サーニャさん逆上せる
「今日はみなさんにビックニュースがあります」
と、教壇にのぼったミーナ先生が朝の挨拶をはじめた。
私はいつものように机に頬杖をついて、顔は向けず、耳だけそれに傾ける。
あー、かったるい。
なんで朝の会なんてあるんダロ。授業じゃないならその分遅れて来させてくれればいいのに。
もちろん、そんなこと言えず、ましてや遅刻なんてできるはずないけど。ミーナ先生はおっかないからだ。
だから私は時間ギリギリに登校して、ちゃんと席につくようにしている。
一番後ろの、一番窓側。そこが私の席だ。心から気に入っている。
そこから窓の外をぼーっと眺めていた。
嫌味なくらい天気がいいので、はあ、とため息が出た。
潤いがない。
とにかく退屈で、窮屈で、つまらない。
このところ、そんなことばっか考えてる。考えずにはいられない。イヤになる。
そうやって時間だけは過ぎていく。ホント、イヤになる。
もうこの代わり映えのしない毎日に、いい加減飽き飽きしていた。
けど、抜け出せない。きっかけもない。あー、なにかすごい事件とか起こればいいのに。
そして、そんな私のことなど構うことなく、先生の話は続くのだ。
「実は、私たち5年1組に新しい仲間が加わることになりました」
わあーっ、と教室中から歓声があがった。前の席のシャーリーは特にうるさい。
もちろん私は黙ったままだ。
転校生なんて別に珍しいことじゃない。だからビッグニュースでもなんでもないじゃないカ。
なのに、なんでみんなは驚くんだ。まったく、コドモって無邪気でイイヨナー。
「それじゃあ入ってきて」
というミーナ先生の言葉に、教室の前の扉の開く音がこたえた。
みんなはまた、歓声をあげた。
私はみんなのような、そういう声は出さない。転校生の1人くらい、そんなに興味ないし。
かといって、私も別に興味がゼロってわけでもない。
頬杖をついたまま、入ってきたその子をボーッと眺めていた。
ああ、可愛い子ダナーって。
黒い制服に黒いズボンという服装とは反対に、顔とか肌は雪のように白い。
髪は肩より上で揃えられてて、その色もやっぱり白。
背は低め。華奢で、頼りないカンジ。
なんというか、儚げな第一印象だった。
降ってきた雪に手のひらを出してみると、溶けて水になってしまうみたいな。
……なに考えてんダ、私は。
「オラーシャからやって来たサーニャ――」
ソイツが教壇の真ん中につくと、ミーナ先生が紹介をはじめる。
――けど、ソイツは先生の前を通りすぎてしまった。すっすっと歩き続けている。
窓際まで来てつきあたる。すると、カクン、と直角に曲がり、こっちの方に向いた。
目と目が合った。
そしてまた、すっすっと歩き出した。こっちに向けて。私の方に、どんどん近づいてくる。
ソイツは私の目の前まで来て、ようやく止まった。
ええと、サーニャ、さん……だっけ?
私のすぐ目の前に立ちふさがって、じっと私を見てくる。
まさか転校早々、私のことシメる気なのカ? でも私、別にこの学校の番長とかじゃないし。
もじもじと体をくねらせて、私になにか言おうとしている。
その唇に、つい注視してしまう。息を呑んで、じっと喋り出すのを待った。
そして、言われた。
「好きです」
って。
…………………………はい?
「好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き
好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き
好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き……」
同じ溝を回り続けるレコードみたいに、サーニャって子が繰り返し言ってくる。
何度も何度も何度も何度も、私に向けて。
だんだんそれが、なにかの呪文か、念仏か、はたまた某アニメの主題歌の歌詞に聞こえてくる。
耳がゲシュタルト崩壊しそうだ。
私の耳に言葉たちが取り憑いてくる。このまま離れなくなってしまいそうで、なんだか背筋がぞっとした。
と、とにかく、私からなにか言わないと。じゃないと、この連呼はやみそうにない。
えっと、
「名前……」
「あっ、ごめんなさい。そういえば自己紹介がまだだったよね。
わたしの名前はサーニャ・V・リトビャク。
でも実はこれって本当の名前じゃなくって、本名はアレクサンドラ・ウラジミーロブナ・リトビャクっていうの。
どう? 長ったらしいよね。だからね、サーニャって呼んで、サーニャって。
ねぇ、ちゃんと覚えてくれた? サーニャだよ。さ・あ・にゃ。
絶対に忘れないでね。あっ――でも、たしか先生がもう言ってたよね。
ねぇ、それってどういうこと?
