Formation Δ(デルタ)
「……手のひらと親指の付け根で……柔らかく挟み込むようにしてくださいませ……」
「……む? ……そうか……」
誰もいない食堂、しかも夜も明けやらぬ早朝とあっては、ささやく声も大きく響いて、わたくしの耳を驚かせる。
おまけにこんなに近くにいては、わたくしの鼓動すらそのお耳に聞こえてしまうような気がして。
「……強すぎます。もう少しやさしく……指をお当てくださいまし」
「…そうか、すまない」
声を潜めて、少佐を励ますように語りかける。三度、四度、少佐の指が動く。
「……」
そして無言のまま、少佐は手を止めた。
「……いいのか……? ペリーヌ」
何かを包み隠すような、押し殺した少佐のお声が、私の名を呼ぶ。不安と緊張と、そして隠し切れない好奇心の入り混じった少佐の目が、お手元とわたくしの顔をみつめる。
ここまで来たら、わたくしも否はない。覚悟を決めて口を開いた。
「……ええ」
「そうか……」
少佐はわたくしの目を覗き込み、うなずく。硬くこわばった指を、ゆっくりと開いていく。
「は……はは……!」
「……少佐……!」
少佐の手が緩んでいくと共に、わたくしの目が見開かれる。少佐の険しく引き締められたお顔が、ゆっくりとほころんでいく。
「どうだ! 出来た! 私にも出来たぞ! ははっ……はっはっはっ!」
「少佐……やりましたのね! 少佐!」
喜色をお顔にたたえて少佐は笑う。わたくしの目が潤んでいく。
少佐の手。塩水とお米の糊でしっとりと濡れた手のひらの上。そこにはふわりと握られた──おにぎり。
「……三角だな! はは、どうだ! 見事な三角だ!」
「ええ! 三角ですわ! どこに出しても恥ずかしくないほど三角ですわ!」
……実際は、かなr……いえ、ほんのすこしだけ、いびつな気がいたしますけど……。
「ははは! 言うなペリーヌ! それは言いすぎだ!」
――幾何学上の些細な違いなど、少佐のこの笑顔の前ではあまりに小さな事ですわ! 三角を前に少佐が喜んでおられる。それ以上何が必要でしょう? ええ。これはガリア社交界に出しても恥ずかしくないほど三角なのですとも!
「……ささ、少佐! 海苔を! 海苔を巻いてくださいまし!」
「……あ、ああ! そうだな! 海苔を巻くまでがおにぎりと言うからな!」
子供の様にはしゃがれる少佐――ああ。まるで我が事のようにうれしいですわね!
少佐がいそいそと海苔の入った缶に手を伸ばす。白い割烹着がお似合いで、わたくしはまた頬をほころばせた。
早朝の食堂で「訓練」をされていた少佐を、わたくしは偶然お見かけしたのです。おにぎりの訓練をされている少佐を。
以前挑戦されたときに、宮藤さん達が普通のおにぎりを作っている中、いくつ握っても不思議な形と大きさのおにぎりを生産し続けていた少佐。あの時は「どうも分からんな」と諦めて、詰まらなさそうにわたくし達の作業を見ておられたのだけれど。やはり気にしておられたのですね。
おにぎりなど握られなくても、少佐は少佐でいいのです、とわたくしは思いますけれども。
「――たかがお米の塊に敗北しては扶桑撫子として申し訳が立たないじゃないか」
と、ばつが悪そうに言い訳をされる少佐が、その、失礼とは思いますが、かわいらしくて。僭越ながらわたくしもお手伝いをする事にしましたの。
他者の支えとなるはガリア貴族の誇り。ましてやそれがいとしい少佐なら尚更。
こんなこともあろうかとあの豆狸の手つきを観察しておいてよかったですわ。
少佐はふふっと含み笑いをもらす。海苔を巻いたおにぎりを一つ、大事そうにお皿に載せる。こんな少佐を見られるだけで、全てが報われた気になりますわね。
今日ここに居合わせた僥倖を天に感謝するわたくしに、少佐はとんでもないことをおっしゃった。
「……では、これはお前に食べてもらおうか。ペリーヌ」
「……はい?」
思わず問い返したわたくしに、少佐はお皿を差し出します。
「私だけでは無理だったろうからな。よくこんな早朝から付き合ってくれたものだ」
「それは、何でもありませんけど……わたくしで、よろしいのですか……?」
「遠慮などいらん。ただし味の保障はせんがな。はは」
「と、とんでもありません! 少佐が作られたおにぎりが、口に合わないわけがありませんわ!」
(……なにを、おっしゃってらっしゃいますの?)
