サーニャさん黄昏れる


 気がつくと私は、知らない部屋のベッドで寝ていた。
 どこダ、ココ……?
 ぐるり部屋を見回そうとすると首筋に痛みが走った。それでもなんとか全景を確認する。
 殺風景な部屋だった。ダブルベッドがぽつんとあって、それでもうおしまい。
 カーテンは閉めきられているので部屋は暗くて、今が昼か夜かもわからない。
 なんで私、こんなところにいるんダロ?
 おかしい。だってついさっきまで私は学校の廊下で……サッサッサーニャと、

 …………………………。

 思い出したくない記憶が脳裏に浮かびあがってきて、それを振り払おうと寝返りを打とうとした。
 しかし、できない。
 手も足も動かない。まるで金縛りにあったみたいだった。
 いや、違う。手首が縄できつく固結びされてるんだ。足首も。なんで今まで気づかなかったんダロ?
 おかしい。なんで私、こんなとこに――
 と、そんな私を見下ろしている人間がいることに気づいた。
 カチンと視線と視線ががぶつかると、そいつは微笑みかけてきた。
 サーニャだった。
 にじんだような照明のオレンジが、その顔を浮かびあがらせる。
 いつの間に現れたんだ、オマエ?
 ……わからない。ぜんぜんさっぱり。気づいたらそこにいた。私の枕元のすぐそばに。
 なんとなく、宇宙人がさらってきた人間を観察してるときの、そういうシュチュを連想した。
 見下ろすサーニャと、仰向けに無防備な私。まさにそういう状況だった。
 サーニャは口元をほころばせて、
「ふふっ。エイラって可愛い」
「かかかっ可愛くなんてネーヨ!」
「ううん、やっぱりエイラは可愛い。そうやって照れちゃうところがまた可愛くって好き」
「なっ……!」
 ななななにを言ってんダヨ、オマエ。わっわけわかんネー。
 す、好きとかそんなこと、なんでそんなに軽々と言えるんダヨ。なあ?
「エイラってば耳まで真っ赤」
「そ、そんなはずないダロ!」
「あっ、さらに赤くなった」
 違う違う違う。これっぽっちも赤くなんてなってない。顔が熱いのも私の気のせい。
「そっそっそんなことよりっ! どうして私はこんななってんダヨ!?」
「こんなって……?」
「とぼけんナヨ! なんでベッドに縛りつけられてるのかって訊いんダ! オマエがやったんダロ!?」
「うん、そうよ」
 認めやがった。あっさりと。認められてしまった。
「だってそうしないとエイラは逃げちゃうもの」
 グサリ。
 と、本当に胸に刺さるようだった。淡々とした言葉が冷たく響いた。
「どうしてエイラは言ってくれなかったの? どうして逃げたりしたの? ねぇ、どうして?」
「そそそれは――」
 それは私が、
 言いよどんでしまった。いや、そもそもこんなこと、誰にも言えるわけないことだった。
 特にサーニャになんて、絶対、どんなことがあっても、口が避けても言えないことだ。
 長い長い沈黙だった。時間の感覚を忘れそうなくらいに。
 勘弁して、勘弁して……心の中で何百回そう念じ続けただろう。
「――まあ、いいわ」
 耐えかねて先に口を開いたのはサーニャだった。
 その言葉に私は胸を撫でおろした――のもつかの間、
「だって今からエイラが言ってくれるんだもの」
「なっ、なにをっ!?」
「えっ? エイラはこれから、わたしに『好き』って言ってくれるんでしょう?
 何千回も何万回もわたしに向けて言ってくれるんでしょう? 『大好き』って。『愛してる』って」
 な、なんだ、コイツ。なに決めつけてるんダ?
 頭おかしいんじゃ……いやそうだった、コイツってヤンデレだったんだ。
 い、言わなきゃなにされるかわかったもんじゃない。
 この場はとりあえず、言っとかなきゃ。嘘でもなんでもいいから。
 私は言った。

「……………………」

 ううん、言えなかった。
 口元がぎこちなく震えるばかりで、なんにも。たった一言のはずなのに。
 まるで呪いにかけられて声をなくしてしまったみたいだった。
 なんで私、コイツといるとこんなふうになっちゃうんダ?
 いつもそうだ(会ったばっかだけど)。いつもいつもいつも。コイツは私をおかしくさせてしまう。
 こんなことはじめてだった。なんでなのか、わからない。自分のことのはずなのに、全然わからない。
「どうしたの、エイラ? ………………言ってくれないの?
 ううん、そんなはずないわよね。だってエイラはわたしのこと大好きなんだもの」
 だっ、だから決めつけんのヤメロヨナ!
 サーニャはそんな私の心の叫びなんて軽々と無視して、
「それにね、今日はこんなものを用意してきたの」
 と、それを顔の前に掲げてみせる。
 う、動いてるっ……!
 黒いうにょうにょしたものがボウル山盛り。いっ、一体何百匹集めたらこんなことになるんダ……?
 ――いや、それよりも。
 そんなもの、どこから出して来たんダ?
 取り出したとかじゃなく、出現したって感じ。さっきまでなかったはずなのに。
 おかしい。やっぱこれ、絶対おかしい――