……もしかして、わたしの名前、忘れちゃってたの!?
ひどい! すっごくひどい! ひどすぎる! どうしてそんなひどいことができるの!?
それとも……先生の話を聞いてなかったの? そうだよね。それならいいけど、それってあんまりよくない。
もしかしてあんまり先生の話を聞かないタイプ? 先生の話はちゃんと聞いてないと――」
「じゃなくってサ、」
放っておくと際限なく喋り続けそうだったので、私はサーニャの言葉を遮った。
なんなんダ、オマエ?
それとあとサ、先生の話を聞いてないのはオマエの方ダロ?
先生は教室の後ろで喋りちらす私たちにかまわず、話を続けたままだ。
実は彼女は――とかなんとか。
先生は私たちを止める気配はないっぽいので、私は話を続けた。
「私の名前も知らないダロ、オマエ」
そう。だってコイツは、今転校してきたところなのに。私とは初対面なのに。
なのに好きとか、それってワケわかんネーヨ。
それに、好きですなんて言葉、そう簡単に口にするものでもない。
「そ、そういえばそうだったね……」
サーニャは雷に打たれたみたいになる。漫画的そういうエフェクト。
けど、それも一瞬のことで、
「ねぇねぇ、あなたの名前はなんて言うの?」
次の瞬間にはくわっと顔を近づけてきて、そう訊いてきた。
オイ、近けーヨ。
2つの碧い瞳がまばたきもせずじっと見開かれて、私のことを食い入るように見てくる。
きらきらしている。
……あんまりジロジロ見ンナ……見ないでクレ。
私は顔を背けて、ぼそりとつぶやいた。
「エイラ」
「エイラ! すてき! すっごく、いい名前! きれいな響き!
ねぇ、エイラって呼んでいい? いいよね? いいでしょ?
エイラ。
言っちゃった。ねぇエイラ、今わたし、エイラの名前を呼んだよ、エイラ。
どうだった? 発音とかおかしくなかった? 大丈夫だった?
それでねそれでね、わたしの名前はサーニャ・V・リトビャクっていうの」
いや、それもう聞いたし。
――それが私とサーニャの出会いだった。
「すっかり気に入られてしまったわね」
なにがおかしいのか、ミーナ先生は口元を手で隠しながらくすくすと笑って、
「それじゃあ、サーニャさんの面倒はエイラさんが見てくれるかしら。
サーニャさん、わからないことがあったら全部私じゃなくてエイラさんに訊くのよ」
とか言いやがった。
はい、わかりました、とサーニャも了承。
ま、待ってクレ! なんで私がわざわざそんなことを――
「ミーナ、ちょっと待ってくれ」
と、ぴいんと手を上げて言うのが1人。相変わらず、律儀なヤツダナ。
私じゃない。学級委員のバルクホルンだ。
発言するのにわざわざ手を上げるのは、うちのクラスじゃコイツとあと数人くらいなものだ。
なんで学級委員なんてしてるのかといえば、そんなのやりたがってたのがコイツ1人しかいなかったからだ。
「なにかしら、バルクホルン。あと、私のことはちゃんと先生と呼びなさい」
「了解した、ミーナ。それでさっきの話なんだが、そういうことはエイラ1人では大変だろう。
1人より2人いた方がいい、というか、私がいればエイラはいらない。そういうシュチュは1対1がいい。
だからとにかく、そういうことはクラスみんなの姉である学級委員の私の役割ではないかと思」
「じゃあエイラさん、お願いできるかしら」
「マジ?」
と、私は人差し指で自分を差す。
ええ、とミーナ先生はうなずいた。
「な、なんで!?」
私が思わず立ち上がって訊くと、ミーナ先生は言った。
「サーニャさんはね、いわゆる“ヤンデレ”なの」
「ヤ、ヤンデレ……?」
「そう、ヤ・ン・デ・レ。ついさっき話したでしょう」
