壁
……気に入らない。
「ふう、何とか今日はいい成績で終われたかな……っと!」
「その程度でいい成績だなんて、高慢もいいところです。お姉さんのバルクホルン少佐を見習うべきであります」
「なっ……今までの貴女よりは上回ってるんだけど!」
「未熟な私を上回って何が偉いのか理解できないであります」
「っかー! そっちから吹っかけておいて、いまさら開き直るの!?」
「なんですか? 文句でもあるですか?」
「あるよ! 大有りだよ!」
「文句があるなら言うべきなのです! ちゃんと言わないと、伝わらないでありますよ!」
「だから言ってるでしょ! 貴女にも抜かれたことないのに変に突っかかってこないでってば!」
「きー! うるさいであります!」
……気に入らない。
「ふん、別に私は宮藤さんに教えてもらうの楽しいからいいもん! 宮藤さんに教えてもらえれば、いつか絶対お姉ちゃんと並べるもん!」
「言ってるがいいです! バルクホルン少佐になんて、永遠に並べるわけないでありますよ!」
「な!? それは宮藤さんも侮辱する言葉だよっ!」
「どこをどう解釈すればそうなるでありますか! 単に貴女がおっちょこちょいの運動オンチだといってるだけでありますっ!」
「黙っていればああだこうだと……! 私はもともと病人だから運動できなくても仕方ないの! でも最近は、宮藤さんに付き添ってもらって
頑張ってるんだからねっ!」
「さっきからずっと黙ってないであります! それに病気だの何だのなんて関係ないであります! ここは最前線の基地でありますよ、
そんな言い訳通用しないであります!」
「ああもううるさいなぁっ! いいからお姉ちゃんの真似事なんてしてないでその間にスキル磨いたらどうなのよ!」
「むきーっ! 私は常日頃から訓練してるでありますーっ!!」
なんでこう、毎回毎回突っかかられなくてはならないのか。まあ所詮、自分が『彼女の尊敬する人の妹』だからと妬んでいるのだろうが……。
なんとも安易な発想で、涙さえ出てきてしまうほどだ。
「はいはい、もうわかったよ! いいからさっさとどっかいっちゃいなよ!」
「貴女と顔を見て話すなんて、こっちから願い下げであります!」
「ふんっ!」
「べーっ!」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここ最近、訓練生の仲があまりよろしくない。芳佳やリネットのときとは違って、今回はどうもギスギスした空気を孕んでいる。教官である芳佳と
ゲルトルートも最近は見かねる面もあるが、それでも何とか二人だけで解決できないものかと様子を見ているのが現状だ。だがその期待も裏切って、
二人の喧嘩は日に日に激化の一途をたどっていた。
「……はあ、クリスをあんな子に育てた覚えはないんだがな……」
「ヘルマちゃんも、いくらトゥルーデさんのこと尊敬してるって言っても……ねぇ」
「喧嘩を吹っかけるのは穏やかではないな」
本日の喧嘩の様子も遠目に見ていた芳佳、ゲルトルート、美緒の三人が同時にため息をつく。
現在、芳佳がクリスの教導担当を務め、ゲルトルートがヘルマの教導を担当している。一応これでも、ヘルマがゲルトルートから直々に教えて
もらえることで満足してもらうという配慮をしての配置だ。だがその配慮も徒労に終わったようで、満足を通り越して鼻が高くなったヘルマは尊敬する
ゲルトルートの実の妹であるクリスを見下すようになり始めた。それに対してクリスもヘルマを罵ることが多くなって、互いに互いが挑発しあって
結局喧嘩へと発展してしまう。
もうまもなく、基礎教導も卒業という頃合なのだが……協調性に欠けている人間を、さすがに基礎訓練課程から上へ上げることはできない。そろそろ
現実的に由々しき問題となりつつある現状、もうミーナにも見て見ぬフリを頼み続けるのは難しい時期と言えた。いい加減、一度注意を促すべき
だろうか。
「今度の訓練の時、終わり際にでも言ってみますか」
「そうだな、加えてその後見つけたらミーナからも言ってもらおう」
それぞれ一回ずつ注意し、更にミーナに見つかったら累計二回目の注意。もう一度見つけた場合は、司令室へ出向して罰則を与える――ぐらいの
対応をしなければ、関係は改善しないだろう。もしかしたら逆効果になる可能性も否定は仕切れないが、その場合はこちらも然るべき処置を取るしか
方法はない。一発で仲良くなってくれればそれが一番いいのだが、どうも見ている限り一筋縄では行かなさそうな様子である。こういうときは、例え
嫌われても睨まれても恨まれてでも、鞭を打ったほうがいい。
ともあれ、ひとまず先ほどの案で手を打つことにした。結果が出ればいいのだが――。
- - - - -
「シールドに頼らない! 攻撃はできるだけ回避する!」
「っ!」
「余裕がないよ! 肩に力はいりすぎ、もっと力抜いて周り見て!」
「ぅ……!」
「逃げ方が違う! それじゃあ単なるカモだよ!」
「うぅっ――!」
「一つ一つの動きが緩いし遅い! もっとメリハリつけて、動きに緊急性がない!」
「そ、そん――
「ターゲットキル!」
……息つく暇も与えず、芳佳はひたすらインカムに向けてほえ続けた。最近訓練の伸びがあまりよくないクリスに対して、少々厳しめに指導を
行うことで気を引き締めさせるのが目的だ。事実、ここのところ回避機動のキレがなくなってきている。これはそのまま死にも直結しかねない程の
