記憶の中のバルクホルン-もしくは夏の日の楽しかった思い出。-


   記憶の中のバルクホルン
-もしくは夏の日の楽しかった思い出。-



「うう……暑い……!」
「カールスラントとは比べ物にならないわね……こんなことなら秋ごろに来たほうが良かったかしら」
「頼むよ母さんー……」

 扶桑の港に、一人の女性と一人の少女が降り立つ。女性の背中にはまだようやく普通にカールスラント語が話せるようになってきた
ばかりの小さな女の子の姿もある。単身赴任中の父親を除く一家は、父親の仕事の都合から扶桑へ観光をかねた物品の購入にやってきて
いた。
 扶桑はカールスラントとの関係も非常に良好で、人もいい人ばかりと聞く。今まで扶桑に行ったことのある人の話を聞いても、大抵の
店は片言の扶桑語が話せれば相手が気を使ってくれると言っていた。それに安心して、女性は短期集中で最低限挨拶やものの数え方、その他
小学校二年生程度の国語の教科書レベルの本を読み漁ってなんとか発音だけはできるようにしていた。おかげで船の中でも困ることはなく、
港でのやり取りも円滑とまでは行かないがそれなりに普通には対応できている。

「さて、とにかく最初に用事を済ませるわよ。見て回るのはそれから」
「わかった……あ、あれなんだろう?」
「かきごおり……って読むのかしら、なんでしょうね。後でまたきましょう」
「えー……う、うん」

 一度不服そうにした少女も、考え直して頷いた。すると女性が頭を軽く撫ぜてやって、少女も満面の笑みになる。そうして近くの雑貨屋に
足を踏み入れ、必要なものを手にとっていく。いずれもカールスラントに比べれば物価が割安で、その割には質もいい。女性も、旦那が扶桑の
品を求めるのに深く納得。なるほどと感嘆していると、店主が恐る恐るといった風で声を掛けてきた。うちの商品はどうか、といった趣旨の
内容だったようだ。女性はなんとか引き出しから言葉を探し出し、店主とも言葉を手探りで見つけ、なんとかコミュニケーションをとる。
次第にそれにも慣れてだんだん面白くなってきたのか、娘のことを忘れて女性は話に没頭し始めてしまう。

「うー……母さんのいじわる」

 ぼそりとこぼした言葉は女性には聞こえず、仕方がないので彼女は店の中をうろつくことにした。幸い店の中ではいくつかの扇風機が回って
いるため、外にいるより断然涼しい。しかも先ほどからちりんちりんとどこかから響く妙に心地いい音が、奇妙な涼しさを与えてくれる。その
『涼しさ』というのはもちろん実際に涼しいわけではないのだが、だが気分が落ち着くのだ。音の根源を探して小さな店を歩き回るうち、出入り
口の上に妙な物体がぶら下がっているのに気づく。ガラスの球体のようなものから紙がぶら下がった、変なもの。少女はずーっと見上げて眺め、
振り返って母を見やる。母は相変わらず話に没頭しているようで、店主と笑いあっていた。頭に少量の血が上った彼女は、少しばかし邪魔をして
やろうと母に近づいてすそをくいくいと引っ張る。すると女性はようやく気づいたようで、店主に一言言った上でああごめんと振り返った。もう、
と腰に両手を当ててむすーっとしてみせると、母も困ったように笑って頭を撫でて、ごめんごめんと謝る。それがおかしくって少女は笑って、
そして出入り口にぶらさがるモノを指差した。

「あれなに?」
「ええっと……あそこのってなんていうものですか?」

 あいにく少女は扶桑語が自由ではない-母に釣られて一緒に勉強したにはしたので、全くわからない訳ではない-ので、母が中継する。いや、
どちらかというと恥かしがり屋の娘に代わって母が聞いた、と言ったほうがいいのかもしれない。店主は、あれは風鈴だ、と告げる。

「フーリン?」
「ガラスに、鉄が当たるんだ。ガラスの中で音が反射して、きれいな音が出るんだよ」

 店主が身振り手振りを交えて教えてくれる。鉄があたる、というのは近くにあった鉄製品が風鈴のガラスの形をした手にぶつかることで
理解。反射は店主が指差した鏡で理解し、きれいな音は耳を澄ます動作でわかった。案外わかるものだと思いつつ、へえ、と納得する。
ここにしかないのかを母を介して尋ねると、扶桑家屋なら割とたくさん見れるらしい。いろいろな種類があったり自家製のものもあったり
するらしいので、街を歩くときは気にすることにしようと思った。
 それから少ししてようやく買い物をして、店主にありがとうと礼を言って店を後にする。人当たりのいい店主で、なんだかんだで少女も
楽しかった。

「いい人だったなあ」
「本当ね。この子も楽しめると良かったんだけど」
「あはは、クリスねてるー」

 少女がそう指差したのは、女性の背で眠る幼い女の子。少女よりももっともっと小さい、可愛らしい子だった。クリス、とよばれたその子は、
船の中からずっと寝たままである。それもそのはず、今は丁度お昼寝時なのだ。

「でも、トゥルーデもクリスぐらいのときはずっとこうだったのよ?」
「えー、そうなの?」
「寝ないと泣き始めて大変だったんだから」
「私そんな手のかかる子じゃなかったぞー」

 トゥルーデ、と呼ばれた少女がむきになって言い返すと、母ははいはいと頭を撫でて軽く流してしまう。頭を撫でられるのは気持ちいいが、
それであっさりと流されてしまうのはフェアじゃあない。えー、ひどいー、と抗議の声を上げたがそれきりその話題はスルーされてしまい、
釈然としない結果に終わってしまった。
 談笑しながら街の中を歩いていくと、ふと目に付いたのは土産屋。父や友への土産を買っていかなくては。忘れないうちに買ってしまおうと
思い至った二人は店内に入り、扇風機の回る店内にはあと息をつく。

「天国だー!」
「中はどこも涼しいのね」

 ゲルトルートがきゃっきゃとはしゃぎながらあちこちを見て回る。狭い店内ではあったが、品数は豊富だ。どれもこれも扶桑の特産品らしく、
時期はずれではあるが独楽や凧も並んでいる。菓子類も並んでいたが、菓子は値が張る上に日持ちが微妙ということで今回は見送った。いろいろ
見ていると、ふとゲルトルートの目にあるものが留まる。