聞いてネーヨ。だってコイツ(サーニャ)がなんかいろいろしてくんだから。
頭の中で言い訳する私のことなどお構いなしに、ミーナ先生は、
「もっともこの呼び方って俗称で、本当は、
『ヨーゼフ・ヤンデレ博士型双極性パーソナリティ障害』というのが正しい呼び方なの。
好意を寄せた相手にあたかも病んでいるほど激しいデレを見せる症状ね。
別にこれはヤンママみたいに、ヤンキーということはありません。
ここ、次のテストに出すから、ちゃんとノートに取っておくように」
先生のその言葉に、斜め前のペリーヌは言われたとおりノートにシャーペンを走らせている。
流石、メガネなだけはある。
私にそんなことしてるゆとりなどなく(ゆとり教育はどこ行った?)、
「そ、それでどうして私がやんダヨ?」
「だってサーニャさんはあなたにすっかりご執心のようだったから」
「うっ……」
話の流れで薄々わかっていたけど、いざ人から指摘されると、それってなんだか恥ずかしい。
いま私、絶対顔真っ赤だ。
「じゃあサーニャさんをお願いね」
ミーナ先生は話を切り上げようとするので、
「だが断るッ!」
と、私は断固として拒否(当たり前だ)。
あんっ? と、ミーナ先生は心底不服そうに眉間にシワを寄せて私をにらんだ。
そんな顔ばっかしてるとシワが増えるゾ。こんなこと、口が割けても言えないけど(後が怖いから)。
でも、言う時は言わなきゃいけない。
「だっ、だけど、」
「どうかしたの? もしかして、私の決定に文句があるとでも?」
「あるに決まってるダロ!」
「生徒(ひと)は先生(かみ)に従いなさい」
「暴言ダッ! オイ、聞いたカ、みんな! 今、口を滑らせたゾ! さらっとひどいこと言われたゾ!」
「だまりなさいっ!!!!」
ミーナ先生の目がギロリとした。その眼光にいすくめられる。
ううっ……ひるむナ、私。
「…………でも、朝の会の決めごとは多数決っていうのが決まってるから、その、」
「あら、そうだったわね」
と、ミーナ先生は手のひらをあわせて、
「じゃあエイラさんがいいと思う人は手を挙げて」
ミーナ先生ははーいと真っ先に手を挙げた。
それにつられるように、ぞろぞろと手が挙がっていく。
シャーリーも。ペリーヌも。坂本先生(副担任だ)や他のみんなも。
ルッキーニは両手を挙げている。
メンドくさそうにハルトマンも(じゃあ挙げんナ!)。
サーニャもすっかりクラスの一員みたく(いやすでに一員なのか)しっかりと挙手。
手を挙げてないのは私とバルクホルンだけだ。
一目瞭然。数えるまでもない。
「というわけで、エイラさんに決まりましたー」
語尾を伸ばすムカつく言い方をミーナ先生はする。
この時、私は思い知らされた。民主主義は数の暴力なんだって。
私はへなへなと崩れるように自分の席にお尻をつけた。
ミーナ先生は満足そうに微笑みながら、
「それではエイラさんお願いね。あと、バルクホルンは廊下に立ってなさい」
案の定と言うべきか、サーニャは私の隣の席になった。
コイツ、目悪かったりしないのカナ。だったら前の席にさせてもらえるのに。
いやミーナ先生のことだから、その時は私も道連れダヨナ……。
「よろしくね、エイラ」
席についたサーニャは笑いかけてきた。
「………………」
私はそれにそっぽを向いた。
授業のはじまりを知らせるチャイムが鳴った。
1時間目は算数だった。
「ねぇ、エイラ」
「………………」
シカトシカト。もう授業はじまるのに、喋りかけてくるナヨナ。
「エイラ? 聞こえなかったの、エイラ? ねぇ、エイラってば!」
「………………」
「どうかしたの、エイラ。わたしの声が聞こえてないの?