口は勝手に受け答えをしておりますが、私の脳は現実を受け止めききれておりません。
(なんでしょう……なにかとても、幸せな言葉を聞いているような……)
ばくんばくんと心臓が踊り始めます。頬がぽーっと熱くなって参りますわ……。
「どうした?」
「い、いえ……」
この笑顔で見つめられると胸が一杯になって、何も言えなくなるのはいつものことですけれども……。
あまりの事にぽーっとしているわたくし。両脇にだらんと下げたままになっているわたくしの手を、少佐は取り上げる。その手にお皿を握らせながら、わたくしに身を寄せる少佐。ふわり、と少佐の髪の匂いが薫る。
「では、食べてくれるな?」
「……はい……」
(はーーーーー!!!)
ようやく事態が把握できましてよ!
少佐の! 手作りの! はじめての! おにぎり!
それを! それをわたくしが!!!
ああお父様お母様、おばあさま。おばあさまのおばあさまのそのまたおばあさま。ペリーヌは幸せです。もうすぐそちらにいけそうですわよ……。
……て!
落ち着きなさい、落ち着くのです、ペリーヌ・クロステルマン。あやうく脳内で昇天するところでしてよ!
――大体、少佐はわたくしのつとめに感謝しておにぎりを下さるのであって、わたくしは、ただ感謝の印を受け取るのだけなのです。そ、それに、自分で作ったものを、即自分で食べるのは味気ないものですから!
あくまでそういう理由であって、それだけなのであって、わたくしがやましいことを考えているわけには参りませんわ! そんなことは許されないのですわ!
――しかし、しかしです。正直に言うならば。
いえ。事実をあくまで誠実に申し述べるならば。
少佐の毅くもたおやかな指が握られたおにぎりが、
厳しくも優しきその愛情をたっぷりと注がれて作られたはじめてのおにぎりを――わたくしが――わたくしが――!
(……これは昇天してもかまわないと思いますわね)
「あ、ありがたく……いただきます……」
「よし!」
少佐はわたくしにとびきりの笑顔を見せます。そっとお皿から手を離すと、背を向けて戸棚の中をごそごそと探ります。
「む? お茶がない――ペリーヌ、済まないが少し待っていてくれないか? 部屋にあるお茶と付けあわせを取って来る」
「は、はい! お待ちしておりますわ! 少佐!」
「悪いな。すぐ戻る」
そう言って立ち去られる少佐。ハンケチを振ってその背中を見送り、高鳴る胸を押さえながら、足取りも軽く食堂のテーブルにつく。私の前に置かれたおにぎり。それをうっとりと見つめる。
少佐が戻られるまで、食べるのは待つことにいたしましょう。
早く戻ってきていただきたいですけれど、幸せをかみ締めながら待つ時間というのも悪くないですものね。
あと数分で少佐はお戻りになるでしょう。あと数分。少佐が戻られたら、戻られたら――
『ど……どうだ? ペリーヌ?』
『……』
『どうした? ひょっとして口に合わなかったか?』
『……い、いいえ! 違います。違うのです』
『? どういうことだ?』
『あまりの事に、その、つい言葉を――失礼いたしましたわ。
――おいしいですわ。さながらバロック様式の宮殿のごとく繊細かつ大胆な握り具合といい! サヴォイアの春風のごとくさわやかな塩気といい! ほどよく炊かれたお米と海苔のハーモニーが、さながらヴィシーの鉱泉のごとく口の中ではじけてまいりますわーーー!!!(てきとう)』
『ほう! お前にそう言ってもらえると、たとえお世辞でも嬉しいぞ!』
『いいえ少佐。わたくし、世辞など申しませんわよ。ありのままを申したまでです』
『そ、そうか! はは! はっはっは! いや。お前が見ていてくれたおかげだ』
『……少佐……』
『ありがとう。ペリーヌ(にこ)』
『少佐――!!!』
「はーーーー!!!」
……いけません。鼻血が。
うなじをとんとんと叩いてこみ上げてくる血を抑えます。妄想だけでこのありさまなんて。
しかし、しかしです。これほど甘美なシチュエーションであれば、鼻血も無理なからぬことですわ。ええ。リアルで経験したら間違いなく5回はヘブンにいけますもの。
しかも、しかもです。これはひょっといたしますと、「頬についたご飯粒を少佐にとってもらう」イベントに派生するフラグ――! ああっ少佐……早く戻っていらして!
