春よ、来い
あの長かった冬をようやく、ガリアは越えようとしている。
果てなく続くトンネルのようだった。横たわる深い闇に、自分が一体どこに立っているのかわからなくなる。
それが今、その先に一筋の光明を見出だすことができる。それには長い歳月と多くの辛苦を要したけれど。
思えば昨年10月に再びガリアの土を踏んだ時には、耐えきれず我が目を覆ったものだった。
それからはネウロイとはまた別の戦いだ。
少ない人手と予算と物資をやりくりしての復興作業。毎日毎日がわずかなことの積み重ねだ。
追われた人々を迎え入れ、道路の脇や広場に木を植え、崩れた建造物の修築や、あるいは解体して建て直す。
しかも季節はもうじき冬へと向かおうとしていたものだから、事態により一層の腐心を強いられた。
それが年を越し、2月の寒さも峠を越えて、近頃はずいぶん日も長くなってきた。
街に少しずつ活気が戻っていくのがわかる。木の芽の成長や、人々の笑顔で。それを見つけるのが嬉しい。
もういくらかしたら春ね。
そんなことを思って心がはずむ。それはわたくしばかりではないはずだ。
さて。それじゃあまだまだ頑張らなくては――
目を覚ましたのは机の上で、つっ伏すようにしてだった。
書類仕事の最中につい眠ってしまっていたらしい。
ずれた眼鏡をかけ直し、下敷きにしていた書類に皺ができていないことに安堵すると、
うーんと座ったまま大きく腕と背を伸ばした。
すると、わたくしの肩から背を撫でるようにして、ブランケットが落ちる。
これは――?
わたくしは首をかしげた。
自分のものではない。とすれば、他の誰かがこれをかけたのだ。
きっと、こうして寝ているわたくしを見たその人が、起こさぬようにそうしてくれたのだろう。
ふと、小さなメモが机の上に置かれていたことに気づいた。
ペリーヌさんへ。
いつもおつかれさまです。
けれど、くれぐれもお体を壊さぬよう、
頑張りすぎもほどほどに。
丸みをおびた幼い文字でつづられた短い文章。
名前こそ書かれてはいなかったけれど、それが誰によるものか、わたくしにはわかった。
自然と自分の口元が緩んでいることに気づく。
あとでちゃんとお礼を言いませんとね。
ブランケットをちゃんとたたんで、机の脇にそれを置いた。
窓の外はもう朝だ。もう行かないと。
その当人とは思いのほかはやく巡り会えた。
宿舎の廊下をふらふらと、おぼつかない足取りで歩いていく背を見つけたのだ。
「アメリー、ちょっといいかしら」
わたくしが声をかけると、アメリーはまるで電気を走らせでもしたように、びくりと震わせた。
右へ左へぶんぶんと頭を振り、ようやくわたくしが後ろにいるのだと気づくと、
みるみる顔中を真っ赤に染めて、うつむいてしまった。
見るからに挙動不審。まあ、この子がおかしいのはいつものことではあるけれど。
「あっ、あの、ペリーヌさん!? その……おはようございます……」
「おはよう。それよりどうかしたの?」
「うえっ!? な、なにがですか?」
大げさに声をあげるアメリー。顔はうつむけたまま、時折ちらちらとこちらの顔色をうかがってくる。
その目のふちに黒ずんだものを発見した。
「その、目の下にクマができてましてよ」
「ええっと、これは……」
「頑張りすぎるのもほどほどにね」
どこかで聞いたセリフだと気づいたのは口にした後だった。こっそりと自嘲してみる。
「いえ、そういうのじゃなくて……」
「……?」
「えっと、その……ごめんなさい。わたし、もう行かないと」
