保管庫
基地の中で、ひっそりと佇むひとつの部屋。それはどこか古ぼけた印象のある部屋で、しかし今もなお多くの人に『愛される』部屋。今日もまた、
そこに一人の人が訪れる。
見渡す限り、アルバムと本ばかりの部屋。そこには名前で区切られた棚が並んでいて、そして誰のスペースも冊子で溢れていた。リネットと芳佳の
スペースはまだ他と比べれば少ないものの、そろそろ増設しなければならない頃だろうか。その棚の中身は、ほとんどがスナップ写真と日記、或いは
メモ帳である。山のようなそれらは一つ一つ丁寧に保管されていて、どれほど色褪せていても形は綺麗に保たれたままだった。
「……ふう」
来訪者はひとつ、落ち着いたような息をつく。そして自らの名が書かれた場所へと歩いていくと、そこにある一冊の冊子へ手を伸ばした。それは、
この基地に来てこの部屋を見つけて、初めて置いた本。かつて空っぽだったこの部屋が、本を置くにはいい環境だと思ったことから置きはじめ、
それが周りにも伝染していつの間にかこうなっていた。そう、今彼女の目の前にあるのはこの空間を生み出すきっかけとなった冊子である。
「ふふ、なつかしいなぁ……」
そっと取り出して、捲ってみる。そこには、初めて自分が抱いた感情がつらつらと綴られていた。今ではそんな感情も無くなったが、当時のことを
振り返ってみるとなかなかに恥ずかしい。―――恋は不思議だ。その人のことを想うだけで世界が変わった気にすらなる――冊子の最初のページには
そんなことが書かれていて、そういえばこんなことも書いたなぁと懐かしく思う。他にも様々、妄想とも言うべき小説が山のようにあったりとなかなか
カオスな空間ではあるが、それら一つ一つが懐かしい。――ここは『保管庫』、自らの思い出をしまう大切な空間なのだ。
そうしていると、別の人がまた入ってくる。
「ん? なんだリーネ、いたのか」
「あ、エイラさん」
エイラもまた、自身の『思い出』を読み返しにきた。サーニャとの記憶が多く、初めて書いたある日の日記もサーニャとのものだった。あれは夜間
哨戒に出ようとしたとき、不意にサーニャが寂しそうにしてたときだったか。芳佳と同じように手をつないで、そして空に上がってから礼を言われて。
でもみんなと別れてしまったらって、そんなことを考えて……。ああ、そんなこともあったなと回顧する。一冊目はほかのメモにも使っていたので
すぐ終わってしまい、早くも二冊目に入ったのも懐かしい。二冊目の最初は、夢をベースに脚色したちょっとした小説だ。夜間哨戒明けのサーニャに
キスしようとして、でもできなくて、なにやってんだろと溜め息をついてたらサーニャから―――なーんて、現実ではちょっとありえない話。流石に
思い出すと気恥ずかしくなって、自分で開いて読むのは少々気恥ずかしい。それでも、早くも終わってしまった一冊目の最後を飾った――といっても
結局二ページしか書けなかったので、それが二つ目なのだが――のもまた日記だった。二冊目の頭に書かれたものが、初めて書いた小説だ。ここから
小説を書き始める日々が生まれたと思うと、大きな一歩であるのは間違いない。
そんなことを想いながら。エイラは自分の『記憶』の中から、ある日付を探し出すとそれを読みふけり始めた。何かを思い出して、用事があって
来たのかもしれない――。ここは『保管庫』、自らの思い出をしまう大切な空間なのだ。
かくしてしばらくエイラは自分の用事を片付けていたが、読み終わるとリネットの方を覗き込んでから立ち去った。
ここでの暗黙のルールに、相手が気づいてない場合は声をかけてはいけないというものがある。エイラは別れの挨拶をしようと思ったのだが、生憎
リネットはずっと読み耽っているためエイラの変化に気づいていないようだった。声をかけることができないのでは仕方が無い、エイラは無言で帰る
他無い。
そうしてリネットは三冊目の扉を開く。そこに書かれていたのはひとつの詩で、これもやはり『想い』があった頃の話だ。アゲハ蝶がひらりひらりと
