と棟の間を抜けたりととても
素人には出来ないことばかりを繰り出してくる。真面目にやれと怒鳴りつけたこともあったが、涙目になりながら私だって必死なんですと強い
語勢で言い返されたらもう何も言えない。つまりは制御できない結果がアクロバット飛行なわけで、なかなかどうして素質のある奴だとゲルトルートも
思い始めていた。これは確かに美緒が連れてきた理由も分からんでもないと思いつつ、最近では訓練開始当初に比べて益々私生活が乱れつつある
のが気がかりだった。
……あまりずるずると引きずりすぎると、帰すタイミングを失ってしまう。ゲルトルートは迷いながら、今日もまた編隊機動に失敗して海面
すれすれを高速で旋回しながら慌てふためく芳佳を眺めるのだった。あんな低空での旋回、そう簡単に出来るものではないのだが。
「……宮藤。貴様がアクロバットチームに入りたいのはよく分かったから、とにかく私について来い。いいな」
「そ、そのつもりなんですけど……というより、アクロバットチームは遠慮します」
「そんなことを言っているのではない、馬鹿者が」
思わず張り倒したくなったが、それじゃあ意味がない。いいものを持ってはいるが、それを磨き上げるのが難しい。ゲルトルートは頭を今までに
ないほど回転させて、そして閃く。――最初に思いついたことを、まだやっていなかった。
ゲルトルートは少し口端を吊り上げると、芳佳に向き直った。そのときは駐機場に立ったまま滑走路のほうを向いていたのでなんともなかったが、
もしその表情を基地の誰かが見ていたら基地中の大騒動になっていたことだろう。
……バルクホルンが笑った、と。
「わかった宮藤。もう一度あがるぞ」
「は、はいっ」
「私が普段やっている訓練をそのまま行う。ちゃんとついて来い、ついて来なかったら今日の教導はこれで中止と思え」
芳佳はなんだかんだで、この訓練の時間を大切にしているようだ。まあ、普段から冷めているゲルトルートが教えてくれるのだから無理もない。
だからこそ、この時間が中断されてしまうのは芳佳にとって一番のマイナスである。特にリネットの教導と時間制で振り分けられるようになった
最近では、滑走路を独占できる芳佳専用の訓練時間がますます減った。芳佳もそれなりに気合は入れているようで、……まあその気合が空振って
いるのが現状なのだが。
ゲルトルートは離陸すると、後ろをちらりと見る。今日の教導でようやく多少はまともなロッテを組むことが出来るようになったので、芳佳も
少し安心しているようだった。その顔がどこまで続くか、楽しみなものである。ゲルトルートはいつもエーリカとやっている訓練と同じように、
芳佳に声をかけて機動飛行に移る。果てさてどうなることやら、少し面白くなってきた。
結果。
「0点」
「うぅ……」
ゲルトルートは空を縦横無尽に駆け巡っていたが、芳佳は散々だった。まあ、今の芳佳に出来ることといえば編隊を組んでただひたすらまっすぐ
直線飛行をすることと、遊覧飛行程度の旋回半径の大きい機動、クイックな機動で言うと唯一急降下爆撃とその後の低空でのリカバーぐらいの
ものだ。どれも実戦でそのまま活かせる代物ではなく、『基礎がなってない』というところだろう。いきなりレベルの高いことをやらされれば、
そうなるのも無理はない。
「言った通り、今日の教導はこれで終了だ。自主練習も構わんが、体は休ませろ。以上」
思ったほどの成果が望めず落胆し、また冷たく言い放つ。芳佳はしゅんとうな垂れているようで、少し声をかけてやろうかとも一瞬思った。だが
本当はその姿を望んでいたのだと思い出すと、ようやく満足のいく結果に近づき始めたことを実感する。これからが本番なのだ、もうすこし頑張って
『挫折』を目指してもらおう。ゲルトルートは湾曲した笑みを浮かべると、部屋に戻っていった。
それから芳佳は自主練習で自分で決めたルートを飛び始め、それもうまくいかないようでああでもないこうでもないといろいろ試行錯誤を始めた。
窓から見ていたゲルトルートも、あいつはあいつなりに頑張ってるんだなと思いつつまるで遊んでいるようにしか見えない。そのうち一発で機動を
決めようとすることをあきらめた芳佳は、基本に立ち返ってロール動作や上昇、旋回などの基本動作の訓練を始めた。ゲルトルートは少し感嘆して
声を上げる。そう、芳佳に致命的に足りないのはこの基本動作の洗練さなのだ。何をするにもワンテンポ遅く、そしてA6M3a特有の機動性の軽さを
感じさせない重たさがある。ここにキレがあれば、もっといろいろな動きについていけるのだが―――それが日ごろの悩みだったが、どうやら
そこに気づいたようでゲルトルートも一安心だ。少しずつ何度か繰り返すうちに芳佳も少し感覚が分かってきたのか、その日のうちに多少の上達を
確認できた。ゲルトルートは一息つくと、訓練レポートをまた書き始める。その日提出されたレポートの備考欄には、自主練習のことが少しだけ
書かれていた。
「……バルクホルンの奴、随分変わったな」
「計画通り、というよりもっといい調子ね」
「ああ。この調子で行ってくれればな」
――美緒とミーナはそんなことを、執務室の中で話していた。
- - - - -
「……でも、芳佳ちゃんはよく大尉の教導受けてられるよね」
「え?」
「だって、バルクホルン大尉ってすごく怖いじゃない?」
翌日、リネットと芳佳と二人で朝食を準備していた。リネットの言うのはもっともな意見で、この基地内においてゲルトルートとは本来そういう
存在である。ゲルトルートも、怖いかどうかは別としてほかの人と馴れ合うつもりなんて地の塵の大きさほどさえもない。何のために戦っている
のかさえ分からない世界で、何か守るべきものがあるわけでもない場所で。ただ無機質に毎日を生きていくだけの日々に、何の価値があるだろうか。
だから感情も捨てて、心も捨てて、全部忘れてここに居る。冷酷で冷徹なように見えて、本当はただの空っぽ。それが、ゲルトルート・バルクホルン
大尉のこの基地における在り方だった。
しかし芳佳は、それに対して否定的だ。考え方とかそういうものではなく、ゲルトルートという個体はあくまで人間である故に、という意見。
「私は、バルクホルン大尉は本当はやさしい人だと思うけどな。私の訓練のことも、すごくよく考えてくれてる」
「そ、そうなの?」
「えへへ、最近はね、笑ってくれるんだよ」
それがあまりにありえないことだというのは、芳佳もうすうす気づいてはいる。だからリネットも冗談なのかと笑って流そうとしたが、互いに
笑いあいながら芳佳は訓練の合間に見せるゲルトルートの笑みのことを話した。……それは世間一般で言う普通の『笑み』から比べれば、ただ
口の形が少し変わっただけとしか言うことの出来ない、『笑み』とは程遠い存在だ。だが普段から表情なんてあるのかないのか分からないあの
ゲルトルートが、少しだけでも口端をあげたりと表情を変えた。些細なその変化がどれだけ大きなものか、芳佳は分かっているからこそリネットに
話す。
「……それ、本当?」
「うん。ほんと」
「……あの、バルクホルン大尉が?」
「そう。あのバルクホルン大尉が」
芳佳がうなずくと、心底信じられないといった表情でリネットが驚嘆する。芳佳はもう少し、言葉を続けた。
確かにゲルトルートは怖い印象がある。だが怖いんじゃなくて、本当は冷たいからそう思えるのが理由。そして冷たいように思えるのは、今
彼女が心を持っていないから。だから誰かに優しくしようとしてもどうすればいいか分からないとか、そういう次元じゃない。心がないから、
優しくしようという想いさえ出てこない。相手に意思を伝えることしか出来なくて、それを簡潔にまとめようとするから冷たくなる。心が
そこにないなら言葉の調子だって常に平坦になるし、その平坦な言い方と簡潔にまとめた文章とが混ざれば印象が悪くなるもの必然だ。だから
ゲルトルートは冷たいというイメージが出来上がって、そこから怖いという印象を植え付けてしまう。
しかし本当はそうじゃない。教導ひとつとってみても、ゲルトルートの教導は厳しいながらも将来通用するウィッチになるためにといろいろ
考えてくれる。その実はいろいろな想いの交錯であることを知らない芳佳は、純粋にゲルトルートが教えてくれる訓練を受けることが好きだった。
最初に、ゲルトルートは言った。『死にたくなければ帰れ』。――あれは、芳佳を邪険に扱っているのも少なからずあっただろうが、おそらく心配
してくれている面も大きかったのではないかと芳佳は思う。