重大事項だ。例えば回避よりも防御を優先していた場合、防御しきれない角度から攻撃が飛んできた場合に対応しきれなくなってしまう。そうなれば
待ち受けるのは四方八方からの機銃掃射、後は蜂の巣である。そこには慈悲なんて存在するわけもなく、ただの屍と化して終わりだ。それが戦場で
あり、空戦である。だから、芳佳もたとえ訓練といえど容赦しない。芳佳とクリスの技術的差は絶望的と言うべきほどのものだが、それでも『墜とされる』
ということを身に沁みて実感させることで被撃墜数を減らす算段で進めている。
しかし、どうも反応が鈍い。近頃喧嘩が激化してきた辺りから伸びが徐々に悪くなり始めて、それ以来訓練も少しずつハードにして気を改めさせようと
努力はしているものの……それが伝わっていないのが現状のようだ。ただ単に訓練が厳しくなっているという認識しかないらしく、それどころか――
「……どうしろって言うんですか……」
「前は良かったんだけどね。最近、だいぶ動きにキレがなくなってきてるの」
「じゃあどうすればいいんですか? 動きが悪いって、具体的に何がどうダメなんですか?」
「うーん、一つ一つ順番につぶしていこうか」
――クリスが徐々に、反発の意思を見せてきている。理不尽に強さを押し付けられていると思っているのか、どうも逆効果につながっているような
気がしてならない。今のところ私生活においては親友の関係を保っているものの、そろそろそれも厳しいかもしれない。今日あたりリフレッシュに出た
方が良いかと考えつつ、今日の訓練のデブリーフィングを行っていた。
だが。その最中においても、クリスはなお反発的だった。
「周りが見えてないから、目の前の弾の回避を優先しちゃうでしょ? だから後へ後へとしわ寄せが来て、最後はよけきれなくなる」
「でも今までどおりの弾道予測では回避できませんでした、宮藤さん今回狙い方変えませんでしたか?」
「そりゃあ、いっつもおんなじ訓練してたって仕方ないし。ちゃんと前に進まなきゃいけないから」
「そういうのは先に言ってください。そんなのいきなり言われたって、対応できません」
「それに対応できなければ死ぬだけだよ」
「習ってもいないことをいきなりやれって、そんな理不尽な話ありませんっ!」
――言えば言うほど、逆にクリスの神経を逆なでする。どうやら、そろそろミーナに頼らざるを得ない頃合のようだ。こういうとき、あまり経験の
ない芳佳にとってはミーナは偉大な存在だった。いくら戦闘技術は向上しても、いくら教導はできるようになっても、最終的には人間関係。この辺りは
ミーナに遠く及ばない。
はぁ、とひとつため息。ここでひとつ、例え話をしてやることにした。それは芳佳が、初めて実戦……いや空に飛んだとき。出力の上げ方も旋回の
仕方も離陸に必要な距離も、飛行にかかる魔力や体への負荷も知るわけがなかった。加えて、銃の使い方や狙い方はおろかネウロイの倒し方まで、
何から何まで全部綺麗さっぱり分からなかった。それでも、戦わないと命はなかった。たとえあの時退艦が間に合っていたとしても、救助艇を攻撃されて
しまえば終わりだ。それにもしそうなっていたら、そのときはほかに邪魔となる勢力が存在しないことになる。つまりは美緒の命もないわけであって、
ストライカーユニットの存在さえつい一月前に知ったばかりの芳佳が戦わなければ部隊は壊滅していたのは間違いないだろう。戦わなければ死ぬ、ただ
それだけのことだ。
だが、そんなことを諭しても。今のクリスにはまったく意味のないところであった。
「それを私にもやれって言うんですか? 宮藤さんみたいな天才と私みたいな凡人を同列に考えないでください」
「あのねぇ……天才とか凡人とかそういう問題じゃないんだけどな」
そろそろ芳佳の我慢も限界に近い。いい加減頬でもはたいてやろうかとさえ思ったが、しかしそれより前にクリスから思いもよらぬ言葉が飛び出す。
訓練熱心だったクリスが、いきなり――――もう今日はやめにしようと、そう言い出した。芳佳の教導の時間を誰よりも心待ちにして、終わると満面の
笑みで一緒に風呂に入っていたクリスがもう終わりにすると言うのだ。芳佳も驚きを表面に出しかけるが、しかしここで圧倒されてしまってはクリスの
思う壺である。あくまで自分はクリスを導くべき立場にいる人間であり、クリスに振り回されていい立場ではない。芳佳は内心首を振って気持ちを
入れ替えると、険しい顔つきで対峙した。
―――別に、クリスが望むならいい。そう答えてやると、じゃあ終わりだとそそくさ退散しようとしてしまう。これは本格的にまずい状況になりつつ
あると思い、それでもあの一件だけは伝えないわけにはいかないとクリスを呼び止めた。
「ひとつだけ連絡、というか注意しとく」
「この期に及んでなんですか」
「レンナルツ曹長とこれ以上イザコザ起こさないこと。変なことしたら罰則処分だよ」
「……変なことって何ですか、まったく」
あきれたような顔をして、クリスはハンガーへと消えていった。芳佳も手のつけようがないといったところで、左手を腰に当てながら右手で頭を
ぽりぽりと掻いた。ついこの間まで素直にやってくれていた分、今日一日でいきなりここまで変わられると芳佳としても戸惑いを隠せない。まあ、
おそらくクリスとしては素直にやっているフリをして腹の中にいろいろと抱え込んでいたのだろうが。……それに気づけなかったのは、教官としての
未熟さか。芳佳はため息をひとつついて、そして傍らの積み上げられたコンテナへ目をやった。
「……見ててどうです?」