飛んでいるのを見て思い浮かんだのを、忘れないうちにと乱暴ながらも綴った大切な想い。字は急ぎ足で雑ながら、あの頃の心のうちにあった想いは
間違いなく繊細で綺麗で、本物だった。今でこそ笑い話だが、当時は必死だったのだ。だからこそ、自分でも綺麗と言えるほどの真っ直ぐな想いで
あったのだろう。
しばらくまた読みふけっていると、今度は別の人が入ってくる。いつもここは人の出入りが密かに多い場所なのでそう珍しくは無いが、リネット
自身があまり長時間居ることが無かったので珍しく感じてしまう。
「あ、芳佳ちゃん」
「リーネちゃん、いたんだ」
芳佳はおずおずと入ってくると、自分の棚へと向かう。そして迷い無く四冊目を手にすると、扉と一ページをめくったところを開いた。そこには
一枚の手紙が挟まっていて、美千子の三文字が書かれている。扶桑の親友が、わざわざ脚色して面白く書いてくれた手紙だ。自身のノートには思い出と
して送別会のことを回顧したときのことも書いているし、扶桑のこともできるだけ忘れないようにとわざわざ日ごろの日記から書き写したものもある。
そしてそれと平行して読むと、その手紙もだいぶ現実味を帯びたものへと変わる。勿論、嘘や冗談が多く書かれているのだが、それさえ現実に思えて
きてしまう。こういうところは、昔から美千子の上手なところだ。それを思い出すとつい笑みもこぼれてしまって、今回ここに来たのは他でもない
それを思い出すためだった。一応目的は果たした芳佳だったが、これだけで帰るのはなんだかもったいない気がしたのでもう少しいろいろと読み返す
ことにした。
途中、一度エイラがまた入ってきて、何があったのか迷いの無い手つきで五冊目を取ると部屋を後にした。特におかしい様子も無かったので、
もしかして五冊目に何か参考になる文章があるのだろうか。それはエイラにしか分からないことだった。
芳佳は自身の棚の六冊目を手にとって、そして扉を開いたところに書いてる文を読んで思わず噴出す。
「な、なにこれっ……」
……しばらく考えてようやく思い出した。ペリーヌに一泡吹かせてやろうと画策した悪戯っ子連中に脅されて、無理矢理書かされた物語だ。とても
自分で読めるような代物では無く、ぺらぺらとめくってしまう。……まさか自分と美緒が結婚だなんて、そんな話があるものか。
少しの時間が流れて、また部屋のドアが開いた。次に入ってきたのはエーリカで、ちろちろと見渡してからリネットと芳佳の姿を確認すると音を
立てないようこそこそと入る。芳佳もリネットも誰かが入ってきたことには気づいたようだが、こちらに気を遣っている様子から反応しないようにして
いた。
エーリカもふと思い至ってか、自分の『本』を読みにきたようだ。適当に手に取ったのは、自分の棚の七冊目。表紙を開くと、先ほどの芳佳と同じ
ようにぶっと噴出しかける。ああ、そういえばこんなものも書いたなあ。トゥルーデをびっくりさせようと思って書いたけど、あまりに冗談としては
性質が悪かったからやめたんだっけ。そんなことを思い出しながら、ぺらぺらとめくっていく。……なんだろう、七冊目のあたりは情緒不安定だったの
か、ゲルトルートが他人に取られる話ばかり書いている。もう当時の記憶なんてずいぶん前に恐らく可燃ごみに捨ててきたエーリカにとっては、最早
わからない領域であった。
かくしてそう長くない間エーリカは滞在し、流星群の話が冒頭に書かれているのを見て微笑を浮かべながら十一冊目を持って帰った。
エーリカが出て行ってまもなく、さらに別の人が入ってくる。ドアの開け閉めの間隔が短かったのでなんだろうと顔を上げたリネットと芳佳だった
が、何のことは無い普通に人が入ってきただけだった。
「あ、バルクホルン大尉」
「やあ、リネット――に、宮藤か」
「こんばんは」
ゲルトルートもこれまでの来訪者と同じように自分の棚に手を伸ばすと、何の気なしに八冊目を手に取った。そこにはある日のシャーロットの
様子が書かれて――なんでこんなものが書いてあるのだろうか。明らかに自分の字体だが、どう考えてもこんな記事を書くような人間では決して無い。