も、もしかして……耳垢がたまってるの? たまりまくりなの?
だったら今からわたしが耳そうじを――」
「聞こえてるヨッ!」
私はくわっとサーニャの方に首を向け、叫んでいた。
サーニャはびくっと体を震わせると、よかったと短く言って胸を撫で下ろした。
「……どうかしたのカ?」 気を取り直して私が訊くと、サーニャは恥ずかしそうにもじもじとして、
「実は、その、教科書……」
「教科書?」
そっか、転校してきたばっかで、まだ教科書がないんダナ。見せてくれってことカ。
そんなのハルトマン(サーニャのもう一方の隣の席だ)に……って、アイツ、教科書ないしナ。
「……見せてやってもいいけど」
「本当っ?」
サーニャは晴れやかな顔をする。ころころ表情の変わるヤツだ。
ガッ、ガッ、とサーニャは自分の机を引きずって、私の机に引っつけてきた。
私は2つの机の境界に教科書を開いた。サーニャがそれを珍しそうに覗きこむ。
私の右肩と、サーニャの左肩とがぶつかった。
――のも一瞬のことで、私は反射的にそれから離れた。
「どうかしたの、エイラ」
「な、なんでもない」
ヨナ……たぶん。
なんだったんダ、今の……?
「それでは50ページの問題1を90秒で解答しなさい」
というミーナ先生の言葉に、私は問題文とにらめっこした。
宮藤さんはシャーリーさんとペリーヌさんの胸をあわせて12回揉みしだきました。
そのバストの合計は1128センチでした。
では、宮藤さんは2人の胸をそれぞれ何回揉みしだいたでしょう。
ただしシャーリーさんのバストは94センチ、ペリーヌさんのバストは72センチとします。
文章題でちょっとややこしいけど、つるかめ算の問題だ。これなら解ける。
私が今から問題に取りかかろうとしてたのに、
「この問題、間違いがあります」
と、ペリーヌが立ち上がって発言した。
間違い? ていうか、ペリーヌはもう解けたのカ?
「わたくしはこれほどまで貧乳ではありません! こんなの、名誉毀損もいいところですわ!」
そこに食いつくのカヨ、オイ。
ウソつけーぺったんこのくせにー、とルッキーニがはやし立てた。
本当です! それに、あなたにだけは言われたくありませんわ、とペリーヌも応戦。
まあいつもの光景だ。
「ペリーヌさんとルッキーニさん、廊下に立ってなさい」
そのやり取りにミーナ先生は機嫌を悪くするのもいつものことで。
――って、見とれてる場合じゃない。問題解かなきゃ。
そう思って再び、ノートに向かおうとしたら、
「ねぇ、エイラ」
と、サーニャが私の服の袖をくいくいと引っぱってきた。
「これってどうやるの?」
サーニャは首をかしげている。
なんダヨ、こんなのもわからないのカ?