「あ、ペリーヌさーん! おはようございまーす」
「ぎっく!」
ほやーんと緊張感のない声が、幸せに浸りきっていたわたくしの耳を打ちます。食堂に現れた宮藤さんが、きょとんとした顔でわたくしの前に置かれたおにぎりを眺めていました。
「あ、お、おはようございますわ。宮藤さん。ずいぶんと無駄にお早いですのね」
「おはようございます! ところでそれ、どうしたんですか?」
「ぎくぅっ! な、なんでもありませんわよ!」
宮藤さんにおにぎりを指差されて、思わず焦りが顔に出てしまうわたくし。それを見て何かを感づいた宮藤さんは、ずかずかとわたくしの元に近寄ってくる。
「あ、なんか怪しいー。どうしたんですか? ペリーヌさん」
「あ……いえ……そのこれは……」
「何で隠すんですか? 私に見られると困るんですか?」
「ど、どうでもいいじゃありませんか! 第一、あなたには関係ありませんで」
「――あ! そういえば廊下で坂本さんと会ったんですけど、ひょっとしてそれ、坂本さんが……!」
「!!」
――ばちんぬ!
「……ペリーヌ……さん?」
――がたん。
黒焦げになった一脚の椅子が、仰向けに倒れて食堂の床を打ちます。
駆け寄ってこようとした宮藤さんは、足元に倒れた椅子を見ながら、冷や汗を流しています。
「――どうなさいまして? 宮藤さん」
「あの……なんでトネール……」
「――あら。」
乱れた髪を撫で付けながら、エレガントに宮藤さんに向かって笑いかけました。
「……そういえば、そろそろ静電気のいたずらに悩まされる季節ですわね……お気をつけあそばせ?」
「……どこの世界に椅子を消し炭にする静電気があるんですか……」
「静電気ですわ?」
「……あ、あのそれにまだ、夏ですけど……」
「静電気でしてよ?」
がるるるる。食い下がる宮藤さんをにらみつけます。
全くこの豆狸ときたら。油断も隙もありませんわね。人が幸せの絶頂にいる時に限って現れるなんて、ずいぶんとタイミングを心得てらっしゃいます事。
ですが、邪魔させるわけには参りませんわ。そうよ! わたくしと少佐の幸せを邪魔するものは、怒りのトネール……もとい静電気に打たれるがいいのです!
「そう言う事ですから、これ以上静電気の悪戯に弄ばれないうちに退散あそばせ」
「一日一回しか使えないじゃない。トネール……」
「何か!? おっしゃいましてっ!?」
「何でもないですよー。もう」
「全く……」
ため息をついて椅子に座り直す。宮藤さんはテーブルに近づいて来ると、当然の様にわたくしの正面に座った。
「……な、なんですの? 退散なさいといったでしょう!」
「それ、やっぱり坂本さんが作ったんですよね?」
興味深々の顔でおにぎりを見つめている宮藤さん。まだ懲りませんの!?
「……し、しつこいですわね! どなたでもいいじゃありませんか……」
「いいじゃないですか。教えてくれても」
ずい、と宮藤さんが詰め寄ってくる。その勢いに抗えず、わたくしは目を逸らす。
「…………取らないと、約束できますの?」
「……取りませんよー」
「……そう。ならば、お察しの通りでしてよ」
「へー。ずいぶん上達したんですね坂本さん」
「そ、そうね。ふふ。少佐に出来ない事なんてございませんわ」
「でもペリーヌさんもらったんだ。いいなー」
「そ、そう?」
「いいないいなー。ペリーヌさんいいなー」
「……そんな事言ってもあげませんわよ」
「取りませんよー」
ペリーヌさんひどいー。抗議しながら、宮藤さんは頬杖をついてにこにことわたくしを見ている。
「そ、そう? ならば、よろしいのですけれど……」
(……ごめんなさい、宮藤さん)
心の中で、そんな宮藤さんに謝った。
同郷のよしみで結ばれた坂本少佐と宮藤さん。わたくしにはどうにもできない絆で結ばれたお二人を見ると、わたくしはついつい対抗心を燃やしてしまうのですけれど、宮藤さんも別に、わたくしのおにぎりを狙って現れたわけではないですものね。