「それじゃあルールを説明するわね。
 エイラはわたしに向かって『好き』って言ってね。『愛してる』でもかまわないわ。
 言ってくれるたびにわたしはエイラにご褒美をあげる。
 ――でも。
 もし、よ。もし万が一、他の言葉を言ってしまったり、なにもしゃべってくれなかったりしたら……
 その時は、わたしはエイラにお仕置きをしなければならないことになってしまうわ」
「お、お仕置き……?」
「ええ。これを使うのよ」
 と、サーニャは指先でそいつを1匹、つまみ上げてみせた。
 ぴくん、とその黒いのは跳ねた。
「ひっ……!」
 思わず声が出てしまった。
「どうかしたの、エイラ? もうゲームは始まっているのに」
「どうかしたに決まってるダロ! なんに使うっていうん…………へっ?」
 今、なんてった? たしか、ゲームが始まったとかなんとか……
「言ってくれなかったね。しかもそのあとにもなにか言ってたよね……
 本当はわたしだってこんなことはしたくないんだけど……でも、ルールだから仕方ないよね?
 そのいけない口には、こいつをねじりこんであげなくっちゃ」
 私は頭が真っ白になった。
 ようやく思考が戻ってくると、次は顔を真っ青にする番だった。そういう顔になってたんだと思う。

「悲しいよ、エイラ……わたしだってこんなことしたくない……」
 なっ、ならやめてくれヨ!
 イヤなんダロ? ナ?
 だってそれ、生きてるし! おもいっきりうにょうにょしてるし!
 ぶんぶんぶんぶん、私は首を振った。そのまま頭がどっかに飛んでいってしまいそうな勢いで。
 けど、サーニャはそいつをつかんだ手を私の前に差し出してきて――ン?
「ちょっ、待て。なんで2匹なんダ?」
「あっ」
 と、サーニャはボウルに手をやって、またにもう1匹つまむ。
「いや、増やせって言ってるんじゃなくてサ」
 と私が言うと、サーニャはさらにもう1匹。
「………………」
 ようやくここで理解した。私はなにも言えないんだ。“好き”って言葉以外には。
「ほら、エイラ。あーんして」
 私のすぐ口の前へとやってくる、サーニャの手。
 練乳の棒アイスのような白の指先とはあまりに異質な、黒いうにょうにょ。
 口なんて開けれるわけ――いや、そういえばサーニャだって本当はしたくなって言ってたじゃないか。
 そもそもいくらヤンデレだって、そんな外道を働く真似、嫌なのは当たり前なんだ。良心的に。
 サーニャのSはつまりそういうSではないはず……ダヨナ? そうであってくれ。
 だったら、
「なぁ、サーニャ。今までのことはホントにゴメン。私が悪かった。謝るからサ。
 ――だから、そういうのはやめにしないカ? サーニャだってそんなことしたくないって言ってたダロ?」
 落ち着いて説得すればきっと大丈夫、なはず。
「うん……大好きなエイラにこんなことしたくない……いいえ……でも、」
 そう言うサーニャの頬には滝のようにぼろぼろと涙が伝っている。
「じゃあもうやめヨ? だってそんなもん口に入れたら、春になったらすごいことになっちゃうダロ……!」
「大丈夫よ、エイラ。だってわたしはエイラのことを愛してるもの。――それにね、」
 一拍の間があった。
 サーニャは頬を赤らめ、もじもじと体をくねらせている。
「な、なんダヨ……?」
「わたしはエイラのことをすっごくすっごく愛してるもの」
「同じじゃネーカヨ! なぁ、それはもうわかったから、」
「なのにエイラはどうして好きって言ってくれないの? ええと、4匹追加で8匹ね……」
「つっ、続いてたのカヨ!」
「9匹……」
「今のはツッコミだからノーカン!」
「10匹……」
 サーニャはボウルからうにょうにょをわしづかみした。
 真っ白い指の間から溢れだし、のたうち回る真っ黒いそいつら。シュールなコントラストだった。
 その手から1匹、私の口元に運んでこようとした途中でこぼれ落ちた。
 私の額の上へだった。
 今、にゅるってした……。おでこ、ひんやりした……。
 感覚は奇妙にリアルだった。ぶわっと全身から脂汗が吹き出した。
 泣きそうだった。ウソ。私はとっくに泣いていた。

