思いを馳せる海の向こう


 そういえば、幼い頃によく手紙を交わしていた記憶がある。お互い性格は似ているとは言えなかったが、それでも自分が持ちえていない
部分にお互い惹かれるものがあったのだろう。きっかけはなんだったかもう覚えていないが、確かこちらが首都あたりまで出かけた時に
何らかの理由で顔をあわせたのだと思う。それ以来、彼女からの手紙を日々心待ちにしていた。思えば軍隊に入ったのも、彼女に影響された
ところが大きかった気がする。元々あちらの親が軍の人間だったらしく、彼女自身からもよく"そういった"話を聞いていた。子供ながら
祖国のことを子供なりに愛していた自分は、それを聞いて感銘を受け、そして祖国を守るために戦えるならと軍に志願。もちろん親は反対
したが、それも振り切って入隊した。幸い魔法力には恵まれており、また固有魔法がある種便利であったことから、軍での扱いは良好だった。
やがてそれを報告すると、彼女のほうも一年ほど遅れて入隊したという連絡を受ける。それまで親に対する不平不満や愚痴ばかりを目にして
いたので、その時はひどく驚いたものだった。あんなに軍を嫌っていたのに、どういう風の吹き回しか。少し面白そうな目でその報告の
手紙を読んでいたが、ある一文に思わずどぎまぎしてしまったのは今でもいい思い出だ。それ以降は手紙を交わす機会も少なくなったが、
お互い心はどこかで通じ合っていたように思う。連絡をもらえなくとも、不思議と寂しくなることはなかった。
 そしてある日、双方が自由な飛行を許可されてから。哨戒飛行という名目の下、数年ぶりの再会を空で果たすことになる。あの時は柄にも
なくはしゃいでしまって、つい帰投の時間を忘れてしまうほどだった。おかげで基地に帰ってから絞られたが、こちらは普段の素行が良かった
だけにそこまで叱り飛ばされることもなかった。あちらは生まれつきやんちゃな性格だったので、入隊してからもそう態度は変わらなかった
らしく、お陰で罰則もそれなりに酷かったらしい。その後何度か会うようになって、そんな話も聞いた。

 やがて空を飛ぶことも当たり前になり、哨戒飛行の度にお互い顔をあわせるようになって。時折、近くの小高い丘に立ち寄って二人で
羽を伸ばしたりもしたものだ。時には隣り合って、時には背中を合わせて。互いの温度を感じながら、世界が一人きりでないことを味わった。
時々向こうさんにちょっかいを出されることもあって、その時は二人して草の上を転がった。最後はお互いに笑いあって、手を繋いだりも
した。一緒にいると不思議と心が落ち着いて、大空を見上げると、まるで心がすべて晴れ渡っていくような感触になって。

 だからあの日、私はつぶやいたんだ。大空に手を伸ばして、一言。

 ――友達って、素敵だな。

 ……でも。それから彼女とは、少し関係が悪くなった。何をするにもギクシャクしていて、どこか不自然。今までは丘で休んでいても、
向こうがちょっかいを出してきたのに、それ以来は何もしてこなくなった。こちらから手を出すと、少しだけ乗ってはくるものの、しかし
すぐに鬱陶しそうな顔をしてしまう。
 なぜそうなったかは理解できなかった。ただ、彼女が誰よりもすばらしい親友であったのに、それが崩れてしまったのだけは事実だった。
丁度同時期、こちらは新人の世話も始めたため、彼女とつるむ機会も減り始める。……それがさらに、互いの関係の崩壊を加速させた。
結果、会える距離だというのにコミュニケーションは手紙になって、それも返事が返ってこないことがしばしば見られた。いつしか耐えられなく
なった私は、彼女にたった二行、手紙を送った。

 ――こんど、あいたい。

 もう一行には、場所と日時を指定して。


 指定した日。私は一時間前からそこに待機して、ずっと待ち続けた。上に怒られるのは承知の上で、でも一応、話を分かってくれる上官は
いたから、その人に話はつけておいた。そしてひたすら、二時間でも三時間でも、待ち続けた。彼女は今まで何度となく遅刻したが、決して
約束を破ることはなかったのだ。



 ……だが、その場所についてから五時間が経過する。日もほとんど落ちて、もうそろそろ帰ろうかとも思い始めた。それでも、来てくれる
ことを信じて疑わず、決して帰ることはなかった。



「……なんで、待ってんだよ」
「お前が来るからだよ」



 泣きそうな声が背後から聞こえたのは、五時間と二十分が経過してからだった。



 それから私たちはぽつぽつと話を始めて。いつしか二人とも饒舌になって、ここ数ヶ月の距離を埋めようと、二人ともまるで必死に喋り
続けた。笑って、怒って、また笑って。ずっと話し続けて、そしてそれはいつの間にか、鋭利に尖った刃物と化した。

「……なあ」
「んあ?」
「……帰ったら怒られるよな、私達」
「……はん、何今更言ってるんだよ。あの時間にここに来たって、きっと同じことをしてたんだ。それが五時間半も遅れりゃ当然だろ」

 あちらさんは、少し機嫌を損ねた声色で言った。口調はいつも通りだが、そこには明らかな不機嫌が漂っている。……なんでだろう。
どうしたんだと言わんばかりに首を傾げていると、彼女はいきなり体をひねって――そして私と彼女は、背中合わせになった。彼女の
手が優しく私の手に重なって、随分と彼女の手が冷たいことに気がつく。

「……お前ってさ。いっつも、忘れた頃に現実を突きつけるんだ」
「え?」
「前だってそうだよ。……ずっと、ずっと、お前と一緒にいたかったのにさ。いきなり『友達』なんて言い出すんだ」

 相手が背後にいるせいで、表情は見えない。でも少しずつ、握られる手に力がこもっていくのを感じた。彼女の手は、私の手に触れて
なお冷たい。

「……わかってんだろ、なあ」
「……なにがだ」
「もうしらばっくれるなよ、ばか」

 私はあくまで知らないふりをしようとしたが、明らかに取り繕ったような私の声を、向こうが拾わないはずもなかった。……もう、これで
元の関係には戻れないだろう。

「…………分かってるよ。私たちがどうなってるかなんて」
「……なあ、なんであの時、あんなこと言ったんだ?」
「そうだと思ったからだよ。正確には、あの時はまだ気づいてなかったんだ」