アメリーは深く頭を下げて言うと、きびすを返してどたばたと走っていってしまった。
まったく、騒がしい子ね。
お礼を言いそびれてしまったことに気づいた時には、もうアメリーは視界からは消えていた。
それは結局、このあとも言えずじまいだった。
会ってもまともに顔もあわせてくれない。
声をかけてみても、そっけなく足早に去っていってしまう。
なにがあったかは知らないけれど、避けられているのだと知るまでに長くはかからなかった。
「ねぇ、リーネさん。あなたなにか知らない?」
「いえ、知りません」
それとなく相談してみるも、リーネさんはふるふると首を振った。
このところよく一緒にいるのを見かけるから、もしかしてと思ったのだけれど。
2人は知り合ったばかりの頃こそぎこちなかったものの、一度打ち解けてしまえばあとは早かった。
アメリーはよくなついているし、リーネさんはそんなこの子を可愛がってくれている。
「そう……」
そっと、ため息をこぼす。
「その、ペリーヌさん覚えて……いえ、なにか心当たりはないんですか?」
「心当たり? わたくしが?」
あの子になにかいけないことをしてしまったか、記憶を掘り起こしてじっと考えてみる。
なにもない。
ちょっときつい物言いをしてしまったことだとか、泣かせてしまっただとか、そういうことは多いけれど。
でも、それは別に嫌われるようなことではない。世間一般はともかく、アメリー個人としては、だ。
意外にタフなのがアメリーという人間だ。そういうところがわたくしは気に入っている。
こう言っては見も蓋もないけれど、ちょっとやそっと泣かせたくらいで嫌われるような、
そんなことで崩れるような関係ではないと思っていた。
包み隠さず言ってしまえば――少なからず好かれているという自覚があった。
これまでは。
もちろん、それはうぬぼれでしかない。
だから、急に、こうも態度を変えられてしまっては、どうしたらいいのかわからなくなる。
わたくしはなにも答えなかった。
それを汲み取ったのか、リーネさんからもなにも言ってはこない。
そもそも、それがわからなくて、こうやって相談しているのだけれど。
「わたくし、気づかぬうちにあの子になにかしてしまったのかしら」
「したっていうか、されたっていうか……」
「そう……」
吐息をこぼす。
したっていうか、された。なにをだっていうの?
……ん?
「ちょっと、リーネさん!」
「なっ、なんですか? 急に大声で」
「あなた、なにか知っているの? ねぇ、そうなんでしょう?」
「ええっと、その……」
リーネさんは目をそらせた。わたくしはそれに視線で追及を加えた。
するとリーネさんは素早く頭を下げて、
「ペリーヌさん、ごめんなさい! これ、アメリーちゃんとのヒミツなんです!」
そう言ってわたくしの元から逃げていってしまった。
わけがわからなかった。
ヒミツというのはおそらくアメリーとリーネさんの2人だけのものだろう。
それがどのようなものかはわからないけれど――もうどうでもいい。
きっとこれ以上問い詰めても、2人とも口を割ることはないだろうから。
それならこんなこと気にかけるだけ、労力と心のゆとりの無駄だもの。
わたくしだけのけ者にされたことを心外に思わないでもないけれど、それだって別にかまいはしない。
別にあの子が誰と仲良くしようと、わたくしにはどうだっていいこと。
そう思う。心からそう思っている。
では、どうしてこんなにも心がさざめくのだろう?
