たなばた
ねえこんやきみにあえたら。
小さな願いをポケットの中にしまいこんで切に想う。言葉にして出すことは気恥ずかしくてとても
とてもできないから、それは儚い願いでしかない。
雲の上の空はいつも晴天。ねえ年に一度しかあえないなんて本当はうそで、雲に隠れて二人はいつも
いつも会っているのではないかしら?そんなことを考える。
ねえ、こんや、君に逢えたら。
きっと叶うことのない願いを、もう一度。
ミルクを空に流したかのように煌く星空と、それをはさんで向かい合う二つの星座。ねえ、あなたが
わしだというのなら、こんな河なんてひとっとびではないの?だって、そうでなければ寂しすぎる
じゃない。大好きな大好きな人と逢えるのが365日のうちのたった1日だけなんて、私だったら
きっと耐えられない。
QSLカードの入ってるポシェットに、こっそり忍ばせた深い水色のタンザク。願い事はすでに書いて
あったけれども、みんなと同じようにササの枝にくくりつける気にはどうしてもなれなかった。
*
お茶の時間の喧騒を、寝ぼけ半分で聞いていた。聞くに、盛り上がっているのは特に坂本少佐と、
おそらくは先日扶桑からやってきたばかりの宮藤さんであろうと思う。何のことだろうと視線を
ちらりとそちらにやると、幹も茎も枝も葉っぱも、全部鮮やかな緑色をした大きな木のような枝の
ような何かが見えて。けれどこの穏やかな昼下がり、特に強い光に弱い私はそれが何なのか判別する
前に傍らに座っていたエイラのひざにぼふりと突っ伏してしまう。「ワアアアアア、さ、さーにゃっ!」
なんて、あわてた声を上げてあわてて助け起こすエイラの反応が、とてもとても楽しくて、それで
いてとてもとても安心する。興味津々、といった面持ちでみんながその不思議な植物のところに集
まっていって、そして宮藤さんが得意げに何かを説明しているように思えた。私はエイラのひざから
肩に頭の位置を変えて寝ぼけ半分でそれを聞く。もちろんのこと、内容なんて頭に入っていない。
「今日はタナボタ…いやタナバタだったかな…なんだってサ」
エイラに連れられてサウナに行って、水浴びをして眠気を覚ました後になって、私はようやくその
内容を知ることとなった。私の聞き漏らしたことは全部エイラが拾っておいてくれて、逐一私に
教えてくれる。ミーナ中佐がなんと言っていたか、宮藤さんというあの新人の子が、どんな話をして
いたか。そういったことを記憶して、いちいちだれかに説明して聞かせるのは決して彼女の性に
あった行動ではないだろうに、それでも彼女は私に対してそうした気遣いを怠ることをしないの
だった。
「なんだったかな、ほら、天の川。あそこを挟んである二つの星が恋人同士でサ、年に一回、
7月7日…つまり明日ダナ。しかあえないとかそんな伝説があるんだって、扶桑には」
まだ少し眠気の残っている目をこすりながら聞いている私に、そうして一枚の紙を差し出した。
「このタンザクっていう紙に願い事かいて、あのササとかいう木にくくりつけるんだって。」
そうすると願い事がかなうらしいよ、そんなんで叶ったら苦労しないよなあ。なんていたずらっぽく
笑う割に、エイラは楽しそうだ。自分にあてがわれたらしい水色の短冊を見つめて少し微笑むのは、
何を願うか考えているからだろうか。
私のものらしいその細長い紙を受け取って、両手で掲げてまじまじと見る。うえのほうに紐がつけ
られていて、大きなしおりのようだと思った。
「…ま、眉唾モンだけどさ、出かける前に書いてつるしたらいいんじゃないか?」
そんなことを話しながら通り過ぎるベランダに、掲げられている笹の枝。色とりどりの短冊がすでに
たくさんくくりつけられていて、今もまた、シャーリーさんに肩車されたルッキーニちゃんが手に
短冊の束を持って手を伸ばしている。
「ルッキーニのやつ…確か夕飯前にも相当書いてたぞ…いくつ書く気ナンダヨ…」
「…エイラは?」
「ん?」
「エイラは、まだひとつも書いてないの?」
「んー、ああ、なんか、夜になったら海に流すらしいから、ギリギリでいいかなって。
願い事書くのはいいけど、みられんの恥ずかしいダロー」
少し頬を赤くして、鼻の頭を掻いて、照れくさそうにエイラは言う。彼女の頭に去来している願い事
は、いったいどんなものなのだろう。聞いてみたいようで、それは少し怖いことでもある。だって
いつも一緒にいるようで、私は実は彼女のことをあまり知らないのだ。私ばかりが彼女の前でいつの
まにかすべてを暴かれている。もっとも、暴いた本人はそのことに気づいていないようなのだけれど。
「ルッキーニちゃんは、なんて書いたのかな」
「んあー?パスタ一年分とかそんなんじゃネーノ?あとは母親に会いたいとかさー。ミーナ中佐たち
はみんなしてまずイモがどーとか書いてたよーな。そういえば『おっぱ』とか訳のわかんネー
書きかけのやつもあったゾ。いったい誰が書いたんダヨ」
あとでみんなの見て笑ってやるー、なんて、自分のことはすっかり棚に上げてエイラは笑っている。