 また、私の手を握る彼女の手に、力がこもる。……卑怯だ、私は心の中でつぶやいた。私だって、力の限りこいつの手を握ってやりたいのに。
いつだってそうだった。私はこいつの下手に出て、振り回されてばっかりだ。たまには私が上に立ちたいのに、許してくれない。いつもこいつが
前をリードしてくれて、私はついていくだけ。私だってたまにはリードぐらいしたいのに、こいつはそんな隙を与えてくれない。ふと気が
ついたら、こうなってるんだ。
 酷いじゃないか。内心、ちょっと悪戯っけのある笑みを浮かべた。だって、今のこいつは、弱りきっているんだから。

「……なあ」
「なんだよ」
「……私は、

 ――向こうが何かを言いかけたところで、私は思い切り彼女の手を振り解いた。そして彼女が驚く顔を見せる前に体をひねって振り返ると、
その背中に飛びついた。……もっと言うと、勢いよくその背中を抱きしめた。いつもは強くて、頼りがいのあって、むしろ私がどれだけ小さい
かを思い知らせてくれるのに、今はとても小さくて頼りなくて、私が支えてあげないと壊れてしまいそうなその背中。私はそれをぎゅっと、
きつく抱きしめる。

「……知ってるよ。だって、私もそうなんだから」

 くす、と小さく笑って、彼女のすぐ横で囁いた。……そしたら、あいつってば酷いんだ。

「……ばーか、お前には似合ってねえよ」
「んなっ、ひどいじゃないか!」
「へへっ、やっぱお前は私に振り回されるのがオチなんだよ」
「くっそ、たまに元気出してやろうと思ったら貴様っ!」

 思わず手を離して、前みたいに悪戯を仕掛けてやろうかと思った。けど、それはこやつの更なる悪巧みのせいで完全に封じられた。

 反射的に離した手を、やつは勢い良く握って振り下ろした。体勢の整っていなかった私は、いきなり腕を引っ張られてバランスを崩して
しまう。背中から崩れこむように地面に倒れて、仰向けになって、なにかと思ったら。―――次の瞬間には、やつの顔が目の前にあって、
唇が暖かくなってるんだ。

「っ……」

 時間にしてほんの数秒。だけど、まるで時が止まったかのように感じられた、軽いキス。でもそれは、私たちにとってはとてもとても
大きな一歩だった。

「……この、ばか」
「ふふん、撃墜カウントいち、っと」
「ふざけんな」

 言うなり私はやつの後頭部を押さえ込んで、やつがうろたえてるうちにそれを自分の顔へと押しやった。再び触れ合う唇、自分のそれに
伝わる、やつの少し湿り気のある柔らかな感触が、理性をじりじりと焼いていく。
 でも、その先へ踏み込むほど、私たちは大人じゃなかった。そのときの私たちにとって、それが最大限だった。

「……っ」
「ふふ」
「……くそ、トゥルーデのくせに生意気だ」
「ティナほどじゃないよ」

 私たちはその後、二人で並んでねっころがって、大空を見上げた。手を、貝殻状に合わせて。


「……しかしさあ」
「なんだ?」
「お前、もうちょっとぐらい考えないの?」
「なにがだよ」
「だから時間設定だってば。どこまで行っても現実主義者だな、お前」


 ……ティナの言うことも、分からんでもなかった。なにせ、この日は―――。


「……私なりに考えた結果だよ。大切な人を守るために戦うって、かっこいいじゃないか」
「ぶっ!! あっはは、トゥルーデが『かっこいい』とか言い出したよ! こりゃ傑作だ!」
「う、うっせ! 私だってティナに、その……い、いいとこ見せたいんだよっ」
「うっは、なに恥ずかしいこと言っちゃってんのお前! そういうの本人に言うことじゃないだろ!」

 けらけらと笑い転げるティナ。恥ずかしいのなんて言われなくても体が散々主張してる。顔は真っ赤だし、体温は急上昇するし。……でも、
ティナの顔を見たら、やつの顔も真っ赤だった。それはそれでいいかな、とかも思ったりする。

「……いいだろ。最後ぐらい、いい思いしたって」
「……こっちもいい思いさせてもらったよ」

 一通り笑い転げて後、落ち着いてから静かに言葉を交わす。満天の星空はまるで私たち二人を抱擁してくれているようで、しかしそれは
今日で終わり。……ネウロイの大規模な侵攻が確認され、明日はその迎撃に出なくてはならない。私たちのいるところは明日だが、これまで
戦った地域では目も当てられないほどの惨敗を繰り返していた。迎撃に成功した都市はひとつたりとも存在せず、まだ生存者が出ている
場所は幸せと言わざるを得ないほどである。
 そんな戦いに、身を投じなくてはならない。それはきっと、私もティナも一緒。……だから、悔いは残したくなかったし、きっと大切な人が
できれば、その想いが強さになってくれるから。

「……こうして一緒にいられるのも、今日が最後かねえ」
「そんな馬鹿な話、あるものか。全部終わったら、また二人きりでここに来るぞ」
「あっは、お前らしくない台詞」
「うるさい」

「……ありがとう。大事に胸の奥にしまっておくよ」
「約束だからな、破るんじゃないぞ」
「今まで私破ったこと一度もないだろ」
「それと三時間以上遅刻するのも禁止」
「へいへい」

 ……私たちはまた無言になって、そして。



 最後にもう一度、今度は長めに、唇を重ねあった。それがティナと私との、最後の思い出。次の日私の故郷であったカイザーベルクは陥落し、
クリスは昏睡状態に陥り、私の心もズタボロにやられた。ティナの方は避難は割とうまく行ったらしいが、撤退は散々だったらしい。お互い、
これからは自分のことをやらざるを得ない状況になってしまった。それきり連絡を取り合うことはなくて、ただ、私がここにいることと、
ティナがアフリカにいることだけは把握している。それ以外の情報は、お互い、何もやり取りなんてしていなかった。そんな余裕は、今のこの
世界には存在しなかった――。
 ――軍人の、宿命か。私は、遠くアフリカがあるであろう南の空を眺めつつ、そんなことを思うのだった。











