学園ウィッチーズ 第24話「きざし」
余計なお世話はもうやめないとな――
ベッドの上のシャーリーは寝返りを打って、ミーナ宛の封筒を眺めため息をついた。
「なのになんで持ち込んじゃうかな……」
封はあけていないにしても、ものがものなだけにミーナは間違いなく怪訝な表情を向けるだろう。
カタログと混じっていたみたいだと言い訳を取り繕ったところで、彼女の前ではその言葉はすべて見え透いたものでしかなくなるはずだ。
何度となくシミュレーションしても、ミーナの笑顔もしくは混じりけなしの「あら、ありがとう。シャーリーさん」にはたどり着けそうにない。
そういえば、いつだか話したっけ。
シャーリーはふと思い出す。
とある日曜の午後。
皆が皆自分の用事で寮を空けていて、ルッキーニもリーネや芳佳にくっついてどこかへ行ってしまっていた。
午前中にバイクをいじり倒したシャーリーはリビングのソファに寝転がっている。
柔らかなソファの感触を背中で味わい、ぼんやりと天井を見つめ返した。
わずかに空腹を感じているが、立ち上がる気にもなれず、そのままそっと目を閉じてまどろみに身を任せる。
ほんの一瞬なのか、それ以上経ったのかは定かではなかった。
シャーリーは次第に鮮明になるピアノの音にいつの間にか閉じていた目を開き、ソファの背もたれに手をかけ起き上がった。
視界に赤毛が飛び込む。
羽織った薄手のガウンが、華奢な肩の線をひときわ目立たせていた。
しばらくの間、奏でられる音色に聞き入って、ふと音が止んで演奏が終わったことに気がつき、手を叩いた。
その拍手にミーナがひどく驚きながら、振り返る。
「シャーリーさん? いたの……」
「みんなどっか行って、かまってくれる相手もいなくてさ。そんなことより、演奏も出来たんだな」
「簡単なものだけよ」と照れくささを隠しきれない表情を浮かばせ、ミーナはまたピアノに向き直った。
シャーリーは目をしばたたかせ、ひょいと立ち上がるとミーナの隣に立ち、鍵盤を人差し指で押して、離す。
「なんで、オストマルク行かなかったの?」と、シャーリーは頭に浮かんだ言葉をすぐさま口に出す。
明確な沈黙に気がついて、シャーリーはミーナに視線を落とす。
考え込んでいるようなミーナの横顔が目に映ったかと思うと、次の瞬間にはシャーリーを見上げた。
「……ここを卒業してからでも遅くはないから」
笑顔――のはずなのにシャーリーはそれを素直に受け止められなかった。
ミーナの笑顔は二種類ある。
本当の笑顔と、本心を隠すための笑顔。
それほど親密な仲ではないとは言え、シャーリーは自分の目の前にある笑顔は後者だと確信する。
が、それを咎めることは直感的に避けざるを得ず、薄笑いを差し向けるに留まった。
あの時はミーナの真意が図りかねたが、今はよくわかる。
ミーナはバルクホルンのために夢を捨てたんだ、と。
捨てたということが飛躍だったとしても、少なからず犠牲にはしている。
それがたとえミーナの選択であったとしても――
シャーリーはにわかに沸きあがる苛立ちを抑え切れなくなったのか、起き上がるが、はっとして肩の力を抜く。
「中身もわからないのに、何勝手にいらついてるんだろうな……私」
そう言いながらぼふっという音を立てまた枕に頭を沈ませる。
持ち込んでしまったこの手紙を出来る限り摩擦なくミーナに渡すにはどうすればいいか。
幸い、彼女はまだ帰っていない。
こっそりミーナの部屋のドアの下から差し込むべきか。
そうさ、わざわざ手渡さなくても、カタログに紛れ込んでたから入れておいたとあとで言ってのければ――
シャーリーはまたまた起き上がってドアに向かって駆け出した。
しかし、勢いよくドアが開き、後退せざるを得なくなる。
「シャーリー、晩御飯持ってきたよー!」
スープから漂う湯気がルッキーニのはつらつとした笑顔にほんの少しのやわらかさを加えていた。
シャーリーはそのまま後ろ歩きをしてベッドに座り、枕の下に手紙を隠す。