――ま、教えてやってもいいけどサ。実はこれでも、私はこないだのテストで2位だったりするのだ。
「いいカ、よく見てろヨ」
と、私は個人授業を始めた。なんだか自分がちょっと偉くなった気分。
「とりあえず、全部がつるだったら……って考えるんダ。とりあえずナ。
つるはシャーリーダナ、たぶん。
それで合計の1128センチをシャーリーのバストの94センチで割るんダ。
1128÷94=……」
くれぐれも計算間違いしないように、でも遅くなりすぎず、私は筆算した。
計算が終わった。
12余り0。
アレッ? いきなり答えが出たゾ。つるかめ算なのに。
この宮藤ってヤツ、シャーリーの胸しか揉みしだいてないのカ。
ナルホド。じゃあ別に、ペリーヌの胸が何センチでも構わなかったんダナ。
「シャーリーが12回、ペリーヌが0回ダナ」
「すごい! もう解けちゃったの!? エイラって頭もいいのね!」
サーニャは賞賛の眼差しを私に向けてくる。
「ま、まあナ……」
悪い気分はしなかった。
けっけど、あんまりジロジロ見ンナヨナ。
こんくらいの問題、私にかかればどってことないんだから。
だんだんと、私はサーニャに慣れてしまっていた。
ヤンデレってなんダそれって感じだったし、世話を焼くなんてメンドくさいってたしかに思ってた。
けど次第に、そういう気持ちはなくなっていった。
コイツはすごく変わっるけど、でも悪いヤツじゃない。馴れ馴れしいけど。
最初は変に作ってた壁も、実はそんなのいらないのかもしれない。
そういうふうにサーニャのことを思いはじめていた。
2時間目の理科、3時間目の社会、4時間目の国語と過ぎていった。
そう、それまではよかったんだ。
問題が起きたのは給食の時間だった――
配膳がすべて終わって、みんなが自分の席に戻ってきた。
同じ班のシャーリーとペリーヌも、机をくっつけっこしてくる。
そしてみんなで手をあわせて、声をあわせていただきますと言った。
さて、食事だ。
「なーエイラ。牛乳早飲みしようぜ」
と、シャーリー。なんでコイツはいつもテンション高いんだ。
まあ、いいけど。
おうヨ、と私は応じた。
うちの学校の牛乳は背丈をチビにした牛乳パックに入っている。
まるで家の形だ。四角い土台に三角の屋根が乗ってる。
普通はそれに付属のストローを刺して飲むんだけど、私やシャーリーはそんなことしない。
じゃあどうするかっていえば、牛乳パックの口を開いてそこから飲むのだ。
私たち2人はパックの口に唇をあわせ、でもまだ水平にしたまま。
ペリーヌがイヤイヤ合図を出す。3、2、1――
スタート!
一斉に傾ける。緩やか過ぎず、急すぎず。
牛乳が口の中に流れ込んでくる。
早飲みはいかに効率よく喉に流し込めるかが勝負のポイントだ。その適切な角度を私は心得ている。
「エイラ、頑張って!」
と、サーニャも応援してくれている。
「勝って、エイラ! 負けないで、エイラ! ぎったんぎったんにしちゃって、エイラ!
エイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラエイラッ!」
……オイ、いい加減にしろヨナ。
思わず吹き出しそうになったので、私は一度こらえてからスピードを落とした。
「ああっ、このままじゃエイラが負けて、ううん、エイラに限ってそんなこと……でも……そ、そうだっ!」
サーニャは私のおでこをえいと押さえつけた。
なっ、なにすんダヨ、サーニャ!? 私の首が急速に角度を変える。牛乳パックも――
垂直ぅ!
これはもう流し込むじゃない。落とすとか降らすだ。
耐えきれない。気管に詰まる。喉元の一部分が溺れたみたいになる。
そして、逆流。
うぶはっ!
と、私は牛乳を盛大かつ広範囲に噴き出したしまった。
「どっ、どうしたの、エイラ?」
「ひっ……ひやっ……」
ゴホッゴホッと何度も咳き込みながら、私はなんとかそれだけ言った。
「どうしたの、エイラ? さっきからご機嫌ナナメだよ、エイラ。すねてるの、エイラ。
わたし、そんなエイラは好きじゃないよ、エイラ。ううん、そういうエイラも大好きだよ、エイラ。
なんだか可愛いよ、エイラ。エイラかわいいよエイラ」
黙ってくれないカナ。うずうずしているサーニャを無視して、私は食事を続けた。
――と、
「ねぇ、エイラ」
サーニャはいきなり、私の口に指を突っ込んできた。
今日のメニューのナポリタンをおみやげにして。私はそれを加えた。
するとサーニャはナポリタンのもう一方の先っぽを、はむと口に含んだ。
はむはむはむはむ……少しずつナポリタンがサーニャの口に飲み込まれていく。
なにをするつもりか、わかった。
私は噛みちぎっていた。けど、そんなの関係ない。
はむはむはむはむ……
サーニャの顔が、唇が、一直線に私へと迫ってくる。
来ンナ、来ンナ、来ンナ、来ナイデ……!