「おっと、バレてたか、あはは。……まあ、難しいところだけどね。腕の見せ所だよ、ある種のチャンスだね」
「そんなこと、私に頼まれてもなぁ……経験浅いですから」
苦笑する芳佳。コンテナからひょっこりと顔を覗かせているのは、扶桑出身のウィッチである芳佳の大がつく先輩、かの有名な――
「じゃあこれが大きい経験値になるんじゃない? 頑張ってみな」
「うー……黒江さんはこういうの、慣れてたりします?」
「さあね」
――黒江綾香中佐。どうしたらいいか分からず、今は藁をも掴むような心地の芳佳にとっては、大先輩のアドバイスも伺ってみたいものだった。
そうこぼすと、右手に握る竿を動かして首をかしげる。ご丁寧に竿は二本握られていて、足元には釣り用具もバケツも一式揃っていた。つまりは
付き合え、ということなのだろう。苦笑を引き連れて芳佳は竿を受け取り、島西部の港へと移動する。日は徐々に傾いて、空は紅くなり始めていた。
適当なところに腰を下ろして、あとは海に投げ込むだけになっている竿を綾香から受け取って―――綾香に習って、適当に投げる。綾香の釣りに
付き合うのはもう何度目かになるが、如何せん初心者の芳佳は今まで一度たりとも釣れたことはない。横で楽しそうに綾香がバシバシと釣り上げて
いるのを見ながら雑談する時間、芳佳の中ではそういう位置づけである。まあ、潮の読み方も分からない芳佳にウキ釣りは少々敷居が高すぎると
言わざるを得ないだろう。一応綾香がマキエなど面倒を見てくれてはいるものの、そんな簡単に釣れれば今頃地球は魚不足である。
「まあ、これといった経験があるわけでもないんだけどね」
「……」
「ただ、ひとついえるのは自分がああいう立場になったときどう思うか、どうしてもらえたらうれしいかを考えてみると良いんじゃないかな」
ウキをぼうっと眺めながら、綾香は言う。
釣りというのは魚の気持ちが分からなければうまく釣れない。例えばコマセを撒くのは、簡単に言えばコマセを餌として魚を引き寄せてそこに
本命の餌を投下することでついでに釣ってやるためである。つまり魚が飯を食いにきたところに、飯と一緒にまぎれさせ鈎を落としておくことで
魚が同様に突付いてくれるようにするため。だがその魚の行動が読めていなければ、マキエをしたところで釣れる訳がないだろう。効果的に撒いて、
魚の喜んで食いつくところに鈎を落としてやれば―――
「こうして。だろう?」
「へー……」
「……ま、宮藤には釣りで例え話をしても分かりにくいか」
あはは、と笑みを浮かべる綾香。その手にはしっかりと狙った魚が握られていて、流石は綾香といったところだ。
つまりは相手の気持ちを理解して、相手の立つ場所に自分も立ってみろということである。今回のクリスは、ヘルマとの喧嘩を発端に何らかの
気持ちが働いて、その気持ちが体の動きを鈍らせてしまっている状況だ。ならばもし、同様の理由で芳佳が誰かと喧嘩する羽目になったら? そう
考えてみると、どうするべきかという活路も見出せるものかもしれない。例えば今よりちょっと前、まだ芳佳とリネットが美緒の下で訓練を受けていた
頃。もしリネットと喧嘩して、美緒に追いつくとかそんなの無理だとかでギャアギャアと騒ぎ立てていたら。きっと芳佳は、リネットになんて負けて
いられないと必死になって、しかしそれが裏目に出て焦りばかりが前に出て動きはかえって悪くなってしまうだろう。……つまりはクリスもそれと
同様の状況にあるわけで、ならばどうすればいいか。逆に芳佳は、そういう立場におかれた場合どうしてほしいか。
「うーん……都合がいいって怒られるでしょうけど、それでも……喧嘩したことを怒るんじゃなくて、向き合って相談に乗ってもらって、こう……
どうやったらいいかを教えてもらって、背中を押してもらいたいです。なんていうかな、味方についてほしいっていうんでしょうか」
「なるほどね。……じゃ、クリスもきっとそうなんじゃないか?」
綾香が微笑しながらそう言うと、芳佳は苦笑しながら分かってますよと返事をした。
「相手の気持ちを考えてやれ、って言われたところで気づきました。否定しちゃダメだなって」
「そ」
綾香はまた海を眺めながら、言葉を続ける。
たとえ元は外的要因だったとしても、自分に対して反発する者に対して否定したり怒ったりすることは容易だ。だがそこで一歩退いた目で見て、
相手がどうして欲しいかを冷静に考える。それが将来のためになるかならないかは別として、まずは相手のことを考える。相手の考えが読めたら、
今度はそれが将来のためになるように少しずつ改変しながら導いてやる。それで納得してもらえるように手探りながら説得を試みて、それで上手く
丸め込んだら今度はたった一言~二言程度で軽く注意を促す。そこまで納得してくれれば御の字だ。だがそう上手く行かないことも多いので、
そういうケースはまた対応を考える。相手が絶対に間違ってると感じる場合は時には一部を否定することも必要だし、相手に正しい面もあると
思うのならその面だけを強く肯定してやるのもまたひとつの手だろう。そうして相手と真剣に向き合うことが、きっと解決への糸口になる。
幸い、芳佳とクリスは親友とも言うべき仲だ。きっと芳佳が一言謝って折れれば、クリスも顔をほころばせてくれるはずである。
「……はー、やっぱり先輩には敵わないや」
「そうかな? 案外、そうじゃない面も多いと思うけどね」
綾香が苦笑気味に言って、そして直後に芳佳の正面で水が躍動する音が響く。何かと思って目をやると、芳佳が糸を引き上げて――――。