「あ、ありがとな……ルッキーニ」
「坂本教官もミーナもまだ帰ってこないからここで一緒に食べよ!」
ルッキーニはそう言いながらシャーリーのそばに盆を置いて自分もベッドに腰掛け、さっそくパンをちぎって食べ始めた。
シャーリーはその様子に頬を緩ませかけるが、ぶるりと頭を振って、眉を吊り上げてみせる。
「ルッキーニ、飯を持ってきてくれたのは嬉しいけど、教官や先輩がそのうち帰ってくる。さっそく私やハルトマンの様子を見に来るだろうから、いつもどおり食堂で宮藤たちと食べたほうがいい」
「えー? だって今じゃないとお話できないよ……」
ルッキーニの言うとおりで、一応は自室禁固の身のシャーリーである。
トイレ、風呂で会える機会はあるとはいえ、基本、他の寮生との会話も法度なのだ。
だが、今は――
「……話ってのは、重要なものなのか?」
「そんなんじゃないけど……」
食べかけのパンをそっと盆に戻し、ルッキーニはシャーリーの視線から逃れるように両足をぶらぶらさせながら、床に目を落とした。
「重要な話じゃないと、話しかけちゃだめなの?」
「そうは言ってないだろ? ほんの少しの辛抱じゃないか……」
さきほどまで頭をもたげていたミーナの件もあってか、シャーリーはつい状況を忘れて息を吐いてしまう。
シャーリーのその態度に、ルッキーニは部屋に来るまでにあたためていたはずの高揚感が一気にしぼみ、普段の彼女からは見られないほどのゆっくりとした動作で立ち上がる。
その動作にシャーリーは今しがたの行動がルッキーニにとっては大きな誤解と傷を招いたことに気がつくが、手を伸ばしたときにはルッキーニはすでにドアのところへと立っていた。
ドアノブを握りながら、ルッキーニが顔を上げた。
「わがまま言って、ごめんね……」
目尻に浮かぶ涙。
「ルッキーニ!」
という叫びとともにドアは静かに、しかし重い空気を部屋に目いっぱい残して閉まった。
寮の敷地に車を停めたミーナはキーを抜いて降りる。
ふと顔を上げると、醇子たちの居る寮のほうからぼんやりとした黒い影が近づいてくるのが見えた。
影のほうもミーナの存在に気づいたのか、声が響く。
「ミーナ、今帰りか」
「ええ。美緒……車だけど、もう少し借りていいかしら」
「かまわないが……」
訝る坂本にはっとして、ミーナは慌てて付け加えた。
「トゥルーデが予定より早く退院することになったから、迎えに行こうと思って」
「そうか。それは良かった。ところであいつの妹は?」
「治療が良かったのね。ひどい衰弱はしていなかったわ」
「その割には、浮かない顔をしているな」
核心をつかれ、ミーナは気がつけばうつむかせていた顔を上げた。
自分がどんな顔をしているかも判断がつかなくて、坂本のほうに顔を向けることは到底出来ずに、目前に迫った玄関に少し早足で近づいてドアを開けた。
「そんなことないわよ。私……、シャーリーさんとフラウの様子を見てくるわ」
ほんの一瞬だけ、坂本にぎこちない笑顔を向けそう言い放つと、ミーナは言葉どおり、まずはエーリカの部屋へ向かった。
エーリカは夢を見る。
まだ戦時中でウルスラとともにカールスラント国境付近の同じ兵舎で寝食をともにしていた頃のこと。
そうは言っても、実力も階級も違ったため、二人が顔を合わせるのは週に数回あればいいほうだった。
戦況は良好とは言えなかったが、空を飛び戦闘をしていることを除いては、ウルスラは戦争が始まる前と変わりなく、見かけたときには一晩では読みきることはできなさそうな厚めの本を胸に抱いていた。
名前を呼びかけ、振り向いたウルスラの顔はいつもの無表情で。
けれども、置かれた状況に対し、不服そうにも見えなかったし、寂しさも特に感じ取れなかった。
少なくとも、エーリカはそう記憶していた。
ある日、エーリカはウルスラを自室に招いた。