咄嗟に私は身を引こうとして、バランスを崩して椅子から転げ落ちていた。
その先には壁。
脳が揺れた。後頭部をモロだった。
痛いとかじゃない。衝撃だった。変なふうに首が曲がった。
血、出たカナ? わかんない。
サーニャが大声で悲鳴をあげる。私の名前を読んでいる。
けどそれも、やがて耳に届かなくなっていった。
サーニャの潤んだ瞳が倒れる私を覗き込んでくる。それが最後。
意識はそこで事切れた。
まぶたの薄い隙間から焼けつくような光が入ってくる。
慣らしながらようやく明けると、懐かしい顔があった。
私はベッドに寝てて、その女も向かいあって隣に寝ていた。1つのベッドの半分以上を占領して。
「あら、もう起きちゃったの、子猫ちゃん?」
身の毛もよだつ、保健室のアホネン先生だ。
この学校屈指の変人で、数々の一人都市伝説があったりするんだけど、長くなるので割愛。
まあ要するに、ろくな人じゃないってことだけは確かだ。
「起きたけどサ、」
頭は鮮明に働くようになってきて、状況はだいたいわかった。
頭を打って意識をなくした私をクラスの誰かがここまで運んできてくれたんだ。
そう、保健室まで。
かすかに消毒用アルコールの臭いがしてきた。鼻がつんとする。
私は上半身だけ持ち上げて、未だベッドに寝転ぶアホネン先生に訊いた。
「なんで先生まで一緒になって寝てるんダ?」
「役得よ、や・く・と・くっ」
なんだか「とく」という言葉がにごって「毒」と連想させる響きだった。
「ま、まさかっ……!」
私は身体中をまさぐってみた。
なんだか耳のあたりがもぞもぞするので手をやってみると、頭に包帯が巻かれていた。
他には――――よかった、異常はないらしい。
「あらあら、命の恩人に向かってそういう態度だなんて。それって失礼じゃなくって」
その言葉とは裏腹に、アホネン先生は別に心外ってわけでもなさげだった。
「感謝はまあ、する。けど、もっと普通にしてくれヨナ」
「普通? それって、わたくしにとっての普通かしら? 本当ならそうしちゃいたかったんだけれど……」
「な、なんダヨ?」
うふふ、とアホネン先生は笑った。
「あなたの寝顔があんまりにも可愛らしくって」
「ザケンナッ!」
私はベッドから飛び降り、地面に着地した。
やっぱり私、どうにもこの人は苦手だ。なんかいつも自分のペースを乱される。
「もう行ってしまうなんて。つれない子ね。まだこっちには、お話したいことがあってよ」
知るカ! 私、行くからナ!
「エイラさん、落ち着いてよく聞きなさい」
と、アホネン先生は呼び止めた。さっきとは打って変わって、なんだかそう、まともな声で。
それが無性に引っかかった。悪い予感が沸々としたけど。
しふしぶ、私は振り返った。
アホネン先生は起き上って白衣を正すと、似合わない真面目な顔つきになった。
「実はね、治療のついでに、ちょっと脳みそを調べさせてさしあげたの」
「人が寝てる時になにしてくれてんダ!」
「人の話を聞かない子ね――そうしたら、脳にちょっと厄介な障害が見つかったのよ。あなたは……」
とそこで、アホネン先生は言いづらそうに言葉をつぐんだ。
静かな間が少し。
ごくん、と私は唾を呑み込んだ。
「なんダ?」
おそるおそる私が訊くと、アホネン先生はそう答えた。
「いわゆる“ヘタレ”よ」
…………へっ、へたれっ!?
なにを言い出すんダ、この女は。
でもそういえば、今日やって来た転校生はヤンデレだった。なら、そんなビョーキもあるのかもしれない。
いや、あったとしてもだ。
私がそれだって本当に言えるだろうか。そんなずない。
私がその、なんだ……ヘタレだなんて。そんなの濡れ衣もいいところだ。そうダロ?
なのにアホネン先生ってば、そんな神妙な顔して失礼なこと言うのはやめろヨナ。
「あなたはヘタレなのよ」
また言われた!