「昔、何があったのか私は分からない。だからなんとも言えないけど……大尉はね、少し不器用なだけだよ」
「……そうなのかな」
「うん。絶対」
芳佳はどこか自信を持ってそう言い張った。
そうしていると噂をすれば何とやら、食堂にゲルトルートが入ってくる。リネットと芳佳は少しくすりと笑って、また別の話題に戻した。当の
ゲルトルートは、またリネットと芳佳が適当なことを話しているんだろうと気にも留めない。そこにあるのは今までどおり冷たいままの、『少し
不器用なだけ』のゲルトルートだった。
暫くして料理が出来上がると、ちょうどその頃合を見計らってぞろぞろと食堂にやってくる。芳佳もリネットも一通り盛り付けを終えると、
食器の片付けに入った。
それを横目に見ながら、ゲルトルートは相変わらず味の良い味噌汁を啜る。横でエーリカが何か思いついたように顔を上げて、ゲルトルートが
食器を置く頃に口をあけた。
「そういえばさ」
「なんだ」
こちらを見てきたエーリカは、珍しく心から疑問がある顔をしていた。いつもは貼り付けた表情しか見せないのに、こんなこともあるものかと
ゲルトルートは内心呟く。
「最近、トゥルーデって随分変わったよね」
「何がだ」
「時々、表情が出るからさ。そういうの、とっくに捨てたと思って―――
エーリカはあくまでも、軽い気持ちでちょっとした疑問を抱いたから聞いただけなのだろう。しかしゲルトルートは聞くなり、持っていた箸を
机に叩きつけて食事を中断した。いきなり食堂中に響いた物質の衝突音に全員が驚いて、ゲルトルートのほうに向き直る。だがあんな奴と関わると
ろくなことが無いと、大半の人たちは目をそらすようにして自分の食事に戻った。その中で、エーリカとミーナ、そして芳佳だけは未だ視点が
ゲルトルートに釘付けになったまま離れない。
エーリカがどうしたのかとたずねると、ゲルトルートは一瞬ちらりと芳佳を一瞥する。
「「!」」
互いに驚くような表情を見せて、そして今度は立ち上がる。これにはさすがにエーリカも焦って、どうしたのかとまた尋ねようとして、しかし
それより先にゲルトルートが椅子を後ろに蹴っ飛ばして食堂を出て行く。……ミーナとエーリカの二人が血相を変えてその後を追って、更に美緒が
執務室方面へと走り去っていった。食堂は一瞬喧騒に包まれて、しかしそれもすぐに止む。
それを再び喧騒へと巻き戻したのは、宮藤芳佳であった。
「ごめんリーネちゃん、洗い物任せるねっ!」
「芳佳ちゃん、ど、どこ行くの?!」
「バルクホルン大尉のところ!」
そう叫んで走り去る芳佳。……なんであんな奴の場所に行くのか、あんな奴とは絡まないほうが良い、口々にいろんな人がいろんなことを言った。
芳佳はその一部が聞こえて、そして心中で叫んだ。
――やめて、そんなこと言わないで。
あの人はわざとあんなことやってるんじゃないんだ。あの人は、望んであんな冷たい態度をとってるんじゃないんだ。
はっきりとは分からない。明確にはいえない。だけど、どこか芳佳には理解できる。
……あの人は、仕方なくあんな頑ななんだ。
- - - - -
少しのときをあけて、基地に爆音とも言うべき音が轟く。まるでどこかが攻撃されているかのような破壊音、金属同士が弾ける音。コンクリートの
剥がれ落ちる音、鉄筋の壊れる音、水の漏れる音、電気のはじける音。その音はどれもこれもある一画から発せられていて、そしてそこには今一人の
人間が居る。
ゲルトルートはもうなにがなんだか分からなくなって、誰も使っていないであろう、誰も使うはずのない、誰にも見つかることのないであろうこの
部屋にやってきた。ゲルトルートでさえ知らない部屋だが、電気はコンセントしか通電していなかった。電気もつけようとしてもつかないし、水は
すでに漏れて部屋中がびちゃびちゃだった。こんなに薄汚い部屋なら、十分だ。
固有魔法を発動させて、とにかく手当たり次第にぶん殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。壊す。壊す。壊す。
力が強化されているとはいえ、手はあくまで手である。皮膚で直接金属管やらコンクリートやらをぶん殴ればその手がどうなるかなんて考えるまでも
なく、手は真っ赤に染まって爪も割れて、それでもまだゲルトルートはひたすら破壊を続けた。そこにようやくミーナとエーリカがたどり着いて、
暴れるゲルトルートの両手足を押える。すぐに抵抗されるが、一瞬動きを止めたらあとはこちらのもの。ゲルトルートのバランスを崩させると、
地面にねじ伏せて押さえつけた。
「離せ! 離せッ!! 私は、私はッ!!!」
「やめなさい、トゥルーデ!」
ゲルトルートが離せと叫ぶ。ミーナがやめろと怒鳴る。いいから離せとゲルトルートがもがく。やめてとエーリカが叫ぶ。ゲルトルートは諦めず
抵抗を続け、しかしゲルトルート自身が破壊したコンクリートの破片が徐々に腕と足に積み上げられていっては身動きも取れない。徐々に魔力は
尽きはじめ、ゲルトルートの頭から犬の耳が消滅する。
……ゲルトルートの、『あの日』からの癖だった。混乱してどうしようもなくなると、無性に破壊衝動に駆られて何でもかんでも壊す。視界に映る
壊せそうなものを、ひたすらにぶち壊す。形がなくなっても、その質量が消えるまで壊し尽くす。つまりそれは半永久的に続くと考えられ、やがて
魔力が尽きるとその場に倒れる。今回なんて、みんなに迷惑がかからないようにと食堂から飛び出したのはまだ上出来なほうだった。
「くそっ……くそッ!!」
ゲルトルートが涙を流しながら悪態をつく。……エーリカも大体察しは着いた。ミーナは答えを知っている。
最近、ゲルトルートはよく自室にこもって髪を引き千切ったりしていた。だからゲルトルートの部屋は、時々茶色い髪が散乱して昔のエーリカの
部屋みたいになっている。そういう時は決まってミーナとエーリカがやってきて、ミーナが部屋を片付けてエーリカが髪を整えていた。……そうなる
原因は、あの一人の少女にある。
――宮藤芳佳。彼女はあまりに、クリスティアーネ・バルクホルンに似すぎていた。だからゲルトルートは何度となく二人が重なって見えて、
そしてそうなるとやめてくれと呻きながら爆発する。最近は大分髪も痛んで、そろそろ隠すのも難しくなり始めている。小さな破壊なら今まで何度と
なくあったが、特に頻繁になり始めたのはちょうどゲルトルートが芳佳の教導を始めたあの日からだ。それら暴走が起こると、ミーナも美緒も
決まってゲルトルートに休暇を出す。もうそれがお決まりになっていて、しかし今回はちょっと違った。
深呼吸をして、気分を落ち着ける。ゲルトルートは徐々に冷静さを取り戻し、最後に長い息を吐いて……それでようやく正気を取り戻した。
一息つくと、コンクリート片を退けてもらって起き上がる。このときだけはいつも、少し申し訳なさそうな顔をするのがゲルトルートだ。普段は
表情なんて全く見せないが、このときだけはいつも少しだけ目を逸らしてばつの悪そうな顔をする。
そうしていると、いつの間に来たのか美緒が入り口に立っているのに気がついた。
「また派手にやってくれたな」
「……すまん」
「まあしょうがない。明日は丸一日休暇にする。但し―――」
そこで一旦区切って、美緒はゲルトルートに歩み寄るとその手の上に一つの鍵を渡した。ゲルトルートは何のことかわからずしばらく鍵を眺めて、
怪訝そうに顔をゆがめる。そこにあるのは、キューベルワーゲンのキーだ。
「明日は宮藤とロンドンに行って来い」
「な―――」
「これは命令だ。ロンドンに着き次第休暇とする」
なんと無茶苦茶なことか。しかし命令と言われてしまってはぐうの音も出ないので、仕方なく了承する。この期に及んで、こんなことになる
原因になったあの芳佳と出かけるだなんて――正直、今のゲルトルートには美緒の判断は理解できない。下手をして街中で暴れるようなことに
なったらどうなってしまうのか、考えるだけでもゾッとする。それにもしそうでなかったとしても、街の歩き方なんてとうに忘れた。芳佳と街を
見て回るなんて、それだけでも無理な話だ。加えてゲルトルートが先導するなんて尚更。芳佳が街を知っていれば芳佳に任せればいいものの、
芳佳も初めてだ。あいにく何度か行ったことがあるため、こう言われてしまうのも仕方ないのかもしれないが……そんな記憶、覚えているはずも
ない。それに前に行ったのはもう半年以上前で、街だって多少は様変わりしているかもしれない。そんなところを見て来いなんて、どうすれば