招いたというよりも、エーリカは頭で考えるより先に、廊下ですれ違ったウルスラを、声をかける代わりに追いかけ、手を握り締めていた。
自室に向かう間、ウルスラの視線を背に感じながら、エーリカはぼんやりとした頭の中で今日の戦闘を思い出し、唇を噛み締めた。
部屋に入り、エーリカはウルスラから手を離すと振り返った。
けれども、話そうとしていたはずの話題が口から出てこず、苦し紛れに本題から離れた質問を次々と繰り出した。
「他の皆と馴染めている?」
「部屋は寒くない?」
「食事に不満は?」
「最近、どんな本読んでるの?」
矢継ぎ早に放たれる言葉に、ウルスラは相槌を打たず、じっと眼鏡の下から強めの視線で見つめ返していた。
エーリカはどきりとし、つばを飲み込みかけたそのとき、ウルスラの唇がそっと震えるように上下した。
――今日、なにかあったの
その言葉に、エーリカの頭の中で燃える祖国の街が、妹を呼ぶゲルトルートの悲痛な叫びが、その彼女の様子に目をそむけそうになりながらも落ち着かせようとするミーナの表情が、フラッシュバックする。
エーリカは視界がぼやけていることに気がつく。
涙。
しかし、浮かんだ涙を見られまいと前に一歩踏み出し、目の前の妹を強く抱きしめた。
どすんと、ウルスラが持っていた本が床に落ちる。
エーリカは嗚咽する声を漏らすまいとぐっと歯を噛み締める。
しばらくして、背中に指先が触れたかと思うと、ウルスラが同じぐらいの強さで抱きしめ返してきた。
エーリカはようやく冷静になれる道筋を見つけたかのように、ふっと肩の力を抜いて、つぶやいた。
「トゥルーデの妹がさ……。今日陥落した街にいたんだ。病院に搬送されたってことまではわかったんだけど、まだどの病院かわからなくて。で、トゥルーデは今ミーナと色んな病院探し回ってるんだ」
言い切って、エーリカはそっと息を吸うと、ウルスラが体を離して、首をかしげた。
――一緒に行かないの?
その言葉がずっしりとエーリカの胸を握り、揺さぶる。
確かにそうだ。
同僚で上官でかけがえのない友人であるゲルトルートの妹の非常時に、自分は基地に戻って妹の胸にすがっている。
その状況が冷徹にエーリカの身にしみ始め、思わずつぶやかせた。
「そうだね。冷たいね、私」
何か言いかけたウルスラの頬にエーリカはすかさず手を伸ばした。
「けど、比べちゃいけないんだろうけど、私にとってはウーシュがすべてだから」
その言葉に嘘はない。
物心ついた頃から今の今まで決して変わることのなかった想い。
絶対に失いたくはないというその気持ちが、自然、エーリカの瞳に強さを与える。
が、ウルスラは息を詰まらせたような表情を見せ、一歩下がった。
友人を見捨てるような真似をして、かつ、妹がすべてだと言う自分に驚愕してしまったのかもしれない。
エーリカは強い落胆を示すかのように、眉間に皺を寄せ視線を床に落とした。
ウルスラにとっては些細な行動だったかもしれなかったが、エーリカはひどく傷ついている自分に呆れさえ覚える。
しかし、何とか気を取り直し、ほんの少し頭を傾けながら、ウルスラに上目遣いを寄越した。
「ねえ、ウーシュ」
優しい口調になるよう努めたつもりだったが、ウルスラの表情は硬かった。
エーリカも同調するように表情が硬化しかけ、今まさに提案しようとしている事柄でウルスラに反感をもたれるのではないかという懸念に気をそがれながらも、彼女を失いたくないという気持ちで弾みをつけ、口を開いた。
「軍を辞めて、父様と母様のところへ行く気はない? 私、不安なんだよ。ウーシュが……撃墜されないかって。だって、ウーシュは…」
エーリカは静かに目を開き、カーテンの隙間から覗く月明かりを目で追うように見上げた。
もう少し、他の言い方もあったかもしれない。
けれども、あの時のエーリカは言葉を取り繕う余裕もなかったし、そもそも上層部にでさえ、ミーナやトゥルーデが驚くほどの物言いで意見するような性格の自分にあれ以外の言い方はできなかった。
