無題
しまった、と思った。目を見開いたその瞬間すぐ上にあったその顔の、下部に引かれた一本線。
紅色に彩られたそれがそれが見る見るうちにつりあがってゆくのをみとめて、腹立たしく思うと
同時に顔が熱くなる。
「…どうして、おまえが」
「どうして、ってそんなの、」
無茶をして、帰投した途端にくーすか眠りこけちゃった同僚の介抱をしてあげてるだけだけど。
まるで問われることがわかっていて、すでに考えておいたものであるといわんばかりにそいつは言う。
言われて記憶を掘り起こせば、なるほど今日の昼に出現したネウロイの討伐を終えて、帰投した以降
の記憶があいまいで、体を起こそうとしたら額から湿らせたタオルがずりおちるのだった。
「それにしても、…まさか、あんたからこんな言葉聞くとは思わなかった。
ルッキーニからはよく言われるんだけどね。まさか、あんたから…ねえ?。」
そうか、それはありがとう。ではしつれいする。そのまま体を起こして例を言って立ち去ることが
できればどんなによかったか。けれどやつときたらそんなところは無駄に聡くて、にやにやと口元を
吊り上げたまま私をそうして追い込んだ。誰にも、特にこいつにだけは、見られたくなかった弱い
部分を露呈してしまった自分に嫌気が差して差して、心臓の裏辺りがむかむかといらだつ。
とうに失ったものだった。ふるさとを失ったそのときに、私は妹以外のすべてを失ったのだ。あの
ときたった一つだけ、守ることのできたその妹さえ、私は失いかけていた。そんな私にとってその
単語はもう意味を成さないものであって、他人ごとでしかなかったはずで。だって私にとってのその
存在はもういない。弱さをまるごと包み込んで拾い上げて、受け入れてなでて慰めてくれるそんな
存在なんて。むしろ私と同様にしてその存在を失った妹のために、私はそんな存在でいてやらな
ければいけないはずだったのだ。
オレンジ色の、癖の強い長い髪。釣り目で蒼い瞳。不要なほどに大きな胸。オイルの香りがかすかに
する、衣服。
どれをあげても、どうやっても、記憶の中のその人とこいつとは似ても似つかない。同じ部分なんて
見つけ出せるはずがない。
でも、なら、なんで。
母さん、なんて、言っちゃったんだろう。
「…めんどうをかけた。しつれいする」
いたたまれなくなって、今度こそ彼女のひざの上におかれた頭を起き上がらせようとする。最近少し
無理をしすぎていたのだろうか、まだ少しからだがけだるいけれど、きっとシャワーでも浴びれば
さっぱりするに違いない。心も、体も、きっと。
「ちょっと、まちなって」
けれどそれはかなわずに、彼女の手によってたやすく額を押さえつけられてしまうのだった。瞬間、
力がふっと抜けてまたやわらかな彼女の太ももの上に頭が落ち着いてしまう。悔しいけれど、心地
よいのは否定できなかった。頭がどうしてか軽い気がするのはきっと、二つに縛ってある後ろ髪が
とかれているからなのだろう。
「『バルクホルン大尉に付き添って、しっかりと休養を取らせること。』悪いけど隊長命令だからね、
聞くことはできないんだな」
「お前に付き添ってもらわなくたって、一人で部屋に行って休むくらい、できる」
「いやね、待機サボって格納庫でストライカーいじってたのばれてね。こっちにも逆らうことは
できないんだわ」
「お前の処罰がどうだろうと、わたしにはかんけいない」
「ミーナ中佐に怒られてもしらないぞー」
リベリアンめ。口の中で悪態を付いた。私がミーナの名前を出すと断れないことを、なんでしって
いる。
「ハルトマンにも言われた。ほっといたら許さないって。愛されてるじゃない、あんた」
「……そんなの」
言いかけて、口をつぐんでしまう。昼下がりのミーティングルームに、ほかの人間はいない。何か
強いエネルギーをもてあまして押し殺したような、恐ろしいくらいに静かな午後。ソファに横た
わったまま窓の外を見ていると、訓練をしている仲間の姿が見える。
「なきそうな顔してたな。珍しく訓練行くなんていっちゃって、あんたのこと見てられなかった
のかな。ね、あの子って意外と泣き虫?」
「…しるか」
交わすとりとめもない話。楽しげな物言いは先ほどとは少し音色を変えて、まるで私の失態なんて
なかったかのよう。
けれど、私の頭の中では。「まさか、あんたから」。そう繰り返された彼女のそんな言葉が頭をぐる
ぐる回っている。そんなの、私だって。私だって、まさか私からそんな言葉が出るなんて思わな
かったよ。
かあさん。
魔力と一緒に体の力も抜けて、目の前が真っ白になってゆく感じがした。自分がまるであたたかな
ミルクに浸されたパンになったかのようなふわふわした気分で、まどろみの中をたゆたっていた。
その世界が少しずつ薄れて、形を成していって。やさしく髪をかきあげて、、頭をなでてゆく感覚に
気が付いて。なんだか私はとてもとても懐かしい気持ちになったんだ。温かな光。優しい手。やわら
かな風。全部全部、失って久しかったものだったから。
気が付いたら声に出ていた。ねえ、戻ってきてよ。さみしいよ、そばにいて。内心では叫びながら、
懸命に手繰り寄せようとしていた。
かあさん。
悔しい、悲しい、苦しい、辛い。
いつも覆い隠している、弱い気持ちが流れ出したいと叫びを上げている。でもそれだけじゃない。
どうしてだろう、なんだかとても、うれしいんだ。
「…今日は少し、天気が悪い、だけだろ」
窓から差し込んでくる陽の光がまぶしすぎたから、片手で顔を覆うことに下。それでもじんわりと
手がぬれるのは、きっと天気が悪いからだ。ちがいない。
なあそうだろ?ミーナ、フラウ。今日の空は、雨降りだよな。
「あー…そうだね、こりゃ、大雨だ」
太陽みたいな色をした、彼女が暗闇の向こうでつぶやく。
もう二度とこんな失態はするまいと思いながら、けれども今だけは、甘えてもいいような気持ちに
なれた。
おわり