のぼせる


 かぽーん。
 銭湯や温泉では定番のおけの音。
 風呂につかりながら、エーリカはその音に耳を澄ませる。
 誰かが入ってきたのかもしれないが、はしっこでこの風呂を堪能していたエーリカは、誰が入ってきたのかを確認することはなかった。

 頭にタオルをのせて、風呂のふちにもたれかかったままの状態で、かなり長い時間、浴槽につかっていた。
 今日は珍しく、誰とも鉢合わせせずに風呂に入れた日だった。
 そのせいもあるかもしれない。
 妙に風呂が気持ちよく感じられて、ついつい長居してしまったのだ。
 目を細め、くたりと体の力を抜く。はー、極楽、極楽。

「おい、エーリカ。お前寝てないか?」
 呼びかけられてうっすらと目を開く。じゃぶじゃぶと隣に遠慮もなしに入ってきたのは、自分とよくロッテを組むゲルトルートだった。
「トゥルーデ。珍しいね、こんな時間にお風呂だなんて」
 ぼんやり霞みがかった思考のままで、適当に話しかける。
 すると心外だと言わんばかりの顔で、ゲルトルートはエーリカを指差した。
「誰のせいだと思ってるんだ、だ、れ、の!」
 そういえば、私の部屋の掃除をしてくれてたんだっけな。とぼんやり思い出す。
 夕食後、ゲルトルートは突然やってきたかと思うと、夜になりかけているというのにエーリカの部屋の片づけを始めだして。それだけならまだしも、お前は邪魔だ、と部屋の外に放り出されてしまったのだった。
 仕方がなく、それからずっと風呂に入っているわけ。
「もう掃除終わったんだー、早いね」
「お前、いつから風呂に入ってるんだ」
 呆れたように、ゲルトルートはエーリカの隣に腰をおろした。
「んー、ずっと」
「大丈夫か、お前」
「えー、なんでー?」
「もうかれこれ二時間は入ってる計算になるぞ」
「ふえ」
 そんなに。とエーリカ。そんなにもだ。とゲルトルート。
「じゃあ、ほんとに寝てたのかも」
「おいおい、勘弁してくれよ。いつでもどこでも寝るやつがこれ以上増えたら、軍の風紀も守られなくなる」
 だって気持ちよかったんだもーん。そう返すと、ゲルトルートの呆れたような、困ったような表情に憮然とした色もプラスされて。
 腕組み。
(あー、こりゃまた始まるわ)
 エーリカは内心、頭をかかえた。

「まったく、お前ももうちょっとしゃんとしていたらな」
 いつもの説教だ。でもその言い草にいつも心の中では納得のいかないものを感じてしまう。
「なんだよそれ。まるで私がだらしないみたいじゃないかー」
「本当のことだろ?」
 さも当然とばかりのその一言に、さらにムッとしてしまう。
「そういうトゥルーデはいつもいつも、規律、規律って」
「当たり前だろう。ここは軍隊だぞ」
「あーもー。そんなことだから堅物って言われちゃうんだよ?」
「そ、それは。あいつらやお前が自由すぎるんだ」
 ゲルトルートが一瞬口ごもったのを見て、エーリカは少しほくそ笑む。
(やっぱり、気にしてるんだ)
 ならば攻めることは簡単。
「トゥルーデこそ、もっと柔軟な対応ができてこその有能な軍人、でしょ?」
「し、仕方がないだろう! 私はこういう性格なんだから」
「そうやって開き直るー。少しも改善しようという意志が見られないね」
「それはお前もだろっ」
 むー。
 二人して睨みあう。
 小さな小さな、いつも通りの口論。
 どうでもいいことがきっかけで、なにかと喧嘩になってしまう。
 天邪鬼で、それを楽しんでしまう自分がいた。それと同時に、やりたいことはそんなことじゃないって、そう思う自分もいる。
 しばらく口論を続け。

「だいたい、ちゅるーではさぁ」
 エーリカが言葉を発すると、ゲルトルートは怪訝そうに眉をひそめた。
「なにさ」
「いや、今お前、私のことちゅるーでって」
「はぁー? なにいってんのちゅるーで」
 眉をひそめるエーリカ。
 本人は気づいていないようだが、エーリカのろれつはすでにまわっていなかった。
「おい、お前、本当に大丈夫か、あがったほうがよくないか」
 エーリカの顔を覗き、焦ったようにゲルトルートはざばっとお湯から立ち上がる。
 頭に血が上っていたせいか、今の今までエーリカの様子にまったく気づかなかった。
 エーリカの顔は紅潮し、完全に茹であがっていた。
「ちゅるーで、逃げようったってそうはいかないんだからあ」
「違う」
 一言否定して、ほら、とゲルトルートは手を差し出した。
 エーリカはさらに眉をひそめ、ぷいっと顔を背ける。
 言うことを聞かないエーリカに業を煮やしたゲルトルートは、無理矢理手をとって立たせようとした。
「いい加減にしろ。ほらあがるぞ」
 ぐいっと引っ張る手を、エーリカは勢いにまかせて払いのける。
「ちゅるーでにいわれてあがるなんてやだよっ。子供じゃありゅまいし」
 数瞬、睨みあって、ゲルトルートもさじを投げた。
「なら私は先にあがるぞ。お前も早くあがれ」
 怒りをこらえるように言って、ゲルトルートは足早に出口へとむかう。
 そういう風にしてほしかったわけじゃなかったのに。
 にぶちん。頑固者。堅物。
 ふつふつと、普段からの不満が湧いてくる。何かがエーリカの中で爆発した。
 立ち上がって、ゲルトルートに向かって、
「ちゅるーでのばかぁ!」
 大声で叫んだ。
 途端、目の前がクラッとする。
(あれ、おかしいな。なんだか地面がグラグラする……)
 視界が暗転する。足に力が入らない。
 徐々にあやふやになっていく意識の中で、ゲルトルートの自分を呼ぶ声が、頭の奥で響いた気がした。