ただ、ウルスラを戦争から遠ざけたかった。
あの時、ウルスラは自分の空戦能力の低さを暗に指摘したエーリカの言葉を聞いて、怒りを覚えているのか頬を紅潮させながら、うつむいていた。
エーリカは黙って返事を待っていたが、ウルスラは耐え切れなくなったように床に落ちた本を拾い上げ抱きしめると部屋を出て行ってしまった。
翌朝、ろくに寝付けなかったためか腫れぼったくなったまぶたをなんとか押し上げながら、自室のドアのところで背筋を伸ばして立つウルスラの言葉に、思わず歯をかたつかせた。
伝えるだけ伝えて踵を返すウルスラを追いかけることすら、できなかった。
ウルスラはスオムスという、エーリカが容易にかけつけることはできない、新たな戦場へ向かった。
もう二度とあんな思いは味わいたくない。
あのときに体中に感じた蟻走感を思い出して、つい身震いをし、エーリカはまたきつく目をつぶった。
「フラウ、入るわよ」
エーリカの部屋の前で一言断わったのち、ミーナはドアを押し開けた。
薄暗い部屋の中、床に散乱してあるものに蹴躓かないよう進むが、違和感に気がついてスタンドに近づき、明かりをつけた。
ミーナは目を見張る。
床には物などひとつもなく、机は綺麗に整頓され、いつも開け放されているクローゼットは締められている。
そしてベッドの上には背を向けた状態でエーリカが横になっていた。
ゲルトルートがいるならば驚くべき光景ではないのだが、彼女は入院中だ。
ということは年数日しかこの状態になりえるはずのない部屋を片付けたのは目の前にいるエーリカだけということになる。
いくら自室禁錮中とはいえ――
ミーナはつい息を呑み、恐る恐るといった様子でベッドに近づいて、膝をついた。
ぐるりとエーリカが体ごと振り向いたため、のけぞりそうになる。
「ちょっとフラウ! 起きていたなら最初から…」
動揺するミーナを他所に、眠そうな目をしながら、エーリカはぼそりとつぶやいた。
「……なにか用?」
その態度に思わずミーナはむっとしかけるが、小さく咳払いをして、じっとエーリカを見つめ返した。
「反省文は書いた?」
エーリカはミーナの視線のせいなのか、少しばかりやりにくそうな顔を見せたかと思うと、ん、とだけ言って机のほうに軽く顎をしゃくった。
ミーナは立ち上がり埋め尽くされた用紙にまた驚きつつ、また背を向けているエーリカに視線を送った。
「……部屋、片付けたのね」
「やることなかったし」
「ねえ、なにか悩みでも…」
「ミーナはさ」
「……なに?」
「トゥルーデをほっておけなくて、学園を選んだんだよね?」
しばし、思いをめぐらせるように幾分かの間を置いてミーナはうなづいた。
「ええ」
エーリカは起き上がり胡坐をかいてミーナを見上げる。
形勢が逆転したかのように、今度はミーナがエーリカの視線から逃げるよう顔を背けた。
「彼女は幼馴染だし、クリスも入院してしまった。自暴自棄になって何をするか……。とても一人にはしておけなかったわ。だから……」
「私って信用なかったんだなあ……」
エーリカはふと小さく息を吐くように笑う。
ミーナは首を振った。
「それは違うわ……。違う……」
エーリカの目がしめたと言わんばかりに一瞬輝いて、今度はいたずらぽく微笑んだ。
「ほっておけないっていうか、トゥルーデが好きだから……だよね」
火がついたようにミーナの頬が髪の色と見間違うぐらいに染まる。
エーリカはくつくつと笑ったが、何かが頭をよぎったのか、さっと表情が曇った。
「私も、同じ気持ちでこっちに来た……はずだったんだけどね」
まさか、という顔をするミーナにエーリカは彼女の思考を読み取ったかのように、否定の意を込めて手をひらひら振った。
「あ、トゥルーデじゃないよ。それならそれで、楽だったかもしんないけどさ」
話が見えないミーナは眉間に皺を寄せるが、エーリカが腕を引っ張ったため、そのまま彼女に覆いかぶさるようにして倒れる。
