ノクターンー記憶と幻想のシルエットー
この部屋に来ると何故かほっとする。
そう彼女が感じるのは、目の前にあるぬめっとした感触の佇まいと確かな存在感を放つ
“それ”のおかげだった。
幼さの残る容姿と、そこから想像されるよりずっと大人びた雰囲気。
肩に届くか届かないかくらいで揃えられた銀の髪が一際目を惹く紛れもない美少女。
少女の名はサーニャ・リトヴャクと言った。14歳にして、すでにオラーシャ指折りの
エースウィッチだ。しかし、彼女により相応しいのは闇夜に潜むネウロイを
破壊の色に染め上げるこのフリーガーハマーではなく、電球の明かりに浮かぶ……
少女の手で持ち上げられた蓋の下から覗く白と黒の艶めかしい輝きのように思える。
結局自分はこの存在と完全に離れてしまうことは出来ない、というのが彼女の結論だった。
手を引かれるがままこの地に来て、誰にも弾かれないまま薄く埃をかぶった
このグランドピアノを見つけた時、彼女はこのピアノにもう一度、
かつての旋律を奏でさせることが自分の役目のように思えたのだ。
気持ち程度でも調律を習っておいてよかったと思う。
初めて会った時のこの子ときたらそれはひどいものだった。
あまりの音の狂いように、誰もいない部屋で一人吹き出してしまったほどに。
それから、暇を見つけてはチューニングハンマーを握りしめてサーニャは部屋に向かった。
やがて音が整っていくにつれ、この見捨てられたピアノはその育ちのよさを見せる。
カールスラントから寄贈されたと思しきこのベヒシュタインは、そのクリアな音を
少しも失ってはいなかった。その音色は、まるでサーニャが記憶の片隅に封じ込めていた
過去を呼びさますかのようだった。
あの頃は、いつも一人だった。
そう、彼女は思う。
サーニャはベヒシュタインの蓋を開けて、調律を終えたピアノの命の鼓動を確かめた。
なにを言ったとしても、やっぱり自分はピアノが好きなんだろう。
弾きながら再確認するその事実。あの頃は、いつも一人だった。
誰も彼もが互いの障壁であり、音も心も孤独の内に創り上げられるものなのだと。
それが正しいのか間違っているのか。
それでも彼女はただ、目の前の鍵を叩き続けることしか出来なかった。
……あの時も、そうだ。無数のネウロイが止めようもなくウィーンの街を襲ったあの日。
かたん。
風?
軽い音を立てた窓枠に顔だけ向けて、サーニャは慎重に外の様子をうかがった。
違う。確かに人の気配……。
「すまない。邪魔してしまったか」
驚きにサーニャの身体がぴくんと跳ねる。現れた人とそんな反応をした自分自身にも。
声はどこか気だるげで。だが、サーニャはその声と声の主を知っていた。
「いえ……ビューリング少佐」
ただ、彼女がこんな所にいるという事実がサーニャを一瞬混乱させたのかもしれない。
「こんな時間まで熱心だな。それと……今は自由時間だ。階級は必要ないだろう?」
窓の外の人物……エリザベス・ビューリングはそう言うと、ふっと小さな笑みをもらした。
長いストレートの銀の髪に、自分と同じ色のその髪にサーニャは安心感を憶える。
そんな彼女を視界の隅に入れながらジャケットの内ポケットから
煙草を取り出そうとしたビューリングに、サーニャは無言で奥のピアノを指差した。
これはサインだ、とビューリングは思う。この部屋にいるならば、煙草は吸わないで。
もっと言えば、煙草を吸わないなら、この部屋にいてもいいから……という意味の。
「……サーニャ」
「え?」
「サーニャと呼んでください」
「ああ、サーニャ。私のことはビューリングでいい」
「はい……エリザベス」
え? そのつぶやきは、今度は言葉になっていなかった。
サーニャからはまるで譲る気はないというように、可愛らしい笑顔が返ってくる。
こうなってはビューリングの方が折れるしかなかった。
なんて娘だ、とビューリングは嘆息する。
これではあのスオミのへたれ小娘の手には余るわけだ。なんと言っても役者が違う。
この少女ならピカデリーの主役さえつとまるに違いない。
見た目から、あるいは普段受ける印象は年相応の少女のそれでしかないというのに。
「しかし、ピアノか……」
「ピアノ、好きですか?」
エリザベスはどうしてここにいるのだろう? サーニャの疑問はそれだった。
ここで、自分がピアノの手入れをしていることを知っているのは自分だけだ。