――ああ、そうだ。
この気持ちをわたくしは知っている。
忘れかけていたけれど、手紙を受け取るようにして、はたとある時そのことに気づかされる。
そこにはこう記されている。
『わたくしのこと、あの人はちゃんと好きでいてくれているかしら』
それがわからなくて、いつも不安にさいなまれる。
訊くこともできず、確かめるすべもしらず、だからぐるぐるぐるぐる……際限なく考えを巡らせるだけだ。
なにも持っていないのではないか――
だから、やさしくされるのは苦手だった。
その人にどんどん惹かれていく自分がわかるから。
わたくしの心にどんどん踏み入ってきて、かき乱すだけかき乱して、そうしていつかは去っていってしまう。
そんな誰かを気にして不自由になるならば、1人でいる方がずっと楽だ。
いつもそうしてきた。わたくしはそれでかまわない。
「あのっ……ペリーヌさん、ちょっといいですか」
夜も深まる頃あいに、アメリーは執務中のわたくしの元へやってきて、そう訊ねかけてきた。
「なに?」
顔はあげずに問い返す。
「その、来てほしいところがあるんです」
「今、書類の見直しをしているの。あとになさい」
つい棘のある言い方になってしまった。
アメリーは困った顔をして、あちらこちらに視線を飛ばす。
ああ、もうすぐ泣き出すだろうななんてことを思った。
――どうだっていい。
しばらく2人無言でいると、今度はリーネさんが部屋に入ってきて、
「いいから来てください」
わたくしの手を取り、引っ張ってくる。
「ちょっと! なにをするの!」
「いいから早く」
わたくしは手を引かれるまま、部屋をあとにした。
後ろからアメリーがついてきて、わたくしの背中を押した。
そうして連れてこられたのは、電気のつけられていない、アメリーの部屋にだった。
「なんですの、いったい!?」
「アメリーちゃん、準備はいーい?」
「はい!」
2人は、せーの、と短く言ってから――
「「ペリーヌさん、お誕生日おめでとうございます!」」
パンッ、とわたくしに向けられたクラッカーが鳴る。
少し遅れて部屋に電気がつけられた。
そこに並んだ料理も、ケーキも、飾りつけも、すべて手作りで。
「誕生日……?」
「はい。だって今日は2月の28日ですから。もしかして忘れてたんですか?」
「そんなはずないでしょう。ただ……」
リーネさんを正そうとしたけれど、その言葉をなかばで呑みこんだ。
「ただ、なんですか?」
「――いえ、なんでもありませんわ」
ただ、自分が誰かに祝ってもらえるなんて、そんなこと考えてもみなかったから。
そんなこと、この場でとても言えはしない。
わたくしの悪いくせだ。
信じることよりも、疑ってしまう。いつもつい忘れてしまいそうになる。
けれど、こうしてちゃんとたしかなものが、今ここにあってわたくしを囲んでいる。
今までだってきっと同じだったはず。ただ気づこうとしなかっただけで。
たくさんのものに支えられて、そうして今、わたくしはここにいる――
「秘密というのはこのことでしたの?」
わたくしが訊ねると、2人は顔を見あわせる。
アメリーの顔がみるみる赤く染まっていった。
そんな彼女の代わりに、リーネさんが言った。
「はい。2人でこっそり準備してたんですよ」
「そう……。まったく、あなたたちは、その……ありがとう」
そうして3人だけのバースデイパーティーは、ささやかながらも盛況におこなわれた。
アメリーは一番最初に寝てしまった。そんなこの子にわたくしは膝を貸してあげた。
いろいろと疲れていたのかもしれない。けれど、寝顔はやすらかなものだった。
「あの、ペリーヌさん。さっきのことですけど」
と、リーネさんは言ってきた。
「私たちがヒミツにしてたこと、実は違うんです」
「じゃあなあに?」
「実は――」
リーネさんはわたくしに、ごにょごにょと耳打ちをした。
「なっ……!?」
思わずわたくしは声をあげた。
アメリーが起きていないことを確認し、わたくしはリーネさんに問い直した。
「本当なの、それは?」
「はい、そう聞きましたけど……あっ、でもほっぺたですよ」
わたくしの顔がみるみる熱くなっていくのがわかった。
まったく、この子ときたら……
膝の上を陣取るその呑気な横向きの寝顔を見たら、文句も言う気も失せてしまった。
その代わりに。
わたくしはアメリーの顔にかかった髪をすくいあげた。
「いい、リーネさん? これは2人だけの秘密ですわよ」
きつくそう確認してからわたくしは、眠れるアメリーに同じことをしてやった。
おそらく、同じところに。
2月最後の日の夜ふけ。春はもう、すぐそこだ。