          * 思いを馳せる海の向こう *











「あ、こんなとこにいた」
「ん?」

 手に小さな袋を持ったエーリカが、ようやく探し物を見つけたらしく、顔をぱあっと明るくして走っていく。その先には、ぼうっと南の空を
眺め続けていたゲルトルートの姿。彼女はふうとひとつ息を吐いてから、エーリカに向き直った。はい、と元気良くエーリカが差し出す袋。
ゲルトルートは中身を問いつつ受け取り、袋を空けて中を覗き込んだ。

「リーネが焼いたんだよ。みんな食べたけど、トゥルーデだけどこにもいないからどーしたんだろーって」
「いや、これはすまんな、手を煩わせた」
「いいのいいのー。どったの? こんなとこで」
「ちょっとな」

 くすり、と笑って見せて、そして数歩歩いて岸壁に腰を下ろす。海からみえる欧州は酷く静かで、まるでネウロイの存在を感じさせないほど。
しかしその先にはどす黒いものが眠っていて、約束の地も炎に呑み込んだ悪魔が散っている。ゲルトルートは少しだけ冷めた、それでも熱のある
ケーキを口に運んで、思わずおいしいと一言つぶやいた。けれどそれは、純粋にケーキがおいしいから、とつぶやいた言葉ではない。それは
エーリカにも通じたらしく、ふうと息を吐く声が聞こえた。

「――トゥルーデってさ、微妙にロマンチストだよね」
「うるさい」
「別に悪いこといってるわけじゃないのにー」

 ぶー、と頬を膨らませるエーリカ。ゲルトルートはもう一口ケーキを運んで、そして――。

「リーネもさ、心配なんだよ。いっつも規律規律って言ってるけど、ほんとは皆のこと考えてるトゥルーデがさ、そうやってふさぎこんでると」
「……わかってるよ。皆には迷惑をかけてると思う」
「宮藤も心配そうにしてたよ。大丈夫かな、私にできることなにかないのかな、って」

 リネットの作ったケーキは、祖国にいた頃よく食べていたケーキだった。……勿論、"あの頃"にマルセイユとも二人きりで食べたことのある
代物。カールスラントの有名な料理で、二人で食べていないものはきっとないだろう。まだ友達同士だった頃とはいえ、その思い出は深く根を
張り、今でも強く心に残っている。店で食べたときは本当に美味しくて、満面の笑みを浮かべるマルセイユに少しだけ心が弾んだのを思い出す。
それを受けて二人で作ろうと試みて、何とか完成させたときは二人して喜んだものだ。店売りに比べれば遥かに苦かったが、それでも不味くは
なかったし、一緒に作ったという補正も加わって美味しかった思い出がある。まあ少なくとも、リネットが焼いてくれたこれに比べれば随分と
格下であったのは否めないが。

「トゥルーデは年長さんなんだからさ、皆が見てるところではピシッとしてないと」
「……そうだなあ……」
「……分かってないし。私だってトゥルーデの下なんだけどなー」
「お前はいつだろうとどんな時だって私を敬うようなことなどしてないだろうが」
「えへへー」

 ニカッと笑ってみせるエーリカ。それを見て幾分か現実に戻ってこれたような気がしたが、それでも欧州が目に入るたびに気になってしまう。
今、ティナはどうしているだろうか。アフリカに派遣されてからはスコアも順調に伸ばしていると聞いて少し安心したが、やはりどうしても
気にかかってしまうのが現実だった。こんなことなら、あんな約束なんてしないほうが良かったかもしれない。ゲルトルートは少しだけ悔いて、
でもあの夜は本当に幸せだったのを思い出す。……大好きな人と一緒に、二人だけの時間を過ごせる機会なんて、これからどれだけあるだろうか。

「……でもね、私だって親友の心配ぐらいはするんだよ」
「分かってるよ。ありがとう」

 ケーキを食べ終えて、皿を傍らに置く。今まで皿を持っていた右手はエーリカの頭に伸び、くしゃりと撫ぜてやった。子ども扱いするなと
喚くエーリカだったが、これがエーリカのささやかな幸福であることをゲルトルートは知っている。何度かなでて、しかしそれも数回で終わる。
リラックスしたような姿勢で、それでも海の遥か向こうを眺めることに変わりはなかった。今ゲルトルートが見ているのはドーバーではない、
地中海の向こうだ。

「……はあ、いかんな……」
「頭では分かっててもねー、追いつかないことってあるもんだし。いっそのこと休みでも取っちゃえば?」
「それはできんだろう、戦況は悪くなりつつあるんだ」
「だからって詰めすぎてもいいことないよ」

 エーリカのアドバイスも的確だった。ゲルトルートは少し目を伏せてから長い息を吐き、そして――すっと、今度は空を見上げた。

「……エーリカ、頼みがある」
「なに?」
「一緒に休みを取ってくれないか」
「へ?」

 空を見上げても、やはりゲルトルートの目が遠くを見ていることは変わりない。……今の彼女が見ているのは、昔二人で飛んだ空のこと
だった。

「――迎えを、出したいんだ」

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「ふー……」
「あら、お疲れのようね」
「ん? まあなあ……」

 水辺で休むその姿は、大空での"狩人"を感じさせない穏やかな様子だった。それでもどこかクールな印象を与えるのだから、彼女の
スタイルが抜群に良いのは誰が見ても明らかだ。普段着ているジャケットも制服も脱いで、カッターシャツをブラが見えるほどに開けて
頭から水をかぶっている。珍しく足首まである長ズボンを着用して、全身水浸しになっていた。無理もない、先ほどまで砂の吹き荒れる中
灼熱を纏った悪魔と死闘を繰り広げていたのだから。
 襲い来たネウロイの数は三両だったが、いずれも超大型であった。地上部隊では機動性の面から歯が立たず、航空部隊では火力の面から
歯が立たない厄介な存在。一両を相手に戦ってもそれなりの損害は出るというのに、それを三両同時に相手にしたのだ。よくもまあそんな
地獄の中から生きて帰ってきたものだと思う。そんな死線を潜り抜けてきたのだから、『家』に帰ったら休みたくなるのも道理だ。