いいのやら。
そうして表向きはいつも通りだが内面で悩んでいると、美緒が苦笑気味に声をかけた。
「そう難しく考えることはない。時間までにこっちに戻ってくればいいのだから、それまで適当にぶらついていればいいのさ」
「ぶらつくと言ってもだな……そもそも宮藤はそれでいいかもしれんが私は――
「散々基地を破壊しておいてまだ我侭を言うか」
……言い返せない。半ば墓穴を掘った形になり、ため息とともに再び了承した。それでその場は解散となり、これからあの食堂に帰っていく
気も起きなかったゲルトルートは自室へ戻って暇つぶしを考える。この後は芳佳の訓練が入っていたはずだが、芳佳には悪いが今日は自主練習に
してもらおう。そんなことをぼんやり考えて、自分の部屋で唯一飾り気のある机の上の写真たてを見やった。
自分が妹の両肩に手を置いて、妹は満面の笑みで手を振って。そんな微笑ましい一枚の写真……しかしそれが実現することは二度とない。
もう、クリスがこの世界に戻ってくることなんてないのだから。
ふう、と一息つく。あれはどう考えても自分の力不足が原因で、そして今なら守れるかと聞かれれば正直素直には頷けない。技術はついたが、
メンタル面でまだまだ弱すぎる。さっきの『爆発』がその良い例で、感情の制御ができないのにまともな戦闘ができるとは思えなかった。
……そういえば、精神なんて最近ぜんぜん考えていなかった。それに気づいて、少しだけ空を見上げる。感情だとか、精神だとか、そんなもの
とっくの昔に失ったものだと思っていたが。それが息を吹き返したのは、やはりあの宮藤芳佳がこの基地に来てからだった。相変わらず何者か
わからないが、少なくとも彼女自身が望んでゲルトルートを掻き乱していることは絶対にないのは確かである。
そしてぼんやりと空を見ていると、いつの間に上がったのか気づけば空では芳佳が自分から訓練を始めていた。時計を見ると既に訓練開始の
時間から十分も経ってしまっているので、ゲルトルートが来ないからと自分で始めたのだろう。……自主練習にしてもらうとか言いながら連絡を
怠ってしまって、また芳佳に迷惑をかけてしまった。……迷惑をかけるなんてそんなことを考えることもなかった、とそれにも気づいて、最近
自分がおかしいことにようやく気がつく。
――本来は、それが『おかしい』のではなく『正常』なのだが。
「……ロンドン、か」
美緒も美緒なりに考えてやっているのだろう。明日、何かが起こればいい――それも良い方向に。そんなことをぼんやり考えながら、
ゲルトルートは心地よい空気の中睡魔に襲われて浅い眠りについた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「……ああ」
芳佳とゲルトルート。二人は朝早くに既にキューベルワーゲンに乗り込んでいて、あまりに朝が早いのでミーナだけ見送りに来ていた。
芳佳の表情は半分硬く、緊張がそこにあるのが見て取れる。せっかく街まで出かけるというのに、これではあんまりだ。それでもミーナは
何も言わない。その緊張を解させるのは、ゲルトルートの役割だ。対するゲルトルートは渋々といったところで、あまり芳佳のほうを
見ていない。意識して視界からはずしているようで、少し不自然だった。まあ、仕方がないのだろうか。
やがてキューベルワーゲンは、ゲルトルートが踏み込んだアクセルによって少しずつ基地を離れ始める。会話のない車が出発して、そして
しばらくすると基地も見えなくなる。ロンドンへ向けて走り出す車、しかし街へ出かけるというのに車内はどんよりと暗い。
―――あまりにその空気が重たくて、その空気を自分で作り出しておきながら耐えられなくなったゲルトルートは思わず口を開いた。
「……エーリカからはなんと聞いている?」
今日のこの件。芳佳への伝達はエーリカが行っていたので、それについて尋ねる。エーリカなら何か変なことを吹き込んでいそうなので、
それを話の種にできないかという魂胆だ。
「えっと……バルクホルン大尉ならいろいろ知っているだろうから、楽しんで来いって言われました」
「……馬鹿馬鹿しい、私が何を知っているというのだか」
鼻を鳴らして、エーリカが言ったらしいその言葉を一刀両断する。訓練のときは多少芳佳に対して表情を見せるゲルトルートも、平時では
やはりいつもどおりだ。芳佳は少し竦んでしまったが、それでもゲルトルートとなんとか会話を持たせようと必死だった。
「で、でも、私はちょっと嬉しかったです」
「はあ?」
「今まで外に出かけたのってリーネちゃんとだけだったので、ほかの誰かと行くのはちょっと楽しみなんです」
それにいつも訓練で教えてくれている教官のことも、もう少し知ってみたい。芳佳がそんなことを言うと、他人の事情に土足で踏み込んで
来るなと思わず少しきつい口調で言い返してしまう。また芳佳は小さくなって、そんな自分に嫌気が差してはあとため息をつく。それからまた
しばらくは無言の時間が続いて、しかしそれは今度は芳佳によって打ち壊される。
「……でも」
「なんだ」
「やっぱり、私は―――」
そこで少し言葉を切って、一瞬悩むそぶりを見せる。恐らく最適な言葉を捜しているのだろうが、見つからなかったらしい芳佳はゲルトルートから
少し目を逸らすようにして言った。頬が、ほんのり赤くなっている。
「やっぱり私は、バルクホルン大尉のこと、なんとなく好きです」
「……変人」
「えぇ!? ひ、ひどくないですか!?」
唐突に何を言い出すかと思えば、自分に向かって『好き』だなんて言い出す。あいにくその言葉で揺らぐ心を持ち合わせていないゲルトルートは、
単純に自分に興味を持つ人を今まで見たことがなかったことから芳佳は変人だと思った。その旨を説明してやると、それもわからないでもないと
否定するのかしないのかよくわからない返事を返してくる。
それから芳佳は、聞いてもいないのに言葉をつむぎ始めた。別に煩いとは思わないのでいいのだが、そんなことを話されても。そう思っていた。
一見冷たいように見えるけど、でも本当はやさしいんじゃないかとどこかで感じる。何かを守ろうという想いが人一倍強くて、だからウィッチと
しても強い。その守るべきものが今守れるものか、それともそうでないものかは自分にはわからない。でも、ゲルトルートがそこまで想う人なんて、
そうそういないはず。だったらきっと相手も、ゲルトルートに大事にされて嬉しいんじゃないか。ゲルトルートがそうやって守ろうとして、
全力で『自分のため』に戦ってくれる。それを知れば、きっと相手は嬉しくて笑っていられる。多分それがわかっているから、だから冷たい
態度を取っていても優しさが滲み出てくるんだろう。
……真顔でそんなことを言い出すものだから、ゲルトルートも対応に困る。ただ、芳佳が言った中でひとつだけ誤解があるようなので言って
おくことにした。
「私は自分の働きで誰かを喜ばそうとなんてしていないぞ」
「もしそうでも、結果はきっとおんなじです」
「ふん……それにしたって、お前に関係のある話ではあるまい」
それでもう話を切ってやろうかと思ったのだが、どうやら芳佳は引き下がらない。こんなことに熱くなってどうするのかと内心思いながら、
不思議と悪い気はしなかったのでゲルトルートも話に付き合うことにした。
「気づいてないんですか? 私だって、大尉に守ってもらってるのに」
「いつ私が守った」
「毎日、です」
そんな気さらさらない、と嘲笑気味に言ってやる。しかし芳佳は気にしないようで、自分の意見を主張した。―――いつも訓練してもらって、
それで自分の身は自分で守れるように少しずつ強くなっていく。からっきしだった体力も最近は徐々についてきて通常の戦闘程度ならもつように
なってきたし、防御の張り方も大分それらしくなった。攻撃の仕方も教わったし、回避も少しずつ上達している。それら一つ一つはどれも、
言うなれば自分が死なないように身を守るためのもの。相手を倒すのも、最終的には自分にとって害となるから倒すのだ。倒さなければ自分の身が
危険にさらされるから倒すのであって、それはつまり自分の命を守るのにも等しい行為といえる。
だから。その手段を教えてくれるゲルトルートは、日々自分を守ってくれているのと同義だ。
……やはり真顔で言う芳佳。どこかこの女には、説得力のようなものがあるとなんとなく感じた。
「ふん、お前がそう思うなら勝手にしろ」
「はい、勝手にします」