いたずら好きなこの人は、きっとまたなにか楽しいことを思いついているのに違いない。私のとても
とても出来ないようなことをひょいとやってのけて、そしてひょうひょうと笑う。エイラはそう言う
人だ。
「あ、サーニャのは笑わないかんナ!ナ!」
「…ふふ、わかってるわ、エイラ」
それでも、はっとして。あわてて付け足す様がなんともいとおしい。大人びた表情ばかりを見せる
彼女は、不意にこうして子供のように無邪気になる。端正な顔がほころびてくしゃりとなったその
表情が、なんとなく好きだった。
「じゃあ、そろそろ、私…夜間哨戒の準備するね。エイラは待機でしょう?」
「うん。見送ってやろうか?」
「大丈夫よ。ほら、ちゃんといかなくちゃミーナ中佐にまた怒られちゃう…このあいだ、怒られて
いたでしょう?」
「う、それは、そうだけど…」
「それに、ほら」
「ほら?」
「願い事書くところ、見られたくないじゃない?」
「…あ、そっか。そうだよなー…」
渋い顔をしていたエイラがその一言でようやっと引き下がった。まだ少し不服そうな顔をしていた
けれど『書くのを見られるのは恥ずかしい』と先ほど自分で言った手前おそらく反論ができないのだ。
気をつけろよ、無理スンナよな。そう言われて頭をぽんと軽くなでられて、別れを告げたのが、最後。
*
一人きりで空を飛ぶのにはすっかり慣れきっていた。それはこの部隊に配属される前から変わらない、
いわばルーチンワークであったし、『あなたにしかできないことよ』とかねてから言われてもいた。
そのとおり、私の能力は夜間哨戒という業務に非常に合っていた。ううん、能力だけじゃない。極度
に臆病で、人と触れ合うことが苦手で、自分の殻にこもりがちな私の性質もまたそれにとても合って
いたのだ。
晴れていたら、天の川が見えるのにな。空を見てエイラが呟いていた。これじゃ雨が降りそうだ、
なんてことも言っていた。七夕の雨は、河が氾濫して逢うことの適わなかった二人──織姫と彦星──
の流した涙なのだと、宮藤さんから聞きかじったらしいエイラは語っていた。眉唾物だよな、なんて
言う割りにひどく残念そうにそういったエイラは意外と女の子らしい性格をしている。
今夜の月は細く、上弦の形をしていて、まるで恋人同士の二人を乗せて運ぶ舟のようだ。私が出かける
ころちょうど空気が湿り気を帯びてきていたから、眼下に広がる厚い雲の下はおそらく雨降りだろう。
それでもここでは乏しい月明かりの下で、星星が形作った空を彩る河が煌いているのだった。
(雨が降ったら二人は会えない、なんてきっとうそだわ。)
その光景を見て、私は思う。だって雲の上はいつも晴れていて、二人はその上にいるのだもの。
むしろ晴れの日は見られるのが恥ずかしくてそれをしないだけで、誰も見ていない曇りや雨の日は
いつもいつも逢引を交わしているのではないかしら。月の舟に乗って、想い人に会いに行って。
ううん、舟なんて必要ないかもしれない。だって彦星の星はアルタイルときいた。アルタイルと
いったら、わし座をつかさどる一等星だ。力強い翼を持ったわしが河のひとつも渡りきれないなんて、
そんなのおかしいもの。
考えれば考えるほど、気持ちは確信に満ちていく。そうよ、きっとそうなのよ。
そして、二人が恨めしくなっていくのだった。だってあなたたちがそうやって幸せでいるのに、私は
私の大好きな人といっしょにいられないのよ。そんなのずるいわ。眼前に広がる光景をひとにらみ
して、そんな悪態をひとつついて。
願いを書いた短冊は結局笹にくくりつけることをしなかった。いつも持ち歩いているQSLカードと
一緒に、腰のポシェットにしまいこんだ。
だって天のお星様にお願い事をするのに、あんな低い場所でどうして届くというの?本当に願いを
かなえてくれるというのなら、私は自分の手で届けたかった。…もちろん、自分の願い事を誰かに
見られたくないというのもあったけれど。
お父様のこと、お母様のこと。国のこと、仲間のこと。
いっぱいいっぱい考えた。エイラと別れたあとに、私はこの短冊に一体どんな願い事を綴るべきか、
とても、悩んだ。
悩んで、悩んで、それでも。
出てきたのはたった一つ。
(ねえ、こんやきみにあえたら)
私の願いを受け取って。あなたになら、届くかもしれないと思ったから。きっと届かないだろう
けれど、届いたらいいなと思うから。
どこにいるのかもわからない家族よりもずっと、私を支えてくれる人。
ねえ、ねえ、かなえてお星様。私に光をひとつください。大切にするから、ずっと、ずっと、いつ
までも。
ほら、つい数時間ほど前に分かれたばっかりなのに、もう心が寂しがってる。本当に大切なのに
丸一年も逢えないなんてきっときっととてもくるしい。
ねえ、今夜あの人に逢いたいの。伝えたい言葉がたくさんあるの。いつもありがとう。本当に感謝
しているの。ねえあなたたちも、その気持ちわかるでしょう?