ならば何故と考えるが、どうも理解不能だ。ただシャーロットとちょっとしたことがあったのは事実なので、恐らくその後寝ぼけて書いたかエーリカに
脅されて書いたかそのあたりだろうと結論付ける。そして次のページをめくると、ある日のエーリカとの夜の思い出が書かれていた。そこ、夜の思い出
って聞いて邪な想像しない。単なる、親友とのちょっとしたじゃれ合いの日記が書かれているだけだ。目薬を点してくれから始まり、一緒に寝ていい、
起きてみれば一睡もしていない。そんなエーリカに振り回される、けれど振り回されている心地はしないある日の思い出。ただそれだけだが、それが
妙に懐かしくて楽しい。
そうこうしていると、不意に芳佳が声を上げた。ゲルトルートとリネットも気づき、ふと振り返る。
「あ、ごめんなさい」
「かまわんさ」
「どしたの?」
「いや、これ」
芳佳が手に持っていたのは、共用の棚の九冊目と十冊目だった。九冊目は、話の意図が見えないからと引っ張ってきたもの。十冊目は、冒頭の誰かの
日記がとても懐かしい思い出だったから、つい共有したくなって。三人で同じ一冊を覗き込んで読むのは、それはそれで楽しい時間だった。
それからも何冊か本が取り出されてはしまわれていった。エイラが一度本を取りに来たりもした。そして今度はエーリカが入ってきて、それは
エイラが自身の棚の十八冊目を持っていった後だった。
「あれ、ハルトマンさん、さっきもいませんでした?」
「ありゃ、気づいてたんだ、ざんねーん。ちょっとツンツンメガネタを取りに来ただけだよー」
わけのわからない造語に芳佳が首をかしげていると、エーリカが自分の棚の十九冊目を手にとって扉をばっと開ける。そこには、エーリカがペリーヌの
髪を梳いたときの日記が丁寧に書かれていた。なるほど、ツンツンメガネタとはそういうことか。
「んじゃ、そゆことでー」
エーリカは再び出て行こうと―――して、ぴたりと足を止める。
「ふひ」
どこか企みがありそうな声。それが自分に向けられていると気づいたゲルトルートは背中に何かが走り、早急にここから逃げなくてはならないと
第六感が警報を鳴らしているのをひしひしと感じた。だがしかし、時は無常。
「ねートゥルーデっ」
「……ここは『保管庫』だ。静かにせんか」
「小声なんだけどなー。はいこれ」
いきなりエーリカがゲルトルートに渡したのは、エーリカの棚の二十四冊目。代わりに問答無用で、ゲルトルートの棚の二十冊目を手に取った。
保管庫のルールとして、『ギブアンドテイク』というものがある。誰かのものを読みたい場合は、自分のどれかを渡すこと。エーリカもそれに則り、
順番は逆だがゲルトルートのを読む代わりに自分のを渡す、という形を取った。もっとも自分のを読ませるというのが今回の目的なので、実際は
正しい順番なのだが。
だが本来のルールでは、『自分が渡してもいいと思うものを渡す』というものだ。つまり勝手に持って行ってはいけない。プライベートが凝縮された
本ばかりだからこそのルールだが、エーリカは一見これを破ったように見える。だが――
「あ、ちょ、おい―――まったく、しょうがないな」
「いいんですか?」
「ああ、かまわない。『あれ』は元々エーリカが私に渡してきたものだからな」
「ちなみに内容
「聞くな恥ずかしい」
――リネットが尋ねようとしたのを遮って、ゲルトルートは顔を赤くしながら逸らした。ああ、そういうことなのか。芳佳とリネットは人を憐れむ
目で見ると、ゲルトルートもそれに気づいたかさほど大きくは無いけれど部屋には十分通る声で言った。――そんな目で私を見るなぁ。
その後、芳佳は共用棚の二十一冊目の最初に書かれた小説を読みふけり、リネットは用が済んだのか早々に退室し、ゲルトルートはエーリカが渡した
冊子を読んで見事に撃沈していた。どうやらそんなにショッキングな内容だったらしく、思い切り引き裂こうとし始めるのを芳佳が必死で抑えるという
なかなかに珍しい光景も見れたりした。芳佳がちらりと盗み見た様子では、エンゲージリングがどうとか書いてあった。……え?