微笑して、満足げにそう頷く芳佳。やがて外の景色に目を移したため会話はまた途切れたが、今回の無言はあまり悪い気はしない。まったく
不思議なものだと内心思いつつ、ゲルトルートは車を走らせた――。
- - - - -
「ほら、ロンドンの街だぞ」
「ふえっ?」
芳佳が驚いたように顔を上げる。ぼうっと街並みを眺めていただけだったので気がつかなかったが、どうやらもうロンドンに入ったらしい。
そういえば確かに今までの様子とは違って、大きな建物がたくさん並んでいる。首都と呼ぶには十分な風情で、扶桑の中でも田舎出身の芳佳に
してみれば大都会のど真ん中だった。
物珍しそうな顔で、あちらこちらをきょろきょろと見渡す。いくらオープンカーとはいえ車の中なのであまり人目にはつかないが、徒歩で
これをやっていたら周りの注目を浴びることは間違いないだろう。田舎出身ですと言いふらしているようなものだ。芳佳としては別に気にする
ことでもないが、どうやらそれを気にする人もいるようで。ゲルトルートが一言、あまりきょろきょろするなと芳佳に言った。何のことかと
少し考えてから意図をつかんだ芳佳は、照れ笑いをしながら落ち着いて前を向く。それでも目線だけはあちらこちらへ飛んでいて、見る人が
見れば一発でわかってしまうだろう。それでも芳佳はやめない。一応休暇を取れば来ようと思えばいつでも来れる場所ではあるが、初めて
なのでやはり楽しいのだ。……それに。
隣席で車を転がしているゲルトルートは、一見無表情。しかし先ほどの一言は、いつもより幾分か穏やかに聞こえた。本当はそうではない
のかもしれないが、芳佳にはそう聞こえた。それが正解であることはゲルトルートにしか分からないが、少しだけいつもより赤みがかった
ゲルトルートの肌は新鮮で色っぽい。ごく僅か、微細な変化ではあるが芳佳は徐々にその変化を見分けることができるようになってきていた。
「どこへ行くんですか?」
「行く……というより、駅に車を置く。特に目的地がないからな、動きやすいほうがいいだろう」
歩いて見て回ってもいいし、公共交通機関を利用しても悪くない。ともあれ車だと何かを見つけたときに駐車できない-出来ないことはないが
主要道路での路上駐車は通行の妨げになる-ので、車は駅に置く。地下鉄の乗り換え主要駅であり、イギリスの大動脈であるイースト・コースト
本線の終着駅でもあるキングズクロス駅なら楽だろうという判断らしい。
芳佳はとりあえずゲルトルートに任せ、また街並みを眺める。これが同じオープンカーでもスポーツカーなら様になったのに、とぼんやり
思いながら、それでもこうしてゲルトルートと二人で出かけられることは純粋に楽しかった。これから今日一日、楽しみである。
「あそこだ」
「ほわー……すごい立派な建物ですね」
目の前に現れたのは、レンガ造りの市庁舎ほどはありそうな駅舎。芳佳から見れば、言われなければ駅舎とは気づかないほどである。既に
見慣れたのかゲルトルートは特に気にかけることもなく近くの駐車場を目指すが、ちらりとその表情を盗み見ると瞳が少し光を強めに反射
していた。どうやらまんざらでもない様子である。
ふふ、と小さくほくそ笑むとゲルトルートはなんだといつもどおり起伏のない掴み所のない冷淡な声で一言。それもちょっぴりおかしくて、
でもあまり笑うと機嫌を損ねてしまうので芳佳はなんでもありませんと微笑した。変な奴だと呟かれたが、確かに今は少々変な奴だ。今日は
なかなか、笑いの絶えない一日になりそうである。
少しして車は駐車場に入り、やがて停止。エンジンの音が止まって、ようやく到着したことを示していた。とは言っても、ここまで来るのに
さほど時間はかからないのだが。何せ『いつでも来れる』とさえ言われるほどだ。
ともあれ二人は降車すると、行く当てもないのでとりあえず歩き出した。ロンドンは地下鉄網が迷子になるほど張り巡らされているので、
そこら中に地下鉄の駅があるのが特徴的だ。それ故、観光がてら適当にぶらついていても普通に帰ってこれる。というわけで歩き出したものの、
やはりこれと言って目的がないので街並みを眺める以外にやることがない。そろそろ目も馴染んできた芳佳が、ゲルトルートに一言。
「大尉は何か買い物とかはされないんですか?」
「買ってどうなる。衣食住全部出るのに、何かを買う必要などない」
「あはは……大尉らしいですね」
当の芳佳はいろいろ食べたり飲んだりしたかったが、あいにく今金を持ち合わせていない。そう、一番のネックはそこだった。芳佳は先日
受け取ったばかりの俸給の、ほぼ全てを実家に送っている。つまり残っているのはごく僅かなわけで、それで買い物も出来なくはないが買えても
今で言うなら百円ショップ程度とも言えた。それで何か出来るわけでもなし、その程度で金を持ち歩いても仕方ないので持ってきていないのだ。
対するゲルトルートは特に使い道もない上に実家もないのでずっと貯金に回している。それが幸いしてこういうときには自由に使えるので一応
それなり、というか大金とも言うべき金は持ってきているのだが……如何せん、ゲルトルートには使い道が本当に無い。芳佳はなんだか頼りたい
気分にもなったが、さすがにほかの人の金に手をつけるわけにはいかない。
……まあ、無いものを嘆いても仕方ない。ならば、次に来た時のために活かそう。
「じゃあ、服とかいろいろ見て回りましょうよ」
「金も無いのにか?」
「それは言わないでください……次お金を持ってくるときのために下調べをですね」
この辺りの感覚はゲルトルートには分からないのか、ゲルトルートはくだらないと一蹴した上で了承した。芳佳としてはどっちなのかよく
分からなかったが、まあイエスと答えてくれたことに反対する理由も無い。少し軽い足取りで歩いていくと、広い公園に出くわした。緑豊かで、
こんなところを見ると今が戦時中であることも忘れてしまいそうである。……そんなこと、ゲルトルートの前では口が裂けても言えないのだが。
芳佳は公園を眺めながら、その外周にある色とりどりの店を見て回る。宝石店なんかもあったが、俸給の金額からすれば買えなくも無い代物だが
まったく縁の無い話だと思った。
その中に服屋を見つけて、喜び勇んで入っていく。ゲルトルートが半分呆れていたが、それでもついてきてくれるのは少し嬉しかった。中には
様々な服が売られていて、そして面白いものを見つける。
「……あれ? これって」
「まあ、ブリタニアだからな」
芳佳が手に取ったのは、カッターシャツとベスト、その上に軍服風のジャケットが一式セットになったもの。深緑と茶色のボーダー柄のオーバー
ニーソックスもあり、見るからに――リネットの服装と同じものだった。無論、ここにおいてあるものはただのファッションなので防御力も
へったくれも無いのだが。
確かにリネットはブリタニアのウィッチ。しかもストライクウィッチーズ隊に所属しているとなれば、国中で人気が高いのも頷ける。こんな風に
浸透しているのはなかなか面白いと思いつつ、丁寧に元の位置へと戻した。ほかにもいくつか見て回ったが、やはり扶桑より種類が多くて色々と
見ていて楽しい。普段から見ているゲルトルートはあまり面白くなさそうだったが、少しだけ自由にさせてもらった。ゲルトルートも特に何も言って
こないので、それに甘えさせてもらうことにする。
―――と、しばらく店内をうろついていると少し興味深いものを発見する。芳佳は服の列に身を隠して、顔だけひょっこり出す。……その視線の
先に居るのはなんのことはないゲルトルートなのだが、その様子がいつもと違った。普段は軍服が私服であるゲルトルートが、店内の服の一着に
興味を持ったようでしばらく手にとって眺めている。真っ黒な半そでのシャツで、なんとも形容しがたい赤いエンブレムが入っている。少し下に
長いサイズで、しかしゲルトルートにはぴったりそうな大きさだ。……確かに、あれは似合いそうである。彼女はしばらくまじまじと見つめた後、
一瞬ポケットに手を伸ばしてすぐ引っ込めた。芳佳は思わず噴出しそうになったが必死でこらえ、そしてゲルトルートが服を戻すのを見送った。
それからしばらくまたうろうろと服を見て回ったが、また何か興味深そうに見ているゲルトルートを発見。黒の長ズボンで、フタつきのポケットが
膝上に二つついているタイプだ。赤い縫い糸が使ってあって、それがアクセントとなって洒落た感じに仕上がっている。足首は紐で締めることが
出来るようになっているらしく、機能的だ。芳佳が居る場所からでは裏生地までは見えないが、どうも見た感じでは裏に網目状の『モノ』がついて