「まっ待って!」
「また1匹追加……」
「今から言うから! 11回――じゃない、12回続けて言うから、だったらオッケーダヨナ?」
 と言うと、サーニャは表情を一転、目をキラキラさせて、
「えっ、1ダースも続けて? そんなこと言われると迷ってしまうわ」
 サーニャは私の口をじぃっと見つめて、耳を澄ませる。
 オッケーなのカ? ダヨナ?
 助かった。言わなきゃヤバいけど。
 ――いや、言えばいいんだ。簡単ダロ、たったの一言なんだから。
 ほら、す――
 言え、言え、言え、言え。
 すすすすすっ――

「ストロベリーシェイクSweet」

「…………なにを言っているの、エイラ?」
「いや、これは、その、つまり……」
「もういい」
 とサーニャは言い切ると、手にしたボウルを高々と掲げた。そして、私の顔の直上へ持ってきて――
 これからなにが起こるのか考えたくなかった。なのにわかってしまった。
 ひっくり返す。
 何百といううにょうにょのにゅるにゅるが私の顔に降りそそぐのだ。
 やめてクレ。そんなことしないで。
 力のかぎりめいいっぱい、私は叫んだ。
「ヤメロォ、サーニャア! オタマジャクシは勘弁して!」

 ――そこで私は飛び起きた。

 ゆ、夢でよかった……。
 ずいぶん長い夢を見てた気がするけど、長くなりすぎた気がするけど、でもよかった……。
 そうだ。ずっとおかしいと思ってたのに、なんで気づかなかったんダロ?
 なんで私はこんな夢みたんダ? あまりに不可解すぎて自分で自分がわけわかんねぇ。
 これって夢分析的にどうなんダ? 入院した方がいいのカ?
 ぐっしょりと寝汗をかいていた。あんな夢見たあとじゃ当然か。体がべとべとする。
 飛び起きたのは見慣れない場所だった。狭くて、薄暗い。
 けど、知ってる顔が視線の正面に1人。
「ふぁっ、ふぉきた」
 と、ソイツは能天気に言ってくる。同じクラスのルッキーニだ。
 ルッキーニは凍らせたチューペットをガリガリ噛みながら、
「ふあっふぃふぁらふっごいふなされてふぁよ?」
「いや、なに言ってるかわかんねーし」
 私は笑った。あんなのの後だけに、ちょっと安心した。
 天才児のくせに頭は悪いという困ったヤツだけど、こんなとこ、私は嫌いじゃない。
「どこダ、ココ?」
 気になることはいくつもあったけど、とりあえず私はそう訊いた。
「ふぁふぁしのふぃちふぁよ」
「だからわかんねーって」
 そう返したものの、私はなんとなくその場所がどこか勘づいていた。
 通称“ルッキーニの巣”。
 学校のいたるところにこうやって秘密基地を作ってるらしい(私は来たのは始めてだけど)。
 何人も入れるほどの広さはなく、天井は低くてまっすぐ立ったら頭をぶつけてしまう。
 きっと廊下で倒れてる私をここまで運んでくれたんダナ。感謝しないと。
「ありがとナ」
「ふふん、ふぁこんでふぃたのふぁふぁーにゃだから」
 と、ルッキーニは私の方を指差す。いや、私の向こうカ?
「だから食べながらしゃべるのやめろヨ……ナッ!?
 私はどもって舌を噛みかけた。
 振り返ったその先にいたのはサーニャだった。正座してる。
 電流が全身を走った。さっき見た夢でされたことがドドドッとフラッシュバックする。
 私は腰を抜かしたみたいにお尻を地面につけて、じりじりと後ずさり。
 が、すぐに背中がルッキーニにぶつかった。
「ななななんでオマエがここに!?」
「サーニャが運んできてくれたって言ったじゃん」
 と、ルッキーニ。さっきのでわかれって方が無理ダロ。
「エイラ、どうかしたの? 寝ていてもすごくうなされてたみたいだし……。悪い夢でも見たの?」
「あっ、ああ。そんなトコ」
 私はあいまいにうなずいた。
 言うのはやめておこう。夢のなかでサーニャにオタ……ううん、やっぱ考えるのもやめよう。
「それってわたしの夢?」
「なっなんで!?」
「だって寝言でわたしの名前を叫んでたから」
 う……聞かれてたのか……。恥ずかしい……。
 まさか他にもなにか言ってたりしないヨナ……もしそうだったら死ぬしかない。
「ねぇ、どんな夢だった? 悲しい夢?」
「よ、よく覚えてないんダ」
「そう……たしか、オ」
「思い出させんナ!」
 思わずそう叫んでしまうと、サーニャは肩をびくんと震わせる。
 酷い言い方、してしまったかも……。
「ごめんなさい」
 と、サーニャはそれだけ言った。
 そして、みんな無言。
 私も、サーニャも、ルッキーニも(なにかしゃべってくれ)。
 気まずい。息がつまる。私たちの間だけ気圧が低いんじゃないのか。そんな錯覚がした。
 後ろからルッキーニの視線を感じる。とん、と背中をこずかれた。
 なにか言わないと。えっと、