「……そうみたいですね。ちょっと自信つきました」
「あっははは! ちなみにその自信はどっち方面に?」
「両方、ですかね」
―――その手には、先ほど綾香が釣り上げた魚と同じものが握られていた。
二人はその後も釣りと談笑に興じて、日が暮れるまでずっと港にいた。
- - - - -
その夜、外は雨だった。決して雨量は多くないが、しとしとと降り注ぐ水玉は滑走路を静かに濡らしていく。ひたひた、ひたひた。そしてその
中にあって、水を滴らせる影がひとつ……寂しそうにぽつんと、宵闇から浮かんでいた。
「――冷えるよ。ほら、タオルとお茶」
「……要りません」
後ろから声をかけても、びくんと肩を跳ねさせたきり振り返ることもなく雨に打たれる少女。しかしそれを見ていた彼女もいたたまれず、近くの
ベンチに温かい水筒とやわらかいタオルを置いてから自らも外へと繰り出した。
「昼間はごめんね。ちょっときつい言い方しちゃって」
「……いいんです。私はどうせ、すぐ墜とされる役立たずなんですから」
「そんなこと、言ってないよ。ただ、ちょっと背伸びしたかっただけじゃない?」
……芳佳がそうやわらかく尋ねると、クリスは驚いた様子で振り向く。その目はどこか怯えるようにも見えて、その目に芳佳はどう映ったか。
ほんのわずかな時を空けてクリスは俯くと、うん、と小さく呟いた。それに安堵した芳佳は、ポケットから一枚小さなタオルハンカチを取り出して
クリスの顔を拭う。また驚いた様子で見上げるクリスに対して小さく微笑み返すと、クリスも緊張を解いたのか芳佳の制服の袖をきゅっと小さく
掴んだ。そのままハンガーのほうへ歩いていくと、クリスも後に続いてくる。ハンガーに入ってからタオルで髪をゆっくりと拭いてやると、気持ち
よさそうに目を細めた。大分クリスも落ち着いてくれたようで、芳佳も一安心だ。
――さて。ここからが本番、芳佳の『腕の見せ所』である。
「それで、さ。言いにくいとは思うんだけど……今ヘルマちゃんとはどんな感じ?」
怒ったりしないから。クリスちゃんのこと、応援してあげたいから。芳佳が微笑してそういうと、クリスは湯飲みに注がれた温かいお茶を見つめ
ながらひとつふたつと口を開いた。
――ゲルトルート・バルクホルン。彼女はクリスにとってもヘルマにとってもとても『おおきな』人。クリスにとっては唯一の肉親で、頼れる、
そして甘えられる大好きなお姉ちゃん。ヘルマにとっては、誰よりも敬愛する、自らの命よりもよっぽど大切な恩師。それぞれがゲルトルートを
大事に思っていて、それ故にどちらがゲルトルートに面倒を見てもらうべきかとぶつかることも多い。最初に吹っかけてきたのはヘルマだったが、
それに乗ってしまったが最後……今の今までずっとぶつかり合いが持続しているというところだ。クリスも血の繋がった身近にいられるただ一人の
姉なので、断固としてこの距離を手放すつもりはない。だがヘルマも、同じカールスラント出身として敬愛する大先輩の傍を離れたくない。
どちらの気持ちも理解できるし、それ故に確かにぶつかり合ってしまうのは仕方がないことなのかもしれない。だが、同じ一人の人を愛するもの
同士、仲良く手を取り合うことはできないのだろうか。そんなことも考えてしまう。
「そりゃあ、私もそうできればいいなとは思います。けど……肝心のあの子があんな調子じゃ……」
「まあ、確かにね。じゃあやっぱり、クリスちゃんも仲良くはしたいんだ」
「だって……人とぶつかり合ってたら、お姉ちゃん、きっと悲しむから」
それが本国にいた頃の後輩ともなれば、余計に。ゲルトルートからしたらきっと、互いに仲良くして欲しい相手なのだろう。その辺りをクリスも
重々承知しているので、本当はヘルマとも手を取り合えればそれが一番いい。だが、どうしても突っかかられてしまうとこちらも同じように反発して
しまって上手く行かない。このままでは永遠に手を取り合えないのは分かっているのだけれど、現状を打破する方法が見つからないのだ。まだまだ
病室を出てから数ヶ月のクリスには世界は広すぎて、この部隊の基地でさえも目が回ってしまう。
芳佳はそれに対して、頭に手を置いてやさしく撫ぜることで答える。
「うん。大丈夫、想いがずっと胸にあるなら、きっと叶うよ」
「そうでしょうか……」
「あのね、私ペリーヌさんとずっと仲悪かったんだよ」
そんな、まさか。クリスがそう問い返すが、芳佳は笑って答えた。入隊当初は、目の敵にされていたと。あのときも、今のクリスとヘルマの関係に
大分近かったかもしれない。ペリーヌに一方的に嫌われて、だから芳佳も思わず反発してしまって。ミーナに見つかって大目玉を食らったことも
何度かあったが、それやこれやを乗り越えていくうちにいつしか一緒に笑って手を取り合うこともできるようになっていた。ネウロイとの戦争の際、
最後に赤城とウォーロックの融合体を相手にしたときにはもうそうなっていたように思う。ペリーヌは最後までついてきてくれたし、それに最後の最後は
芳佳の体を支えてもくれた。また今は亡き父に作ってもらったストライカーが最後に大空へ散っていったことも気にかけてくれて、心が温まったのを今も
覚えている。基地に帰ってくるまでずっと握られていた手のぬくもりは、きっといつまでも忘れないだろう。
……だから。今はぶつかり合うような相手でも、ぶつかり合っている間はきっと大丈夫だ。何故なら、互いに互いを認識しあっているのだから。
