変わらないもの
着任してはや一週間、扶桑からやってきた竹井醇子は充実した日々を送っていた。
ここ、第501統合戦闘航空団ストライクウィッチーズ基地は、ブリタニアの古城をそのまま利用している。リバウ基地や横須賀基地に比べて迷子になりそうなほど広い。
暗い廊下をひたひた歩む。白い軍服がぼんやりと浮かび上がるさまは幽玄というべきか。醇子は体が覚えている順路に従って進み、大きな扉をそっと押し開けた。なにげなく見やったダイニングの奥に、紫紅色に輝く縦長の瞳孔。
「わ、びっくりしたっ?! ―――なにしてるのよ美緒、明かりもつけずに」
醇子は思わずのけぞり、跳ねあがった心臓を押さえる。驚きに胸がバクンバクン。
「なんだ、醇子か。お前こそどうしたんだ、まだ夜明け前だぞ」
炊事場で火をあつかっていた坂本美緒は、夜目のきく魔眼を閉じてアイパッチを元にもどす。
「寝るのが早かったから目が覚めちゃった。誰かさんがシゴいてくれたおかげね、お風呂に入ったらすぐ眠くなって」
「はっはっは、早寝早起きとは感心感心! それもこれも厳しい訓練の賜物だな」
含みのある物言いにも動じず、美緒はからから笑う。夜明け前という時間帯を考慮してか、その声のボリュームは格段に抑えられていた。
あっさり流されてしまった醇子は肩で大きな溜め息をつく。
「そうやっていつも都合良くとるんだから。私はあのメニューでも大丈夫だけど、基礎体力がついていない子には酷よ」
実戦を想定した組み替えチーム戦の終了後。
湯船に沈み込む軍曹たちを発見したゲルトルートは仰天、子熊を案じる母熊のごとく二人を両脇に抱えて医務室へ駆けていった。
「宮藤とリーネのことか? あれくらいで音をあげるようなら軍隊ではやっていけんぞ。それに鉄は熱いうちに打てと言うだろう?」
「はいはい、そうでしたね坂本さん……」
美緒に教練をうけていた新兵時代、いろいろと無茶な難題をふっかけられたなぁと醇子は遠い目。指導者として優秀なのは疑いようがないが、いささかスパルタ教育に傾倒しすぎているように思う。根性論では伸びない場合もあると苦言を呈するべきだろうか。
話が途切れたそのとき、美緒の背後からシュンシュンと上がる蒸気。
「…お、そろそろだな。さて準備するか」
そう言って、美緒は手近にあったオイルランプをともす。その柔らかな光源が巨大な釜を浮かび上がらせた。
「御飯を炊いてたの? じゃあ美緒はお腹が減って目が覚めたんだ」
ただよう白米の香りは扶桑人の本能を刺激する。ついさっきまで食欲などトンとなかったのに不思議なものだ。
「いや、私は自主鍛錬があるから大体この時間には起きている。それをこなしている途中にふと食事当番のことを思い出してな」
寝坊してくるだろう部下のために。
訓練にあたっては厳しい美緒だが、日常生活ではこういったさりげない気配りをみせる。
「ああそれで……あの子たち、相当へばってたものね」
さしでがましい口をきかなくて正解だったと、醇子は微笑む。
昔からずっとそうだった。空戦技術が優れているというだけで、あれほど部下に慕われるわけがない。
「私にできるのは握り飯くらいだがな。さすがに料理の腕ではあの二人に遠く及ばん」
「ふふっ、そうね。それじゃあ、私はお味噌汁でもつくりましょうか」
柔らかに微笑むと、美緒をまねて士官服の袖をまくる。壁にかかる芳佳の割烹着とリーネのエプロンを目に留め、その双方に手を伸ばした。
「本当か?! 醇子の味噌汁は美味いからなぁ。あれを久しぶりに味わえるとは楽しみだ」
一段上がる声のトーン、黒い瞳がきらきら。
醇子はやたらとプレッシャーをかけてくる上官を軽く睨む。ごくありふれた教科書どおりの作り方を称賛されても複雑だ。
「だから美緒は大げさだっていうの。持ち上げても何も出ないんだからね」
「言っておくが、おべっかじゃないぞ? 私が扶桑男児だったならお前を放っておかないんだがな、はーっはっは」
「…はいはい、その節はよろしくお願いします」
なんの気なく口説き文句を放つ美緒に頭痛を感じ、手にした割烹着を押しつける。