「あー、暑い」
「何を今更。そのために水浴びしてるんでしょう?」
「わざわざこんなズボンまで履いてみたが、だめだな……一瞬で冷気が奪われる」

 冷たい空気を逃がさないために布を纏ったつもりだったが、それもまったく意味を成さない。仕方がないので素直に脱ぎ、丁寧にすぐそこに
まで持ってきていた洗濯籠に放り投げた。すると水の重みのほうが洗濯籠の中身より勝ってしまい、勢いのついたズボンは洗濯籠を中身ごと
すべてひっくり返してしまう。……元々洗濯予定だったものの、さすがに砂まみれになった服は見るに堪えない仕上がりとなっていた。

「あーあ。ものぐさするから」
「いいだろ、別に……どうせすぐ洗うんだし」
「はいはい、そーね。で、本題」

 ようやく圭子が話を切り出す。マルセイユもビーチパラソルの日陰の中、ビーチチェアに寝転がりながら顔だけ圭子のほうへ向けた。
するとその右手には、いくつかの封筒の束。……なるほどなるほど、そういうわけか。

「はい、手紙」
「どうも。ま、そう大したモンはないがな」

 ファンレターは山のようにあるが、マネージャー付の芸能人ならともかく軍人にそんなものを返している余裕はない。暇なときに目を通す
ようにはしているので読んではいるのだが、返事は今まで一度たりとも書いたことがなかった。そもそも手紙というものをあまりやらない
マルセイユにとって、まともに手紙を書いたことなどほとんどない。軍内部での異動があったときに近況を含めて親に連絡するのと――、
あとは欧州で同じく骨身を削って戦っているはずの、あの人だけ。ふっとゲルトルートのことが頭をかすめ、しかし今どうこうなる話でも
ないためさらっと水に流す。どうせ戦争が終わればいくらでもじゃれ合えるのだから、今は考えないようにしよう。

「めぼしいものはありそう?」
「いいや。いつもどおりだな」

 順々に見ていくが、どれもこれもいつもと変わり映えのないものばかりだ。長い息を吐いて、最後から二枚目を手に取った。これは
祖国の空軍にいる友人からのものだった。随分と久々に連絡をくれたので、たまには返事も書いてみるかな、なんて思い至る。そして
それを一番後ろに回して、最後の一枚を手に取った。

「これでお終―――

 ……そして左手に握っていた、今まで差出人だけ流し見ていた封筒の束をすべて落とす。

「ちょ、どうしたの?」

 思わず圭子が尋ね返すが、反応はない。ただ一言だけ、ほんの小さな声、ぎりぎり圭子に聞こえる声でぼそりとつぶやいた。



「……トゥルーデ」



 小っ恥ずかしくてなかなか呼べなかったその名前を、小さくこぼした。……最後の手紙は、第五○一統合戦闘航空団から届いたもの
だった。差出人、ゲルトルート・バルクホルン。

 思わず封筒の端を破り、中から手紙本体を取り出す。受け取った手紙をその場で開封することなど今までありえなかったので、圭子も目を
丸くして驚いていた。声をかけることもできずにぽかんと口を開けていたが、マルセイユが音を立てて立ち上がったのに我を取り戻す。

「ちょっと上がる」

 そう言って、落ちた封筒を震える手で手早くかき集める。圭子は状況についていけず、どこにいくのかと問いただすしかできない。それにも
マルセイユは『ちょっと』としか言わず、行き先ぐらい伝えなさいと叫んでようやく足を止めることに成功する。すでに少し走り出して
いたが、足を止めて手に持っていた便箋を改めてまじまじと見るマルセイユ。……そして、深くため息をついた。

「……どこにいけばいいんだよ」

 圭子が近づいて、横から覗き見る。マルセイユも拒まず、圭子はじっと、たった二行だけ書かれたそれを凝視した。


 ―――あいたい。
 1530時


「場所が書かれてないってわけね」
「あいつバカだろ……場所が分からなければ行くこともできないだろうが」
「まあまあ。下手に動いても結果は出ないわ」
「ああ……ってこらケイ、勝手に人の手紙を見るな」
「なんて今更な……」

 腕にはめた時計を見ると、時刻は十五時十五分。指定された時間まで、あと十五分だった。しかし行き先も分からないのに、どうすることも
出来やしない。……会いたいだ? ふざけたことを抜かしやがって、こっちはどれだけその感情を我慢してると思ってるんだ。なんとなく
そんな怒りが心中に沸いて、しかしそれはすぐにちょっとした悲しさに変わった。だって、それだけ我慢したのに、今日は会えるかもしれない
のに、会う手立てがないのだ。

「馬鹿な奴……なんだよ、子供のときの仕返しのつもりか?」
「あら、二人ってそんな頃から知ってるの?」

 かくかくしかじか、ここまでの経緯を簡単に話す。"最後の日"の誓いについては言うかどうか最後まで迷ったが、とりあえず言わないことに
した。言ってしまうと何かあるかもしれないが、言わなければ後で付け足すことも出来る。圭子は何度か頷いて納得すると、ふうと小さく息を
吐いた。それについて真意を測り損ねているマルセイユだったが、問いただしても何も答えてはくれない。

「まあ、きっとそのうち会えるわよ。向こうだって場所書き忘れたことぐらい気づくだろうし、そう気にしなさんな」
「だといいんだがな」

 やれやれ、と肩を落として自分のテントへと戻るマルセイユ。あいにくこれ以上涼む気にもなれず、丁度暇をもてあましたので仕方がない、
この手紙の束でも読もうかと思い至った。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「……はあ」

 先ほど、なにかのエンジン音が聞こえた。補給物資を載せたトラックとは思えない軽さだったので、恐らく誰かお偉いさんでも来たの
だろう。或いは手荷物程度の届け物だろうか。ここは砂漠の中でも人里離れた場所にあるので、急を要するものは物資とは別に単独で
送られてくることも珍しくない。くあ、とあくびをひとつして、次の封筒に手を伸ばす。ファンレターはどれも読んでいて心がほかほか
するが、気恥ずかしいことばかりだ。そのせいか読んでいると気疲れしてしまい、ため息のひとつやふたつも吐きたくなってしまう。
まあ、もっとも大きなため息の理由は、場所を指定しなかったあの馬鹿のせいなのだが。