それなのにわたくしときたら、彼女を泥棒猫のように思ってしまって、それに対してトネールまで。
――全く、こんな風だから「ツンツンメガネ」なんて言われるんですのね。
「? 食べないんですか? ペリーヌさん」
きょとんとしながら不思議そうにわたくしを見ている宮藤さん。その視線が恥ずかしくなって、わたくしは目をそらす。
「……。少佐が戻られたら食べますわよ」
「あー。そうなんですか。じゃあ今は幸せをかみ締めている最中なんですね」
「ちっ……違いますわよ! あ、いえ、そのとにかく……
あ、あんまりじろじろ見ないでくださいまし! そんなに見られていると、恥ずかしいですわ……」
「えー? いいじゃないですか。坂本さんが作った、初めてのちゃんとしたおにぎりですよ」
「……」
「それにペリーヌさんにこにこして幸せそうだし。なんだかかわいいなーって」
「なっ……」
「あー、赤くなったー!」
「……な、な、何をおっしゃいますの! そもそも、大体、じろじろ見るのはおやめくださいと言っているでしょう!」
「えー? いいじゃないですかー。減るものじゃないですし」
「減ったら一大事ですわよ!!」
全くあなたときたら。どうしてそうデリカシーがないんですの……。
緊張感のない笑顔の宮藤さんに呆れながら、宮藤さんと一緒におにぎりを見つめる。
つやつやと差し入る朝の日差しを受けて輝くお米の粒。指先でそっと触れれば、しっとりとした海苔の手触り。ほんのりと潮の香りすら漂ってきそうな神々しい姿を、わたくしは目に焼きつけ――
――ただならぬ気配を感じてわたくしの手が止まる。うなじの毛が逆立つのを感じた。
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「どうしたんですか?」
ペリーヌさん? 宮藤さんがわたくしを呼ぶ。
「」
「……」
その宮藤さんに返事をすることも出来ず、わたくしは固まっている。
……見られていますわ。苦手な視線に。
「ペリーヌさん? ペリーヌさん?」
その目は多分、ルビーの色をしていて。そこには笑みが浮かんでいて。
宮藤さんが座っている場所の、さらに後方。食堂の入り口から漂ってくるただならぬ気配、いえ殺気に、わたくしの全神経が警報を発している。
「――クロステルマン中尉。」
絹のように滑らかな声が、わたくしの名を呼んだ。
見てはいけない、そう思いながら、その声にわたくしの視線は吸い寄せられる。半分開いたドアの向こう、そこから覗く緋色の瞳と視線を合わせる。
「おはよう、クロステルマン中尉」
ミーナ中佐が、わたくしに向かって笑いかけていた。
徹夜明け……でしょうか。中佐はやや疲れたご様子のまま、据わりきった視線でわたくしの手元を見ています。
「……クロステルマン中尉。ちょっといいかしら」
「あ、あのわたくし、今ちょっと、食事中で……」
「いらっしゃい――」
ミーナ中佐はゆっくりと手を上げて、わたくしがいただこうとしていたおにぎりを指差す。
「――それを持って」
「ひ……」
射抜くような視線を受けて息を飲みました。
(……まずいですわ! ロックオンされていますわ!)
とっさに少佐が去った廊下の先を窺う。わたくしの待ちわびる少佐のお姿はなく、ただ朝の光が白々と射す廊下。少佐はまだ、戻って来られない。それに、
(いけませんわね……わたくしったら)
少佐にこの場を収めてもらう事を期待するなんて、虫が良すぎますわね。少佐はわたくしに、もう十分幸せな時間をくださいましたもの。あとはわたくしが、この幸せをお守りする番ですわ。
「宮藤さん――」
「はい」
こみあげる恐怖を払い、胸に残る闘志を熾(おこ)して立ち上がる。