誰にも言ったことなんて。べつにことさら隠してるわけじゃないのだけれど。
「いや、そういうわけではないんだが……。
ただ、前に通りがかった時、たまたま聴こえてな」
「こんな基地の外れに、こんな時間に……?」
「どうにも寝付けないことも多くてな。気紛れな夜の散歩っていうだけなんだが」
その気紛れ、の中にこのピアノの音色を聴くことがいつの間にか加わっている気がする。
ビューリングは今日もそれが当然のように冷たい静寂の内にある
基地の周回路を辿ってここまで来ていたのだ。まるで導かれているかのように。
「そう……ですか。あの、せっかくなのでなにか聴いていってください」
そう言ってサーニャはゆっくり微笑むと、ビューリングを部屋に招き入れた。
ライムライトに映るその白く細い指に、ビューリングは思わずどきりとする。
椅子に収まりピアノと相対する姿も一枚の絵を見てるかのようで。
もちろん自分に絵画を見る目なんてあるわけではないけれど……
しかし、本当によく似合う。
緩やかな旋律を奏で始めた少女から、もうビューリングは目を離すことさえ出来ずにいた。
……しかし、何年振りだろうか。こうやってじっと音楽を聴くのなんて。
意図したわけではないのに、無意識に避けていたような気がする。
その音は嫌でもあの時のことを思い出させるから。胸の奥にしまい込んでおきたい記憶を。
でもいつかは向かい合わなくてはいけない……これもあるいはその機会なのかもしれない。
目の前の少女がそれを知るはずもないけれど。あれはもう5年も前のことなのだから。
いや、だからこそ。この少女でなのだろうか。
「君は……」
無意識にもれたつぶやきに、ビューリングは驚く。そして同時に沸き上がる不思議な感情。
まるで、自分はこの光景を、姿をみたことがあるんじゃないか……というような。
記憶と幻想の形作るシルエットが、いつしかぴくりと揺れた小さな肩に重なっていた。
「……私はピアノが好き」
透き通った声が部屋に響く。
サーニャの鍵盤に指をすべらせながら、ビューリングの方に向くこともなく言った
その言葉がまるで、ビューリングの疑問に呼応しているかのように思える。
息をのんで視線も奪われたように釘付けのまま、
ビューリングの意識はただサーニャに向けられていた。
「大好きだったから。幼い頃からピアノばかりやってきて、
それはいつまでも変わらないと思っていました。
それだけの理由だけど……だから私は、ウィーンの音楽学校に進学したんです」
「ウィーン……」
“見捨てられた地”オストマルクの首都。
美しき音楽の都、そして数多の乙女の魂が眠る地……ウィーン。
「……ウィーンに、しかしあそこは5年前に……5年も前にネウロイの手に落ちているんだ。
まだ若い君が」
「知っています。今もまだネウロイの瘴気に覆われていることも……。
あの時、私はまだ9歳の子供でしかなくて。闇夜の夜空に花が咲いては散り、
星がきらめいては消えるのをただ見ていることしか出来なかった」
いつしかピアノの音は止み、ビューリングがふと気づくとサーニャのその視線は
ビューリングを射抜くように真っすぐ見つめていて。吸い込まれそうな瞳の中の漆黒。
それと似たものを自分は見たことがある、と彼女は思った。
どこでだったかは思い出せない。記憶の欠片が引っかかって取り出せないみたいに。
「サーニャ……君があの場所にいたなんて……。信じられない、が……」
荒れ狂うリズムを刻むタクトに、心がかき回される。
だがそれはビューリングだけのことではなかったかもしれない。
ビューリングをじっと見つめたままのサーニャの肩も小さく震えていて、
それは10にも満たなかった頃の彼女の中にある紅く暗い記憶を呼び起こすことへの
不安に揺れているかのようだった。
「私たちはあの頃すでにウィッチ候補だったから、避難は最後と決まっていたんです。
だからあの夜も私たちはまだ残っていた。ウィーンを離れたのは次の日のこと」
二人の中にゆっくりとよみがえってくる共通のイメージ。
見ていた位置は違っても見ていたものは変わらないのかもしれなかった。
「……あの日、私は親友を失った。大切な親友でライバルで、
私をあそこまで見ていてくれるのは彼女しかいないと私は思っていた。
彼女が死んだのは全て私のせいで、それを否定できるものなんてなかった」
彼女はあの時、なんと言っただろうか?