そうしてぶつかり合う中で、きっといつか互いを認められるようになるはず。どちらかが懸命に歩み寄って呼びかければ、もう片方の心もきっと
揺らいでくれるはずだから。だから、絶対にクリスには諦めて欲しくない。諦めたらそこで試合は終わってしまうのだ。そうならないために、
歩み寄りたいと願うその心を絶対に手放してはいけない。芳佳がそう強調すると、クリスも深くうなずいた。
きっとその為になら、多少行き過ぎてしまうのも仕方がないだろう。意見が食い違うのも、ぶつかり合うのも、そしてついには手が出ることも。
相手の命や今後にさえ関わらなければ、きっと少しは行き過ぎてしまうのも仕方のないことなのだろう。芳佳だって幾度となくミーナに呼び出しを
食らっては厳重注意を受けていたので、クリスもそういう経験は必要なのかもしれない。融和の心を以って接していれば、いつかは報われるときが
来るはずである。それが例え、誰かを傷つけてしまうほどの激突の末であったとしても――。
「まあ、すぐに結果を出そうとしても、足がもつれて転んじゃうだけだから。私も一緒に隣を歩くからさ、ゆっくりやっていこうよ。ね?」
芳佳がそう微笑んで、クリスの手を優しく握り締めた。クリスも安心したように笑って、その身を芳佳へと預ける。寄り添う二人は雨の降りしきる
ハンガーで、しかしどこか温かそうだった。
それを遠目で見守る、姉の姿。ヘルマはヘルマで部屋でいろいろと考え込んでいるようで、今はゲルトルートの手は借りずに何とか模索してみると
一人で頑張っている。果てさて、それが実を結ぶかどうか――ひとまずクリスに心配はないと見て、彼女はその場を後にした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の日の朝、訓練前に顔をあわせたクリスとヘルマは互いに居心地が悪そうだった。正確にはばつが悪そうにしていて、なんとも形容しがたい
空気が辺りを包んでいる。
「……その、昨日は」
クリスがぼそぼそと言い出す。しかしヘルマには良く聞こえなかったようで、ヘルマが聞き返して――聞こえなかったんならやっぱりいいやと、
俯き加減で再び口を閉ざしてしまう。クリスもヘルマも互いに気持ちを伝えられぬまま、時間だけが流れていく。早く芳佳であれゲルトルートで
あれ来てくれないかと願う二人だったが、進展があるように二人を見守っている教官たちが早々簡単にくるわけもなかった。当然、二人がクリスと
ヘルマの経過を見守っていることは本人たちは気づいていない。
「やっぱり、一日じゃ無理ですかねー」
「まあ、お前が言っていた通りゆっくりやっていくしかないか」
「……見てたんですか」
そうそう、上手くは行かない。とは言っても流石に一日で結果の出るものとも思っていなかったので、今日のところはいつも通りにしようと
訓練に移ることにする。流石に訓練開始時間を五分も過ぎてしまっているので、これ以上観察するのは難しかった。二人は立ち上がって、ごめん
遅れたとでも言いながら走っていこうかと―――
「ひっどーい、そんな言い方しなくても!」
「別にそんなひどいこと言ってないであります! ただ事実を述べただけであります!」
「確かにそうかもしれないけど、そんなひどい言い方しなくてもいいでしょ!?」
「そんなの知らないであります! 簡潔に事実だけを伝えることのどこが悪いんでありますか!」
――ああ、また始まった。芳佳とゲルトルートは盛大なため息と同時に手を額に当て、首を振る。ちらりと横を見ると、同じように様子を見に来て
いたミーナも頭を抱えていた。……これでは話にならない。とりあえず今日のところは、ミーナに出てもらって一言注意を促すしてもらうしかないか。
芳佳が頭を下げると、ミーナも渋々といった風で陰から出て行った。一度出て行くと、後はそこにあるのは厳しい司令官の顔だけである。流石はミーナ
といったところか、公私の使い分けがはっきりしている。いつかあんな人になりたいと思いながら、芳佳はミーナが歩いていくのを見送り、また
怒られるであろう二人の身を案じていた。
「――そこまでにしなさい」
「っ!?」「!!」
いきなりの部隊長の登場に二人とも驚いているようだ。しかし悪いことをしていたという自覚は流石にあるようで、どちらも一瞬で口論をやめて
俯いてしまう。ミーナが二度目は無いと警告を促すと、二人とも流石に緊張してか姿勢を自然に直した。それからなぜこんなことになったのかと
クリスに尋ねると、そこでヘルマが一瞬むっとする。ミーナも芳佳もゲルトルートも、その瞬間は決して見逃さなかった。
――クリス曰く、芳佳が来ないことが気がかりでそれをぼそりと呟いたらしい。ヘルマも似たり寄ったりでゲルトルートが来ないことを心配して
いたようだったが、口を滑らせてつい喧嘩腰になってしまった。私みたいな成績不振者は要らないのかな、とまるで昨日の喧嘩を思い出させるような
台詞。言った直後にヘルマも気づいてはっとしたが、クリスは冷静に対応した。かなり頭に来ていたのはもちろんだったが、それでも抑えて別にそんなに
成績悪くないよとフォローに入った――はずだった。それに対してヘルマが余計なお世話だと一蹴した上で、クリスがそうやって上からものを言えるのは
ただ昨日の成績がヘルマより良かっただけであくまで一時的なものだと反論。そんなことない、と言い返したら今度はそれまで悪かったくせに今回だけ
良くなったからってでしゃばらないで―――。