「なんだこれ……ゲタ?」
「木で出来た履物ね、面白い形」

 興味津々なゲルトルート。それを見た母はくすりと笑って、なんなら買ってあげようかと提案する。さすがに自分が履くかと聞かれれば悩ましい
ところではあったのだが、そこはまだまだ幼い少女。八歳の子供には、興味のほうが勝ったようだ。悩んだ末に笑顔で頷くと、母も快諾。結局
家族の人数分の下駄を買い込んで、土産にすることにした。履かなくてもインテリアに使えばシュールな感じで面白いだろう。店から出たところ
で、早速ゲルトルートは履き替えてみる。

「うわ、わ、わわっ……」
「歩きにくくない? 大丈夫?」
「……転んだらごめん」

 てへ、と舌を出すゲルトルート。正直しゃれにならないが、まあそれはそれで後々笑い話になっていいかもしれない。寛容、というか根が
面白さを求める気質の母はまあいいやと気にしないことにして、せっかくだからと田舎の村落へ続く道へ足を踏み入れていく。今までの賑わった
街並みとは一転して、広大な畑や田の中にぽつぽつと扶桑家屋が並ぶ典型的な田舎道が広がる。家屋こそ扶桑独特の形だが、その光景そのものは
カールスラントでも見慣れたものだった。どこに行っても、田畑のある風景は変わることがない。

「うーん、やっぱりこういうところのほうが落ち着くわねえ」
「街の中は落ちつかなっとととっ!」
「あー、ほらはしゃがないの、転ぶわよ」

 バランスを崩して、転ぶ前にとしゃがんで尻餅をつく。苦笑気味の母に対して、面白そうに笑うゲルトルート。立ち上がってまた歩き出して、
あちらこちらと目を奪われながら道を歩いていく。特に何かあるわけでもないが、発展した港町とは違って風情があり、気が休まって心地いい。
そうしているとふと団子茶屋が目に付いて、二人は歩いていく。なんだろうときゃっきゃと騒ぐゲルトルート、周りが静かだとその声もいっそう
響いて。

「んー」
「あら?」
「あ、クリス! おきた?」

 クリスがくしくしと目を擦って、可愛らしい小さなあくびを浮かべた後目を覚ます。ぱちぱちと何度か瞬きして姉と母の姿を認めると、ぱあっと
顔を明るくして笑みを浮かべる。

「あれ? ここどこー?」
「扶桑よ」
「今よこすかってところの港からちょっと歩いたところだ」
「ふえ、すごーい!」

 クリスを下ろして自由に動けるようにしてから団子茶屋の、軒先のベンチに腰掛ける。店主が出てきたので勧められるままに団子とお茶を
注文して、ぼうっと空を眺めた。空はどこでも青くて白くて、澄んできれいだった。特に扶桑は少し街から離れると直ぐに田畑が広がるので、
カールスラントに比べて澄んでいるように見える。クリスとゲルトルートは、クリスが寝ていたときに歩いた場所の話に花を咲かせている。
それを眺めながら、たまにはこういう旅も楽しくていいなあとぼんやり考える母。やがて団子とお茶が出てきて、喜び勇んで食べるゲルトルートと
クリス。喉に詰まらせないように、喉に刺さないようにと注意されたのに生返事を返して、勢いよくかぶりつく。

「わ、甘くておいしい」
「すごいもちもちしてる」
「……お茶はずいぶんと渋いのね」

 顔をしかめる母に店主がわははと笑いを上げ、外国の人にはちょっと厳しいかもしれんと笑みを浮かべる。その茶請けとして団子があるんだと
説明され、茶を飲みながら団子を口に運ぶ。するとどうだろう、団子の甘みと茶の渋みが程よく合わさって非常に美味である。

「なるほど、扶桑の人は頭がいい」
「はー、おいしかったー」
「ってクリス、もう食べたの?」

 満面の笑みを浮かべるクリスだったが、お茶には一口も口をつけていない。つまりは渋みを弱める甘みが全くなくなったわけで、そうなれば
普段から緑茶に慣れ親しんでいる扶桑人ならともかく生粋のカールスラント人であるクリスには―――

「ゔゔっ、お母ざん飲んで……」
「もう、だから言ったのに」

 苦笑気味な母だったが、そこはそれ。仕方なくクリスの分の茶を受け取って、だいぶ舌も慣れてきたところで喉へ流し込む。団子と一緒に
食べていたことで大分馴染み、茶単体の味も楽しめるようになってきていた。最初の一口はインパクトが強かったが、今は美味しくいただける。
ゲルトルートはクリスを見て多少学んだのか-普通妹が姉から学ぶはずなのだが-、団子と茶を交互に口に入れ、正しい食べ方をしているようだった。
……が、がっつきすぎたのが失敗だった。

「いったた!」
「もしかしてトゥルーデ、あなた……」
「さ、ささった……」

 口を押さえてうずくまるゲルトルート。その目は涙で滲み、うなり声を上げている。深くはなさそうだがそれなりの勢いで突付いたらしく、
結構に痛そうだ。やれやれとまた苦笑する母だったが、店主が気を利かせて中から誰か連れてくると言ってくれた。安堵する母だったが、当の
本人は足をじたばたさせて相変わらず涙目。だからゆっくり食べろって言ったのに。母が笑いながら言って、また頭を撫でる。旅にハプニングは
つきものだが、これは少々『痛い』ハプニングであった。
 少しすると店から小さな女の子が出てくる。クリスと同い年か、少し上ぐらい。ゲルトルートよりは間違いなく年下だ。

「えーっと、私の家に連れて行けばいいかな」
「うん、よろしくね」
「はーい! じゃあこっちです、来てください」

 出てきた活気のある女の子は自宅が何かあるのか、家まで案内すると言った。そう遠くないらしいので甘えさせてもらうことにして立ち上がる
が、ひとつ忘れていたことがあった。……もだえるゲルトルートの足は下駄なわけで。

「あうっ!」

 口を押さえて前かがみになった状態で立ち上がったものだから、慣れない姿勢で慣れない履物では上手く立てないのも仕方がない。盛大と
まではいかないものの転んで、母があっははと大きく笑う。来てくれた女の子は一瞬ぽかんとしたものの、直ぐに苦笑する。クリスは心配そうに
していたが、それでも顔が笑うのは我慢できなかったらしい。
 ゲルトルートは立ち上がって、そしてきょろきょろと辺りを見渡して。

「そ、そんな目でわたしをみるなあぁぁーっ!」

 涙目で叫んだ。叫んで喉が痛くなった。……自業自得。踏んだり蹴ったりとはこのことである。

 母がおぶろうかと提案したが、それは恥かしいから嫌だと却下するゲルトルート。はいはいと笑いながら、女の子にまた案内してもらうことに。
二泊三日の予定で来た旅だったが、なかなか退屈はしなさそうである。