思い出せないのは、自分がその許されざる罪からまだ逃げ続けているからなのだと
ビューリングは無理矢理結論づけた。そうでなければ、彼女を失わせた理由さえも
自分からは抜け落ちてしまうかもしれないから
自分が全ての原因だと思い込まなければ、消えない喪失感に押しつぶされてしまうから。
「でも戦争で、あの状況で、誰が悪かったなんて……ない」
「そうなのかもしれないが……私はそう思うんだ」
「……もし、あの夜のことがなければ、私はウィッチになっていなかったかもしれない」
そうだ。あの頃の自分にはピアノが全てで、それ以外に必要なものなんてなかった。
サーニャは目をゆっくり伏せ、過去へと結ぶ記憶の糸を手繰りよせていく。
まだ平和だった頃のウィーンと自分。飽きるほど見たドナウの青色。
何度もピアノを演奏したホールの舞台。突然のように襲い来たネウロイのこと。
混乱を極めてゆく街の風景とそこに舞い降りた美しい戦乙女たち。
そういえば、あの子……いや、あの人もウィッチだった。
美しくて、凛として、キラキラと眩しい笑顔と髪。時折のぞく寂しげな表情。
私の弾くピアノをじっと聴いて、ありがとう、と言った彼女。
最後の夜、あの人は誰といた? 背の高い、物憂げな表情をした銀髪の――――。
「私は、あなたを知っている。あの時、一度きりのことだけど」
真っすぐ見つめるサーニャの瞳、その視線。
ビューリングがその拘束から逃れることはもう出来そうになかった。
どうして私はあの人のことを憶えているんだろう?
じっとビューリングに視線を据えたまま、サーニャはそっと自分に問い掛けた。
あの頃、誰かが自分を顧みてくれるなんてこと、考えたこともなかったのだ。
遠くモスクワから届くラジオに流れるピアノだけがそうだと思っていたから。
だから、きっとあの人がくれた笑顔と言葉がなにより愛おしくてたまらなかった。
あんな風になりたいと思った。なれるのかは分からなかったけれど。
そして、その笑顔や言葉を誰より向けられている人が羨ましくて仕方なかったのだ。
「……私も憶えているよ。記憶が正しければ、の話だが」
「あの人は亡くなっていたんですね」
「許してもらえるなんて思っていない……だけど、もう謝ることだって出来ないんだ」
自傷的な表情を浮かべて、ビューリングはそう言った。それ以上はないというように。
取り返しなんてつかない。きっと世界はそんなことばかりで、自分だけが特別じゃない。
そう分かってはいても、それを一人で受け止めるには自分は小さすぎるのだ。
「私は、あなたがうらやましかった。そしてあの人が、うらやましかった」
「……サーニャ」
「あの人は、あなたと……恋人でした?」
サーニャの揺れる声がそう聞き、ビューリングは小さく首を振った。
それを見たサーニャが胸に手を当て息を押し出し、そっと目を伏せる。
暗がりでなにもかも見通したりはできないけれど、
そう言い訳をしながら、でもビューリングはサーニャが少し泣いているように思えた。
「でも、彼女は誰より大切な存在だった。そう思ってる」
「やっぱり、うらやましい。そう言ってもらえるあの人が」
「……まさか。私は彼女になに一つ返すことも出来ないのに」
目の前の彼女が見ているのは、いったいどこなのだろうか? サーニャは思う。
きっと、私は彼女のかわりになんて、なれたりしない。
私があの人ともう一度ふれあえることも、永遠にない。
「エリザベス」
その小さな声が耳元で響き、ビューリングははっとする
静寂と冷たい空気だけをまとった部屋の中で、感じる熱い体温と吐息。
自分を見つめるサーニャのエメラルドの――自分とまるでそっくりな――瞳が
そこにあって、伸ばされた細い腕が絡められるのが別世界のことのように流れていく。
きっとそれは幻想だった。見ていたのは幻想で、そして幻影に違いなくて。
ほんの数秒。
柔らかい少女の口唇が残していったものは、でも確かな現実だったような気がした。
fin.