ヘルマはそんなことないと口を挟みそうになるが、ミーナが止めた上にクリスもただ事実を述べているだけだと言い返す。先ほどヘルマも自分で言った
ことだったので、ぐうの音も出なくなってしまう。
「互いに競い合うのは結構ですが、それによって部隊の風紀を乱すのは許されません。次があった場合は司令室へ出向とします」
「……」
気まずそうに、互いに目だけあわせるクリスとヘルマ。事態が大事になりつつあるので、流石の本人たちも少々焦りや悔いを感じているのだろうか。
そうならいいのだが、ど様子を見ている芳佳は思う。
「返事は?」
「―――了解」「了解、であります……」
二人は敬礼して、覇気のない返事を返す。ミーナも一度うなずいて、その場は何とかなったのできびすを返した。来た方向――芳佳とゲルトルートが
様子を見ているコンテナの方へと歩み寄って、二人がこちらを見ていないことを確認した上でミーナもコンテナの陰に隠れた。……そしてクリスと
ヘルマには聞こえない程度の声で、盛大なため息。
「もう勘弁して頂戴……」
「すみません、私が教えるのが悪くて」
芳佳が頭を下げると、それが予想外だったのかミーナはたじろいだ様子でそんなことないからとフォローした。ゲルトルートも頭を下げようかと
思っていたが、芳佳に先を越されてしまった上にそれにフォローに入られてしまうと最早頭の下げようもない。ぽりぽりと頬を掻いて、結局何も
しないことにした。
……さて、事態は徐々に悪化しつつある。とにかく今日の訓練を始めなくては、かれこれもう十分も経過している。そろそろ開始しなくては、今度は
芳佳とゲルトルートがミーナから怒られなくてはならなくなってしまう。いくら監視のためとは言え、本来の職務を放棄してまでやるべきことでは
ない。
「それじゃ、訓練のほうお願いね」
「「了解」」
ミーナが一言言って、芳佳とゲルトルートも小声ながら返事。クリスとヘルマがこちらを見ていないことを―――ん?
「ちょっと待ってください」
「あれは……」
二人の様子がどうもおかしい。芳佳とゲルトルートはなお監視を続けて、立ち去りかけたミーナも振り返ってそちらを眺める。どうやら、何かあった
ようで……耳を澄ましてみる。
「私はただ、あったことを言っただけじゃんか……」
「なんだか私が悪いみたいな言い方だったであります。ひどいのであります」
「だって、私は……私は、その……」
「言い淀むってことは、どこかごまかしてたのではありませんかっ」
「違うの! そういうことじゃなくて、その―――」
喧嘩か、あるいはもっと別の何かか。少なくともクリスが友達になってくれと言い出したいのであろう事は分かって、だから芳佳の手には力が入る。
……頑張れ、クリス。あともうちょっとだ。
――――しかし。希望というものは、得てして直前で空しく絶望に変えられてしまうことが多い。
「そういうことじゃないなら、どういうことなのですか? 言ってみると言いのです」
「あの、お願いだから喧嘩腰になるのやめて……」
「強気かと思ったら弱気ですか、変に弱腰になられるよりはまだ前のほうがよかったのです。今の貴女は輪をかけて性質が悪いのであります」
「弱腰なんかじゃない、ただ……!」
―――友達になりたいだけなんだ。その言葉がいえなくて、のどにつかえてしまう。そのせいで言い出すべきタイミングに言い出せず、そして――
ついに、決定的な引き金が引かれる。
「―――言いたいことも言えないのに、体裁だけで頭なんて下げられても頭に来るだけであります。言い出す勇気もないヘタレさんは引っ込んでるが
いいです!」
『あ』。芳佳もゲルトルートもミーナも、三人とも口をそろえた。もう、これは無理だ。取り繕いようがない。ミーナは再び盛大なため息と同時に、
いったんその場を離れた。どうやら一度司令室に戻って、いろいろと根回しの準備をするらしい。ゲルトルートが一度だけ呼び止めると、ミーナも頷いて
去ってしまう。
―――ミーナがいなくなったら、美緒かゲルトルート、芳佳が指揮を執る立場にある。ということはつまり、この場で二人を拘束する力があるのは
芳佳もゲルトルートも同じだ。ならばこの際、訓練のことなんてもうかまってられない。出て行って、自分たちで手を打つべきだろう。不本意の結果に
終わって盛大なため息をつくとともに、芳佳も残念な気持ちで一杯になってしまう。確かに怒られることも必要だとはいったが、だからと言ってこんな
ミーナに対する挑発みたいなことはしなくても良かったのだが……。よりにもよって、『二度目はない』といわれて五分も経たないうちに二度目を
繰り返すか。
「ヘタレッ……この、あったまきた! こっちはせっかく歩み寄ろうとしてたってのに!」
「一体全体どこにそんな意思があったというでありますか! ただ言い淀んでいただけでありますっ!」
「い、言おうと思ったけど言えなかっただけだよ!」
「そんなの後からいくらでも言い繕えるのであります!」
「こんの……人の好意を無駄に――――
人の好意、か。まあ確かに、実際のところはそうなのだが。どうも、今回はどれもこれも空回りしてばかりのような気がする。ヘルマの挑発癖が
抜けない限り、どうも融和は遠そうだった。クリスの短気なところも、どうにか手を打つ必要がありそうだ。芳佳はそんなことをぼんやり考えながら、
しかし顔はこの上なく険しかった。
「―――ものの数分しか持たないの?」
「「!!!」」
クリスとヘルマ、今度はばっと振り向いて芳佳のほうに向き直る。まさかこのタイミングで来られるとは二人も思っていなかったのか、冷や汗を