ミーナの背中にエーリカの手が回る。
「もし、危なっかしく見えてるんなら、心配させてるんなら……ごめんね。けど、今はまだ話せないし、これからも話せるかわからないんだ」
「フラウ……」
「ミーナはさ。怖がることなんてないんだよ。トゥルーデは、もうミーナを悲しませるようなことや選択はしないと思う」
ミーナはその言葉にシーツをきつく握り締める。
しばらくして、その手を緩め体を起こし、エーリカを見下ろしながら、彼女の滑らかな頭頂をなでる。
エーリカはミーナの微笑む口元を眺めながら、今の自分の言葉に対する返答を待つ。
ところが、ミーナはそのまま起き上がるとドアのほうへ進み出した。
「食事はとったの?」
「え? いや、まだだけど…」
「じゃあ、あとで持ってくるわね」
やけに落ち着いた口調のミーナに、エーリカはどことなく暗い何かを感じ取り、眉尻を下げるが口を開きかけたその時にはドアが閉まっていた。
「ミーナ……」
食堂にたどり着いた坂本は、てっきり無人かと思っていたのに、エイラ、ペリーヌ、リーネ、芳佳の四人がいたため、きょとんとした顔で一同を眺めた。
四人で同じテーブルを囲んでいるのに、聞こえてくるのはスプーンやフォークが食器にぶつかる小さな音ぐらいで。
「なんだ……。今夜は随分とおとなしいんだな」
その言葉に四人は顔を上げて、ペリーヌは立ち上がった。
「お、おかえりなさいませ……」
「ああ、ただいま」坂本はほのかな笑顔で応えて、自分の盆に食事を置き始め、何かを思い出したかのように振り返った。「そういえば、サーニャは?」
ペリーヌはそのまますくっていたスープを口に含み、エイラは食事の手を止めて、リーネは少し大げさに顔を上げ、芳佳は微笑んだ。
「今は寝ているみたいなんで、晩御飯はあとに…」
「……そうか」と、サーニャが仮病で休んでいることを容認している坂本は、その事情を知らない芳佳に少し申し訳ない気持ちになりながら、ごく当たり前のように、ペリーヌの隣に座り食べ始める。
ペリーヌは大きく胸の鼓動をはね上げながらも、その状況に幸せを覚えた。
ミーナがシャーリーの部屋のドアを叩こうと拳を振りかぶった瞬間、ドアが開いてシャーリーが姿を現し、お互いに丸い目をして顔を見合わせた。
ミーナは眉間に皺を寄せた。
「自室禁固中でしょう?」
「……トイレだよ。やむをえない理由ってやつさ」
「なら、ついていくわ」
「おいおい、そこまでしなくても…」
まったくもってついていない。
考えに考えた末、ルッキーニにすぐに謝ろうと部屋を抜けようとした矢先、現時点でもっとも会いたくなかったミーナが目の前にいて、かつどう見ても機嫌がよさそうではない。
置かれた状況に、シャーリーはリベリアン特有のオーバーリアクションでもかましたい投げやりな気分にまで差し掛かったが、ぐっと押し留める。
実際、トレイに行きたくもあった。
シャーリーは肩から力を抜いて、羽織っていたジャージのジッパーを顎の下まで引き上げた。
「わかったよ、従う……」
そう言いながらシャーリーは長い足を少し大きく広げ廊下を進む。
気のせいか、背中が重かった。
ミーナの視線が絶え間なく注がれている、そんな気がしたが、振り返る勇気も度胸も――なにより気力がなかった。
途中、ルッキーニの部屋の前に差し掛かり、歩幅を緩め、こっそりと魔力を高め、聞き耳を立ててみるが、ルッキーニの泣き声ひとつ聞こえない。
部屋にいないのかあるいは――
「ここで待っているわ」
ミーナの声に思考が中断して、シャーリーは顔を上げた。
銀色のプレートにトイレと書かれたドア。
シャーリーは諦めたようにドアを押し開け、個室に入ってズボンを下ろした。
用を足したらまた廊下でミーナと二人きりだ。
この様子だと部屋にも訪れるかもしれない――というか十中八九そうだろう。
くそ、なんだってこんなに。
頭を掠めるミーナの視線がシャーリーを惑わせる。
