リーネの曲ったネクタイ
「おはよう、芳佳ちゃん」
そう言って、リネット・ビショップは少し息を切らしながら、朝の厨房に姿を現す。
「あっ、おはよう、リーネちゃん」
「ごめん芳佳ちゃん、少し遅れちゃった」
「ううん、私も来たばっかりだから・・・あれっ、ネクタイ曲がってるよ」
宮藤芳佳はそれに気付くと、横に振っていた頭を止め、自分の胸元を指差した。
朝のこういった光景は決して珍しいものではない。シャツのボタンをかけ違えてあったり、
左右で違う靴下を履いたりしていることもあった。そして、それは大抵芳佳に指摘
されてリーネが慌てふためくというのがお決まりのパターンであった。
しかし、今日は何故かそうはいかなかった。
リーネはニッコリと微笑むと、
「うん、知ってる」
そう、つぶやいた。
そして、リーネは厨房に来る、ほんの少し前にあった出来事を思い出していた。
にわかに日は高くなり始め、基地の廊下に燦々とした光を投げ込む。
その光の中を二人の少女が歩いて行く。ただ、二人が向かう先もその理由も異なっていた。
一人は厨房へ。一日の活力を生み出すために。
一人は寝室へ。一夜の疲れを拭い去るために。
「あっ、サーニャちゃん。お疲れ様」
リーネは前方から来るサーニャ・V・リトヴャクの姿を見ると、笑顔でそう声を掛けた。
リーネからの呼びかけに、半寝ボケのサーニャは目をしばたたかせる。そして、半分閉じ
られた瞳で、その声の主を見極めると、ペコリと頭を下げた。
二人がこうしてすれ違うことはたまにあった。
しかし、お互いに会話はほとんどせず、軽い挨拶をする程度であった。ただ、リーネの様
子は、今までとどこか違っていた。以前は伏し目がちにどこかオドオドしながら目礼をし
ていくことがほとんどだった。今みたいになんのためらいもなく、笑顔で相手に呼びかけ
るようになったのには、やはり宮藤芳佳の影響があるのかもしれない。
リーネはそのまま、サーニャの横を通り過ぎようとすると、サーニャがふいにリーネに声
をかける。
「あの・・・リーネちゃん」
「ん?」
リーネは足を止めて顔を横に向ける。
「その・・・ネクタイ・・・曲がってる」
「えっ、本当?」
リーネは慌てて自分の胸元を見下ろす。
確かにネクタイは変にねじれ、大剣の後ろに隠れるはずの小剣が外に飛び出てしまっていた。
「あの・・・私が・・・直してあげる」
ネクタイにかけようとするリーネの手をその言葉で止めると、サーニャは歩を一つ進
め、リーネのネクタイに手をかけ、そのねじれを直そうと試みる。
サーニャが何故このような行動を取ったのか。その理由を知るために時間は少し巻き戻る。
「お? おはよう、サーニャ。・・・いや、もうこんにちはかな」
シャーリーの快活な声が廊下に響く。日はかなり高くなっていた。
「あっ・・・お早うございます」
サーニャはシャーリーの前で足を止める。
「今から昼飯か?」
「・・・はい」
「そうか、じゃあしっかりと食べないとな」
そう言うとシャーリーはサーニャの横を通り過ぎようとしたが、何かに気づき、
「あっ! ちょっと待て」
と、サーニャを再び呼び止めた。
「・・・はい?」
サーニャは振り向くと小首を傾げた。
「ほら」
シャーリーは自分の胸元を指差した。サーニャはそのジェスチャーの意味がわからず、し
ばらくキョトンとしていたが、ふと下ろした視線の先に形が崩れてしまった自分のネクタ
イを見つけた。
「ははっ、私が直してやるよ」
言うが早いかシャーリーは少し身をかがめると、器用な手つきで大剣と小剣の長さを調整
し、ノットの形を整えた。ほんのわずかな間にネクタイはあるべき姿を取り戻した。