「――少佐が戻られたら、お待ちいただくようにお伝えくださいまし」
「あ、あの……ペリーヌさん」
わたくしに釣られて立ち上がった宮藤さんは、気遣わしげな顔。……あなたがそんな顔をする必要はありませんのよ。
内心がすぐ顔に表れる宮藤さんを見て、こんな状況にも関わらず少し笑ってしまう。
ありがとう宮藤さん。少しだけ肩の力が抜けましてよ。
「クロステルマン中尉」
「今参りますわ。中佐」
これは少佐自らが作られたもの。そしてわたくしに下さったもの。
おにぎりを入れたお皿を取り上げ、わたくしを手招くミーナ中佐の元に歩いていく。
立ち去り際に目を閉じ、少佐のお姿を思い浮かべた。
(少佐……必ず戻ってまいりますわ……)
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「……実はね、ちょっと相談があるのだけれど……」
「……い、いきなりお皿を掴まないでくださいまし」
食堂を少し離れた薄暗い廊下。わたくしは中佐と壁の間に挟まれて、おにぎりを奪われそうになっていた。中佐はわたくしの頭のすぐ横に手をついて寄りかかりながら、わたくしの顔を間近から覗き込んでいた。
「そのおにぎりは、美緒が作った物ね?」
「ち……違います……! これはその……わたくしが……」
「ペリーヌさん。」
「はいぃっ!」
わたくしの名前を呼びながら、中佐はにっこりと笑う。その笑顔の裏からにじみ出る殺気を感じて、わたくしのこめかみを冷や汗が伝い降りる。
「犬という動物はね、約2000種類のにおいを嗅ぎ分けることが出来るの」
「……?」
「それでね、狼の嗅覚は、それ以上と言われているのよ」
緋色の髪を掻き分けて、狼の耳が立ち上がる。赤いズボンの上に、銀の尾がこぼれ落ちる。
「――そのおにぎりからは、『かつてない障害を克服して歓喜する美緒』の匂いがするわ」
「ひ、ひぃっ!」
「大丈夫よペリーヌさん。痛いのは……少しだけ?」
「疑問形なのおやめくださいまし! あと痛くしないでくださいまし!」
――ああ、だめだ。この人の前では。
最初の決意はどこへやら。狼ににらまれた小動物のように、わたくしは竦み上がってしまう。ミーナ中佐に呼ばれてから一分も経たないうちに、わたくしは早くも戦意を失い始めている。
舌なめずりしかねない勢いで、ミーナ中佐はさらにわたくしに顔を寄せる。逃げようとしたわたくしの後頭部が、冷たい石の壁にこつんと当たる。
「……そ、そもそも、これはわたくしに下さったものです! 部隊内での私物の略取を隊長自ら行われるというのは、風紀上許される事では……!」
「う……。そ、そうかしら……」
わたくしの一言に中佐はうろたえる。ふっと中佐の殺気が緩む。
「ええ! そうですとも」
「そう……実はねペリーヌさん、私もこんなこと言いたくはないのだけれど……」
中佐は殺気を収め、ふっと目を逸らした。
「な、なんですの?」
「美緒のウィッチの寿命が、つきかけていることは知ってるわね」
「え、ええ。ですがそれと一体何の関係が……?
「その美緒が三角のおにぎりを作るのにはね。膨大な魔力を必要とするの。ウィッチの寿命に影響するほどの」
「そんな! そんな事! あるわけありませんわ!」
「いいえ。美緒はね。ずっとおにぎりに挫折し続けてきたの。私はそれを知っているわ」
「あの、中佐……いい加減な事おっしゃらないで下さいまし……!」
「今ここで成功の味を占め、ペリーヌさんが喜んでしまえば、美緒はこれからもおにぎりを作り続ける。ウィッチとしての寿命を削る事になったとしても。そうなる前に、私が止めなくてはいけないの」
「中佐……」
少佐を思いやる言葉を口からこぼしながら、私に迫る中佐。
「だからペリーヌさん、今すぐそれを私に――」
「中佐……!」
(……大ウソですわ……!)
