まな板の恋
「お、落ち着いて、芳佳ちゃん……」
返事はない。
「そっ、そんなにせっつかないで……」
返事はない。
「あ……あんっ……それはダメェッ……!」
やはり芳佳ちゃんからの返事はない。
不安になった。私の声は芳佳ちゃんの耳に届いているのだろうか。
届いているとすれば、なぜ芳佳ちゃんは答えてくれないのだろう?
届いていないとすれば、私はとんでもないことを芳佳ちゃんにしてしまったことになる。
そんなつもりじゃなかったのに。
仕向けたのは私。こんなこと言ってしまうと、そんなの嘘になってしまうけれど。
でも、そんなつもりじゃなかったのに。
まさかこれほどまでに芳佳ちゃんが飢えていたなんて、私は知らなかったから。
このままじゃ全部食べられちゃう。
ぺろぺろぺろぺろぺろぺろ。
私の胸にある膨らみに、芳佳ちゃんはいやらしい舌づかいを繰り返す。
そしてひととおり堪能すると、今度は歯を立てるのだった。
はむはむはむはむはむはむ。
噛みつき、むしゃぶり、頬ばりつくす。
ああ、芳佳ちゃん……。
視界の下の隅に、なんとか芳佳ちゃんを確認する。あと見えるのは天井ばかり。
蠱惑的な表情を芳佳ちゃんは浮かべている。
それは私が今まで見てきたどれとも違う、とてもとても可愛らしいものだった。
突然押し倒された時はそれはもうびっくりしたけれど、それもほとんど治まっていた。
その代わり、今はそれとは別の気持ちが私の心臓を熱くさせている。
ただひたすらに、私は芳佳ちゃんにされるがまま。
きっとまな板にのせられた鯉というのは、今の私とおんなじような心境なのだろう。そんなことを思った。
時は少しさかのぼる。
ブリタニアから扶桑の私の元(ここアンダーライン)に帰ってきた芳佳ちゃんがどうも元気がない。
最初は離れ離れになった仲間のことが寂しいのだと思ったけれど、どうやらそれだけではないらしい。
おぼろげで、心ここにあらずな表情。今ここでないどこかに向けられた瞳。
時折、だらしなくゆるんだ顔を浮かべては、またすぐに気を落として。
ねぇ、どうしてそんな顔をするの?
なんだかすごく苦しそう。芳佳ちゃんのそんな顔、私見たくないよ。
それはなにかを耐えているようで……ああ、そうだ、禁煙中のお父さんになんだか似ている。
そうか! そうだったんだね、芳佳ちゃん!
その原因をつきとめた私は、横浜の繁華街に出向いたのだった。
ある物を大量に買い込むと、急いで芳佳ちゃんの家へと向かった。
うつろな顔をした芳佳ちゃんが私のことを出迎えた。
舌打ちされた気がしたけれど、ううん気のせいだよね。
ああ、またそんな顔をして……でも、それももうおしまいだよ。
「今日は芳佳ちゃんにおみやげがあるの。いっしょに食べようと思って」
「……なに?」
私は答える代わり、紙袋からそれを1つ取り出してみせた。
「そ、それはっ……!」
うふふ。見てる見てる。
減量中のボクサーとおそらく同じような目をしている。
ギラギラと眼光鋭く、うちなる攻撃性を潜ませたそういう目。
「肉まんだよ、芳佳ちゃん」
しかも普通よりも大きい特製肉まん。
そして、さらにもう1つ。
芳佳ちゃんはエサを前にして待てと言われた犬みたいに、あうあうしている。
「ねぇ、芳佳ちゃん――」
私は手にした2つの肉まんを自分の胸に引っつけると、そう唱えてみせた。
「おっぱい」
次の瞬間、芳佳ちゃんは猛る獣と化していた。
ものすごい力で私を畳の上に押し倒し、馬乗りになると、私の胸にある肉まんに口を近づけた。
まずはアイスキャンディにそうするかのごとく、ぺろぺろと舐めまわしていく。
丹念に、丹念に。千化万変の舌の動きで。
ひととおり舐めつくすのに満足すると、ようやく肉まんを賞味しだした。
もそもそもそもそ。
まるで小鳥のさえずりのような、口先と前歯の細々した運動。
食べきるのを惜しむように、でも口を離すなんてこともできず――
そのジレンマも長くは続かなかった。
がつがつという食べ方に変わり、最後は飲みこむように、あっという間に2個の肉まんを平らげてしまった。
肉汁のしたたる口をぬぐうと、芳佳ちゃんは吠えた。
「もっ、もっと!」
私は新しい肉まんを紙袋から取り出して、再び胸の位置にかまえた。
芳佳ちゃんは再びがっつきだす。そんなにせっつかなくても、まだまだたくさんあるのに。
とはいえ――肉まん、あんまん、ピザまん、カレーまんにその他新商品は、みるみるうちに消えていった。
そんなやり取りがしばらく続いて、
「あ……あんっ……それはダメェッ……!」
うかつにも私は紙袋から誤ってそれを手に取ってしまったのだった。
制止するも、芳佳ちゃんは止まらない。猛烈な勢いでそれを噛みちぎり、
「あああああああああああああっ!!!!」
悲鳴をあげる芳佳ちゃん。
小籠包のアツアツのスープがあふれ出して、芳佳ちゃんの顔面を襲ったのだ。
「だっ、大丈夫!?」
芳佳ちゃんは返事の代わりに、ぶるんぶるんと首を横に振り、顔についたスープを畳にまきちらせた。
そして再度、にっくき小籠包を食ってかかったのだった。
食べきると、芳佳ちゃんは張り裂けんばかりの雄叫びをあげた。
「もっと!」
獰猛な肉食獣がここ、扶桑皇国の横須賀によみがえったのだ。
そう、ミヤフジザウルスヨシカ。
そこにあるのは胸の膨らみへの純粋衝動。
それを本能とし、それのみに生きる、地球上に1頭の獣――
すべてを食べつくした芳佳ちゃんは、お腹いっぱいになって寝てしまった。
さっきまでとは全然違う。その寝顔はまだまだあどけない、私と同い年の少女のものだった。
それにしても肉まんを頬ばる芳佳ちゃんすごかったなぁ。
も、もし私にあんなことされたら……
そんなことを考えただけで、無性に体が熱くなってくるよ。
ああ、でも……
私は自分のなだらかな胸をなぞりながら、こっそりため息をついた。
明日から牛乳飲も。