 - - - - -

「お疲れ様でした、こちらでーす」
「……ええっと、なんて読むのかしら」
「『しんりょうじょ』です」

 よろしくお願いします、と礼儀正しくぺこりと頭を下げる少女。母も頭を下げて、ゲルトルートもクリスもそれに倣う。ただゲルトルートの
口の中の血が止まらないらしく、時折口の端から流れ出てくることもあって少々先を急いでいた。大した量の出血ではないものの、血が止まら
ないのはちょっと問題だ。ここまで案内してくれた少女は一家を診察室に通し、そこに備えていた一人の女性に紹介した。

「下の団子やさんで喉ついちゃったって」
「あらあら、それは災難でしたね」

 苦笑する女性。聞けば少女の母らしく、代々継がれてきた治癒魔法の使い手らしい。少女も能力だけで言えば使えるのだが、まだ魔法を行使
するには体が未成熟すぎるという理由から魔力の使用は禁止されている。不平不満を漏らしていたが、こればかりは体の問題だから仕方ない。
少女の母は手馴れた様子でゲルトルートの口内の様子を見て、それから耳の下、首の付け根辺りに手を当てた状態で使い魔の耳と尻尾を出す。
少女も興味津々な様子で見ていて、そして青い光がほんわかと辺りを照らした。するとゲルトルートが驚いたような表情になって、数秒も続かぬ
うちにそれは終わる。

「はい、おしまい」
「え? い、今ので大丈夫なんですか?」
「ええ、治癒魔法ですから」

 母が拍子抜けした様子で尋ねるが、彼女はいたって平然と頷く。特に薬を出す必要もないからこれでおしまいです、とにっこり笑う彼女。
ゲルトルートがもう痛くないと驚いた様子で言って、証拠に、と彼女が取り出した鏡で喉の奥を覗き込む。……確かに傷は一切なく、血も
止まっていた。
 これがうちの家系の力です、と胸を張って答える少女。一秒程度の空白の時間の後、ゲルトルートがすごいと興奮した様子で声を上げた。

「あ、そういえばさっき転んでなかったっけ」
「そ、そうだった。あの、ひざが」

 ひざをめくり上げると、そこにはすりむいた傷。長いズボン越しだったので大した怪我にもなっていないし汚れてもいないのだが、治るのなら
治してしまったほうがいい。女性は笑みを浮かべて手を当てて、先ほどと同じく治癒魔法を掛ける。ゲルトルートはひざの痛みがすっと引いて
いくのを感じ、数秒後には傷は完全に癒えてなくなっていた。再びすごい、と興奮して、満面の笑みを浮かべる。

「あ、ありがとうございますっ!」
「いえいえ。それより扶桑語お上手ですね」
「へっ?」

 彼女が先ほどから思っていたことをぽろっとこぼす。いつの間にかゲルトルートは母が話すのを見て学んだのか、扶桑についてからまだ
数時間だというのに扶桑語を少なくとも母と同じぐらいには話せるようになっていた。照れたように笑うゲルトルートを、後ろから撫でる母。
それから得意そうな顔になって、またありがとうございましたと頭を下げる。
 そのときだった。

「お客さん、宿はあるのかい?」
「え? あ、いえ……」

 別の部屋から来たのか突然顔を出した年老いた女性が、母に尋ねる。特に宿の予定はなく現地で宿泊地を探す予定だったため、今のところ
宿のない身だ。そう答えると、老婆はならと笑みを湛えて言った。

「なら、うちに泊まるといいよ」
「い、いいんですか?」
「これも何かの縁だろう。ゆっくりしていきなさい」

 これにはゲルトルートとクリスも喜んだ。横で見ていた少女も久しぶりに客が泊まるということで嬉しいらしく、両手を挙げて喜んでいた。
少女の母が少し困ったような笑みを浮かべていたが、やれやれといった様子で承諾する。その実は夕食の準備が大変だとそれを心配していた
だけだったのだが、母には少し違った風に映ってしまったらしい。

「あ、あの、迷惑なら別に――
「いえいえ、そうじゃないんです、むしろ歓迎しますよ」

 両手を振って、困った笑みを撤回する。もうお母さん、と嬉しそうに言う少女に、少女の母は苦笑した。結局三人は部屋も貸してもらえることに
なって、それから本人たっての希望ということでゲルトルートとクリスは少女の部屋で寝ることになる。

 それから彼女の案内で街を見て回って、夕暮れ時に診療所に帰還。日が暮れてから帰ってきたご主人に挨拶をしてから、大人数の夕食を
取ることになった。

「お口に合うといいんですが」
「わざわざありがとうございます」

 海が近いことから魚介類が多く、魚の煮つけが主なおかずだった。だが診療所自体が山の中にあることから山菜も多く、魚介類と山菜を
和えたサラダなんかもある。カールスラントとはまるで違う料理だったが、少なくともバルクホルン一家の三人の口にはあったらしい。
ゲルトルートやクリスはもちろん、母も日ごろは食べられない料理に舌鼓を打った。
 診療所に来てから夕食までの五時間程度で子供達は随分と仲良くなったらしく、三人は笑ってはしゃぎながら食事を進める。そんな無邪気な
子供達を見ていると、大人達も自然と笑みがこぼれる。ご主人のほうも研究も大詰めでそろそろ忙しくなってくる頃だったが、その手前でこうして
家族団欒どころか客を交えての食事会で随分と気が休まったようだ。
 かくして診療所の夜は更けていき、一家の三日の旅の一日目も幕を閉じるのだった。

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「―――あの、お味はいかがですか?」
「……ん? あ、ああ……悪くない、というか美味しいよ」

 ゲルトルートが不覚を取って撃墜されて、そして芳佳に助けられて。それから芳佳とも話すようになったが、しかし人間急には変われない
ものだ。上手くコミュニケーションが取れなくて、微妙な関係が続いている。だが今返事が遅れたのは、それとは少々理由が違った。

 ……なんでだろう。芳佳の作る扶桑料理を口にすると、妙な懐かしさを覚える。

 以前リネットが扶桑料理に挑戦したこともあったし、美緒がいびつなおにぎりを山のように作った日もあった。だがそのいずれも、こんな
懐かしさはない。芳佳の作った料理を食べたときだけ、妙な懐かしさを覚えるのだ。
 返事が遅れたことに対して芳佳が少々心配そうな顔をしていたので、素直にそれを話す。すると芳佳は驚いたような顔をして、それから
どこか残念そうな顔を浮かべる。ゲルトルートはその正体がわからなくて、そしてもう少し続けた。