ポシェットから短冊を取り出して、握り締める。かなったらいいな。かなえばいいのに。そんなこと
を切に願いながら。遠く地上にいるあの人にその願いが届くはずはなかったけれど、届いたなら
きっと飛んできてくれるのだろうと思った。だって彼女はそんな人だ。
(ねえ、エイラ。今夜あなたに逢いたいの)
二人を星座になぞらえて、なんてちょっと乙女チックすぎるとおもうけれど、今晩会うことができた
ならなんとなく特別な意味があるような気がしたから。だからもう一度、何度でも願う。お星様、
エイラに逢いたい。逢いたいの。
魔導針がネウロイを感知する気配はない。今日はこない。そんな確信がどうしてかあった。
やっぱり心細いし、ラジオでも聞こうか。それとも、他のナイトウィッチと交信できるかもしれない
──そう思って、魔導針の出力を変えようとした、そのとき、だった。
『───さーにゃっ』
私一人の静寂に包まれていた辺りに、突如としてもう一人の存在が浮かび上がる。不意に名前を
呼びかけられてびくりとした。インカムから聞こえてきた呼びかけ声は、待ちわびたその人のもの。
「え、エイラ?」
『い、いまそっちいくっ』
その言葉とともに、目の前にひとつの影が躍り出た。肩にはいつもの銃と、大きな笹の枝。大量の
短冊がぶら下がっている。ぽたぽたと水滴が落ちているのは、雲の下が雨降りだったからだろう。
「いや、タナバタは雨だと意味がないってミヤフジが言ったらルッキーニがそんなのやだって駄々
こねてさ。じゃあ雲の上行けばいいんジャネ?ってことになったから、その、まあなんだ、じゃあ
どうせ私待機組だし、い、行こうかなって」
笹の枝を勢いよく振りながら、ごまかしにもならない言葉をエイラが言う。振るたびに水滴が飛んで、
きらきら輝いて小さな星空を作った。なんだかおかしくて、そしてうれしくてくすくす笑ったら、
エイラもまた照れくさそうに笑ってくれるのがもっとうれしい。
「……それにっ」
「それに?」
「さ、サーニャの願い事も、叶わなかったら悲しいダロ?こうしてほら、雲の上までもってくれば、
いつも晴れだからっ!だから叶うヨ、サーニャの願いもっ!!」
誇らしげに掲げた笹にはやっぱり、色とりどりのたくさんの短冊。雨にぬれてにじんで、もう誰が
どんな願い事を書いたのか分からなくなっている、それ。
私の願いを叶える。…きっとエイラは本当は、その一心だけでここまでやって来てくれたのに違い
ない。避けられない運命なら、その先から新しく作り直せばいい。叶わない願いなら、叶うように
努力すればいい。そんなエイラの精神は、すぐにくじけそうになる私をいつも救い上げてくれる。
(……でも)
「…エイラの、おばかさん」
「ん?なんか言ったカ?」
「ううん、なんでもないっ」
ごめんね、と一言心の中で呟く。だってエイラは知らない。そうしてまで叶えようと抱えてきた
笹の枝に、私の願い事は掛けられていないことを。
一緒に天の川を見上げて、「きれいダナー」なんてのどかに呟いているエイラの傍らで笑ったら、
エイラは首を傾げてこちらを見た。なんでもない、と首を振って、ふわりと浮き上がる。そして
エイラの抱えている笹の枝の、その天辺。一番空に近い場所に、私の短冊を手早く括りつけた。
『今夜、エイラに逢えますように』。もう叶った願い事の書かれた、その短冊を。