本人に自覚がないのが厄介だった。竹を割ったような性格や明朗快活な言動は愛すべき美点であるが、それは時と場合により多大なる誤解を招く。長いつき合いの醇子だって時々勘違いしてしまいそうになる。
「御飯とお味噌汁だけというのも寂しいわね。定番は焼き魚だけど」
大鍋に湯を沸かし、出汁をとっている間に周囲を見回す。まだ食材の配給状況がつかめない。
そんな僚友を見て取った美緒は、調理台の隅に置いてある木箱をのぞきこむ。
「塩漬けのものならここにあるぞ。この基地は海に面しているから魚介は豊富にとれる。必要だったらさばくが?」
元々じっとしているのが苦手な性分。米をむらしている時間が手持ち無沙汰らしい。
それをよくわかっている醇子は面倒な開き作業を任せることにした。
「ええ、お願い。そうそう、みんな好き嫌いはある?」
「ルッキーニとエイラは何でも食べるな。他は生魚や生卵、納豆はうけつけないようだ」
危なげない手つきで魚を開きつつ答える美緒。刃物を使った作業は得意だ。
根菜をザク切りにしていた醇子は耳にした情報に呆れる。
「それは好き嫌いっていうより生理的なものでしょう? こっちには生食の習慣なんてないんだし」
「まあな。だが宮藤はあれでなかなか頑固だ。扶桑食は健康に良いと、機会をみつけては皆にすすめている」
「へえ~意外ねぇ。あっ、一度洗うから、開いたものはここへ」
指定した場所に積みあげられていく魚の開きを冷たい水ですすいでは大皿に移す。戦闘隊長として部隊を率いる扶桑海軍士官、今はエプロンと割烹着をつけている二人は厨房においても見事な連携をみせた。
「しかしなんだな、醇子とこうしているとリバウにいた頃に戻ったようだ」
「そうね。あの頃はあなたがいて、扶桑から一緒だった仲間がいて、毎日の任務をこなすのに一生懸命で」
生まれ授かった力を、はるか遠き異国の人々を守るために。
着任してみれば次から次へと入ってくる救援要請。士気は高くても実戦経験のない隊員が大半で、めまぐるしく変わる地域の戦況に翻弄された。
「連合軍の後ろ盾があろうと私たちは所詮よそ者。最初はどんなに戦果をあげても認めてはもらえず……それでも辛抱して黙々と任務をこなし続けるうち、リバウ航空隊は世界に名だたる部隊となった。皆がくさることなく従務できたのは醇子のおかげだ。本当に感謝している」
魚をさばく手を止めて、美緒は穏やかに告げる。
ぎょっとした醇子は両手に持っていた魚をお手玉。挙句の果てに流しへ取り落とす。
「ちょ、ちょっと、私は特別なことはなにも」
「気づいていないならそれでいい。ただ―――私はお前の存在に随分助けられた。それを伝えておきたかった」
度重なるブリタニアのウィッチ研究機関への出向。戦時下においてそんな無理を通せたのも、留守を任せられるしっかり者がいてこそだ。
「なによ、らしくない……お礼なんて言われても嬉しくないわ。美緒は美緒らしく、前だけ向いていればいいの! あなたの背中は私が、ううん、この501の皆が守るから!」
なんだか必死な自分自身に、醇子は戸惑う。けれど、「伝えておきたかった」なんていう言い方は絶対におかしい。まるでもう会えなくなるみたいではないか。
美緒は耳にした訴えにきょとんとすると、しっかと握られた手首をたどって隣をのぞきこむ。
「おいおい、なんて顔をしている。それでもリバウの貴婦人と称されたエースか?」
「だって、美緒が変なことを言うからっ」
「はっはっは、すまんすまん。よけいな気を回させてしまったか。別に深い意味などないんだ。たまには感謝の気持ちを言葉にしておかねばと思っただけで」
詰め寄ってくる同僚を制して、からからと美緒は笑う。
その様子から杞憂だと悟った醇子は、ひとつ咳払いを落として作業に戻った。
「まったくもう、遺言かと思うじゃない。朝っぱらからびっくりさせないでよね」
「遺言? この私が? それこそ面白い冗談だ。悪いがまだまだ死ぬつもりはないぞ」
「ええ、全て小官の早とちりであります。我が扶桑皇国海軍の誇る坂本少佐に、もしもなんてあるはずがありません」