「お前も案外スボラだよな」
ネクタイを直し終えると、シャーリーは笑いながらサーニャの髪をクシャクシャとしなが
ら撫でる。そして、
「じゃあな」
右手を上げながら、そう言い残してその場を去っていった。
サーニャはその後ろ姿をぼんやりと見つめながら、
「・・・かっこいいな」
自分でも意識しないまま、そんな言葉をつぶやいていた。
サーニャはそんな憧れに少しでも近づきたかったのかもしれない。
ただ、現実は少しだけ意地悪だった。
ネクタイのねじれは一向に直らなかった。
早くしないと、そう考えて焦るたびに指先は震え、失敗し、頭の中がまた重苦しい白い霧で満たされていく。
悲しい程の悪循環だ・・・。
もういいよ。
あきらめと憐みの混じったそんな言葉が頭の上に降ってくるのではないかと思い、
怖くなって・・・また失敗した。
そしていつしかサーニャはネクタイから手を離した。顔はうつむき、前髪の下に隠れたそ
の表情はうかがい知ることは出来ない。
「ありがとう、直してくれて」
その言葉に、なんの混じり気もない感謝の言葉にサーニャはどこかそれを信じられないよ
うな心持ちのまま、顔をハッと上げた。
サーニャの目前には屈託のない笑顔を向けるリーネの姿があった。
その笑顔の下には相手を見下したような気づかいも、嫌味も隠されてはいなかった。
リーネにとってはサーニャが自分のためにネクタイを結び直そうとしてくれたことが何よ
り嬉しかったのだ。
ただ、その笑顔はサーニャにはあまりにも眩しすぎた・・・。
「・・・ごめんなさい」
そう言うとサーニャはリーネに背を向け、元来た道を走りだした。
リーネはサーニャの突然の行動に驚いたものの、慌ててその後ろ姿を追い、走り去ろうと
するサーニャの手を握った。
その手は冷たく、震えていた。
「えっと・・・サーニャちゃんの部屋向こうだよ?」
サーニャの手を握るリーネの口からは、無意識の内にそんな言葉が発せられた。
今のサーニャにはどんな弁明や慰めの言葉も、悪い方向に、相手が自分の事を気遣っての
ことだと取ってしまっただろう。そんな時に感じる惨めな気持ちは、かつてのリーネが一番良く知っていた。
リーネからの予期せぬ言葉に、サーニャは振り向きながら恐る恐る顔を上げた。ゆっくり
と上げていく視界の中には入るのは、結び直し損ねたネクタイ、そしてさっきと何ら変わ
ることのないリーネの笑顔だった。
そしてある事に気づく。
自分の手を握るその手は、驚く程に温かいことを。
サーニャはほんの僅かに口元を上げ、
「・・・うん」
と頷いた。すると、突然
「あっ! いけない、早く朝ごはんの準備に行かないと」
リーネはそう言って慌てて走り出そうとする。手を握ったまま。
「きゃっ」
「あっ!」
体勢が崩れたサーニャをリーネは抱きしめるように受け止めた。
「ご、ごめん・・・。大丈夫?」
「う、うん。ちょっと・・・柔らかいくらい・・・」
「よかった、じゃあ・・・えっと、お休みサーニャちゃん」
リーネは自分の本来の役目を果たすため、サーニャの両腕を掴み、ちょこんと立たせると、
再び厨房の方へと駆けていった。
その背中を見送りながら、サーニャの目尻は楽しげに緩んでいった。
たぶん、少し前の私だったら、ネクタイを結び直してもらうことも、サーニャちゃんを追い
かけることもできなかったと思う。それができたのは・・・。
リーネの視界には、自分に訝しげな表情を見せる芳佳が映る。
「知ってるのなら、何で直さないの?」
「ふふ・・・ヒ・ミ・ツ」
そう言い残して朝食の準備に取り掛かるリーネの背中を見ながら、芳佳はただただ首を傾げるばかりだった。
Fin