垂らす―――と同時に、ヘルマはひとつだけ気づいた。
「な、まさか訓練を放棄してずっと見てたでありますか!」
「口答えは必要ありません。ミーナ隊長から命令があったはずです、次は司令室へ出向だと」
「答えてください! なんで訓練を――
「いい加減にしなさい、ヘルマ・レンナルツ曹長」
芳佳が強い語調でヘルマに言う。それは叱るというにも、怒鳴るというにも違う、威厳のある言い方だった。それに竦んで、ヘルマは小さくなって
しまう。それとは対照的に、クリスのほうは申し訳なさそうな顔だった。流石に昨日の今日の上に叱りにきたのが当の芳佳ともなれば、こうるのも
仕方ないといえるだろう。本当は微笑でもして頭を撫ぜてやりたいのだが、今はそれをするべき時ではない。あくまで今は『宮藤少佐』であって、
一緒にお風呂に入るような親友『芳佳』ではないのだ。
「――隊長命令により、ヘルマ・レンナルツ曹長、及びクリスティアーネ・バルクホルン軍曹は直ちに司令室へ出向せよ」
「……了解しました」
クリスは俯いて、細々とした声で了解を返す。ヘルマは芳佳を弱弱しい目で睨みつけながら、それでも了解の返事は返してくれた。やがてゲルトルートが
出てきたのを確認すると、芳佳は二人の前を歩いて司令室へ向かう。後ろからゲルトルートがついてきて、二人の様子を監視している。その空気はとても
緊張なんてもので言い表せるものではなく、普段のお気楽な芳佳はどこへやら―――今はミーナにも劣らない、非常に厳しいオーラを放っていた。
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「――ここは最前線の空軍基地であり、遊ぶため、或いは馴れ合いのために存在している場ではありません」
「「……」」
「場をわきまえなさい」
「「はい」」
ヘルマとクリス。座しているミーナの前で、二人は一切動くことを許されず直立している。その横には芳佳とゲルトルートの姿もあって、そのどちらも
ミーナと同じく険しい顔を浮かべていた。ヘルマとクリスのほうは緊張した面持ちで、どんな罰則を与えられるのかと内心はらはらしていた。
「風紀を乱す者には職務を任せることはできません。ヘルマ・レンナルツ曹長」
「はっ」
「クリスティアーネ・バルクホルン軍曹」
「はっ……」
どこか覇気のない返事。しかしそれには触れず、ミーナはそこに書かれていることを淡々と述べた。
「――以上二名には、食事等のやむをえない場合を除いてそれぞれ五日間の自室禁錮を命じます」
……職務が与えられていない自室禁錮。言い換えれば休暇と言うこともできなくはないが、自分の部屋から一切出ることはできない。逆に言えば、
仕事にならんから部屋で邪魔にならないようにしてろ、と言う宣告でもある。クリスとヘルマは一瞬目を見開いて、しかしすぐに元に戻る。……一体、
心のうちではどれだけ動揺しているだろうか。
ミーナが少しの間を空けて、異議はあるかと問うた。少しの間を空けてクリスが小さく何かを言って、ミーナが発言するときは挙手をしろと注意を
促す。すると小さくなってしまって、今度は手も挙げなくなってしまう。何か言いたいことがあるのではないかと思って待ってみるが、どうやら少し
言い出すのには勇気が要るようだ。いっそ、断ち切ってしまえば逆に言い出せるかもしれない。そう思ってミーナは異議はないものと判断しました、と
言おうとして口をあけて―――
「あの……」
クリスが、ようやく手を上げた。何が言いたいのかは分からないが、手を挙げたのなら聞くべきだ。ミーナはクリスに発言権を与えると、少しの間
待った。どうやらクリスも言うべきか言うまいか悩んでいるようで、しかし結局言い出した。
「……レンナルツ曹長の分を、私が負うことはできませんか……」
「え?」
ヘルマが驚いたように反応して、ゲルトルートに一喝される。そしてミーナは内心ため息をつきながら、クリスの方をじっと見た。確かに冗談を
言っているようにはさらさら見えないが、だからといってこんな場で言っていいことではない。要約すればヘルマを救ってその分自分に重い罪を
負わせてくれとそういうことなのだが、これはそういう問題ではないのだ。誰かが罰をうけなければならない、ではない。ヘルマとクリスの両者が
等しく罰を受けなければならない、今回はそういうケースだ。
それを言おうとすると、ゲルトルートがすっと手を挙げた。……確かに、仲が良いとは言え他人のミーナが言うよりは肉親であるゲルトルートが
言ったほうが効果はあるかもしれない。変則的ではあるが、ゲルトルートに発言権を与えた。
「クリスティアーネ軍曹、貴官のその心意気は認める。だがここは遊び場ではないとはヴィルケ大佐の言われたとおりだ」
―――ヒーローごっこをするべき場ではない、場をわきまえろ。ゲルトルートがそうしてクリスの発言を一蹴すると、ミーナもその通りだと同調。
クリスはまた小さくなって、了解しましたと小さく頷いた。ほかに異議はないかとミーナが問うとどちらももう何も言わなかったので、退室させる。
……退室の際、クリスがゲルトルートを睨みつけながら出て行ったのが印象的だった。ゲルトルートはそれでもなお厳しい顔を浮かべたままで、まるで
意に介せずといった風だった。
二人の退室を確認してから、ミーナは手に持っていたバインダーを机に置いて長く伸びる。
「うぅ、どうしてこう問題だらけなのかしら……」