なんダヨ、ヘタレヘタレって。
アホネン先生のことだから、きっと私をからかっているんだ。そうに違いない。
アホネン先生の体が小刻みに震えている。やがて、おっほっほっほっ、と高笑いをはじめた。
真剣な顔をしてたのは、笑うのを必死で堪えていたせいらしい。
「わっ、笑うナッ!」
「あらら、失礼――このヘタレっていうのは俗称でしてね、
『ヨーゼフ・ヘタレ博士型双極性パーソナリティ障害』というのが本来の名称なの」
なんかもっともらしい学名が出てきた。ヤバい。私はこういうのに弱い。
アホネン先生は高笑いを再開した。
私は耳をふさぐ。でも、聞こえてくる。私のこと笑ってる。スオムス生まれのくせにって。
真実を知った上で、そのことを面白がっている。それはそういう表情だった。
嘘は言っていない……と思う。
でも、それが嘘じゃないとしたら、本当ってことになってしまう。
それってつまり――
私=ヘタレ。
アリエナイ。
そんな話、あるカ? ないダロ?
だってこれでも私は、クラスでは不思議ちゃんキャラで通ってるのに。
だったら、そんなことがあっていいはずない。
私がヘタレだなんて、そんなこと……
とても信じられない。
いや、信じたくない。
飄々としてて、掴み所がなくって、えっととにかく……そう、クールな、そういう私なのに。なのに。
ヘタレ。
なんて間抜けな響きなんだ。そんな汚名をかけられたなんて我慢ならない。
いや、だけど、だけど……
いくら自問自答してみても、ラチが開かなかった。
「……本当なのカ?」
一度、ちゃんと気持ちを落ち着かせて、そう訊いた。
「ええ、そうよ」
「治せないのカ? 治してくれヨ! 今すぐ!」
私はアホネン先生の二の腕に掴みかかってすがった。
「もちろん完治というわけにはいかないけれど……」
「なんダ? あるのカ? 私、どうしたらいいんダ?」
「恋をしなさい」
と、アホネン先生は言った。
「こ、恋……?」
「そうよ。あなたはもう5年生。1人くらい、そういう相手がいるんじゃなくって?」
たしかに、私の頭に1人、浮かぶ人がいた。
いやいや、これは恋とかいうののはずないし。
それを振り払うように、私はブンブン頭を横に振った。
「イネーヨ」
「本当かしら?」
「そんなヤツ、いるわけネーダロ。なぁ、他に方法はないのカ?」
アホネン先生はなおも視線で追及してくるので、私は話題を変えた。
そうね、とアホネン先生は短く考えこんでからふふふと微笑んで、
「それじゃあ、すこぉしばかり荒治療になるけれど……」
「あるんじゃネーカ。そっちで頼む!」
「今からわたくしの“いもうと”として……」
「やっぱ今のナシ!」
私は襲いかかってこようとするアホネン先生を突き飛ばして、出入口へ急いだ。
恋だって……?
なんダヨ、ソレ。くだんネー。
ヘタレだって言われて――
たぶん、それは本当で――
そんな私が、誰かに恋をするだって?
万一ヘタレだったとして、そんな私を好きになってくれる女が、果たして地球上にいるだろうか。
いるわけない。
だったら、これは一生治ることはないんダ……
扉を引いても開かない。なんで鍵かけてるんダヨ。
私の貞操はかなり危ないところだったんダナ。知らず知らず綱渡りしてたらしい。
鍵を開けて、ガンッ、とヤケクソに扉を解放。
と、そこには私を待ってた人がいた。訊いてないけど、間違いない。
向こう側の壁にもたれかかっている。私を見ると笑顔になった。くやしいけど、可愛い。
いや、それよりも――
なぜだろう。いま一番顔を合わせたくない相手だって思った。
サーニャだった。
私は今、1人になりたかったのに……
サーニャは私の元に駆けよってこようとする。
それに私はとっさに両手のひらを出して、ストップのポーズをする。
一定の距離と取ると、
「なんでオマエ、ここにいるんダヨ!?」
金切り声でそう叫んでしまっていた。
わざわざ訊かなくたってわかることだった。
エイラ、大丈夫だった? エイラ、まだ痛む? エイラ、もう治った?