「「あの、」」

 ハッピーアイスクリーム。
「な、なんダ、サーニャ?」
「う、ううん、エイラから言って」
「えっ? えっと、」
 アレッ? 私、なにを言おうとしてたんだっけ?
 私は汗をぬぐった。
 狭い場所に3人もいるせいで、ハンパなく蒸れている。まるでサウナだ。
 ――と、おでこだけがひんやりしてることに気づいた。
 ぬぐってみる。なんだかぬるっとした。デ・ジャヴってヤツを感じた。
 手のひらを見てみると、それはピンク色の汁みたいだった。
「……なんだこれ?」
「ああ、エイラのおでこを冷やしてたの」
 と、サーニャは手を掲げてみせる。
 その手にはチューペットのもう半分が持たれていた。ほとんど溶けかけでジュースみたいになっていた。
「あたしがあげたんだけど、サーニャは食べずに我慢してたんだよ」
 と、ルッキーニはつけ加えた。
 だからあんな夢見たのカ? よくわからない。いや、いい加減このことは忘れよう。
「そうカ……ありがとナ」
 とりあえず、お礼は言っておく(元はといえばコイツのせいなんだけど)。
「じゃあ、サーニャの番ナ。さっき言おうとしてた――」

「おーい、こんな時間までなにやっとるか」

 と、声。サーニャじゃない。予期せぬ方向から。
 坂本先生だった。
 巣の入り口から顔を出して、その片目で私たちをギロリ。
「もうすぐ下校時刻……お。なんだ、サーニャもいたのか。ちょうど用事があったんだ」
 ン? なんかあるのカ?
 サーニャの方に目をやると、わからないと首の動きが返ってきた。
「渡したいものがあるから、ちょっとこれから来てくれないか」
「は、はい」
「あとエイラとルッキーニはさっさと帰れ。近頃は不審者が多いらしいからな」
「「はーい」」
 と、声をあわせて生返事。
 入り口をくぐるルッキーニの背中に、私も続いた。そのまた後ろからサーニャも。
 と、私が入り口をくぐろうとしたところで、ぽすんと背中にのしかかってくるものがあった。
 サーニャがよろけたのだ。
 とっさに私は手を伸ばしていた。
 振り向きざまにサーニャの倒れる方向に入りこみ、ふんばる。頑張ってふんばる。
「ご、ごめんなさい……足がしびれて」
 そういえば長い時間足を曲げて座ってたっけ……っていやこの状況は!
「オ、オイ! 気をつけろヨナ!」
「ありがとう、エイラ」
 サーニャはそのままの姿勢で上目づかいに私を見てくる。
 顔を。目を。口を。
 オイ、オマエ、顔近けー……ってカ、近づいてるし!
 なんだ、と坂本先生がいぶかしげる。
 にひひ、とルッキーニの笑い声がする。
 そして私は、くらっとめまいが一気に襲ってきて、盛大に仰向けにこけた。