ミーナ自身の道に口を出す権利なんてこれっぽちもないのに。
――ここを卒業してからでも遅くはないから
その言葉とミーナの繕った笑顔がよぎり、シャーリーは頬を固くすると、静かに立ち上がってミーナの元へ向かった。
「私の部屋に来ないか?」
二階に到達しようとしていたウルスラの足が止まり、声の主のほうを見下ろした。
踊り場に立ったビューリングは視線をそらし、つぶやいた。「気が乗らないなら、別に強要はしないが」
とんとんとカーペット張りの階段が音を立て、ビューリングが顔を上げたそのとき、手すりに置いた手にウルスラの手が重なって、彼女を引っ張った。
途中、浴場へ向かおうと部屋を出たチュインニとすれ違って、すっかり仲良しねという冷やかしを含んだ言葉に二人して頬をほんのり染めながら、ビューリングの部屋に入り、ドアを背にする。
ウルスラは本を胸に抱きながらベッドの進んで、掛け布団をめくりあげ、つぶやいた。
「おろしたて」
まるで下心でもあるみたいな誤解だけは避けたかったビューリングはドアから背を離して、ウルスラに近づいた。
「……たまたまさ。それにお前はにおいに敏感だからな」
「おろしたての寝具って、冷たい」
「二人で眠るんだからすぐ暖かくなる」
「そうじゃなくて…」
ウルスラが言いかける言葉に眉をしかめながら、ビューリングは一足先にベッドの端に腰掛けて、ベッドのそばにあるスタンドを点けた。「そうじゃなくて、なんだ?」
またエーリカがらみか?
うっかり付け足しそうになった言葉を唇を引き締めることで押し返して、ビューリングはウルスラの眼鏡を慎重に外した。
ウルスラは抵抗こそしなかったが、本を持つ手の指先に力が入った。「眠る前にまだ読みたいページが…」
「たまには早寝もいいものだぞ」
さきほどまで否定していたはずの「下心」がビューリングの中でそっと燃え始める。
ウルスラの本心にはうすうす感づいているはずなのに、気がつけば、彼女の頬に手を置いていた。
昼間とは逆の立場。
今度はビューリングがウルスラの頬に口付け、離して、彼女の瞳を覗き込み、視線を唇に合わせ、うなじに指を滑らせた。
びくりと大きくウルスラの肩が揺れて、そのまま薄い胸をビューリングの肩の辺りに押し付けるように抱きしめる。
ビューリングはつい遠い目をしてしまうが、しがみついてくるような形になっているウルスラの背中をさすり、そのままベッドに倒れこんだ。
ウルスラはビューリングに背を向けたまま、後ろからまわった彼女の手を抱く。
「……ごめん」
「何を謝る必要がある」そう言いながらもどこか複雑なものを抱えつつ、ウルスラの柔らかい髪をぐしゃとなでつけ、こめかみのあたりにキスをし、明かりを消した。「おやすみ」
ウルスラは夢を見る。
まだ戦時中でエーリカとともにカールスラント国境付近の同じ兵舎で寝食をともにしていた頃のこと。
そうは言っても、実力も階級も違ったため、二人が顔を合わせるのは週に数回あればいいほうだった。
戦況は良好とは言えず、ウルスラも不安を覚え始めてはいたが、それを表に出す気はさらさらなかった。
しかし、時たますれ違っては欠かさず声をかけてくれるエーリカの見せる笑顔は、瞳に浮かぶ焦燥に負けつつあった。
少なくとも、ウルスラはそう記憶していた。
ある日、ウルスラはエーリカの私室に招かれた。
と言うよりも、夕食を終え、廊下を歩くウルスラの手をエーリカが握り締め、そのまま連れて行ったというのが正しいのかもしれない。
彼女の部屋に向かう間、一言も漏らそうとしないエーリカの革ジャケットで包まれた小さな背中を、ウルスラはじっと見つめていた。
部屋に入った途端、打って変わってエーリカは饒舌になった。
しかし、話す事と言えば、ウルスラに対する質問ばかりだ。
他の皆と馴染めているか、部屋は寒くないか、食事に不満はないか、最近はどんな本を読んでいるか――
徹底的に戦闘の話題を除外してまくしたてるエーリカにウルスラはたった一言だけ、差し向けた。「今日、なにかあったの?」