平坦に告げると、切った具材を鍋へポイポイッ。
優雅な立ち振る舞いから貴婦人とあだ名された人物にしては乱暴な行為だ。
「やけに刺々しいな。私は絶対に死なないし、なにがあろうと無事に帰ってくる。醇子は私を信じないのか?」
「そんなわけないじゃない……信じているわ。誰よりも、なによりも、あなたを」
醇子は真っ直ぐに視線を合わせる。『信じる』ということの意味を教えてくれた、かけがえのない人と。
先生と教え子、上官と部下。そして、最高の戦友。時間の経過とともに二人の立ち位置は変わったが、互いへの信頼は一度だって揺らぐことはなかった。
「う、うむ。そう改まって断言されるとなんだか照れるな。は、ははっはっ」
「自分から振ったくせに、もう」
「いかんいかん。時間がおしてきた。握り飯のほうに取り掛からんと」
分の悪さを悟った美緒はそそくさと大釜にむかう。
もうとっくに日は昇り、起床サイレンまであと15分といったところ。ひとまず追求は後回しにして、醇子は手のひらに粗塩を揉みこむ。
「手伝うわ。急ぎましょう」
「ああ、頼む。なにしろ皆よく食うからな、たくさん作ってくれ」
「了解!」
XXX
にぎにぎ、にぎにぎ。
大皿に並んでいく白くて丸いもの。
「美緒のおにぎり、ちょっと大きすぎない? 一個でお腹いっぱいになっちゃうわよ」
例えるならグレープフルーツ。よくそのサイズを丸められるわね、と醇子は別な方面で感心する。
もっともな意見だが、せっせと大むすびを量産する人物は意に介さない。
「このくらいでないと握りづらいんだ」
「あ、そう。ところで三角おにぎりは作れるようになった?」
「はっはっはっは、憶えていたか! では、ひとつ挑戦してみよう。丸い状態から角をつくっていけば……よしよし、今回はいい感じだ。このまま、っく、ぬぉ、ていっ」
朗らかな様子が一転、眉を寄せて悪戦苦闘。白い大玉がみるみるうちに圧縮されていく。
「ええいくそっ、失敗だ」
塊を受け止めた皿がカーン! 美緒の驚異的な握力により、おにぎりは石ころと成り果ててしまった。
一部始終を間近でみていた醇子はあきれる。リバウ基地にいた頃からまるで進歩がみられない。
「りきみすぎなのよ、美緒は。ほらこっちに手を貸して。まずそっと手のひらで包み込むでしょう? この状態で片手を上から被せて、そうそう、こうして優しく」
「…力を抜いて、優しく、優しく―――あっ、こら、醇子やめ、指を突っ込むな、こっちの準備がまだ、うあっ、指を曲げるな?! そんなふうにされたら、くぅ! だ、だめだ、もうもたない」
「おかしな言い回しはやめてよね。人に聞かれたら妙な勘違いをされるじゃない」
まず確実にアハンでウフンな噂がたつ。
サポートする醇子がはなれると、美緒の手中には少々歪な三角形。
「おおっ?! すごいじゃないか、はじめて成功したぞ!」
「はいはい、良かったわね」
きらきらした瞳をさらりと受け流す。こうも絶賛されると面映い。
「もっと喜べ! 醇子がいたから上手くいったんだぞ。やはり、持つべきものは頼れる戦友だな」
「だから大げさだって。まあ、役に立てたなら嬉しいけど。ねえ、美緒」
「うん? なんだ?」
こほんと咳払いを落とす扶桑撫子を、ためつすかしつ処女作を眺めていた美緒が振り向く。
「扶桑で聞いた話なんだけど、人間の幸せは4つあるって知ってた?」
「4つ? いや、初耳だが」
「人に愛されること、人に褒められること、人の役に立つこと、人に必要とされること。これって真理だと思わない?」
醇子は穏やかに微笑む。忘れていた話を突然思い出す、そんな瞬間が時におとずれる。
問われた美緒は、頭の中で内容を繰り返したのち腕組みを解いた。
「…たしかにな。では醇子は今、幸せか?」
「ええ、すこぶるね。美緒はどう?」
「私か? そうだな、う~ん……やはり幸せだな、はっはっはっは!」
頷きあい、笑いあう。唱和する笑い声に被さって、けたたましく鳴り響く起床サイレン。
すると、にわかに廊下が騒がしくなった。近づいてくるバタバタとした足音、そして少女たちの甲高い悲鳴。