「エイラ……しよ?」
 なっ、なにをダヨ!?
 サーニャは寝転ぶ私に乗っかってきて、マウントポジション。
 ハアハアと息を乱すその口元にはよだれが光っている。
 ダメだ。逃げられない。体がぜんぜん、言うことをきかない。
 だっ誰か……
 私は視線で助けを求めた。
 ルッキーニはひゅーひゅーと口笛を鳴らしてくる。いつの時代のリアクションだ。
 ダメ、次。坂本先生は、
「不純異性交遊は校則で禁止されて」
 珍しく冴えたこと言った! じゃあこのままサーニャを止めてくれヨ!
「どっちも女じゃん」
 が、ルッキーニがすかさずツツコんだ。
「そうだった。なら問題ないな」
「あるダロ! 用事が!」
「む、そうだった」
 坂本先生は私たちの間に手を差しこんで、サーニャを引きはがした。
 ばたばたとサーニャは抵抗するも、体格の差もあってすぐにそれも鎮まった。
 サーニャは次第に息を整えて、落ち着きを取り戻すと――私に向かって頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。わたしったらまた発作を……」
 発作なのカ、それ?
 いや、そうなのかもしれない。だってサーニャはヤンデレだから。
「……もういいから。頭、上げろヨ」
「だけど、」
「ほら、早く」
 サーニャはようやく頭を持ちあげた。
 でも、申し訳なさそうなのは変わらなくて、眉は下がりっぱなしで、今にも泣き出しそうだった。
 なにか言わなきゃと思うのに、なんにも浮かんではこなかった。
 気のきいたことも、優しい言葉もかけてやれない自分に、なぜだか無性に腹が立った。
「私はもう帰るけど、サーニャはこれから先生と用事があるんダロ?」
 結局、こんなことしか言えなくって、サーニャはそれに力なくうなずいた。
「じゃあ、さよなら」
 最後にそう言うと、サーニャはくぐもった声で、うん、さよならと返した。
 せいいっぱい笑おうとしてたのに、その表情は苦しんでいるようにしか見えなかった。
 それが目に焼きついて、頭のなかをちかちかする。ちっとも離れてくれそうにない。

 私は1人、ランドセルを取りに5年1組の教室に戻った。
 下校時刻のとっくに過ぎた教室には、当たり前だけど誰もいなかった。
 いや、正しくは1人いたんだけど。
 ハルトマンだ。机に突っ伏してすやすや寝息をたてている。
 こんな時間までなにやってんダ?
 起こそうかと思ったけど、コイツってば絶対起きないし……放っておくことにした。
 帰ろう。ランドセルを背負いそう思い立ったところでふと、学級文庫の本棚が目にとまった。
 その視線を一度、ハルトマンへと向けた。
 やっぱり寝ていることを確認すると、棚から国語辞典を手に取った。
 ページをめくってみる。“へ”のところでその手を止める。
 声には出さず読んでみた。

  ヘタレ(名)
  ①根性がないこと。臆病であること。実力や力量がないこと。また、その人。
   (扶桑語の動詞「へたる」が名詞化したもの。関西弁から広まった)
  ②ヨーゼフ・ヘタレ博士型双極性パーソナリティ障害の俗称。


 らしい。
 そう書かれているから、たぶん間違いない。
 それにぼんやりと目を落とし、私は深々とため息をついた。
 私ってそれらしい。②の方。ヨーゼフ・ヘタレなんちゃらかんちゃら。
 アホネン先生が脳みそを勝手に検査した結果、そんな病気だかが判明したとか言ってた。
 本当かどうか、私にはわからないんだけど……。
 そんなことないって自分では思うんだけど……。
 ちょっと調べてみたけど、国語辞典くらいじゃそんなことわかりそうにない。
 もういいやと投げやりに辞典を閉じて、
 ――っと、なんダ?
 “ヘスティア”という項に蛍光ペンが引かれていた。
 聞いたことのない言葉だ。説明を読んでみた。

  ヘスティア(名)
  ギリシャ神話の十二神の一。
  炉の意。炉の女神。


 へぇ。でも、なんでこんな言葉に線が引かれてるんダ?
 さらに炉の字のところには、赤ペンでぐるぐる丸が囲ってある。
 誰ダヨ、こんなことしたヤツは……

「なにしてんの?」

「なにって……ひぃっ!!!?」
 気づかぬうちに背後を取られていたことに、思わず声をあらげて反応してしまう。
「なっなんダヨ、シャーリー! びっくりさせんナヨ!」
「ははっ、ごめんごめん」
 悪びれもせずそう言うシャーリー。私は辞書のページをこっそり閉じた。
「それより頭はもういいのか?」
「あ頭……?」
「給食の時、壁に打ったやつ」
「あっ、ああ。もう大丈夫だから」
 代わりにもっと面倒なことになったんだけどナ。そんなこと、言えっこないけど。
 そいつはよかった、とシャーリーは私の頭をぽんぽん叩いて、
「みんな心配してたんだぞ。特にサーニャなんて、」
「サーニャが?」
「ああ。ぼろぼろ泣きながら、死なないで、死なないでって」
 そういえば、そんな記憶がぼんやりとある。もう遠い昔のようだけど。
「――まあ、お前が無事でよかったよかった。本当に死ななくてさ」
 シャーリーはまた、頭をぽんぽん。
 やめろヨ……実はまだ、結構痛むんダゾ……。
「私、もう帰るゾ。オマエは帰らなくていいのカ」
「ああ。ルッキーニと一緒に帰る約束してるんだけど、どこ探してもいないんだ」
「ルッキーニ? だったらさっき別れたばっかだ。もう帰ってるゾ」
「なにぃ!?」
「今から追っかければ間に合う――」
 かも、と言い終わるより前に、シャーリーはランドセルを手にし、ドアへとダッシュ。
 流石に速い。ものの数秒でいなくなってしまった。
 かと思ったら、すぐ戻ってきた。
 腿あげをしながらシャーリーは、私に向かって、
「じゃあ、エイラ。また明日」
 まさかそれ言うために戻ってきたのカ? おかしなヤツダナ。
「ああ、また明日ナ」