またひとつ、祖国の街が陥落したことは知っていた。
ウルスラの眼鏡の下の瞳とまったく同じエーリカの瞳が動揺に震えたかと思うと、ウルスラはエーリカの腕に強く痛いぐらいに抱きしめられていた。
足元で手から逃れた本が床を打つ。
ウルスラは初めて見たと言ってもおかしくはないぐらいの、姉の様子に目をしばたたかせながらも、相手の背中に手を這わせ、最後には同じように力強く抱きしめ返した。
トゥルーデの妹がさ――
エーリカの口からよく聞かされる、彼女の上官の名前にはっとしながら、ウルスラは黙って話を聞き込む。
一般人が戦火の巻き添えになったことも、ウルスラはもちろん認識はしていたが、比較的近い人物の家族が巻き込まれたと言う事実に、力を落とした。
で、トゥルーデは今ミーナと色んな病院探し回ってるんだ――
そこまで言って一呼吸ついたエーリカから少しだけ体を離して、ウルスラはわずかに首をかしげた。「一緒に行かないの?」
エーリカはそっと顎を引いて、どことなく自嘲気味につぶやいた。
そうだね。冷たいね、私――
「そんなつもりじゃ」と言いかけたウルスラの片方の頬に手が添えられる。
けど、比べちゃいけないんだろうけど、私にとってはウーシュがすべてだから――
その言葉に、遠くに思えていたはずのエーリカの瞳がすぐ目の前にあることに気がついて、ウルスラは息を呑んだ。
胸の奥が痛むぐらい早まる鼓動に自分自身で驚いて、そして、相手に悟られまいとして、後ろに一歩下がる。
エーリカはウルスラの真意を量りかねているのか、宙に浮いた手をしばし漂わせると、困ったように眉を歪ませうつむいた。
ねえ、ウーシュ――
と、エーリカはほんの少し傾けた顔でちらちらとやりにくそうにウルスラに視線を投げた。
ウルスラはそのたびに高鳴る鼓動に抗うよう、奥歯を噛み締める。
エーリカはその様子に考えた言葉を飲み込むような怖気づいた顔つきになるが、覚悟したように厳つい表情を見せ、口を開いた。
ウルスラは目を覚まし、背後で寝息を立てるビューリングに振り返って、顔に触れようと手を伸ばしかけやめる。
ころりと体をベッドの中で回転させ、床に静かに滑り落ちると立ち上がり、本を掴んで部屋を出て階下へ向かう。
時間が時間なだけに、リビングには誰もおらず、ウルスラはリビング中央に据えられているソファのそばにある小さなスタンドにだけ明かりを灯した。
ソファに体を沈ませ、膝の上で本を広げる。
部屋の冷気に、背中がぞっとする。
夏が近いとはいえ、気温は冷涼で寝巻き一枚では少し寒かった。
けれども、とにかく気を紛らわしたくて、ウルスラはスタンドの明かりで本を照らし、字を目で追った。
だが、頭には一向に入ってこない。
本をソファにおいて、添い寝するように体をソファに預ける。
エーリカに軍を辞めるよう提案されたことや暗に能力の低さを指摘されたことについて、小さなものでも怒りを覚えなかったかといわれれば嘘になる。
しかし、ウルスラは怒りよりも恐怖を感じていた。
自分自身に――自分の中にあるエーリカへの感情が家族へ向けるそれとは異質なものであることへの確信に慄いていた。
大切な家族だから、姉妹だから――
一緒にエーリカと空へ臨んだのだと、そう思っていた。
ところが、それは間違いだった。
その時々で自分のエーリカへ向ける視線に疑問を覚えることもあったが、そのたびに湧き上がりそうになっている感情を無視していた。
しかし――あの日、あの時、エーリカを一人の人間として愛していることに気がついてしまった。
これは摘まなければいけない想いなのだ、とウルスラは一晩で結論付けた。
だからこそ、早朝に上官から持ちかけられたスオムス行きの話を断る理由なんてひとつもなかった。
過去の思い出を断ち切るように本を閉じたウルスラはそれをそのまま抱きしめると、限界まで体を丸めて、目を閉じた。
24話 終