じりじりと迫る中佐から逃げながら、心の中でそう叫びます。
「だ、だめです……これは……」
「そう? 例え美緒のウィッチとしての寿命を縮めるとしても?」
「――例えそうだとしても、わたくしがお止めしますわ」
「……」
自分の言葉を恥じ入るように中佐はうつむきます。わたくしは中佐に向かって、静かに語りかけます。
「中佐……」
「なに? ペリーヌさん」
「中佐は、少佐と共有できる物を、とても多く持っていらっしゃるじゃないですか……。
共に過ごして来た時間も、思い出も、共に部隊を率いるという立場も……。それに少佐がお辛い時、中佐でしたらわたくしには出来ないやり方で支えて差し上げる事も出来ます……。わたくしはいつも、それをとてもうらやましく思ってしまうのです……」
「ペリーヌさん……」
「自分ではどうにもならないことで、人をうらやんだりしたくはありません。
ですがわたくしには、想いしかないのです……。
だからその……す、少しぐらい、わたくしだけの物があってもいいじゃありませんか……!」
「……」
わたくしの訴えに、中佐は思わず言葉を詰まらせる。わたくしは中佐の目を覗き込む。分かってくださいまし、その思いを込めて。
わたくしを壁に押し付けながら、わたくしの目を見返す中佐の緋色の瞳。それを受け止めるわたくし。
「……こ、これ、どうなるんでしょうか、バルクホルンさん」
「全く、ペリーヌがミーナを屋上に呼び出したと聞いたから、何事かと思えば……」
「ペリーヌさん、大丈夫かな……そもそもこれ、どういう状況なんでしょうか」
横から聞こえてきたひそひそ声に、わたくし達は同時に視線を外した。横目でうかがうと、廊下に立ち並ぶ柱の影から、宮藤さんとリーネさんと、バルクホルン大尉のお顔がのぞいている。
「……リーネちゃんあれだよ! これはカツアゲだよ!」
「カツアゲ……?」
「そう。扶桑の学校でね。突然体育館裏とかに呼び出されて金品を巻き上げるという恐怖の儀式……!」
「金品を奪取……? ……み、宮藤。お前そんな環境で育ってきたのか!?」
バルクホルン大尉が宮藤さんの顔を覗き込む。大尉が握り締めている柱にぴしりとひびが入る。
「あ、私の学校はそんなのなかったですけど」
「そ、そうか……もしお前がそんな目にあっていたとしたら、私は今すぐ扶桑に侵攻しなければならないかと……」
「そ、それで芳佳ちゃん! 中佐はペリーヌさんから、その『カツアゲ』で坂本少佐のおにぎりを奪おうと……?」
「そうだよリーネちゃん。きっとそのうち『ジャンプなさーい』とか言い出すよ?」
「ジャンプ……?」
「あ、ごめん。それは話すと長くなるから……。でもね……カツアゲでおにぎりを奪われるだけじゃないんだよリーネちゃん。
そのカツアゲの恐ろしいところはね? 一回じゃすまないって事なの」
「え?」
「そうだよ! 一度そういう上下関係がついてしまうとね、中々抜け出せないの。やる方もどんどんエスカレートしていって、やられる方もそれが当たり前になっちゃって……」
「そ、そうなの……?」
「うん。だからペリーヌさん、これからきっとミーナ中佐にいろいろされちゃうんじゃないかな……」
「ミーナ中佐に……ペリーヌさんが?」
「それから部屋の前で毎晩『キュッ』って音を響かせてペリーヌさんを眠れなくするとか」
「ええ! そんな!」
「それからブリーフィングに来たら、黒板に相合傘で『ペリーヌ(はぁと)肝油』って書かれてたり……」
「た、耐えられない! でも……『リネット(はぁと)芳佳ちゃん』……いいかも……」
「……そしてその上ストライカーに画鋲を……!」
「やっぱりやめて! 芳佳ちゃんやめて!」
怖い。頭を抱えて震えながら、リーネさんが叫ぶ。
「えーと……」
「あの、どうしましょう……」
好き勝手に暴走する宮藤さんとリーネさんの会話を聞きながら、わたくし達は顔を見合わせる。
「……私、宮藤さん達にどんな風に思われているのかしら……」
中佐がぽつっとそう呟いた。
「……まあ待て二人とも。いくらミーナでも、そこまで大人気ないことはしないだろう」
無責任に盛り上がる二人をとりなすように、バルクホルン大尉が間に割ってはいる。
「そうですか?」
「ああ。そこまで子供じみた事はしないさ。
それにな。ミーナを庇うわけではないが、ああ見えてミーナには苦労が耐えないんだ。
統合航空団の司令という立場は、激務だしストレスも多い。上との折衝に部下の面倒、それこそ神経にヤスリをかけるような日々をミーナは過ごしている。私達がこうして戦えているのも、ミーナのおかげなんだぞ。それを忘れて、勝手な事を言ってはいかんぞ」
「……トゥルーデ! そ、そうよね! あなたなら分かってくれると信じてたわ!」