「すまないな、ミーナ。手を煩わせてしまって」
今度はゲルトルートが頭を下げて、芳佳もそれに続いてすみませんと謝った。だがミーナは、今度は落ち着いて二人は悪くないからとフォローを
入れた。ただ今後の二人の動向如何によっては当然、教導担当である芳佳やゲルトルートの責任も問われかねない。これからはもう少し敏感に見てやって
くれとミーナが言うと、芳佳もゲルトルートも敬礼を返した。
―――ともあれ、これからしばらくクリスとヘルマは禁錮処分だ。芳佳は声をかけにいこうと、司令室を後にした。
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「……なんであんなこと言ったでありますか」
「……そうすれば、貴女と仲良くなれるかと思って」
「あんなことされても、うれしくないであります……」
「……そう……」
二人はまるで覇気もなく、言い争いにすらならない会話をしていた。その歩幅は小さく、そこにいつもの活気は欠片も見られない。とぼとぼと歩く中、
それでもなんとか間を持たせようとして……ようやく、本音がこぼれ始める。
「……ごめんなさいです」
「……」
「折角の好意を無駄にしちゃって、それどころか迷惑までかけて……ごめんなさいです」
ヘルマがぼそぼそと、申し訳なさそうに言った。どう返事をすればいいか迷うクリスだったが、うん、と一言だけ返す。それからヘルマが、小声ながら
話を始めた。
最初に会ったときは、別に悪い印象は受けなかった。それどころか人当たりもよく、優しい人だとさえ思った。だがゲルトルートと仲良く並んで
歩いて、しかも話を聞けば妹だと言う。誰よりも敬愛するゲルトルートと、血の繋がりだなんて反則とも言える手段でいつも近くに居られるクリス。
そんなのと比べれば、ヘルマなんて針を通す間もないほどに首を突っ込む隙間なんてなかった。当然、妹にかかりきりだったり基地を纏める上層部として
忙しいゲルトルートは、ヘルマに構っている暇などあるわけがない。加えて芳佳も、教導官繋がりでいろいろと話し合うことも多い。更には見知らぬ
扶桑の魔女たちも基地上層部としてゲルトルートとともに居ることが多く、本国で教導を受けていた頃のようにヘルマがゲルトルートを独り占めできる
時間はほとんど存在しなかった。その中にあって、同じ訓練生と言うことでクリスは特に目に付いてしまった。思わず挑発的になってしまって、いつも
敵対するように喧嘩していたのも、そんな独占欲が原因だ。そしていつの間にかそれが当たり前になって、クリスを見つけたらふっかけなくてはいけない
ような気がするまでになってしまっていた。その上で仲良くしようなんて言われても、それはクリスにとって都合がいいだけとしか思えなかった。それは
間違いなく、『自分にとって都合のいい』考え方だ。そしてこんな大事になるとは夢にも思わなかった、甘い考え。それらが積み重なって、結局クリス
どころか基地中に迷惑をかける事態になってしまった。人一人が動かないならば、必ず誰かがその分の補填をしなければならない。更にその分の不足も
補わなければならないわけであって、それはつまり基地中が動くことになるのだ。……安易で愚直な考えだったと、いまさらになって気づいてももう遅い。
「……ごめんなさい、です……」
ヘルマが、大粒の涙を目じりから零しながら。改めて、そう呟いた。今ヘルマに出来ることは、ただ謝ることだけ――。
「私も、ごめんね」
それに対して、クリスもまた頭を下げる。クリスもまた、ヘルマの言うことに乗せられて喧嘩を激化させていった要因のひとつだ。また、血が繋がって
いるからとそれだけでゲルトルートといつも一緒に居たのも、ヘルマにとっては負担になっていた。確かにゲルトルートは誰のものでもなくゲルトルート
という一人の人間なのだから、誰かに拘束されるべきではない。本国に居た頃教導を受けていたからと言ってヘルマが独り占めしていい道理はないが、
しかしだからと言ってクリスが常にゲルトルートの横に陣取っていていい道理も無かった。そしてそれに気づいてやれなかったことは、クリスの器が
まだまだ小さかったことの証である。
――二人は顔を見合わせて、それから。
「ごめんね。禁錮が開けたら、一緒に訓練でもしようか」
「はいです」
微笑して、そして―――互いに手を取り合う。そこから伝わる温もりは相手の優しさを伝えて余りあるもので、まるで自分の心まで温められている
ような錯覚にさえ捕らわれる。前からこうしておけばよかった、とどちらかが呟くと、でも今手を取り合えたんだから手遅れじゃない、と返す。二人は
どこか仲間むつまじいように、手をつないだまま居住区へと戻っていった。
「――なんだ、取り持つ必要は無かったかな」
そんな二人を、まるで保護者のような目で見守る芳佳。足音がするので振り返ってみると、そこにはあの見慣れた姿があった。
「ありがとうございました。お陰で何とかなった気がします」
「まあ、後は二人次第だね。一緒にどう?」
「お供します」
芳佳が微笑して、一本の長い棒を受け取った。―――綾香も笑って、二人でまた港へと歩いていく。昨日釣れたのが嬉しかったようで、芳佳も釣りに
積極的になりつつあった。
―――いつかは、苦手意識が消えるように。今はまだぎこちないかもしれないけれど、その壁がいつかは取り払われるように。そう心から、願わずには
いられなかった。
(ごめんなさい、ありがとう。宮藤さん、お姉ちゃん)
――――fin.