「まったく、たまらんなあ……」

 それに振り回されるこっちの身にもなれ。ぼやきながら、ふとテントの入り口に人の気配を感じた。圭子の声も聞こえるし、どうやら
話し振りからしてマティルダかライーサあたりが顔を出しに来たらしい。声的にライーサはありえない感じなので、となればマティルダ
か。放っておけば向こうから勝手に声をかけてくるので、マルセイユは気にせず次の封筒の中身を読み始めた。少ししてテントの入り口が
開けられ、外の光が中に差し込む。しかしそれは慣れた感触ではなく、どこか遠慮がちな様子。普段のマティルダなら適当にばさりと
開けて適当に閉めるはずなのだが、どちらかというと気を使ってこそこそ入る感じだ。何か悪いことでもあっただろうか、マルセイユは
考えをめぐらせつつ、文字を目で追った。……が、人のテントに入っておきながら声をかけてくる感じもない。確かに人の気配は間違いなく
感じるが、普段のマティルダならどんな用事で来たのかを必ず口にするはずだ。別に日ごろからマルセイユの身の回りの世話のために
部屋に入ってくることは珍しくないのだが、今日は妙によそよそしい。

「らしくないな、どうした」

 片手間で声をかける。だがそれにも返事が返ってこず、代わりに少しずつ近づいてくる感覚。ちらりと視界の端に見えた背格好は、
やはりマティルダのものであった。

 ――でも。そこから先は、いくらなんでもマルセイユにも予想は出来なかった。

「ぬわっ!?」

 いきなり、後ろから抱きつかれる。どちらかといえば、マルセイユが抱きしめられる形か。一体なんだと振り向こうとするが、すぐ横に
ある頭が邪魔でうまく首を動かすことが出来ない。深い茶色の髪は、やっぱり見慣れたもの。光の加減で薄く見えるようだが、何ゆえ
こんな行動に―――。



「誰と勘違いしたんだ?」



 ――そしてそれらマルセイユの中での現実は、完全にすべて打ち壊される。



 不意に耳元で囁かれた言葉は、一瞬で思考回路を停止させる。随分と懐かしい、聞きなれた声。だがおかしい、背格好も髪の色も、
どう考えても――。

「どうやら私は、従卒と似ているようだな」

 す、と顔を前に出してくる"ソイツ"。否が応でもマルセイユの視界にそれは入ってしまい、そしてゆっくりと顔の向きを変える。正面から
目が合って、少しずつ世界が現実味を帯びてきた。

「でも、久しぶりに会ってそれはつれないんじゃないか?」
「……お前……」

 小さくつぶやく。目の前の、透き通るように綺麗なブラウンの瞳。その瞳にそっくりの、さらりとした美しい髪。二つに結われたそれは、
ここのところ随分と見ていなかった懐かしいものだった。穏やかに笑う表情は、最後に見たときよりも数段大人びている。
 ……目が奪われる。だがそれでも、マルセイユの演算能力は徐々に――現実逃避から復帰する。

 マルセイユは跳ねるように飛びのき、必然的にマルセイユを抱きしめていた"ソイツ"も弾かれることになる。そして人差し指を突きたて、
口がかたかたと震える。

「なな、なん、なんでお前、ここにいるんだッ!?」
「なんでって……今日手紙届いてるだろ、加東大尉からも確認は取ったぞ」
「いや、え、だって……ええええ?」

 面白いぐらいに狼狽するマルセイユだったが、つかつかと歩み寄られて言葉をなくす。そして再び、今度は正面から抱き寄せられて――
耳元から聞こえた言葉に、ようやく現実を現実として受け入れ始めた。

「……会いたかったよ、ティナ」

 少し寂しそうに、でも嬉しそうに。その声は、あの祖国で約束を交わした夜とそっくりだった。

「ああ、私もずっと会いたかった。久方ぶりだな、トゥルーデ」
「っふふ、なんかお前にその名前で呼ばれると妙にむず痒いな」
「何度でも呼んでやろうか?」
「二人きりのときだけな」

 二人は笑いあって、それからゲルトルートは肩掛けのバッグを置いて座り込んだ。マルセイユもそこにテーブルを持ってきて、ワイングラスと
カールスラント製のワインを一本置く。まだ日は高く、マルセイユは先ほど激戦から帰還したばかり、ゲルトルートは長い旅路を経て辿り着いた
ばかりだというのに。

「お前、真昼間から飲むつもりか?」
「感動の再会なんだ、それぐらいいいだろ」
「おいおい……てか、その前にやるべきことを忘れてるんじゃないのか」

 なんだよ、と首を傾げるマルセイユ。ゲルトルートはため息を吐いて、それから小さく笑って。マルセイユの頬に手を伸ばして、それから
自身の体をゆっくりと近づける。たったそれだけで、ワインの栓を開けようとしていたマルセイユは凍り付いてしまって、目はゲルトルートに
釘付けになってしまう。
 少しして、マルセイユは思わず目を瞑る。それからまた少しだけ間をおいて……、唇に懐かしい感触が蘇った。暖かくて、やわらかくて、
きっと何よりも甘い、幸せ。でも、今は昔のあの時じゃない。マルセイユもゲルトルートの肩と頬に手を伸ばして、そしてそれからゆっくりと
舌を伸ばす。唇の間を割って入るように挿しいれたそれは、ゲルトルートのそれとほんのわずかに触れて、しかしそれだけで体に電流が走った
かのような感覚に囚われる。それきり二人は二人だけの世界に溺れ、"あの時"のように――空白の時間を埋めるように、お互いを貪り続けた。

 - - - - -

「少しは自重しろ」
「何がだよ」
「お前のせいでここのところ隊の皆に迷惑かけっぱなしだったんだぞ」
「そりゃお前が勝手に焦がれてただけだろ」
「たまには手紙のひとつでも寄越したらどうなんだよ」
「そっちこそ」
「だから現に手紙も送って、それっぽく参上してやったわけじゃないか」
「単にお前が耐えられなくなっただけじゃないのかぁ? あ、分かった、ハルトマンだろ」
「ぐ、なんで分かるんだよ」
「はん、どれだけ付き合い長いと思ってんだ」
「どっちと」
「そりゃお前に決まってる」
「そいつはどうも」