「――『女侯爵』『鉄の大臀筋』『18歳』。そんな虚飾に満ちた言葉で祭り上げられてはいるが、ミーナはその肩で複雑な立場にある私達の部隊を支えているんだ」
「……トゥルーデ?」
――18歳は虚飾じゃないのよ? 中佐が首をかしげながら問いかけます。
「だから――たとえ、人として目も当てられないような醜態をさらしていても……大目にみてやってくれないか?」
「――ちょ……フォローしてくれてるのよね!? フォローする様に見せながらひどい事言ってるいんじゃないわよねトゥルーデ!」
それから18歳は本当なのよ信じて! ミーナ中佐は大尉に向かって繰り返します。
「ペリーヌさんもそうですよね……」
「うん。人として必要なものを見失うほどに、おにぎりが大事なんだね……」
「おやめくださいまし! 一括りに変態扱いするのはおやめくださいまし!」
こちらの必死の呼びかけを無視して三人は会話を進めていく。
「どうしよう芳佳ちゃん……」
「どうしましょうバルクホルンさん」
「どうしようもないな……」
バルクホルン大尉はため息をつき、わたくし達を眺めます。
「ああなったミーナに手を出すと後が怖いからな。私たちに出来ることは、せいぜい二人の行く末をを見守ることだけだ……」
「な、なにをきれいにまとめてらっしゃいますの!?」
「トゥルーデ! 気づいてるんでしょ!? 聞こえてるの分かって言ってるんでしょ!」
「……」
「……あからさまに目をそらさないで!!」
「おやめくださいまし! 聞こえない振りをするのはおやめくださいまし!」
行こう。ペリーヌは大丈夫だ、多分。そういいながら、逃げるようにバルクホルン大尉は去っていきます。わたくし達は呆然とその姿を見送ります。
「……帰りましょうか」
三人の姿が廊下の先に消えたとき、ぽつん中佐がそう呟いた。お皿から手を離して、わたくしに背を向ける。
「あの……これは……」
その背中に向かってわたくしは声をかける。いつもわたくし達を支えてくれる毅然としたその背中が、なんだか小さく見えます。ふわ、と緋色の髪がゆれて、ミーナ中佐が振り返ります。
「美緒が見ている前で食べてあげてね」
にっこり。いつも隊をまとめてくれる穏やかな笑顔で、中佐はそうおっしゃいます。
「どんな味でも、おいしいといってあげないと駄目よ」
「え、ええ!」
ほっと肩の力が抜ける。胸を張ってわたくしは断言した。
「――心配はご無用ですわ! 少佐が作られたものですもの!」
中佐は苦笑しながら、「だから危ないのに」と答えた。
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「――どうしたんだ? 二人一緒になって」
「あ、いえ……その……」
「……ねぇ?」
食堂に戻ってきて、少佐に迎えられたわたくしたちは顔を見合わせた。中佐はばつの悪そうな顔をして、わたくしも苦笑いをしている。
「……なんだ。まだ食べてなかったのか。あんまり置いておくと乾いてしまうぞ。一体どうしたんだ?」
「いえ、これはその……せっかくですから、中佐もご覧になりたいのではないかと思いまして……二人で見ていましたの」
「ほう! そうか!」
少佐の質問にやや苦しい言い訳をすると、中佐がぐっと親指を立てた。わたくしも中佐もテーブルをはさんで座ります。おにぎりをテーブルに置き、隣に座る少佐にお辞儀をしました。
「で、では、いただきますわ……」
「ああ! 食べてくれ」
少佐のやや照れたお顔を見て、おにぎりに向かいます。
ちょんとお皿に盛られたおにぎり。それに向かって、両手を合わせて「いただきます」――テーブルマナーとしてはどうかと思いますけれど、この方が気持ちがこもるような気がいたしますものね。
そして手を伸ばし、触れます。先ほどより少ししっとりとした海苔の手触りを感じながら、おにぎりを手に取ります。目の前におにぎりを運んでしばし見つめ。胸いっぱいに香りを吸い込み、口をつけ――
「――」
「ど、どうしたんだ! ペリーヌ!」
一口目から固まったわたくしを少佐がゆすぶっています。肩をがくがくとゆすぶられながら、なにも言う事が出来ないわたくし。
少佐が手ずから作られたおにぎり。私もお手伝いをして、少佐の愛情を一杯注がれて作られたおにぎり。わたくしがそれを口にしている。そう考えると、頭の中がぽーっと桃色に染まってきて――
「お、おいどうした! ペリーヌ! 喉に詰まったか!? それとも……まずかったか!?」
少佐があわててお茶を注いでくださいます。ああ、申し訳ありません少佐。違います。違うのです。
ただ感極まって――わたくしの幸せ回路がショートしているだけなのですわ!