いるように見えた。扶桑では見かけない『ソレ』が何かは芳佳には分からなかったが、履き心地はよさそうだ。ゲルトルートは今度は財布には手を
伸ばさず、しかししばらく見た後また元に戻した。……さっきの黒い服とあわせるとそれなりに似合いそうで、ボーイッシュな感じになりそうだ。
どこと無くゲルトルートの雰囲気にあった落ち着いた感じは、芳佳もそれを着るゲルトルートを見てみたいと思うほどだった。
少しして、まるでゲルトルートの後をつけるように服を見て回る。気がつくとカッターシャツのコーナーに来ていて、芳佳は一度は着てみたいと
思うものの着こなせる自信が無くてどれもこれも手にとっては戻してしまう。そうしてふと気がつくと、前方でゲルトルートがまた別の服を手に
とっていた。カッターシャツだが白に薄い青や赤のチェック柄が入ったカジュアルな服だ。確かにさっきの二つとあわせれば、白と黒の対称になる
色合いでちょうど良いといえる。
いっそのこと声をかけてしまおう。芳佳は隠れていたのをやめて出て行くと、ゲルトルートに一声かけた。
「悩んでます?」
「のわっ!」
別にいきなり来たつもりは無いのだが、集中していたらしいゲルトルートは驚きの声を上げる。急に出てくるなと言われたので、いやそんな
つもりはまったく無かったと言うとゲルトルートも押し黙ってしまった。会話が途切れたので芳佳がゲルトルートの見ている服を間近で眺めると、
やはりゲルトルートにはぴったりそうな服だった。
「さっきのと合わせたら、きっと似合いますよ」
「私にはこんなもの――――ってちょっと待て、見てたのか」
「珍しかったもので」
くすくす笑うと、ゲルトルートは少しだけ頬を赤くして服を戻してしまう。首をかしげると、ほら行くぞと手を引っ張られて店の外へと連れ
出されてしまった。きょとんとしていると、少しだけゲルトルートが震えているのが見える。頬が今度は誰が見ても分かるぐらい、それでも
少しだけだが赤くなっていた。先ほどよりも濃厚になったその色に、芳佳はようやくゲルトルートの意図をつかんだ。それから穏やかに言ってやる。
「別に、服をほしがるのなんて普通だと思いますよ」
「……私には必要の無いものだ」
「必要なかったらなんで着てるんですか……」
「そういう意味ではない、馬鹿者が」
ゲルトルートがむっとした表情で振り返り、そのせいで目が合ってしまう。芳佳は微笑していて、ゲルトルートが思ったより人間味のある人
であることにちょっとした安心感を覚えていた。そんな芳佳の表情を見てかゲルトルートは驚いた顔をして、ようやくまともに見せてくれた
初めての表情に芳佳はますます嬉しくなる。
……やっと大尉の驚く顔が見れた。芳佳はそう呟くと、ゲルトルートははっとしたように顔を元に戻そうとした。けれどうまくいかないようで、
やっぱり不器用だと心底思いながら先を促す。あせったように頷いたゲルトルートを引っ張るように、また芳佳が先を歩く。しばらく歩いた
ところで、後ろから声がした。
「……休むか」
「まあ、公園も目の前ですからね」
どうやら普段色の無い生活を送っているらしいゲルトルートからすると、あの服屋の色とりどりな景色は目に痛かったらしい。休憩を要求
されたので公園の中へと入っていき、適当なベンチを探す。実を言うと芳佳も似たような状態だったので、休めるのは少々助かった思いもある。
いつの間にか離れた手を他所に辺りを見渡していると、目的のベンチを発見。そちらへ歩み寄るが、同時に近くにソフトクリームの売店がある
ことにも気づいた。そういうものがあるのは知っていたが、あまり広まっていないため現物は見たことが無い。その中でも、リネットが一度だけ
数個食べさせてくれたブルーベリーの絵が描かれた看板があるのに目が引かれた。……ブルーベリー味のソフトクリーム、すこしだけそそられる。
「ぶるーべりー……」
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです」
思わず呟いてしまって、慌てて両手を振って否定する。そうしているとゲルトルートも先ほどまで芳佳が見ていたほうに気づいてしまい、売店を
じっと見つめた。どうするのかと思ったら、いきなり芳佳をおいて売店のほうへと歩き出してしまう。慌てて追いかけようかと思ったが、追いかけて
どうにかなるものでもない。というかゲルトルートが何をしたいのか分からないので、追いかけてもどうしようもない。その場に立ち尽くして
ただゲルトルートの成り行きを見ていると、今回ばかりは芳佳も目を見開いた。
……ゲルトルートは売店の店主に向かって、一言。
「ブルーベリーひとつ」
何のためらいも無くポケットから財布を取り出して、金を払ってソレを購入する。その様子を唖然として見つめていた芳佳は、やがて帰ってきた
ゲルトルートが差し出したソレが信じられなくてただ見つめているだけだった。
「……今日だけだからな」
「あ、ありがとうございます……」
惚けたような表情で辛うじて礼の言葉を搾り出すが、あまりに予想外の展開に動きが止まってしまう。礼を言っておきながら受け取らないので
ゲルトルートが首をかしげ、さっさと食わないと溶けるぞと言われる。さすがに溶けてしまっては元も子もない、それでようやくはっとした
芳佳は丁寧にコーンの部分を受け取る。買ってもらったのに食べられなくなってしまったのではあまりに申し訳ないので、ありがたく頂くことに
した。……シャーロットならともかく、まさかゲルトルートにこんなことをしてもらえるとは思いもよらず。ひとまずベンチに二人そろって
腰を下ろすと、一口舐めてみた。
……ひんやり冷たくて、ほんのりとブルーベリーの味がする。甘ったるくも無く、とても美味しかった。芳佳はゲルトルートに丁重に礼を
言って、そんなに硬くなるなとぶっきらぼうに言い返される。そう言うゲルトルートの目はやはり輝いていて、やっぱりまんざらではない様子。
それからしばらく芳佳は目の前のデザートを頬張っていたが、ふと隣からの視線が気になって目をやる。ゲルトルートが芳佳のほうをじっと、
いやどちらかと言うとソフトクリームのほうをじっと見つめていた。
「……食べます?」
「いや、いい。そういうのはどうも苦手なんだ」
どうしてかと尋ねると、子供のころ親が買ってきてくれたアイスクリームが余りに甘ったるくてとても食べられたものではなかったからと
返事が返ってくる。もしかして甘いのが苦手なのだろうかと思ってどれぐらいの甘さなのかと聞いてみると、あまり比較するほどいろいろな
ものを食べたことが無いので分からないといわれた。ただ強いて言うなら、角砂糖を1:1の割合で水に溶かして飲んだ感じと言われて口の
中が一瞬で甘ったるくなる。……それは、甘いものが好きな人でも死ぬ気がする。
単にそれはその店のアイスクリームが甘すぎただけだと思う。そう言ってみたが、アイスクリームに違いなんて無いと返された。……うむ、
硬くなるなとさっき言われたが堅物はゲルトルートのほうである。芳佳は心底そう思って、それから丁寧に諭した。『たとえストライク
ウィッチーズ隊と言えども、ゲルトルート級のトップエースもいれば自分のようなルーキーだって居る』。その例が分かりやすかったのか、
少し納得したように頷いた。その上で芳佳は、一度食べてみてとゲルトルートに促す。少々乗り気ではないようだったが、折角の誘いだからと
ゲルトルートは一口ソフトクリームを舐める。
……そして一言。
「……美味しい」
やっぱり。芳佳は何事も挑戦だとゲルトルートに笑いかけて、対するゲルトルートもお前の言うことも一理あると苦笑していた。……笑いを、
浮かべていた。
芳佳はそれに心底驚いて、しかし悟られるとまずいととっさに判断して驚愕のその表情を隠した。だがゲルトルートはどこか穏やかな笑みを
浮かべる。今まで一度も見たことのない、ゲルトルートの『表情』……それはとても優しくて、こんな風にしてもらったらどんなに大きな悩みが
あっても最後は笑ってしまいそうだ。
礼といっては何だが、ふと思いついたのでひとつ言葉を教えることにする。
「扶桑では『一事が万事』って言うんです」
「……どういう意味だ?」
一つのことで、他のすべてのことを推し量ることができること。そう言うと、なるほどなと深く頷いて納得した様子だった。ただ、『絶対
そうかといえばそうとも限らない』ということも一言加えておく。言葉の意味自体は最初に言ったことだけだが、本当にひとつの事が全部に当て