 アルコールの入った二人の会話は、とどまることを知らない。久々に顔を見て、久々に声を聞いて、久々にキスをして。そこにテンションを
無理やり上げるナイトロを吹き込まれたら、気分の盛り上がらないわけがない。気がつけばもう日は暮れ始めていて、それでも二人のトークは
終わりを見せることがなかった。ちなみに現在ワインは三本目である。

「しっかし部屋で酒盛りだけか? ちょっとは客をもてなすとかしないのかよ」
「十分もてなしてるだろう、もう三本目だ」
「そうじゃないだろ……出かける場所とかないのかよ」
「お前な……、ここがどこか分かって言ってんのか?」
「いやそれはそうだが、せっかく車で来たんだからドライブのひとつでもしたいじゃないか」
「は? おま、いつの間に車なんか」
「今日のためにフラウに教えてもらった」
「っははは! こいつ生粋の馬鹿だ」
「う、うるさいな。いいだろ、お前の顔が見たかったんだから」
「おーおー、嬉しいこと言ってくれるじゃん。んじゃひとつ、ドライブ出かけるか?」
「なんだ、いい場所あるのか」
「ネウロイの巣っつーんだけどどうだ?」
「ははは、なかなか面白そうな場所じゃないか。現地の連中にプレゼントを持って行ってやる必要がありそうだ」
「準備はあるのか? なけりゃMG42ぐらいならいくらでもあるぞ」
「いや、そんな量産品を差し上げるのは失礼だ、どうせならもっと盛大なものがいい」
「真美のランチャーなんかどうだ」
「あっはは、そいつは傑作だ」

 そして三本目も空になり、マルセイユが四本目に手を伸ばそうとして、しかし流石にこの時間にあまり飲みすぎてもいけないだろうと
ゲルトルートが止めて酒は中断される。そうでなくとも飲みすぎでテンションが普通ではなくなっているのだから、きっと誰かが入って来たら
呆れ顔が見れるに違いない。そうこぼして、二人して大笑いする。そもそもその大笑いの声だけで周りの人間を呆れさせていることにあいにく
気がつくことのない二人であった。

 それからさらに数時間してから、夕食の用意が出来たからと圭子に呼ばれて食堂へ行く。が、たった数時間ではワイン三本分のアルコールなど
抜けるわけもなかった。二人は足取りや他の人との応対こそしっかりしているものの、二人の間で交わされる会話や強烈なワインの香りは周りには
少々厳しいものがある。

「えーっと、バルクホルン大尉って規律に厳しいって聞いていたんだけど……?」
「ああー……まあ、オフだし」
「マルセイユはオフじゃありません!」
「私が勧めたんだ、問題ないだろ」
「そもそも貴女が勧めることに問題があります!」
「まあそうカリカリするな」
「大尉ってこんな人だったのか……」
「勘違いするなよ、基地ではちゃんとやってるんだ」
「うわー、微細も感じらんねー」

 五○一で堅物と豪語されるゲルトルートの面影は全くなく、そこにいたのはさながら外見の違うマルセイユであった。ただでさえなにかと
面白いこと好きなマルセイユだというのに、それが二人になったら目も当てられないし手もつけられない。実際、二人は二人の間の会話で勝手に
ヒートアップしつつ、それに周りの人間を巻き込んでいくという、全く酔っ払いそのものの行動を取っていた。巻き込まれたほうは散々話に
付き合わされた挙句に切り捨てられるときはさっさと切り捨てられ、かなりの疲労をプレゼントされる。真っ先にターゲットになったのは、
マルセイユと一番付き合いが長い上に隊で二、三番目に標的にされやすいライーサだった。その次は他から群を抜いて獲物にされやすい真美、
続いて整備兵数人、勿論その後には圭子もマティルダも被害にあったわけで。対して二人は、食事を食べ終わって満腹になると、この上ない
満足な表情で食堂を後にした。二人が完全にいなくなったのを確認してから、食堂は全員一致で盛大なため息に包まれたとか。

 - - - - -

「……くそっ……私としたことが……」
「あっははははは! 良かったじゃないか、これでお前も変人認定だ」
「へ、変人とかいうな! 仕立てたのは貴様じゃないか!」
「おーおー、顔真っ赤にしちゃって。いや、さっきから真っ赤だったか。酒のせいだったけど、ぶふふっ!」
「お、おーまーえー!! その減らず口、今すぐふさいでやろうか!!」
「んー? 構わないが、私の口はまだまだ酒の抜ける気配はないぞー」
「こ、こんの……」
「今私を食ったらまたさっきに逆戻りだろうなー、んんー?」
「くっ……こいつッ……!」

 ゲルトルートは割と本気で、なんでこんな奴好きになっちゃったんだろうと内心頭を抱えていた。元々アルコールに強い体質なので、分解も
早い。それに加えて夕食でまともな食事を用意してもらえたので、アルコールもかなり抜けてきていた。……そうすると冷静な思考が出来る
ようになるもので、先ほどまでの自分の醜態を思い出してかなりゲンナリ。そもそもの原因であるマルセイユを責めようにも、あっちはまだ
タチの悪い酔っ払いだ。ただでさえ扱いにくいというのに、そこにアルコールが入っているのでは話しにならない。

「あ? おーい、どこ行くんだよ」
「手洗いだ、こっちに来てずっと行っていなかったから」
「そっか、んじゃ付き合う」
「お前な……まあいいけど」

 ――そしてまたゲルトルートは地雷を踏む。

「い、いいから離れんかぁっ!」
「いいだろ別に、今更隠すことでもなし」
「ふざけるな、あれだけの醜態を晒しておいてなおこんな姿を見られたら私のこの基地での立場がなくなるだろうが!」
「安心しろよ、もうないから」
「ひ、ひどい」
「大丈夫だって、周りがドン引きでも私は引かない」
「貴様が引いたら一発ブン殴るところだ! というか今も殴りたい!」
「つれないな」

 腕に絡み付いてくるマルセイユを振りほどこうとゲルトルートも必死なのだが、全く効果を成さない。マルセイユがしつこいとか酔ってるとか
いろいろ理由はあったが、一番の理由はゲルトルート自身が実は嬉しいからだ。怪力なら一発で振りほどけるのに、このむず痒い感覚を振り
ほどいてしまうのが勿体無い気がして出来ない。だからせめて抵抗の色を見せるだけに留めているが、無論そんなもので離れるほどマルセイユも
簡単ではなかった。
 しかも。この、人が通るであろう基地のど真ん中で、いきなり――