「ち、ちがいます……」
「どうしたんだ? 大丈夫か!?」
「ええ……少佐。あの、おいし……おいしいですわ……!」
「おお……そうか!」
やっとそれだけを言えた言葉。それを聞いて、少佐の顔がぱぁっと明るくなる。わたくしもつられて笑う。
「ははっ、そうか。そうかそうか!」
「はい! おいしいですとも!」
「(キュメキッ!)」
――なんだか、向かいの椅子の方から、何かが砕け散る音がしたような気がしますが、気のせいですわね。
「――良かったわね、ペリーヌさん」
「はい!」
中佐は椅子に腰掛けたまま、にこやかにわたくしを見つめてくださっていますもの。
一口一口、味わいながら食べていきます。少佐と中佐が笑いながら、わたくしを見守ってくださいます。
暖かなお二人に見守られながら、少佐のおにぎりをいただく。その幸せを噛み締めながら、わたくしは黙って口を動かします。減っていくおにぎりを惜しみながら、でもそれがいずれわたくしの一部になることを喜びながら、わたくしは食べ続け――
――ごくん。最後の一口を飲み込み、静かにお茶を飲み干しました。
「ごちそうさま。とても……おいしかったですわ……」
「そうか!」
「はい……あ、あの……」
「……? どうした」
「はい……そのとても、おいしかったですわ……」
……胸がつまって、それしかいえないわたくし。
いけませんわ。これほど幸せにしてくださったのに、これだけでは中佐と少佐に何も返していないも同然ですわ。何か言わないと……。そんな風に焦るわたくしをなだめるように、お二人はあくまで優しくわたくしに言葉をかけて下さいます。
「ペリーヌさん、おいしかった?」
「ええ……」
「そうか! 喜んでもらえて何よりだ」
「……はい」
「うむ! いや、実は私も食べては見たんだが、どうも塩気の量に自信がもてなくてな」
「──はい?」
少佐は厨房の方に去っていき、大皿を手に抱えたまま戻ってくる。どん、と音を立てて、その大皿をわたくし達の前に置いた。
「いくらでもあるからな。どんどん食べてくれ」
「……へ?」
おにぎりが積み上げられた大皿を目の前に置いて、少佐は得意そうな顔。
「これ、全部美緒が?」
「ああ。釜一杯分のご飯があるんだ。まさか1個だけ作って終わりというわけにも行かないだろう」
「そうだけど……」
「大体お前たちは、いつも食が細くて心配になるぞ。
ペリーヌもミーナもいつも無理をしているんだ。せめて食べて力をつけないとだな――」
「そ、そう?」
「そこまで、無理はしていませんけど……」
――そういうところは見えてらっしゃいますのね。随分と都合のいい視覚です事。
本当にしょうがない方。呆れながら中佐と顔を見合わせて、二人同時にくすりと笑った。
「おぉ、もうこんな時間か」
では訓練に行って来る。そう言って少佐は立ち上がり食堂を出て行く。
「宮藤ー! いるかー!?」と呼ぶ声が廊下を遠ざかっていく。
「……」
そして食堂には、わたくしと中佐だけが残された。
「量産、されてたんですね……」
「そうね……」
「これ……三角……ですわよね……」
「……そう見えないこともないわね」
うず高く積み上げられたおにぎりを見ながら、ぽつりぽつりと言葉を交わします。
「……あの、中佐……」
「なぁに? ペリーヌさん」
「わたくし……少しおなかがすいて参りましたわ」
「……みんなが来るまで、きっとまだ時間があるわね」
座板が粉砕された椅子から、中佐は腰を上げ、別の椅子を引き出して座りなおします。
わたくしは急須を取り上げ、二人分のお茶を注ぎました。
食堂にはわたくしたち二人だけ。目の前の大皿には積み上げられたおにぎり。坂本少佐のおにぎり。
このシチュエーションが示すものは――第二ラウンドの幕開け。
「ねぇペリーヌさん。美緒と一緒に訓練に行った方がいいんじゃないかしら?」
「少佐がこれを作ってくださったんですもの。それを置いて行けませんわ」
「そうかしら……」
「中佐こそ、お休みになってないんでしょう? 寝る前にお食べなると大変な事になりませんの?」
「そうねぇ。でも、美緒のおにぎりが食べられるなら、まだ寝ないでがんばれるかな……」
二人の視線ががっちりと組み合います。
「――大人しく、お休みにはなりませんのね?」
「――訓練には行く気は、ないと思っていいのね?」
おにぎりが盛られた大皿をはさんで、見詰め合うわたくしと中佐。
「そう……ふふ」
「ええ……うふふ」
不敵な笑みを漏らすわたくしと中佐。
……食べ尽くして差し上げますわ。あなたより、ひとつでも多く。
「いただきます」
二人の手が、同時におにぎりをがっつと掴みました。
おわり