 さて、私も帰ろうカナ。
 思い立って、ランドセルを背負い直して――っと、辞書をちゃんと本棚に戻さなきゃ。
 やっぱ学級文庫程度じゃナ。もっとちゃんとした本があったら……。
 いや、本なら別の場所に、もっとたくさんあるじゃないか。
 善は急げ、ダヨナ。私は図書室に行ってみることにした。
 学校の図書室だから漫画は劇画しか置いてないので、私はあんまり利用することはない。
 けどそこなら、きっとなにかの本があるはずだ。

 図書室の扉は開いていた。
 下校時刻のとっくに過ぎていたので、当たり前だけど誰も……いや、1人いた。
 ハルトマンだ。
 うちのクラスのハルトマンじゃなくて、その双子の妹の方。
 メガネをかけてなければ、私には姉のハルトマンと見分けがつかないだろう。
 たしか名前はウルスラ。クラスはいらん子組だったと思う。
 いらん子組というのは5年7組のことで、なぜだかそう呼ばれている。
 いらん子組の教室には仲のいいヤツがいるのでよく行くけど、あんまりコイツの印象はない。
 なんか、隅っこでいつも本ばかり読んでるから。
 そういう今も、貸し出しカウンターに座ってなにか分厚い本を読んでいる。
 そこにいるってことは図書委員なのカ?
 私が部屋に入ると一瞬顔をあげてこっちを見たけど、すぐにまた視線を本に戻した。
 暗がりで本なんて読んでたら目が悪くなるゾ。いや、もう悪いのか。メガネだし。

 ま、いいや。目的だけ済まして今度こそさっさと帰ろ。
 私は本棚をふらふらと物色した。
 が、困ったことに一向に見つけられそうにない。
 だってあまりに本が多いから。図書室に来ることはほとんどないから。
 劇画ならどこにあるかわかるけど、探してる本はもちろんそういうのじゃないし。
 ――と、そんな私のところにふらっとハルトマン(妹)はやって来て、
「………………」
「な、なんダ?」
 こんな私を見かねて、手を貸してくれるとかか。
 じゃなかった。
 なんだ、読んでた本を戻しに来ただけか。
 ていうか、なにかしゃべれヨナ。姉もそうだけど、妹の方もよくわかんないヤツだ。
「なに読んでたんダ?」
 と訊くと、ハルトマン(妹)は無言のまま手にした本の表紙を私に見せた。
 タイトルは『教養小説の崩壊と再生』。小説ってことはお話なのカナ。
「どういう話なんダ、それ」
「読めばわかる」
 やっと口を開いたかと思えば、返ってきたのはそっけなくそれだけ。
 カチンときた。
「なあ、どういう話なんダ? 教えてくれヨ、ネタバレにならない程度で」
 しつこく食いさがると、仕方ないなという目でハルトマン(妹)は私を見てきて、
「過剰な自意識。自己防衛と闘争。正当化とあるいは妥協。全能性の喪失。イニシエーション」
 なんか難しいこと言われている。ぜんぜん意味がわからないけど。でも、なんだかカッコいい。
 もしかしてコイツ、私より頭がいいのかも。私、こないだの国語のテストで75点だったのに。
「……それで、どういう話なんダ?」
「………………」
 と、ハルトマン(妹)は本棚へと戻しかけていた本を私に差し出した。
 いいから読めってことカ? 私が受け取ると、ハルトマン(妹)はまたカウンターへと戻って行った。
 パラパラとページをめくってみる。紙は焼けてるし、古くさい臭いがした。
 難しい言葉がページ全体にあふれ返ってて、正直なところ、ちんぷんかんぷん。
 これじゃあわかる言葉を探す方が――あった。紐の栞が挟まってるページだった。
 “ヨーゼフ・ヘタレ博士型双極性パーソナリティ障害”の文字が。
 これぞまさしく私の探してた本じゃないのカ(たぶん)。
 幸運にも私はわりとあっさり見つけてしまえた。ゲームならSEが鳴りわたるそういう場面だ。
 さっそく借りて帰って……いや、そういえばさっきまでハルトマン(妹)が読んでたんだった。
 万が一にも私がヘタレかもしれないなんてことが知られるのもまずいしナ……。
 あ、そうだ。ぜんぜん関係ない本を一緒に借りればいんじゃないか。
 私は適当にその辺から2冊を抜き出して、目当ての本の上と下に挟んで、カウンターに持って行った。
 が、ハルトマン(妹)の姿はなかった。
 代わりに『貸し出しの手続き』ってプリントが置かれていた。
「アイツ、帰っちゃったのカ? まあ、ちょうどいいや」
 私はささっとカードにクラスと名前を書き、セルフで手続きを済ませた。
 ランドセルに本3冊を突っこみ、背負い直すと、それはえらくずっしりとした重さになっていた。