 気づいたとき、エーリカは真っ白な部屋で、真っ白なベッドに寝かされていた。
 ううん。と身じろぎすると、視界のはしにゲルトルートがうつった。
「エーリカ」
 心配そうに呼びかける声は、いつものような険しさを含んではいなかった。
「ここは?」
「医務室だ」
 お前、風呂で倒れて。大変だったんだぞ。
 責める内容なのに、口調はそれほどでもない。
「まったく、お前というやつは」
 つぶやいて、ゲルトルートはエーリカの前髪を撫で付けるように触れた。
「心配、させるなよ」
 どきっとする。そんな声音だった。
 照れ隠しで、エーリカは顔をそらす。
「まあ、体にはたいしたことはないらしいから、安心しろ」
 そう言って、目を細めるゲルトルート。医務官にそれを聞いて一番安心したのは、実はゲルトルート自身なのだが。
 それを隠す意味もこめて、少し軽口を言ってみる。
「風呂であんなのぼせかたするやつ、初めて見た」
 まるで酔ってるみたいだった。と。
「うるさいなあ」
 また拗ねたように、エーリカが口をとがらせる。ゲルトルートはそれを見て、またヘソを曲げられたのでは。とあたふた焦り始めた。
 さすがに、またあんな口論はしたくない。
 その様子を見て、エーリカもちょっと悪いかな、という気持ちになった。

「ありがと、トゥルーデ」
 心配してくれて。
 ぼそっとつぶやくと、ゲルトルートはほっとしたように顔をほころばせた。
「水、飲むか」
「ん」
「体、起こせるか?」
 背中に手を差し入れて、起き上がるのを助けてくれる。
 なぜだろうか。ゲルトルートはいつもの峻険さが嘘のように、やけにかいがいしく世話を焼く。

 きっとのぼせているのはエーリカだけではなく……

 そのことがなんとなく分かって、エーリカは少し嬉しくなる。
 世話を焼かれるのが、嬉しいなんて、本当は秘密にしたいところだけど。
 嬉しそうに世話を焼くゲルトルートを見て、それを隠すなんてズルいかなと思ったり。

「ゴメンね。部屋片付けてもらったのに。あんなこと言っちゃって」
「なに、気にしてないさ」
 冷たい水の入ったコップを渡されて、二、三口こくんと飲む。
「私も言い過ぎた。あれがお前のいいところなのにな」
「規律を守らないところ?」
「馬鹿」
 鼻をつままれる。
「自由なところとか、どんなときにも柔軟なところとかな」
 お互いがお互いを認め合って。だからこそいつもロッテを組めた。そして最高の戦績を残せた。
 分かっているのに、こうやってたまに喧嘩してしまう。
(でも、言うよね。喧嘩するほど仲が良いって)

「それじゃあ、私はそろそろ……」
 ゲルトルートが立ち上がりかけると、エーリカはその服の袖を掴む。
「トゥルーデ、もうちょっとここにいて?」
 服の袖をひきながら、甘えたように声を出すと。
「――しかたがないな」
 デレた表情でゲルトルートはイスに座った。

「そうだ絵本でも読んでやろうか」
「え、いいよ。私はクリスじゃないんだから」
「そりゃあ、お前は私の妹じゃないけど。私の大切な――」
 ゲルトルートが口にした言葉で、エーリカは赤くなった。それにつられたのか、ゲルトルートも。
 それを取り繕うように、エーリカはあたふたし始める。
「じゃ、じゃあさ、この前トゥルーデが言ってたやつ、お願い」
「あ、ああ」

 それからしばらくは、医務室の灯りも灯ったままだった。
 物音もしなくなるくらい、夜が更けてから、やっとその灯りは消えた。


 翌日、エーリカはミーナから一部始終を聞いた。
 自分が意識を失ってから、全部ゲルトルートが動いてくれたらしい。
「トゥルーデったら慌てちゃって。てんやわんやの大騒ぎよ」
 エーリカにはバスタオルをかけて運んだのに自分自身はすっぽんぽんのままで。医務官が卒倒しかけてたわ。
 そういって、おかしそうにミーナは笑った。
「へえー、そうだったんだー」
 もう、おかしくて、嬉しくて。
 にやにや笑いを止めることができそうもなかった。
「よかったわね。フラウ」
 ミーナにそういって微笑まれて。
「うんっ」
 エーリカは元気よく返した。


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