そんなことを繰り返し言われた。いや、私がケガしたのオマエのせいだし。
「とにかくもう大丈夫だから! 私のことはそっとしといてクレ! 用事ないんダロ? どっか行ケ!」
きつい言い方になってしまった。言葉を選んでる余裕はなかった。
もう頼むから、私を1人にしてくれヨ……
が、サーニャはその場にとどまったまま、動かない。
「あるよ。実はとっても大切な話があったの」
そしてサーニャはそう言った。
夕日に染まる学校の廊下。遠くでカラスが鳴いている。
下校時間はとうにすぎているのだろう。私たちの他に人気はなかった。
「ねぇ、エイラ。わたしね、エイラのことが好き」
うん、知ってる。
よくわからないけど、コイツって私のことが本当に好きなんだってことはわかる。
――ううん、やっぱり違う。
私がヘタレだって知らないから、サーニャは好きとかそんなこと言えるんだ。
「それがどうかしたのカ?」
と、声を落ち着かせて、そう訊いた。
「それでね、わたしまだ、エイラの気持ち聞いてないなって」
気持ち、だって?
たしかに言ってない。今日会ったばっかだし。振り回されてばっかだったし。
私ってサーニャのことを、どう思ってるのか……
いろいろ浮かんだ。ウザいし、わけわかんネーし、ケガまでさせるし。
だけど……ううん、やっぱなんでもない。
「だからね、」
と、サーニャは続けた。
「好きって言って」
ドクン、と私の心臓が強く脈打った。
「な、なんでダヨ?」
「言って。お願い」
サーニャは黙り込んでしまった。
私の言葉を待っている。
その姿は寂しげで、今にも泣き出してしまいそうだった。
言わなきゃ、泣かれる。確信だった。
だから、言おう――と決めた。
泣かせたくはなかった。それに、言わなきゃ収拾がつきそうにないから。
別にこの場限りだし、どうとも思ってない。
嘘つくことになるけど、それでいい。言ってしまえばいいんだ。簡単じゃないカ。
私は好きだって言おうとした。
なのに――口からは出てこない。
一向に。うんともすんとも。しゃべり方を忘れてしまったみたい。
どうしてこんなに、心臓がバックンバックンするんだ。
全身から汗が出てくる。体がガタガタと震えてきた。
どうして私、こんなふうになっちゃうんダヨ。なあ!
それって、私がヘタレだから……?
いや、それよりも。
なんでそんなにコイツのこと、私は意識しているダ?
私って実は、コイツのことが――
そんなはずない。私は別に、サーニャのことなんてなんとも思ってないんだから。
だったら言えるはずだ。
ほら、言えヨ、私。たった一言ダロ。さあ、早く。言え、言ってシマエ。
す、す、す――
「スマン」
私はそう言うと、サーニャに背を向けて走り出していた。
どうして私は逃げてるんダ?
わけわかんネーヨ。走り出したい気分。全力失踪中だけど。
――と、
「ねぇ、どうしたの、エイラ。待って!」
後ろからサーニャが追っかけてくる。私はスピードを落とさず振り返った。
その目には涙を浮かべている。
泣かせてしまった。そんなつもり、なかったのに……
それでも私は走り続けた。
言ったダロ、さっき。スマンって。悪いと思ってるのは本当なんだ。
でも、人のことまで考えてる余裕ないんダヨ、今は。
「ゴメン、ゴメン、ゴメンッ……!」
私は声のかぎり叫んだ。
私まで泣き出してしまいそうだった。
「ねぇ、エイラ! 待って!」
サーニャはダイブしてきて、私の腰に腕を巻きつけた。
「うわっ!」
私はつんのめった。
バランスを失う。たて直せない。スローモーションが始まった。
今日二度目。今度は前。
――ごんっ、と頭を地面に打った。
そうしてまた、次第に薄れゆく意識の中、思った。
これから私は、
じゃなくて。
これから私たちは、一体どうなってしまうんダ?