「確かに、幼い頃に食べた記憶があるのは間違いない。ただ、普通の扶桑料理は特になんとも思わないんだ……」
「その幼い頃に食べたのって、どこで食べたんですか?」

 芳佳が尋ねるが、ゲルトルートは首を振ってため息をつく。

「よく覚えてなくてな。妙に楽しかったのだけは覚えているんだが、どこで何を食べたのか、どんな人と食べたのかももう覚えていない」

 ……楽しい思い出を克明に覚えておくには、カールスラント陥落のあの日は少々厳しすぎた。加えてクリスが昏睡状態ともあれば、クリスと
一緒に楽しんだことも上手く思い出せないのは仕方のないことなのだろう。ゲルトルートは自分で意識してないうちに、記憶に蓋をしてしまった
のだ。クリスのことで自分が余計に苦しむことがないように、クリスの事を忘れるように。ただ実際は逆の効果が働いてしまって、先日の被撃墜
まで発展してしまったわけだが。
 ともあれそんなことがあったおかげで、幼い頃の記憶があまり出てこないのだ。

「その時、バルクホルンさんのほかに女の子とかは」
「……あー、そういえばいたような気がするなあ……ああ、いたいた。追い掛け回して遊んでたんだ。名前は……なんだっけな」

 確か昼前ごろに、いたずらをされて追い掛け回した記憶がある。どんないたずらだったかは覚えていないが、少なくとも頭に血が上ってひたすら
追い掛け回すぐらいには酷いものだったらしい。その後どうなったかも覚えていないが、確かクリスとその子で一緒になっていた記憶がある。
それ以外は思い出せない。

「くそ……出てきそうなんだがな。もやがかかったように出てこない」
「うーん、もしその状況を再現できたりしたら思い出せたりするんでしょうか」
「かもしれんな。まあ、今の戦況ではそれも難しい」

 今はまだ朝食。これから一日が始まっていろいろ忙しくなっていくので、また夕食の後など暇が出来た時に追々考えることにしよう。二人は
食事を終えてから一旦解散して、それぞれの仕事についた。

 ……はず、だったが。


 仕事の合間、少し時間が空いたためにコーヒーを淹れてミーティングルームから外を見ていた。芳佳とリネットがクタクタになって帰ってきて、
美緒が満足そうに笑みを浮かべている。あの表情を見ている限り、今日の訓練は芳佳もリネットも好成績で終わったようだ。やはり新人が成長して
行く様は、見ていて楽しい。ぼうっと眺めていると、後ろを誰かが通った。別に変なことでもないので特に気に掛けるでもなく空を見上げて、
そして一口コーヒーを口に運んだ。

「このシスコンっ☆」

 ……耳元で突然そんな言葉が聞こえた。コーヒーが目の前の窓にすさまじい勢いで吹き付けられる。激しく咳き込んだ。

「……み、宮藤……エーリカ……貴様ら……!」
「わああ! バルクホルンさんが怒ったー!」
「逃げろ逃っげろー!」
「待てええ!!!」

 窓を拭くことも忘れて、コーヒーの入ったマグカップをドスンと机にたたきつけて全力疾走。訓練明けで疲れているはずの芳佳は微妙に逃げ足が
早くて苦戦する。エーリカは元々逃げ足が速いので相手にせず、芳佳を追いかける。芳佳は時折振り返りながら必死で走り、廊下を抜け、階段を
下り、挙句外へ飛び出して森の中を抜けていく。
 ……なんだろうか。どこか既視感がある。

「くっそ、ちょこまかと!」
「ば、バルクホルン、さんっ、少しぐらい、加減、してくだ、さいっ!」

 息も絶え絶え。必死で逃げ続けた芳佳はそろそろ速度が落ちてきて、ゲルトルートとの差が詰まる。しかし芳佳は更に必死になって、なんとか
逃げようと筋肉痛で痛いであろう足を酷使してまで逃げる。根性のある女だ、しかし体力では勝るまい。ゲルトルートは残った力でぐっと地を
蹴り、芳佳との間を一気に詰める。

「いやあああ! 来ないでーっ!」
「元はといえばお前だあああ!!」

 芳佳は何とか逃げようとするも、ある地点でもうだめと踏んだのかヘロヘロになってついに速度を大きく落としてしまう。この機を逃さずゲルト
ルートは芳佳を両肩を両手でひっ捕まえて―――勢いは、一気に死ぬわけもなく。

「な、と、あ、わ、わわ……!」
「うわ、とととと、ああ、あああああっ!」

 二人はそのまま倒れこんでごろごろと転がり、何とか踏ん張ろうとするゲルトルートの努力もむなしく、人の背丈程度の小さな崖さえ落ちて
砂浜へ転げ落ちた。

 ……。

「いったたたたー! もう、バルクホルンさんっやりすぎっ!」
「つつつ……」

 ゲルトルートはなんとも言えない感覚に囚われる。すっと見上げて芳佳のほうを見ると、どこか期待したような目をしていた。……ああ、やっぱり
この女には敵わない。撃墜されたときも同じことを思った。きっと私は、宮藤芳佳という一人の女に翻弄され続けるのだろう。そしてきっと、いつも
負けてばっかりで、勝つことなんて敵わない。
 ……はあ、とため息をついた。

「……十年ぶりか?」
「やーっと思い出してくれましたね」
「本当に、お前には敵わないよ」

 やさしい笑みを浮かべて、そして砂浜に大の字に寝そべる芳佳。ゲルトルートも疲れて、適当に寝転がる。ふうと一息ついて、空を見上げた。

 ……あの日も丁度、今ぐらいの時間だった。ゲルトルートが診療所に泊まった二日目、昼前に近くで買った菓子を食べていたら芳佳に耳元で叫ばれて
思わず落としてしまった。別に食えなくなったわけでもないのでそのまま食えばよかったのだが、単純に至福の時間を邪魔されたことに反応したのだ。
特に恨みも何もあったわけではなく、純粋に芳佳とじゃれたいからと芳佳を追いかけ始めた。するとどうだろう、その隙にクリスが食べかけの菓子の
一部をつまみ食いしたのだ。これは許すまいと今度はクリスを追いかけ始め、家の中じゃ迷惑になるだろうからと外に出て必死で追いかけた。結果
芳佳を捕まえることに成功したものの、すさまじい勢いで捕まえてしまったため止まることが出来なかった。二人でごろごろと転がって、妙な楽しさに
笑顔が止まらなくなって、そしてたどり着いた結果が砂浜だった。起き上がって、互いに見合わせて。それから二人で大笑いして、腹が痛くなるまで
笑って。診療所に戻って、いたるところに出来た擦り傷を治してもらった。それからそんな危ないことしちゃだめだと怒られて、でも最後には撫でて
もらって笑ってもらえて。一郎には、そんな元気な子は将来が楽しみだ、とまで言ってもらえた。きっとあのときの一郎には、『今の姿』が見えて
いたのではなかろうかとも思う。
 ……大空を飛び回り、人類を守る。『元気な子』にしか出来ない芸当を、一郎は期待したのだろう。