「そおい!」
「いて」

 ……他に対処のしようもなくなって、顔面を軽くはたく。この女と来たら、公衆の面前でアルコールを口移ししようとし始めやがった。
また酔わせて乗らせようという魂胆のようだが、流石にあれだけ醜態を晒せば自分でも冷や汗が出るというもの。もうあんなのはコリゴリ
なので、ゲルトルートは何とかそれを阻止していた。

「ひどい! トゥルーデにぶたれた!」
「お前そんなキャラじゃないだろ!」
「……ったく、ほんとにつれないな、お前」
「もうあんなの勘弁してくれ……ていうか、せめて地盤が出来てからにしてくれ」
「そいつは無理な注文だな」
「おーまーえー……」

 言いながらようやくトイレに辿り着き、やっとこさ落ちつける――――と、思ったのもつかの間。

「だーかーらーああぁぁぁ!!! なんで貴様は個室に二人入ろうとするんだああぁぁぁ!!!」
「いや、お前一人じゃ大変だろうと思って」
「ふざけるな! とっととあっちいけ!」
「嫌だ」
「き、貴様……」
「いいだろ、別に子供のときいくらでも見てるんだし」
「変な誤解を生むような発言をするな! それはシャワーのときの話だ!」
「トイレも同じじゃね」
「全然違あぁう!!」

 ああ、だれかこの酔っ払いなんとかしてくれ。さっきの自分がこうなっていたことを思って全身鳥肌を立たせつつ、はあと盛大なため息。
――その隙に、あろうことかマルセイユはゲルトルートと同じ個室に飛び込むと鍵をかけてしまった。あ、と呟く間もなく、ふふんと笑って
見せるマルセイユ。だめだ、こいつには敵わない。

「……なにをしてもいいがその代わり最初に一発殴らせろ」

 犬耳と犬の尻尾を生やしつつ、割と本気でそう唸る。だが当のマルセイユは知らん顔。

「そいつも無理な注文だ。基本的にお前が選べるメニューは受けしかないからな」
「ふざけるな!」
「いたってまじめだ、ふふん」
「どう考えても真面目じゃないだろ!」

 なおもギャアギャアと喚くゲルトルート。だが、不意にマルセイユが胸倉をつかんで壁にたたきつける。あまりにいきなりだったので
ゲルトルートも当惑したが、その目の前にある真剣なまなざしに思わず息を呑んだ。

「……私は、お前を――愛してる」

 いきなりの堂々告白。だがその声は控えめで、確かにこんなことは部屋以外ではトイレの個室ぐらいでしか出来なさそうなものだった。

「なのにお預けとは、ちょっとばかし酷くないか」
「……あのなあ……」

 至って真面目にそう問うマルセイユに、ゲルトルートは何とか理性を働かせて反論する。その実は今すぐにでもその目の前の唇に吸い込まれて
しまいたい衝動に駆られていたが、自分の好きなことばかりしていてもいいような状況ではない。

「……私だって、いくらでもしたいさ。でも、あの頃とは違うんだ。好きなように暴れて、周りに迷惑をかけて、そんなのが許される
年じゃ、もうない」

 ゲルトルートもマルセイユも、もう十八だ。奔放に出来たあの頃とは違って、もうアガリの後のことも考えなくてはならないほどの年齢に
なりつつある。……いつまでも子供ではいられなのだ。

「そんなことぐらい分かっているさ……。でも」
「……」
「……現実は過酷なんだ。明日、私もお前も、本当に生きているかどうかの保証はどこにもない」

 ゲルトルートに限って。マルセイユに限って。そう簡単に死ぬなんて、ありえない。心ではそう信じて疑わないのだが、それがまかり通る
世の中ではないのが現実だ。今のところは"たまたま"技量に見合った敵が来ているからなんとかなっているが、このままその通りになるかは
分からない。特に、ゲルトルートは芳佳との一件で一度撃墜されているし、マルセイユも使い魔の死亡により自身も死の危険に追いやられた。
 だから。ほんの一分一秒でも、戦時下における軍人にとっては大切な、かけがえのない時間になるのだ。

「もし最期が来たときに、悔いは残したくない。もっとああしておけばよかったとか、もっとこうしておけばよかったとか……そんなことを
考えながら死に行くのは、少しばかり寂しすぎる」
「……そう、だな」

 それにはゲルトルートも納得せざるを得ない。もし逝く事になったら、その時はせめて笑っていたい。……でも、好き勝手にできないのも
現実だ。現実と理想との狭間に揺られ、ゲルトルートだって苦しい。

「……だからここに来たんじゃないか」

 少しやわらかい笑みを浮かべて、マルセイユが言う。……ここなら、誰に迷惑をかけることもない。そりゃあ確かにテントの中でも同じ
事だが、テントというのはある種公の場だ。防音設備が整ってるわけでもなし、鍵があるわけでもなし、外と中との隔たりはたった数ミリの
厚みしかない布切れひとつだけ。いつ人が入ってくるかも、正直分からない。それに比べれば、鍵付で回りは壁に覆われたこの場所のほうが、
まだマシといったところか。それにこの狭さなら、二人きりの空間をなんとなく意識できる。テントの中でもそれはそれでいいのだが、外との
隔たりがあまり感じられないあの場所よりも、この壁が四方すぐ目の前にある場所のほうが、よっぽど二人きりになれる。