 さて、今度こそ帰ろう。
 いくら夏は日が長いからって、下校時刻はとうに過ぎてもう延長15回裏くらいだ。
 そういえば放課後がこんなに長いことを、私は初めて知ったかもしれない。いつも真っ先に帰るから。
 誰もいない学校の廊下はなんとも不思議な感じがした。
 1人取り残されたような不安感と、思いきり叫び出したくなる優越感。
「あら、エイラさん。まだ学校にいたの?」
 と、そんなもの一気にぶち壊しての、背後から声。
 どすん、とさらには衝撃。
「どうしたの、エイラ? 帰ったんじゃなかったの、エイラ? わたしのこと待っててくれたの、エイラ?
 ねぇ、一緒に下校してくれる? いいかな? いいよね? いいでしょう?」
 サーニャだった。私の後ろから抱きついたまま、際限なく繰り返してくる。
「ちょうどよかったわね、サーニャさん。女の子の1人下校は私としても心配だったし」
 と、これはミーナ先生。あらあらうふふ、と私たちを見てくる。
「ま、待てヨ。誰もまだ一緒に帰るとかそんなこと……」
「帰らないともいってないでしょ? それじゃあ、お願いね。このところ不審者も多いらしいし」

 そんなわけで、私はサーニャと2人、下校することになった。
「オマエん家、どっち?」
 校門を出たところで訊くと、サーニャはその方角を指差した。困ったことに、私ん家とは正反対。
「学校からどんくらい?」
「牛歩で半日くらい」
「普通に歩け! 登下校で1日終わっちゃうダロ!」
 私はチラリ振り返って学校の方を確認した。ミーナ先生が私に向けて手を振ってきた。
 先生の言いつけだ、反故するなんてことできるはずない(後が怖いから)。
 はあ、と心のなかで深くため息をついて、
「送ってってやるから。さっさと行くゾ」

 私は道ばたの石ころを蹴って歩いた。そのすぐ後ろをサーニャはついてくる。
 そういえば、と私は思い出した。
 サーニャが言いかけてたことあったヨナ。結局、聞けなかったけど。一体、なんだったんダロ?
 いやそもそも、私ってサーニャのことほとんどなにも知らないヨナ。これも今さらだけどそういえばだ。
 黙ったままでも気まずかったので、私は訊こうと決めて――でもそうしなかった。
 甘い歌声が聞こえてきたから。
 機嫌がいいのか、サーニャが歌っている。
「いい歌ダナ」
 私は振り返って、そんなこと言っていた。素直な感想だった。
「そ、そう?」
 サーニャの顔が赤く染まっている。それは夕日に染められたせいだけじゃない。
 ああ、と私はうなずいた。
「この歌わね、」
 とサーニャは言いかけ、けれどその言葉はそこで呑みこまれてしまった。
 どうかしたのカ、と訊こうとした私も、すぐに異変に気づいた。
 うーうー、と調子っぱずれのサイレンみたいな鳴き声がした。
 道の向こうに、誰かいた。
 気色悪いヤツがこっちにくる。いや、それが人なのかどうかわからない。
 全身真っ黒で、とんがってて、全体的に細長い。何者なのか見当が……ううん、そうだった。
 ミーナ先生も、坂本先生も言ってたじゃないカ。不審者が多いとかなんとか。
 コイツがその不審者なんだ。
 サーニャはその変質者から隠れるように、私の背に体をひっつけてきた。
 胸の感触が……って今はそういう場合じゃない。落ち着け、鼓動。
 ――と、サーニャがぶるぶると震えているのが背中越しに伝わってきた。
「なんてことないって。だって2対1だから」
 私は言った。自分でもどういう理屈かわからない。ただの強がりだった。
 小さくうんとサーニャはうなずいた。
「でも、どうするの?」
「逃げるゾ」
 三十六計なんとやら。今は武器もないんだ。戦うより賢い選択だろう。
 最悪、どっちかが助かればいい。できればそれは私で。
「いいカ? 道を引き返すから、私についてこい」
 小声でそう告げ、サーニャがうなずくのを確認すると、私は合図を出した。
 いち、にの、さんっ!