「私の料理、お母さんと比べてどうですか?」
「さあ。もう十年も前のことなんて覚えてないよ」
「ですよねー」

 けらけらと笑う芳佳。なんだか十年前に戻ったみたいで、少し懐かしかった。

「……あの頃は、まだお父さんがいた。戦争も起こってなかった」
「母さんとも毎日一緒だったし、クリスもずっと一緒だった」

 ……今はどうだろうか。ネウロイが襲ってきて戦争が起こり、一郎は死亡通知が届き、遺品が送り返され、多くの人の命が次々に消えていく。
ゲルトルートの母も今は疎開先で細々と暮らしていて、クリスは目を覚ますことなく眠り続け、そして欧州防衛の要である五○一に配備された二人は
故郷に帰ることも敵わない。今の状況のままでは、扶桑に遊びにもいけない。

「……終わらせよう。一刻も早く終わらせて、また……三人で扶桑で遊ぼう」
「はい、絶対に。約束です」

 芳佳が軽く右手を挙げる。ゲルトルートもまた右手を挙げて、そして―――軽くハイタッチを交わしてから、芳佳の手をゲルトルートがぐっと強く
握った。芳佳は少しだけ驚いて、目を丸くする。

「……お前、私の二番機になるつもりはないか」
「え? だって、ハルトマンさんのポジションじゃないですか」
「確かにそうかもしれない。だが私はお前と飛びたい」

 ゲルトルートが、力強い眼で芳佳を見据える。芳佳もそれをまっすぐに受けて、だが自信がない。今はもう、十年前のあの日とは違うのだ。芳佳と
ゲルトルートの体格差も大きくなって、芳佳もゲルトルートに対してタメ口を利いて許される年齢ではなくなった。家の中でドタドタと暴れていい
年齢でもないし、そう気軽に人の家に転がり込ませてもらえるような歳でもない。
 ……そして何より。数年間ずっと戦い続けてきたゲルトルートと診療所で平和な日々を送ってきた芳佳とでは、経験があまりに違いすぎる。その
数年の差は、そう簡単には覆せない。十年前のあの日はまだ同じ場所に立っていたが、今は違う。十年の間に、何もかもが変わってしまった。

 しかし。

「じゃあ、今私達がここに存在していることも十年前とは違うのか」
「……え?」
「私は戦場を潜り抜けて、今もまだ生きている。お前もウィッチの道を志して、今この場所で戦って、何度かの実戦を潜り抜けてきた。私とお前とが
同じ場所にいること――――それも十年前とは違うのか?」

 確かに、周りを取り巻く環境は大きく変わった。それどころかゲルトルート自身も、カールスラントの陥落を通して大きく変わってしまった。
そう気楽に遊んだりはしゃいだり出来るような人間ではなくなった。だが、今ここでゲルトルートと芳佳が互いの思い出を共有しあって、一緒に
寝転がって、この世界で生きていることは十年前と変わらない。二人が『人』という同じ土俵に立っていることは、今も十年前も変わらない。
確かに技量差は生まれたかもしれない。体格差もあるかもしれない。経験だって違う。だが、この十年間、芳佳とゲルトルートは違う土俵に立った
ことは一度もなかった。だって、芳佳もゲルトルートも、『幽霊』にも『機械』にもなったことはないのだから。

「人であり続ける限り、可能性はいくらでもある」
「……そう、ですね」
「もう一度聞く。『お前は』、私の二番機という位置についてどう思う」

 状況なんて関係ない。技量差なんて関係ない。時間の経過も関係ない。ただ『芳佳の気持ち』は、どうなのか。ゲルトルートがそう尋ねて、芳佳は
すこし考えるそぶりを見せて……そしてすぐに答えた。

「――是非ご一緒したいです」
「……ありがとう」

 ゲルトルートの表情が崩れて、手の力を抜く。芳佳も笑みを浮かべて、そして大空を見上げた。……この空も、十年前と変わらず青いままだった。
また遊びたいと思ってたり、またこうやってじゃれてたり、扶桑の料理を一緒に食べたり、『怪我』をしたゲルトルートを治療したり。案外、
十年前と変わっていないことも多いのかもしれない。芳佳はそんなことをぼんやり考えながら、ふうと小さく息を吐いた。ゲルトルートがごろんと
一回転がって、芳佳の直ぐ横につける。芳佳のほうを見上げてにっと笑い、芳佳がやさしい笑みを浮かべた。

「なんだかバルクホルンさんの横って落ち着きます」
「あの日の夜もそんなことを言っていたな」
「えへへ、気づきました? なんていうか、あったかいんですよ」

 芳佳も少しだけ、ゲルトルートに身を寄せる。二人はぴったりとくっついて、互いの体温を感じあう。なんだかそれがむず痒くて、かつ
心地よくて。なんとなくそうしていると―――世の中、空気の読めない奴はいくらでもいるもので。

「ふひ」
「……」
「あ、ハルトマンさん」

 こともなげに振り向いて返事をする芳佳。さっきはありがとうございましたと礼を言って、いいんだよーとニンマリ笑って返事。ゲルトルートと
しては、確かにエーリカが芳佳と協力してくれたおかげで十年前のことを思い出せた、という思いも当然ないわけではない。が、このタイミングで
入ってこられて素直にアリガトウと言える状況でもなかった。冗談でも礼なんて言いたくなくなったゲルトルートはすっと立ち上がり上着を脱ぐと、
軽く払って砂を一通り落とす。それからまた羽織って、振り向いてエーリカに突進―――

「はい、トゥルーデ」
「……へ?」

 ――しようとして拍子抜けした返事をしてしまう。エーリカの手に握られていたのは大量の紙束とボールペン。よーくまじまじと見てみると、
それは承諾書や申請書などの重要書類ばかりで……。

「……あ……ああ……あ……」
「乙ー」

 ゲルトルートの手にがっちりと渡して、エーリカは両手を広げて帰っていく。芳佳は呆然と眺めていたが、状況は理解できた。つまり仕事が
山のようにたまっていたのにこっちに出払っていたわけだ。……休憩にしてはあまりに長すぎるのは、確かに事実ではあったが。さすがに振り回す
だけ振り回しておいて頑張って下さいね、では申し訳ない。芳佳は歩み寄って書類にぱらぱらと目を通してから、事務処理であれば手伝いますよと
声を掛けた。……しばらく返事がなくて、十秒ぐらい経過してからようやくゲルトルートが動き出した。