「お? やっと起きてきたか」
「ふふっ、随分と慌てているようね」
「まったく落ち着きのない―――こら、宮藤にリーネ! 廊下を走るなっ!」
「「 す、すみません!」」
食堂へ駆け込んだ瞬間に一喝されて飛び上がる。
ついで、身を寄せ合っていた軍曹たちは眼を真ん丸に。
「坂本さん、どうしたんです、その格好?! 竹井さんまでそんな、あいたっ?!」
不躾に上官を指差す芳佳に、ゴインッと拳骨が見舞われる。
「情けないぞ! 扶桑の撫子たるものが品のない」
「勝手に借りちゃってごめんね。朝食の支度に必要だったから」
説教モードに突入しそうな気配を察した醇子が割って入る。さすがはリバウの貴婦人といったところか。
「きゃあ?! 頭なんて下げないでください、竹井大尉っ!」
「そうですよ、竹井さん! 食事当番なのに寝過ごしたのは私たちのほうで」
両手を必死にわたわた。まだまだ新米の軍曹たちは、身の置き所のなさに困り果てる。
そんな様子を見やった隊長陣は、しばし視線を合わせたのちに微笑んだ。
「なにを寝ぼけている。今朝の食事当番は私と竹井大尉だぞ」
「坂本さんの言うとおりよ。昨日の訓練後に伝えてあったじゃない」
「え? あ、あの……芳佳ちゃん、そうだったかな?」
「さあ?? まあでも良かったよね、リーネちゃん」
寝坊したと大慌てだった二人は、阿吽の呼吸を発揮する扶桑士官にあっさり丸め込まれる。そうして年相応の純朴な笑顔を浮かべ、朝食の準備を手伝うと申し出た。
「すまないな。では、宮藤はおにぎりをテーブルへ、リーネは味噌汁をよそってくれ。ああ、急ぐ必要はないぞ」
「「 はいっ!」」
「…本当にいい子たちね。よく気がつくし、性根は優しいし。少佐が可愛がりたくなる気持ちがわかるわ」
「はっはっは、そうだろう、そうだろう。竹井もようやく育成のなんたるかがわかってきたか。よし、お前にはこれをやる! 朝食をがっつり食って、今日の訓練も気合を入れていくぞ!」
バシンと僚友の肩を叩くと、美緒は片手に持っていた皿を押しつける。そして上機嫌に朝食の支度に戻っていった。
一人立ち尽くす醇子は、大きな三角おにぎりを見つめて微笑む。
「4つの幸せ、か……そんなあなただから、周りに人が集まるの。たぶん気づいてないでしょうけど」
太陽のような笑顔を浮かべて最前線にたつ戦闘隊長。
海軍兵学校をでたばかりの頃からずっと、醇子はその輝きを間近にしてきた。こうなりたいと思う目標が存在し、少しでも近づきたくて必死に努力を重ね、そうして過ごしてきた先に今の自分がある。
「あなたと出会えて、本当に良かった」
人間関係でも歪なトライアングルを形成する困った人だけど。
信じ続けるということに挫けず、前だけを見つめる在り方を貫き通す―――そんな彼女の背中をこれからも守り続けたい。
「おい竹井、ぼさっとしてないで手伝ってくれ。火加減の調節がどうもうまくいかん」
「…はい? わ、すごい煙っ! うわ、魚が燃えてる?!」
なにげなく振り向いた先に火柱。すでに火加減がどうのというレベルじゃない。
ダダダッと駆け寄ってコンロの火を止め、芳佳とリーネに窓を開けるよう指示する。廊下から「なんだこの煙は、火事か?!」「バケツを持ってこい、水を運べ!」という衛兵の叫びと、駆けずり回る足音。
「あーあ、大騒ぎになっちゃって……どうするのよ、坂本さん?」
「そうさなぁ……まあ、ジタバタしてみても始まらん。飯を食ってから考えよう」
元凶である美緒は浮き足立つ兵士に一声かけ、泣き出しそうな軍曹たちを追い立ててテーブルにつく。そしてこの騒然とした状況で、先頭を切っておにぎりに手を伸ばした。
昔とちっとも変わらない肝の据わりよう。醇子は呆れとともに奇妙な安堵感をおぼえる。腹をくくった親友にならって腰を落ち着けると、手にした三角おにぎりにパクついた。
その後―――
本日の朝食当番二名は隊長室へ出頭。
ミーナ中佐から基地破壊行動について懇々と諭され、部隊運営予算の切実な現状をくどくどと愚痴られ、士官という身分にありながら大浴場掃除を仰せつかったという。