 すってんころりん。

 って豪快にすっ転ぶサーニャ。
 いきなり。しょっぱなで。
 なんだ、オマエってどじっ娘属性なのカ、訊いてないゾ。
 そうしてる間にも不審者は速度を増して接近している。うーうーうーうー、耳ざわりな鳴き声をさせながら。
 私は数歩進んだところで立ち止まってしまった。時間にして数秒のロス。
 どうする? サーニャは立ち上がりそうにない。ケガしてるのかも。
 サーニャを助けになんて戻ったら、私まで危険な目にあってしまうかもしれない。それはごめんだ。
 ゴメンナ、サーニャ。だって私はただの無力な5年生だし。
 仕方ないダロ、悪く思わないでくれヨ、緊急事態なんだから。
 なあ!

 私はサーニャを置いて逃げ――るなんてこと、あっていいはずないダロ。

「なにやってんダヨ、早く立て」
 私はサーニャに駆け寄った。
「エイラ、逃げて。狙われてるのはわたしだから」
 ハア? なに言ってんダ? わけわかんねえ。
 なんだそれ。自己犠牲カヨ。くだらねー。
 そんなこと言って、心のなかじゃ怖がってるくせに。
 ガタガタぶるぶる震えてるくせに。
 だったらそんなこと口にスンナ、バカ。
「ほら、早く!」
 私はサーニャの手を奪い去るように握った。
 自然とすんなり手をつなげたので、逆にびっくりした。
 強く引っぱる。立ち上がる。サーニャは腰をあげ、ふらふらと私にしたがう。
「ついてコイ」
 ぎゅっと、つないだ手に力をこめる。けして離れてしまうことがないように。
 方向転換、私は駆け出した。
 しっかりとサーニャがついてきていることを確認し、さらに速度をあげる。
 それからどれくらい走っただろう。考えてる余裕はなかった。
 ひとけのない夕闇の道を、私はサーニャの手を引いて。
 息があがる。苦しい。満足に息ができない。酸素が欲しい。
 口をめいいっぱいひらいたのに、でも取りこめない。楽にならない。
 でも足を止めるわけにはいかない。
 ただ、前へ、前へ。
 胸が熱い。全身が熱い。心臓が焼けつくようだ。
 加速度的に上昇してく心拍数。私の鼓動、サーニャの鼓動。
 右足と左足、どっちが前だかわかんなくなる。言うことをきかない。
 それでも、私たちは走った。

 気づいた時には私の家だった。
 ちゃんと鍵とチェーンをかけ一安心すると、事切れたように私たちは玄関で大の字に寝ころがった。
 なんだったんだ、さっきの……?
 急にそのことが無性に気になりだして、怖くなった。
「なぁ、サーニャ……オイ、サーニャってば?」
 返事はない。
「……なんだ、寝てるのカ」
 あれだけ走ったあとだしナ。訊きたいことはあったけど、起こすのもかわいそうだ。
 いつまでもお客さんをこんなところで寝かせとくわけにもいかないヨナ。
 私はサーニャを自分の部屋まで運んでいき、ベッドに寝かせた。
 それは私のベッドだというのに、まるで自分のみたく占領するサーニャ。
 じきに寝息は静かな落ち着いたものに変わっていった。
「寝てると可愛いんだけどナ」
 そんなこと、つぶやいていた。
 おかしくなって笑いがこみ上げてくる。声を出さないように気をつけて私は笑った。

「    」

 ………………………………。
 寝言だろうか。サーニャがささやいた。
 たった一言。それきり。今はまた、すやすやと寝息をたてている。
 気になりはしたけど、ただの聞き間違いだったのかもしれないし……。
 きっと扶桑料理が好きなんダナ。私はそう思っておくことにした。

 その転校生はヤンデレで、
 私のことが好きで好きで、初対面でいきなり告白してきて、
 私はたくさん振り回されて、酷い目にもあって――一緒にいて退屈なんて絶対しなくって、
 迷惑なヤツで、ホントわけわかんないことだらけで、そしてその寝顔はどこか寂しげで。
 私たちはまだ、お互いのことをよく知らない。
 時折覗かせる悲しい顔を、その意味を、私は知らない。
 でも、せっかく人がベッド貸してやってるんだ。だから――ナ?
 だったら、寝てる時くらいはいい夢見ろヨナ。
 私はそう言いながら、手にしたタオルケットをサーニャにかけてあげた。

「今日ダケダカンナー」



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