「えっ? あ、ああ、た、助かる」
「……大丈夫ですか?」
「……あんまり大丈夫じゃないな、は、あは、あはははは……」

 ――その日、執務室に猛然とダッシュする二人組みがいたとかいなかったとか。

 それから芳佳は美緒の訓練も受けつつ、自主練習ということでゲルトルートと訓練に出ることも多くなった。後にペリーヌに追求され、それを
発端に戦争終結へと世界が動き始めることとなる『左ひねりこみ』も、このとき習得した。

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 -1945年 8月28日-




「うう……暑い……」
「カールスラントとは比べ物になんないね……うーん、やっぱり秋ごろ来たほうがよかったんじゃない?」
「……親子は似るんだな、くそっ……」

 うだるような暑さの中、一人の女性がもう一人少女を連れて船から下りてくる。横須賀の港は平穏を取り戻し、近くのウィッチ養成校からは元気な
声と教官の怒鳴り声が聞こえてくる。いろいろなものが懐かしくて、はあとため息をつく。見渡す景色はそれなりに変化が見られ、しかしどこか十年前と
通ずるものを感じた。
 持ち込んだうちわでぱたぱたと扇ぎつつ、道を歩いていく。今では長い間教えてくれる人がいたこともあり、ずいぶんと自由になった扶桑語。お陰で
港のやり取りもスムーズに進み、今からは『待ち合わせ』の時間までしばらく街をぶらつく予定だ。

「しかし随分とまた賑わっているな……十一年も経つとこうも変わるものか」
「景色もだけど人はすっごい増えたねー」

 久々の扶桑に目を細めつつ歩いていくと、涼しげな風鈴の音が耳に入る。それがなんだか心に沁みてほうっと一息つき、そして目に付いた近場の
土産物屋の暖簾を潜った。中は記憶と同じく扇風機が回っていて、外気温に比べ涼しく非常に過ごしやすい。ずらりと並ぶ商品の中には、以前とは
異なり海外の製品もわずかずつだが増えているように見受けられた。戦争が終結したことで世界全体が落ち着き、また鉄や木材などの軍に優先的に
使われる材料の優先度も割合が低くなったため-とは言ってもまだカールスラントも戦闘は継続しているので、完全な復旧はまだ当分先だが-、こう
して民間に下ろす程の余裕ができてきたのだろう。加えて民間の貿易船が狙われる可能性もぐんと下がった。今までは海上といえど航空型ネウロイの
脅威から逃げることはできず、特に欧州方面においては航行が一般的には禁止されていた。だがガリア地方のネウロイの巣が消滅したことで一時的に
一部区画が制限つきで航行を許可され、その後も連合軍の健闘によりネウロイを排除し続けた結果、海上においてはかなりの安全性を確保することに
成功。そのため今では民間の貿易船が広く行き交うことができるようになり、一部海域ではまだ軍艦の同伴を条件とする海域もあるものの、それも
連合軍が前向きに協力していることで円滑に進んでいる。
 そういった平和への取り組みが、こうして扶桑にも伝わってきている。自分たちの活躍がこんなところでも活きていると思うと、なかなかに感慨
深いものがあった。

「……どれ、あいつにでも買っていってやるか」
「でもカールスラントのだけどいいの?」
「大事なのは気持ちだ」

 もちろんもうひとつ、扶桑の土産もつけて。女性は少女に微笑んで、それからそれらの会計を済ませた。まだ待ち合わせまでは一時間以上あるので、
いろいろ見て回ることにする。

 ――と、ふと思い至った女性は少し歩いて記憶の場所へと向かう。少女のほうは首をかしげていたが、歩いていくと……そこには、十年以上前から
続く雑貨屋があった。バルクホルンという一家が十一年前に立ち寄った、ちょっとした店である。
 女性は少しうれしそうに中に入って、そしてカウンタに座って新聞を読んでいる店主を目にした途端満面の笑みを浮かべた。少しの間をおいてから
駆け寄ると、興奮した様子で店主に声をかける。

「あの!」
「ん……お、外人さんですか」
「私、あー、えーと……ごほん、随分前にここでお世話になったものですが」
「ほ……いつ頃だったかな」

 店主も興味深そうに身を乗り出してきて、それから女性は十一年前のちょうど今頃だったこと、風鈴の名を教えてもらったこと、母親と妹と一緒だった
ことなどをまくし立てた。すると店主も思い出したのか、ああ!と大げさな反応を取ってからやはり満面の笑みになって手を差し出した。女性も――、
ゲルトルートもその手をとって何度も握ると、互いに話に花を咲かせる。

「いやあ、随分と大きくなって! 今はなにをやってるんだい?」
「今日は休暇を頂いてこちらに来たんですが、一応本国のほうでウィッチを」
「おおぉぉ、ウィッチかい! ウィッチっていやあ、この辺じゃ芳っちゃんってのがちょうど去年あたりに帰ってきてね」
「ははは、宮藤はここではそう呼ばれてるんですか」

 ゲルトルートが笑顔でそう答えると、店主はますます驚いた顔をした。新聞を読んでいるとはいえ、流石にいい年をした男性ともなるとウィッチへの
『憧れ』じみた感情はない。若い子はいいね、程度の認識でしかなかった。故にどこかで誰かの顔が出てきても改めて覚えておくほどでもなく、強いて
いうなら国内の有名なウィッチを数人知っている程度だった。無論、全員が全員そうではないのだが、丁度この店の店主程度の年齢だとそれぐらいの
認識の人が非常に多いのが現実。ゲルトルートも、見る人が見れば黄色い歓声を上げるのは間違いないのだが、あいにくこの年齢層の男性には印象は
薄かった。

「へえええ、あんた芳っちゃんの同僚さんだったのかい!?」
「ええ、まあ……これでも三百ぐらいは撃墜させていただいてますよ」
「あらあー! これはまた随分とえらくなって!」
「いえいえそんな、偉くなんてないですよ」

 今はもう昇進して少佐にもなっているが、そのことは隠しておく。それに、戦いにおいて偉いことなど誇りはおろか埃でしかない。少し動けば
飛んでいくだけの薄っぺらいものだ。『偉い』ことよりも『強い』ことのほうがよほど重要で、それは自分を信じて独断専行までして見せた芳佳が
結果的に世界を大きく解放へと導いたことが何よりも証明している。階級が高いことは決して『偉さ』じゃない。俗に言う偉さでいえばそうなの
かも知れないが、本当に『偉い』人というのは芳佳のように、型に囚われずに最善の判断を下せる人、そしてどんな状況であっても確実に自身と
味方を連れて帰ることのできる強さを持つ人のことを言うのだ。……まあ、芳佳のあれが最善であったかどうかと聞かれれば確かに再考の余地は
なくもないが。