はまるかどうかは自分で検証してみなければわからない。ゲルトルートは笑って、それを肯定した。そして小さくつぶやく。
「自分の分も買っておくべきだったかな……」
――少しずつ、心を開いてくれている。芳佳はそんな気がしてならなかった。だから、思わず提案してしまう。
「次来たときは、私が奢りますよ。今日のお礼です」
それは悪いととっさに返すゲルトルートだったが、少しぐらい礼をさせてくれとせがむ芳佳の前に折れる。じゃあ次は頼むと言われて、満面の
笑みで頷いた。それから二人は他愛も無い話をいくつかして、また観光へと戻っていった。
- - - - -
「……なんだ、もう時間か……」
「え?」
「帰る時間を考えると、そろそろ車に戻らなくてはな」
名残惜しそうにゲルトルートは街を見て、それから芳佳に行くぞと促した。芳佳も慌てて後をついていって、しかし最寄の地下鉄駅からは
出てくる人ばかりで流れに逆らう形になってしまう。都会の歩き方になれない芳佳はうまく前に進めず、右往左往しているうちにゲルトルートは
小さくなっていく。駅は見えているので迷うことは無いが、進めなければ意味が無い。どうしようかと少し頭を悩ませていると、不意に右手が
誰かに握られて振り向く。……少し心配そうな顔をしたゲルトルートが、無言のまま芳佳の手を引いて駅のほうへと歩き始めた。思わずたたらを
踏んでしまうが、何とか歩調を合わせてゲルトルートについていく芳佳。さすがは街に慣れているだけあってか、ゲルトルートは正確に人と人の
間をすり抜けて駅へと順調に歩いていく。握られた手はとても暖かくて、基地で見せるあの無表情な冷たさなんて微細も感じられなかった。
……やっぱり、自分は間違っていなかった。この人は、とても優しくて暖かい。芳佳はただ足を動かすだけで後を全てゲルトルートに任せきると、
いつの間にか電車に乗り込んでいた。確かに切符を渡されてそれをどうにかこうにかした記憶はあるが、思いのほかすんなりと行ってしまう。
「後は降りれば終わりだ」
「……ありがとうございます」
やわらかく笑って見せると、ゲルトルートは頬を染めてそっぽを向く。芳佳の前だけで見せるこの顔が、芳佳にはたまらなく嬉しかった。
基地の中でもこんな顔が見れれば良いのに。そんなことをぼんやりと考えていると、やがてゲルトルートが重たそうな口を開いた。
「―――妹が、いたんだ。お前によく似た」
「私にですか?」
「ああ。興味を持ったものにはなんでもすぐ走っていってな、行動力の塊みたいだったが、私も妹も、互いに互いの面倒を見て笑っていた」
そう話すゲルトルートの顔は嬉しそうで、しかし目の奥にある真っ黒な悲しみだけは隠しきれていなかった。芳佳はそれが何であるかが
分からぬまま、ただ話を聞き入っていた。―――全てを過去形で話すことに、疑問を抱きながら。
そしてゲルトルートは全てを話す。祖国の陥落、この基地への所属変更、この基地での生活、エースと呼ばれるまで、そして―――――。
……感情が消えた、あの日のことも。
「冷たいと思われるのは仕方ないと思った。誰になんと言われようと、別にかまわなかった。生きている意味なんて分からなかったからな」
今は車の中に乗り込んで、もう基地への帰路についている。その車内でもゲルトルートは話すことをやめないで、芳佳も聞き入っていた。
思いのほか重かったゲルトルートの過去に芳佳は少々心を痛めながら、それでも必死で聞いていた。
最近調子を崩していたのは、芳佳と妹が重なって見えたから。妹にそっくりだった芳佳が視界に映ると、とたんに心が締め付けられるように
苦しくなってたまらない。……だが、美緒が自分を芳佳の訓練に当ててからは少しそれも変わってきた。日ごろから見ているからか、徐々に
その傾向もなくなってきて、その分たまにそれが出てしまうと大きく爆発してしまうようになる。そうして爆発した結果、今日こうして出かけるに
至った。
「……まあ、だからどうというわけでもないんだがな。ただ――――」
少し間を空けて、ゲルトルートは続ける。
「――今日は楽しかった。久しぶりに、笑えた気がする」
そう言うゲルトルートの表情は既にいつもどおりに戻ってしまっていたが、それでも街の中で芳佳に見せたあの顔は本物だった。芳佳は頷いて、
それきり二人は基地に着くまで何も言わなかった。それでも、互いに分かり合えたような気がしてよかった。
人気のない道を、一台の車が走り去る。無愛想な女子が一人と、その横で少しだけ微笑を見せる女の子と、二人を乗せて。日は徐々に下がり、
空は赤く染まりつつあった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それからはゲルトルートも芳佳に対してはミーナやエーリカと同じく、大分砕けて接触するようになった。基地の中で表情を見せることは
あまりないが、訓練の打ち合わせや入浴のタイミングなどで二人きりになる場面ではたまに笑ったり怒ったりもする。芳佳はそれが見れると
とても嬉しくて、ゲルトルートは少しずつ自分を取り戻しているような気になる。互いに一歩ずつ、それぞれの思う『前』へ進んでいく。
訓練のほうも順調だった。応用もかなり利くようになり、ハンディキャップをつければゲルトルートとの模擬戦も耐えられるようになりつつ
ある。確かにまだ『かなりの時間を耐えられる』程度であり、攻勢に回るなんて夢のまた夢とも言えた。だが、それでも攻撃を捌くだけでも生存率は
ぐっと高まる。生きていれば、可能性があることになら何でも挑戦が可能だ。戦闘中であっても、たった1%しかない可能性に賭けることもできる。
初めての出撃、つまり芳佳がブリタニアに来る途中で空母から出撃した際の空戦で芳佳の無茶ぶりは知れ渡った。あれだけ実戦で無茶ができるなら、
大抵のことはどうにでもなりそうな気がした。
そして今日は、二つの訓練ペア同士で模擬戦である。美緒・リネットペアと、ゲルトルート・芳佳ペア。それぞれ技術はかなり向上して、
リネットの狙撃も初実戦以降は鳥が飛ぶように凄まじい勢いで上達している。いかにそれを捌ききるか、それが今回の課題だろう。ちなみに今は
まだ武器も実際の武器を装備していて、機動訓練の最中である。ターゲットの後ろに十秒間つけたらその人の勝利として、どちらかのチームが
全滅したら終わり。それが終わったら武器を模擬戦用のペイント銃に交換して、いよいよ本格的な模擬戦となる。
「頑張りましょうね、バルクホルンさん」
「足を引っ張るなよ」
「はいっ!」
――ロンドンのあの日以来、芳佳はゲルトルートのことを階級ではなくさん付けで呼ぶようになった。ゲルトルートも特に気にしていないのか、
咎めることもなく流れに任せている。
やがて二つの編隊は徐々に距離をとっていき、ある程度距離が離れたところで反転動作。互いにすれ違う機動を取る。すれ違った瞬間から試合
開始、模擬空中機動戦が始まる。二つの編隊は見る見る距離が縮まり、そして――――!
重い風斬り音。計四つの質量は、手を軽く前に出せば届いてしまうほどの至近距離でありながら超高速ですれ違う。交戦開始、ゲルトルートの
指示で散開動作に入る! まず芳佳が狙うは美緒だ、ゲルトルートがリネットをさっさと撃墜判定にして帰ってくるまで時間を稼ぐ! 美緒と
真正面からすれ違い、インメルマンターンで高度を稼ぎながら旋回する。対して美緒はスプリットS、まったく正反対の位置につける。なぜ
わざわざ下手に出たのか分からず、芳佳は接近を躊躇った。思い切り美緒に対して降下しながら、実は少しだけ軸をずらす。美緒は降ってきた
芳佳に対してここぞとばかりに接近し、そして得意の左ひねりこみ動作を途中で中断することで後ろを取り返そうと―――読めた! タイミングを
読んで、芳佳は急減速動作に入る。刹那、美緒が驚いたような表情で真上を通り過ぎようとして、その瞬間に加速を開始。オーバーシュートに
成功し、そのまま真後ろにつけようと……しかしさすがに美緒、機動性の高さは一級品である。だがこちらも同じストライカー、負けてはいられない。
何とか美緒の後方に着け、カウントを開始しようとする。だが激しく上下左右に揺さぶられ、なかなか追随するのが大変だ。これではカウントも
できず、ついていくので精一杯である。
そうしていると、耳に聞きなれた音が唐突に飛び込んだ。
ウゥ―――――――――――――ン…… ウゥ―――――――――――――ン……
……緊急警報!