「……まともな部屋があれば、本当はこんなところよりはそこで落ち着きたいな……」
「だったら、明日は部屋を探しに行こう」
「武器片手にか? ……悪くはなさそうだ」

 マルセイユの提案に、ゲルトルートも乗る。……ただ、今はそれを望むことはできないから。ゲルトルートは壁に背を預け、マルセイユは
壁に手を着いて。

 ……二人はまた、二人きりの空間で深い深い接吻を交わす。やがてゲルトルートもマルセイユの背中に手を回して、二人きりの時間を
心の行くまで堪能する。夜は、そう簡単には開けてくれてもなさそうだった――。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 翌日、マルセイユとゲルトルートは約束どおり武器を手にネウロイのはびこる街へと飛び出していった。崩れ去った建物や砂をかぶった車、
あらゆるものが散っていたが、どうやらその辺りはネウロイの勢力圏下ではなかったらしい。念のため武器は携行しながら、持ってきた簡単な
掃除用具を手によさそうな部屋がないかと廃墟を物色。適当な部屋を見繕い、それから時間をかけて部屋を丁寧に掃除した。道具自体は簡素な
ものしか持ってきていないが、使い方次第で威力は大きく変わる。まるで昔に戻ったかのように二人は大はしゃぎで部屋を片付け、そして
数時間が経過した後にはさながら基地の一室のように全く新しくなっていた。余っていて廃棄予定だった絨毯や布団を持ってきたのは、正解
だったかもしれない。
 完成した『秘密基地』で、また二人きりの時間をゆっくりと過ごす。廃墟でありながら砂っぽさのなくなった部屋で、コーヒーを啜りながら
言葉をひとつふたつと交わしていく。それは、基地で皆と食事をしたり、風呂に入ったり……、そんな時間とは比べ物にならないほど、言葉に
出来ないほど、至福であった。皆と平和な時間を過ごすことが出来るのも十分な幸せだが、それとは比にならない。
 結局その日は日が暮れるまでそこでくつろぎ、帰りは部屋もそのままにして武器と道具だけ収納して帰還した。それからその部屋の管理は
マルセイユに一任されることになって、またここで会おうと新しい約束を取り付ける。ゲルトルートは約束を守るために、マルセイユは
新しい『家』を守るために。二人が得物を手に取る理由が、また一つ増えた。

 その晩、ゲルトルートは初日の晩に迷惑をかけたことを謝罪して、そんなの気にするなと改めて暖かく迎えられた。わざわざそうして
気を遣うところから、ようやくアフリカの一行にも『堅物』のイメージが出来始めたらしい。……その後マルセイユに弄られては顔を真っ赤に
して反論していたので、結局変わっていないような気もするが。でも不思議と、その日はそれを悪いとは感じなかった。むしろ幸福な時間で、
いつまでも続いてほしいと願わざるを得ないほどだった。

 ――そして、三日目の朝。ゲルトルートは朝早く、日が昇る前に目を覚ますと、荷物を一通りまとめた。今日中に基地に帰る予定をしている
ので、朝早くに出て夜遅くに到着するつもりだ。見送りはマルセイユ一人だけだったが、それだけで胸が一杯になる。それに、他の連中は
昨夜きちんと挨拶をしてくれた。
 あとは、マルセイユと別れるだけだ。……それが、一番辛いのだが。

「なんだかな。来なかった方が良かったかもしれん」
「名案があるぞ」
「分かりきってるが言ってみろ」
「うちに来い」
「断る。暑いところは苦手なんだ」
「私が居ても断るわけか」
「お前が居ると、輪をかけて体が火照るからな」
「なんだそれ、誘ってるのか?」
「馬鹿なこと言ってるんじゃない」

 もう、別れるべき場所まで来ている。基地守衛の前であれこれするのは気が引けたので、その手前で別れることにしていたのだが……、
二人とも、地面に縫い付けられたように身動きが取れない。

 ……だが、不意にゲルトルートが歩き出す。歩き出して、そして――マルセイユを、ぐっと抱きしめた。

「……また、すぐ来るよ」
「ああ、待ってる。また明日会おう」
「…………うん。また明日」

 それから、軽いキスを交わす。あまり深くしすぎると、今度こそ別れることが出来なくなる。

 二人は叶う筈のない約束を交わして、目に涙を湛えながら、それでも笑みを崩すことなく向かい合った。

「……じゃあな」
「ちゃんと約束守れよ」
「わーってるよ」






 最後は、すこしだけらしくない、荒っぽい言葉で返事を返す。そしてそれがうまく弾みになって、ゲルトルートはきびすを返した。
ジャケットのポケットに左手を突っ込んで、右手は顔より少し高いところでゆらゆらと振る。後ろでマルセイユも手を振っているのを
感じて、なんとか最後まで涙を零さなくて済んだことに安堵した。――その瞬間、目じりからぽろぽろと零れ落ちるものがあった。
見られていないから、ギリギリセーフだろう。ゲルトルートは自分で自分を納得させながら、基地の門を潜り抜けた。その先にある、
自分の乗ってきた一台の車に、手をかけて。






 ―――さあ、帰ろう。自分の、帰るべき場所に。




「ふうぅ――――。長い帰り道になりそうだ」



  なおも滴り落ちる涙を何度もぬぐいながら、まるで全て振り去ろうとするかのように車を発進させた。それが逆に感情を爆発させた
 ことは、本人しか知らない。




 翌日。ゲルトルートとマルセイユは、生まれて初めて二人の間の約束を破った。




fin.







「トゥルーデ! おかえりー!」
「ああ、ただいま」
「どうだった?」
「……まあ、やりたいことはできたよ」
「へえー。ちゃんと避妊はしただろうね」
「ぶっ!? お、おま、そんなことするわけないだろ!」
「ええええ!? トゥルーデ避妊しないの!?」
「そっちじゃない! あのなあ……二人で寝ることはあっても、"そういう"ことには走らないって言ってるんだ」
「けーっ、堅物は相変わらず堅物だなあ」
「それは関係ないだろ! というかフラウは分かるとしてなんでリベリアンが出迎えるんだよ!」
「いいだろー、別にー」
「ああ、そういえば宮藤が寂しそうにしてたなあ」
「はあ!? なんで宮藤が」
「さあ? 出迎えにも来たいって言ってたけど、もうベッドですやすやだね」
「ま、まあ、日をまたぐかまたがないかのこの時間なら仕方ないだろう――にしてもなんで?」
「あとで宮藤に聞けばいいだろ」
「あのなあ…………。もういい、お前らの相手は疲れる。さっさと風呂に入って寝るよ」
「ご飯は?」
「食べてきた」
「んじゃ大丈夫だな、それじゃあたしらももう寝るぞ」
「ああ、ありがとう」




 いい友を持った、とは思う。

 けど。

 ――やっぱり、お前との時間のほうが遥かに楽しいや。


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