「ああ、そうだ、紹介が遅れました。あの時は眠ってましたが……クリス!」
「ふぇ?」

 あのときの母と自分と、同じことになってしまってはクリスに申し訳ない。ゲルトルートはクリスを手招きすると横に立たせて、頭を軽く
なぜてから店主に紹介した。

「私の愛する妹です」
「も、もうおねえちゃんってばっ!」
「あっははは! 可愛らしくていい子だ! この子も将来有望なウィッチになったりするん
「させません、私が守り抜きます」

 店主が言おうとした言葉を遮って、ゲルトルートが強い決意を瞳に宿してそう言う。店主も一瞬気迫に押されて、そしてまた豪快に笑った。まさか
あのときのあんな小さな女の子が、こんなに立派な女性になろうとは、あの時は店主も思いもしなかっただろう。

「がっはははははは! それじゃ、がんばんなよな!」
「はい、ありがとうございます」
「ああーっと、すまん、今更だけどあんたら、名前は?」

 ゲルトルートは何か紙はないかとたずねて、何でもいいかと聞くので『あなたが見る私たちの価値』と少々意味深な返事を返した。すると店主は
ちょっと待っててくれと一度店の奥に入っていって、それから少しして戻ってきた手に持っていたのは高級そうな額縁だった。中には、凛とした
女性の写真が入っている。

「がはは、勘違いするんじゃないぞ、まだ生きてるからな!」
「えーっと、紙を所望したのですが……」
「ここに書いてくれればいいさ! なあに、ワシにとっちゃあんたらも娘みたいなもんよ」

 あまりに気恥ずかしいのとこんなところに書くのは申し訳ないのとで首を横に振ったが、今度は店主に頼み込まれてしまう。こうなっては退くに
退けないので、やむなく自分の名前を額縁の中の余白に書いた。一応芳佳に扶桑の文字も簡単には教えてもらってそこそこ書けるようにはなって
いたので、振り仮名もつけておく。クリスはまだそこまで書けないので、カールスラント語の名前だけ書かせて振り仮名はゲルトルートが書いた。
書き終わって店主に渡すと、店主はふんふんと何度か頷いてから、ニカッと笑った。

「それじゃゲルトにクリスだな!」
「ぶふッ!? げっ、ゲルトぉっ!?」
「お姉ちゃんなんか男っぽいー」

 今まで一度も呼ばれた例のないあだ名で呼ばれて盛大に噴出したゲルトルートだったが、どうやら店主の中ではそれ以外ありえないらしく。何度も
うんうんと頷いてからいい名前だと親指を立てられてしまった。……そして芳佳のことがここで知られているということはそれなりに地域が密接に
つながっているであろうことが容易に想像できるので、つまりは『ゲルト』の名は町中に広まってしまうわけで。一瞬少々苦い顔を浮かべ、それから
誤解のないようにゲルトルートは一応言っておいた。

「ええと、親しいものからはトゥルーデとも呼ばれています」
「と、とぅる……なんだその舌の噛みそうな名前」
「舌噛みそうって言われたぁッ!」

 見る人が見ればシグマが見えたコメントだった。ゲルトルート涙目。

 それからも少し談笑してから、いくつか商品を買った。随分とまけてもらってしまい申し訳なかったが、店主があんたに定価でなんて売れねえよと
笑顔で言ってくれたのを無碍にするわけにもいかない。甘えさせてもらって、ただでさえ物価の安い扶桑においてかなりの安価で購入することが
できた。
 ふと時計を見てみるとだいぶいい時間になっていたので、そろそろ待ち合わせ場所になっている『あの団子茶屋』に向かうことにした。

「いい人だったねー」
「と、当時の私も言ったのであった」
「なにそれ、どこかのラジオ番組?」
「はは、特に意味はないさ」

 二人で笑いあいながら歩いていく。その道中、はたと気がついたゲルトルートは近くでまた別の雑貨屋に入った。中で何かをきょろきょろと探す
姉の、その突然の行動が理解できず首をかしげるクリス。しばらくして、何かを見つけたように一点に歩いていく。クリスもその後についていくと、
ああなるほどと納得した。そこにあったのは―――

「下駄ね」
「ああ。そのほうが面白いだろう?」

 先ほどの店は、訪れた当時はクリスは眠っていたので店主のことはまったく知らなかった。だが下駄ともなるとクリスも思い出深く、今回は
クリスが頼んだためクリスの分も購入。実家暮らしの時と違い金には少々余裕があるので、当時は最も安かったものを購入したが今度はいくらか
高めのものを選んだ。ちなみに当時のものは、既に実家の建物とともにネウロイの光の中に飲まれてしまった。それらのショックもあって、
あの日芳佳に無理矢理引き出されるまで当時の記憶がなくなっていたのだろう。
 ともあれそうして店を出た二人は、少し町を外れて人の数がちらほらと減ってきた場所で靴から下駄に履き替えた。普段からストライカーを履く
際には靴下など履いていないので、そういう意味ではゲルトルートはさほど違和感はない。それに一度履いたこともあるので、幼かったとはいえ
体は覚えているもので苦労もしなかった。だが初めて履くクリスはタジタジで、ゲルトルートの腕を借りてようやく立てたほどだ。

「うー、これだいぶふらふらするよー」
「あはは、まあ慣れるまでだ。そのうち普通に歩けるようになるさ。しかしここも随分発展したな」
「だよねー、ここあの時田んぼだったよ」

 まだ少し先まで建物が並んでいる。ここまで歩いてきたら当時であればもう田んぼのど真ん中であったというのに、随分と発展したものである。
感嘆の息を吐いていると、次第に見えてくるのは見覚えのある建物と幟、そして顔である。ゲルトルートは笑みを浮かべて、しかしクリスの足下を
気遣って駆けていくことはしなかった。

「宮藤! 久しぶりだな!」
「バルクホルンさんも、お久しぶりです! クリスちゃんもおひさー!」
「おひさですー、お元気でした?」
「そっちこそー!」

 芳佳とクリスは元気一杯のようで、早速転びかけているクリスを芳佳が支える。それを経てようやく芳佳は二人の足下に気づき、また途中で
下駄買ってきたのかと笑った。三人は長いすに掛けると、芳佳が頼んでおいてくれた団子と茶を受け取る。ここも店主は十一年前から変わって
おらず、港方面は建物が随分と迫ってきているものの山の方向は見たところ十一年前とさほど変わっていないように見受けられた。そして何より
子供の頃と違ったのは、茶の味を単品でも楽しめるところだろうか。