「敵襲ー―――!!」
「なっ!?」
「早い……!」
「敵かっ!」
それぞれ反応し、本物の銃器を持っていたことが幸いして直ちに編隊を組みなおし敵のいる空域へと急行する。後ろを振り返るとスクランブル
配置についていたウィッチたちが大急ぎで上がって、こちらに合流しようとしてきているところだった。やがて編隊が一通りまとまると、美緒の
指示で組み替えられる。美緒に芳佳がつき、リネットはミーナと組む。ゲルトルートはペリーヌとロッテを組んで前線を張る。美緒と芳佳は止めを
刺す役割を受け持ち、リネットとミーナで二つのフォワードを援護する。
――美緒が、目標視認を報じる。ターゲットは三発のエンジンをぐるぐると回転させながらこちらに向かってくる大型、今までに見たことのない
形式だ。回転形状から言って、ホバリングができそうな雰囲気である。厄介な相手だと舌打ちしつつ、ミーナの指示でついにゲルトルートと
ペリーヌのフォワードが突撃する!
ミーナとリネットは速度を落として後方支援、美緒と芳佳もゲルトルート達に続いて懐へと飛び込んでいく。回転するエンジンが邪魔になって
満足な攻撃もできないが、コアの位置が正確にわかっているのは美緒だけだ。その一帯を攻撃しつつ、ヒットアンドアウェイで敵の狙いを撹乱。
リネットの援護射撃もあって徐々に皮膜が破れていくが、しかし――――ミーナは確かに、異常を感じ取っていた。それはきっと美緒も同じだろう。
「バルクホルン、突っ込みすぎだ!」
「っ、!!」
一人だけ、突出して前に出て行くのがいる。二番機のことも省みず、ただ敵を撃墜することだけに囚われて。そのせいで周りがまったく見えて
いなくて、おかげで被弾しかかっては何とか防ぐを繰り返す人が多い。芳佳も例に漏れずゲルトルートを追うレーザーが流れて飛んできて、それを
防御してをもう二回も繰り返している。
何かがおかしい。ゲルトルートの中で、何が起こっているのか。――ミーナと芳佳には、それがなんとなく分かっていた。芳佳は美緒に一言
言って編隊をはずれ、ゲルトルートのサポートへ向かう。代わりにペリーヌと交代してもらって、ゲルトルートが攻撃を仕掛けようと懐へ飛び込んだ
ところへ急降下し――――攻撃が来る、防御!
「っ!!」
後方、味方のいない方向へと攻撃をいなす。しかし下方でゲルトルートの防いだレーザは全方位に広がって味方の進路を阻み、再びインカムから
美緒の怒号が飛ぶ。ゲルトルートはまるで聞こえていないようで、それどころか輪をかけてさらに突っ込んでいく。あまりに危ない、芳佳は停止を
促そうと近づいて……レーザーが、飛んでくる! それはゲルトルートに向けられたもので、気づいたゲルトルートは十分にひきつけてから上昇
機動でそれを回避した。―――だが、後ろが見えていないのが仇となった。
ゲルトルートと離れるタイミングをつかめずまだ美緒との合流を果たしていなかったペリーヌに、その攻撃がまっすぐ向かっていく。まずい、と
思った直後にペリーヌは何とかシールドを展開して攻撃をいなすことに成功する。ふうと一息ついて、しかし状況が最悪であることに気づいて
今度こそ声を張り上げようとした。
―――バルクホルンさん、危ない。
だが発しようとした声は、事が起こってしまってからではもう遅い。あいにく芳佳の思ったとおりの展開が、目の前で繰り広げられていた。
「きゃあっ!?」
「うあッ!!」
攻撃をシールドに受けた反動でペリーヌは変則的な方向へ後退し、そして自分しか見えていなかったゲルトルートはそれにすら気づかない。
……ペリーヌの後退した飛行軌道上に、ゲルトルートがすっぽり収まっていた。ペリーヌ自身はそれにも気づいていたようだが、咄嗟のことで
回避機動を取れなかった。背中から勢い良くゲルトルートに直撃して、二人はバランスを思い切り崩した。
―――無理だ。
芳佳は何かを悟ってそう思い、攻撃機動を中断してゲルトルートの『下方』へと急行した。
敵がレーザーを発射する。ターゲットはゲルトルート、当の本人は―――ぶつかった衝撃で、下を向いたまま攻撃に気づかない!
やっと顔を上げてそれに気づく。だが攻撃はもう目の前、シールドを張ってもほぼ無意味といえた。
ゲルトルートの顔から血の気が引いて、真っ青になる。なんとか体への直撃は防いだが、左手に握っていたMG42がシールドより向こうにあった。
MG42の前半分が攻撃の直撃を受けて溶けてなくなり、中の火薬に引火。――――――爆発した。
……破片がいくつも刺さって、胸部からはジャケットにまで浸透するほどの出血。この一瞬でそれだけの出血となれば、放っておけばきっと
滝のように流れ出す――――
「バルクホルンさんッ!!!!」
「大尉っ!?」
どこかでこんな結果が予想できていた芳佳は、出力全開のままゲルトルートへと急行する。ペリーヌも向かうが、手前から加速していた芳佳の
速度には圧倒的に敵わない。何とか墜落前に間に合った芳佳はそのまま抱えあげると、近くの森の中で降りられそうな場所へと降下。着陸した。
- - - - -
エンジンを停止させ、膝の裏にある部分の脱着式カバーを一時的に外す。そうすることで膝が曲がり、膝立ちができるようになる。
ゲルトルートの負傷は思った以上に深刻だった。一瞬でもレーザーが触れたか、皮膚には貫通こそしていないものの小さく穴が開いて血液が
駄々漏れ状態。加えて破片だらけの体で、今すぐ治療しなくては命の保障はない。現状で既に意識を失っていて、それこそ秒単位で状況は悪く
なっていく。芳佳は形振りなんてかまっている場合ではないと、急いで両手を翳して力を集中させた。少しずつ精神を集中させ、その結果強大な
魔力でゲルトルートは包まれる。一つのフィールドと化したその場は、そこにいるだけで癒される至高の空間。ペリーヌはそれに目を見張り
ながら、しかしここに向かって何発ものレーザーが落ちてくるのを発見する。間一髪防御に成功して、再び芳佳のほうを見やった。
……最近、少しずつなんとか制御できるようになりつつある回復魔法。しかしまだ使いこなせず、魔力の使用効率は50%にも満たなかった。
魔力を浪費ともいえるほどの勢いで消費していき、それでもゲルトルートは目を覚まさない。だが、こんなところであきらめてたまるものか。
芳佳は必死で、ゲルトルートの治療を続けた。いくつかの破片が、治療されて皮膚が再生されることで弾き出されてそこらに転がる。……頼むから、
こちらへ戻ってきてくれ。芳佳の想いが、ゲルトルートへと注がれていく――。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「クリス……?」
「もう、お姉ちゃんってば何やってるの?」
「……クリス、なのか?」
「そうだよ。私は私」
「……やっと、会えた」
「―――そんなに私に焦がれても、私も困っちゃうんだけどな」
「す、すまない。でも――
「私はまだ、お姉ちゃんにこっちに来て欲しくない。まだお姉ちゃんとは、会いたくなかったな」
「え……?」
「お姉ちゃんには、まだまだやるべきことがたくさんあるはずだよ」
「やるべき、こと……?」
「そう、やるべきこと。お姉ちゃんが、命を賭けて守らなきゃいけないものが、きっとあるはず」
「私には……そんな力は」
「……ミーナ中佐は?」
「あいつはあいつで自分を守れる」
「そんなことない。誰かのためじゃなきゃ、人は戦えないんだもん。お姉ちゃんのために、中佐は戦ってる」
「……私のため? そんなことが――」
「だって仲間じゃない。それにエーリカさんは?」
「あいつだって、自分で自分を
「それも違う。エーリカさんは、お姉ちゃんのこと、すっごく大事に思ってる。だから、お姉ちゃんと一緒に戦って、お姉ちゃんのこと
守ろうとしてる」
「……フラウがか?」
「うん。じゃあ加えて聞くけど―――――宮藤さんは?」
「!」
「宮藤さんも、自分で身は守れるだろうからって放っておくの? 自分が今まさに教えてる、大事な教え子なのに」
「あいつは……」
「――― 一人でも、自分を必要としてる人がいるんだったら。その人のために、戦わなきゃ」
「クリス……」
「私はもう、二度と死なない。だってもう死んじゃったから。でも、宮藤さんやみんなは違う、今も生きてる。だからお姉ちゃんは、まだ
こんなところに来ちゃ駄目」
「……」
「……私と良く似たあの人のこと、守ってあげて」
「でも……私は、あいつに
「お姉ちゃん、聞こえないの? ほら、耳を澄ましてごらんよ」
「……?」
―――ん…… ――――さん…… ――――して――さい……
―――バルクホルンさん、目を覚まして……お願い……!