疑問符を浮かべていると、ドアががちゃりと開く音がする。ゲルトルートと芳佳とそろって見ると、今度は美緒とペリーヌが二人そろって入ってくる
ところだった。
「おお宮藤、それにバルクホルンも」
「今日はいつにもまして出入り多いですねー」
「あら気づいていませんの? まったく、貴女って人は――
「ちゃんと分かってますよ」
「宮藤が忘れるわけが無いだろう」
ペリーヌが突っかかろうとして、芳佳にハメられる――正確にはペリーヌが勝手に自爆する。加えてゲルトルートの一言で更に追い討ちをかけられ、
少々げんなりするペリーヌ。しかしこれでも、大分芳佳相手には心を許している方である……本人主観だが。少なくとも、今までではありえない小説を
さらりと書いてしまうぐらいではあるようだ。ペリーヌは自身の棚の二十二冊目を手に取ると、その表紙をめくってつらつらと読み始めた。そう、
書き終わったときは気が狂ったかとも思った、芳佳とのある朝の話。こんなこと、もし現実に起ころうとしたら前半三分の一が過ぎたあたりで怒鳴り
散らして芳佳が縮こまるか芳佳と喧嘩になるか、そのどちらかだろう。だがそれを文章にして表したというのは、ペリーヌからしてみれば大きな進歩で
ある。無論、本人相手に気を許したような気など絶対に見せないが。
美緒はというと、おもむろにエイラの棚へと歩いていくと『23』の文字が書かれたノートを手に取った。その後自分の棚の本を何冊か読んだ後、
自分の棚からも一冊取って部屋を出て行こうとした。
「……? 坂本さん、それ……」
「ん? ああ、来る途中にエイラとすれ違ってな。何か用事があるなら承るぞと言ったら、こいつを持ってきてくれと」
「なんだ、今日のエイラはずいぶんといろいろなものを持っていくな」
「なんなんでしょう?」
ひとまず用件を終えた美緒は去っていき、それに気づいたペリーヌも慌しく後を追って出て行く。部屋には再び芳佳とゲルトルートだけになり、
やがてゲルトルートも部屋を後にした。芳佳もその後数分居座ってから自分の部屋へと戻っていき、一時的に部屋は空となる。――だが、まだ部屋が
就寝するには早い。
「トゥル―――あ、いない」
元気に戻ってきたのはエーリカだった。二十冊目を返しにきたのだが、まあいいやと息を吐いた。とりあえずゲルトルートの棚の十九冊目の後に
差し込んで、ついでに自分の棚を眺める。まだ現行の二十七冊目はここには置いていない、確か扉に書いたのはまたゲルトルートをいじくって遊ぶ
ための小説だった気がする。うしし、と笑うエーリカ。ゲルトルートのことは嫌いじゃないので、ああいう内容のモノも書きやすいからなお面白い。
今日のゲルトルートが撃沈している様子を見れなかったのは少々残念だったが、まあいいだろう。ふと見ると二十四冊目も元の位置に戻されていた
ので、よしとつぶやいて部屋から立ち去った。―――直後、入れ違いでサーニャが部屋に入ってくる。
「――はい、それではまた」
ドアを開けながら廊下でエーリカと言葉を交わしていたサーニャだったが、会話を終えると部屋に入ってくる。他の人と同じく自分の棚へと
向かうと、淀みない手つきで二十五冊目と二十六冊目を手に取った。それぞれの一ページ目には、エイラとのちょっとした日々の会話をいろいろと
脚色した物語が書いてある。サーニャと名乗る少女が、エイラという大切な人を想うお話。ちょっと気恥ずかしいが、面白いので書いている。まあ、
エイラに見つかったらどうなるか分かったものではないが……少なくとも嫌われることは絶対にありえないだろう。だろうというより間違いない。
サーニャは他にもその冊子で見たい部分があるのか、その二冊を手に取るとそそくさと部屋を立ち去った。
- - - - -
「おーい、みんないいかー?」
『もんだいなーし!』
カメラ担当のゲルトルートが皆の前に立ち、皆がオーケーの返事を出したところでスイッチを押す。
「十秒だ! ポーズとれ!」
「わーい!」
「けひっ」
「ひぃあ!? ちょちょちょっと芳佳ちゃんなにしてんのぉぉぉ!?」
「いいじゃんいいじゃん」
「ちょっと! はしたないですわよ! ……もう、すこしは一般教養というものを身に着けなさい!」
「まあいいではないかペリーヌ、はっはっは!」
「ですわよねー」
「へっへー! トゥルーデぇー!」
「こ、こっちに来るなあぁぁぁ!!」
―――カシャ。
思い出の一枚は、いたって普通の日常スナップになって。だけどその日は、とっても楽しくて。
だから一枚の色紙に、寄せ書きを書いて。
―――誰かが、保管庫へ足を踏み入れる。そこにはいくつかの冊子が握られていて、二十七冊目の札が貼られている。そこにはシャーロットと
ペリーヌの物語や、扶桑の文化を楽しむ五○一の日常などが綴られていた。
そして彼は、あるものに気づく。机の上に置かれた、一枚の色紙と一枚の写真―――。
ここは『保管庫』、自らの思い出をしまう大切な空間なのだ。そして誰かが管理をしているから、この部屋は続いている。冊子がセットで小説が
台本、登場人物が役者なら――――『管理者』は、劇場の責任者だろう。その劇場がなければ、セットも台本も役者も舞台に上がることはできない。
それぞれのエースたちにかけられた勲章は、今日も汚れることなく輝きを放っている。それが誰のお陰なのか、彼は公言することもなく、ただ
ひっそりと――――。
写真には、扶桑語で一文字一文字違う字体で書かれていた。
『保管庫の管理人さんへ 一周年ありがとう、おめでとう!』