「ふう、美味しいな……なんというかこう、落ち着く」
「あはは、バルクホルンさん十一年前はすっごい渋そうに飲んでたのに」
「う、うるさい、あの時はまだ子供だったんだっ!」
「やーい、お姉ちゃんのこどもーっ」
「クリスまでっ!」

 両サイドからいじられ半分涙目。店主も笑いながらそれを見て、加えてあの幼かった頃のゲルトルートを知っているだけにこちらの店主もまた
半ば娘的な気分でいる。カウンタから手を出して、ゲルトルートの頭に手を置いてくしゃりとなでる。びくんと肩を震わせて振り返ると店主が
笑みをたたえていて、そしてとどめの一言。

「いやー、大きくなったねえ」
「うう……そんな目で私を見るなああぁーっ!!」


 今日も扶桑の下町は元気である。


 - - - - -


「それにしても、本当に懐かしいな」
「覚えてますか?」
「ああ、お前のお陰で綺麗に全部」
「えへへ」

 林の中を歩きながら、言葉を交わす。扶桑に来ること自体が久しぶりだったが、外界と隔離されたように涼しい風の吹くこの林もまた随分と懐かしい
ものだった。当時は喉が痛くて押えるのに必死だったが、ここに入ってから涼しくなったのは印象として覚えている。芳佳の後姿について歩くのも、
クリスと一緒に歩くのも。いろいろなものが懐かしくて、思わず笑みがこぼれてくる。鳥の声や虫の声が響いて、カールスラントにはない風情が
ここにはあって。なるほど、一度来れば好きになると誰かが言っていた気がしたが、これは確かにこの地で生まれ育った人はさぞかし幸せだろうと
納得せざるを得ない。
 くるくると辺りを見渡しながら歩いていると、やがて懐かしい建物と看板が見えてくる。

「はい、着きましたー。所要時間約五分ー♪」
「ああ……なんだろう、この家に帰ってきたかのような気分」
「扶桑ってなんか不思議ー……」

 芳佳は少し照れたように笑いながら二人を案内し、そして玄関の正面で二人を待たせると、戸を開けてから親を呼んだ。少ししてからとたとたと――
懐かしい顔が姿を見せる。

「あらっ……」
「どうもお久しぶりです――といっても分かりませんでしょうか、ゲルトルートです」

 苦笑気味に挨拶をすると、清佳は満面の笑みで駆け寄り、手を両手で握ると何度も何度も揺すった。握手といえばそうなのだが、嬉しそうなそれは
スキンシップといってもいい。悪い気のしないゲルトルートはもう片方の手で後頭部をぽりぽりと掻きながら、二泊三日お世話になりますと頭を
下げた。清佳も大歓迎だと笑ってくれて、そして今度はクリスのほうへ飛び火。クリスも同じようにして、少し困ったような笑みを浮かべながらも
クリスも嬉しそうにするのだった。

 その後荷物の整理をしていた頃。暑い中ご苦労様ということで、清佳からあるデザートが振舞われた。

「ん……これは?」
「カキ氷っていうんですよー。氷を細かく削ったのに味のついたシロップをかけたものです」

 冷たくて美味しいんですよー、と芳佳。ゲルトルートとクリスも礼を言ってから受け取ると、芳佳に倣って一口食べてみる。冷たさが喉を通って、
火照った体を冷やしてくれる。赤い色はイチゴシロップのようで、甘酸っぱい爽やかさが夏の暑さに相対してとても美味しい。

「ありがとうございます、美味しいです」
「いえいえ。それにしても随分と大きくなったわね」
「……街でも何回か言われました……あはは」

 苦笑気味に話すゲルトルート。それからもしばらく清佳を混ぜた四人で談笑に耽り、途中来客があったため何度か中断したものの、結局夜まで
それは続いた。夕食はあの日と同じメニューとのことで、芳佳の味ととても似てとても美味しかった。ただ、芳佳には申し訳ないが清佳のほうが
一枚上手であることは認めざるを得ない。クリスとゲルトルートは向かい合ってクスリと笑って、それから清佳にウィンクしてみせた。一瞬清佳も
何事かと思ったが、ゲルトルートが目線だけで芳佳を指しているのに気づいてああなるほどと納得。芳子も気づいて苦笑し、それに気づいた芳佳が
なになにと話を振るも、なんでもないとゲルトルートに一蹴されてしまう。えーなんですかーと食い下がる芳佳に、今度は清佳が返事をする。

「ご飯が美味しいことは幸せねってことよ」
「えー、そんな話今してなかったよー」
「念力で伝えたんだ」
「うそつかないでください!」
「芳佳は料理が上手だからね」
「え? もしかして」
「もし清佳を追い抜いたら、舌の肥えたバルクホルンさんは今日の食事はお気に召さないだろうってことだよ」
「うー! それって私まだまだってことじゃん!」
「いいんじゃないですか? もしおねえちゃんが今日のご飯食べなかったら多分芳佳ちゃんを食べちゃいますよ」
「ぶふうぅーーっ!!! くっ、くく、クリスッ! 貴様なにを言うかあぁーっ!」
「あーほらバルクホルンさん、ちゃんとお椀の中に留めたのは褒めてあげますけど汚いですから」
「あ、こ、これは失礼しました……」
「ふふ、相変わらず可愛いのね」
「ぶはっ!? か、可愛いっ!? 私がっ!?」
「ええそうよ」
「なっ、あっ、わっ、わたっ、か、かかっ……」
「あー……おーい、おねえちゃーん? もどってきてー?  ……だめだこりゃ」
「もー……えいっ☆」
「ほわああああああ!? きき貴様、どこに手をやっとるかあああ!!!」
「胸です!」
「なんてことするんだああああああああ!!!!」
「こらおねえちゃん、近所迷惑でしょっ! めっ!」
「いでっ! な、何でだ!? なんで姉がこんな扱いなんだあああ!!!」

 ――今夜も宮藤診療所の食卓は、愉快で笑いが絶えない。笑い、というよりは悲鳴かもしれないが……。

 その後、夕食の時の恨みと称して夜の林で壮絶な追いかけっこが繰り広げられ、そして三人とも盛大な擦り傷を無数に作って帰ってきて怒られた。
三人とも反省しているのかしていないのかよく分からない顔だったが、元気なことはいいことだからと清佳も最後は笑って許してくれた。そんな思い出を
胸に、三人は芳佳の部屋で眠りにつく。
 十一年前のあの日と、同じ場所。その日は芳佳もゲルトルートもクリスも、とても幸せそうな顔で眠ったとか。



fin.


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