―――約束したじゃないですかっ! 今度、私がソフトクリームおごってあげるんだって!
―――バルクホルンさんは約束を破るような人じゃないって、私信じてますから!
――――だからお願い……
―――目を覚まして……!
「―――全く、あいつという奴は……」
「それは私の台詞です、もう」
「……すまない、クリス」
「いいの。ほら、分かったらさっさと行く!」
「ああ、行ってくる。……また、数十年後に帰ってくるよ」
「笑って迎えられるように、ちゃんと人生を全うしてから帰ってきなよ? いいね?」
「分かっている。少しだけ、長い単身赴任をしてくるだけさ」
「……えへへ、やっぱりお姉ちゃんはそうじゃなくっちゃ。ちゃんと皆に謝るんだよ? 今まで悪かったって」
「心配するな、もう大丈夫だ。ちゃんと……ちゃんと、私は笑える」
「うん! それじゃあ――――
行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
―――ああ。行ってきます。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……!」
意識が何度途絶えそうになったか。芳佳はなかなかゲルトルートが目を覚まさないので少しずつ心配になって、それでも諦めずに魔法をかけ
続ける。体力はもう限界、魔力も底が見えている。だが、諦めたらそこで試合終了だ。こんなところで諦めるわけには行かない。芳佳はひたすら、
力の限りゲルトルートに魔力を注ぎ込み―――そして。
「バルクホルンさんっ!」
「……みや、ふじ……」
うっすらと目を開けて、今の状況を理解するゲルトルート。少しずつ意識がはっきりしてきたようで、何度かの瞬きの後に目はしっかりと
見開かれた。芳佳は肩の力が抜けそうで、しかしまだ治療が済んでいない。意識も戻ったし大分傷も癒えたのだが、まだ安心はできない。そうして
治療をしていると、いきなりその左手に手が添えられて驚く。―――驚いてしまって、魔法が途絶える。その瞬間どっと疲れが押し寄せて、
倒れないように何とかバランスを保つ。
「もういいんだ、宮藤。ありがとう」
「で、でもまだ―――
「この程度の傷、なんてこと……ないッ!」
ゲルトルートは勢い良く上半身を起こした。胸部の傷はまだ塞ぎきっておらず、血がたらたらと小さいながらも一筋垂れ落ちている。だが
この程度の負傷ならばお前も飛ぶだろうとゲルトルートに言われて、芳佳も黙り込んでしまう。何かを守るためになら多少の傷は問題ない、
それは芳佳もゲルトルートも同じだった。だから芳佳はそれ以上何も言わず、体力も限界だったので一旦これで中断することにする。
―――ゲルトルートのFw190D-6が、再び火を噴く。プロペラが回転を始めて、そして芳佳の助けを受けて直立。芳佳も自らの得物を手に
立つと、ペリーヌに感謝の意を述べてから飛び立った。
「なあ、宮藤」
「なんでしょう?」
「――― 一緒に、戦ってくれるか?」
微笑しながらそう言うゲルトルートは、芳佳に右手を差し出してきた。一瞬何のことか分からず、しかし―――意図をつかんで、芳佳は
満面の笑みを浮かべて頷く。その右手を取って、二人手をつないで空へと舞い上がる。ペリーヌはその様子に心底驚いているようで、今まで
見たこともないであろうゲルトルートに驚嘆していた。……だが、芳佳は知っている。ゲルトルートが優しく笑えることも、困っている人が
いると助けたくなることも、恥ずかしいときは突拍子もないことをすることも、自分を着飾ることに興味があることも。そして何より―――、
仲間を大事に想っていることも。
三人が地上にいる間に、空は少し進展があった。ネウロイは予想通りホバリング動作に入って地上に対して幾度となく『爆撃』を仕掛けて
いたが、ペリーヌの強固なシールドの前についにそれが効果を表すことはなかった。そしてそうしている間にリネットと美緒によってコアが
露出され、コアを守るようなレーザーの嵐に苦戦している。
……こんなときにこそ、高速での一撃離脱である。
「宮藤、合わせられるか!」
「余裕です!」
「よく言った、行くぞ!」
ゲルトルートは左脇に抱えたもう一丁のMG42を前方に構え、コアに向ける。芳佳も同様に九九式を前方へと向けて構え、そして二人同時に
ストライカーの出力を最大限まで叩き込む!!
上昇しながらも、体はぐんぐんと加速していく。まるで何かに引っ張られているかのように、何かに押されているかのように、どんどん
前へ前へと進んでいく。―――人はいつでも立ち止まってはいない、前に進んでいる。それを表すかのように、二人は止まることを知らず
まっすぐ敵へと突っ込んでいく!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「はあああああああああああああああああ!!」
二人の雄たけびが響いて、そして何とかレーザーの隙間からコアに攻撃しようとしていた美緒とミーナの間を高速ですり抜けていく。
あまりの速さに対応し切れなかったネウロイは二人にレーザーを掠らせることすらできず、そして二人はその隙を逃すことなくトリガーを
限界まで思い切り引く!
まるで銃を破壊するかのごとくトリガーを握り締めて、そこから放たれた銃弾はコアを何度も何度もたたいて粉々に砕いていき、それでも
飽き足らず少しずつ白く染まって崩壊を始めるネウロイに更なる追撃を加えていく。
――――二人は衝突を避けて、機動を上空へと捻じ曲げる。刹那、ネウロイは真っ白な破片となって爆発して散った。大空から舞い散る
白い欠片たち、その中でゲルトルートと芳佳は手を取り合って空に浮かんでいた。気づけばホバリングしていて、それからゲルトルートは
振り返って残りの四人に向き直った。
「……迷惑をかけた。すまなかったな」
深々と頭を下げる。むすっとした表情でいかにも怒ってますオーラを放出していたミーナは、そんなゲルトルートを見て思わず苦笑を浮かべて
しまう。先手を打たれてしまってはどうしようもない。はいはい、と呆れ気味の返事がして、ゲルトルートは顔を上げた。
穏やかな笑みを浮かべるゲルトルートを見て、ペリーヌとリネットは驚愕しているようだった。
「ようやく『トゥルーデ』が戻ってきたわね」
「帰ってくるのにどれだけかかっているんだ、お前は」
「本当にすまない、でももう大丈夫だ」
――― 一行はそのまま編隊を組んで帰投する。空戦の後でありながら、その空気はとても穏やかだった。
- - - - -
帰還後、ゲルトルートは再び芳佳の手で治療される。胸の傷はまだ残ったままで相変わらず出血していたので、五分ほどかけて治す。それで
芳佳も体力を使い果たして、仰向けになって倒れこんだ。ゲルトルートにも仰向けになってもらっていたので、二人は並んで空を見上げる形に
なる。それは今までのゲルトルートには想像できない様子で、しかし『自分』を取り戻した今のゲルトルートであれば自然なことだった。
「……お前にも、迷惑をかけてしまったな。すまなかった」
「いいんです。ちゃんと戻ってきてくれましたから」
「まさかこんな場面でああなるとは想わなかったんだがな……感情の制御が利かないのは、やはり危ない」
ゲルトルートが、苦笑気味に言う。芳佳も苦笑して、赤く染まる空をぼうっと眺める。
「お前にはどんな礼を言っても足りない気がするんだ」
「え?」
「お前のお陰で、私は私というものを取り戻せた。お前がいなかったらいつまでもあのままだった」
「そんな、私なんて――
「いや、これは間違いない事実だ。だから……月並みな表現で悪いが、本当に感謝している。ありがとう」
ゲルトルートに礼を言われるというのは、なんだか少しくすぐったい。芳佳は微笑しながら、返事としてゲルトルートの手をそっと握った。
少し驚いた表情をしたゲルトルートだったが、すぐに笑みに変わる。地面がコンクリートなのが少々残念なところだが、別に草原でなくとも
思いを通じ合わせるには十分だった。
「……今度、またロンドンに行こう」
「はい、是非! そのときは―――
「分かっているさ。ご馳走になるよ」
「……はいっ!」
それからしばらく、二人はエプロンに寝転んだまま談笑を続けていた。暗くなって、夕食が出来上がるまで、ずっと、ずっと。
―――その後二人は姉妹のように仲良くするようになって、ゲルトルートも隊員たちと打ち解けあった。
月に一回、二人は揃って休暇を申請する。その日はいつも、キューベルワーゲンが一台なくなっているのだった。
最初に二人揃って休暇を出したとき、美緒とミーナは言い合った。『またデートか』。一度ロンドンに行ったことから、今回もロンドンに
行くんだろうと推測がつく。当然その日二人が向かった先はロンドンだ。
――――『一事が万事』、とはこのことである――。
fin.