あの日からの声、遠き遠き未来へ
君は憶えてる?
あの日のことを。
私たちが……生まれた、その日のことを。
『あの日からの声、遠き遠き未来へ』
それはまるでバベルの塔だった。うずたかく積み上げられた本で出来たバベルの塔。
その塔が二本、向かい合うように隣り合うように並ぶ。
考えもなしに雑然と積み上げられた塔は、しかし奇跡のようなバランスを保っていた。
古びた書庫とその中に押し込まれたやはり年月を感じさせる本棚と机、あるいは椅子。
とは言うものの、古びてなお感じられる品のよさは、かつてこれが実に細やかな
気配りの元に作られたものであることを無言の内に物語っているようだった。
二棟のバベルはこの歴史を含んだ机の上にあって、それを挟むようにのぞく二つの顔。
一瞬困惑するだろう、そのくらい二つの顔はそっくりで。
部屋の風景と二つの顔。まるで鏡に映したようにすら思える。
そんな二人の片方がぱたぱたとせわしなく動きだした、
あるいはもう片方が彼女だけかけた眼鏡の下から冷えた視線を投げたところで気づく。
二人の少女。そっくりで、しかし同じではない二人の少女だということに。
エーリカ・ハルトマンにウルスラ・ハルトマン。
同じ日に生まれた、二人の少女。一対の天使たち。
そして、今日と言えばこの天使たちが??あるいは悪魔かもしれない??が、
この世に生み落とされた日で。つまりさっきから落ち着かない少女、
エーリカ・ハルトマンの意識はそこをぐるぐるとまわっているのだった。
誕生日を、二人の誕生日を特別と思うのは変なこと?
普段となにもかわらないような調子の妹にエーリカはそう問い掛けたくなる。
エーリカにとって今日という日ほど特別なものはなくて。
でも、彼女はどうなのだろう? とエーリカは思う。
こんなこと意識しているのはやっぱり自分だけなのかもしれない。
いつものように本を読みふけるウルスラの表情からは、読み取れそうになかった。
「ねえさま」
不意に呼びかけられて、どきりとする。
正反対だ、とエーリカは思った。その落ち着きも、声の雰囲気も。
形作っている輪郭は全く同じなのに。そのトーンはまるで違うような気がする。
「な、なにどしたの?」
「なにが、ほしい?」
「へっ!?」
素頓狂な声が出た。一瞬なんのことだか分からなくなって、
エーリカはやっと本から顔をあげていた妹の顔を見遣る。
ウルスラはぱたりと本を閉じ、少し不満そうに姉の方に向き直る。
「今日、誕生日でしょう」
ああ、そうか。
なぜかエーリカはそう思った。あらためて妹の口から言われると趣が違うのだ。
違い過ぎて、別のことのようにさえ感じられる。双子だというのに。
「ねえ、ウーシュは憶えてる?」
「……?」
「私たちが生まれた日のこと」
「記録なら残ってる。記憶は、あるわけない」
「私は憶えてるよ。ウーシュが生まれた時のこと」
それはとても不思議なことだった。あるはずの……いや、残っているはずのない記憶。
その記憶の断片が一枚、エーリカの脳に焼き付いているのだ。
思い込みかもしれないけれど、それが彼女がもう一人の自分、自分の半身を、
意識した瞬間だったと、エーリカは思わずにはいられないのだった。
私が、君の姉だから、と。
「……そう」
にべもない。
「えっと、ウーシュ。べつに私は……
なにもいらないよ。穏やかな声でエーリカはそう繋げた。
この時間が、二人で過ごす時間が彼女にとってはなによりも大切で、
それ以外のものなんて、いるのかどうなのか、エーリカには判断出来なかった。
二人で生まれ故郷にもどって、過ごして来た時間。
ネウロイがこの地に残していった深い爪痕を少しづつぬぐう、そんな日々。
「ね。それじゃ、ウーシュはなにがほしいの?」
「私は……」
「もう、ここの本ほとんど読んじゃっただろうし。一緒に街に買いに行こっか?」
「……外に出なくていい」
「でも、他にだって欲しいものとかあ……んっ!?」
床がギッと音を立てて、唐突に時が止まる。今と現実が乖離していく、そんな気がした。
「私は、ねえさまがほしい」
壁に押し付け合った身体が、絡め合った指の感覚が、重ね合った口唇の柔らかさが。
窓のカーテンをしゃっと閉めると、そこだけ空間は夜に落ちた。
遮りきれない隙間からこぼれる光のラインに、少女の顔がほのかに浮かび上がる。
静かに暗転した部屋の中で、しかし、そこに含む熱量だけはとめどなく増していく。
互いの息が顔を撫でて、全てを現実から遠ざけていこうとするかのようで。
「ウーシュ」
エーリカは言いながら、背中に廻した腕にぎゅっと力を込めた。
夢と現実の狭間で二つの感覚が行き来する。
ぼうっ、とする頭でウルスラはほんのすぐそばにある姉の顔を見つめた。
焦点が定まらないのは、眼鏡を外しているからだけじゃないように思える。
おずおずと指を伸ばして、当たった??それはもう今まで何度も触れた??
頬の感触を味わう。するすると絵を描くように流れる指先。
顔をよせ、触れたその首筋に口唇を押し付ける。
……っ!
瞬間、エーリカの身体がびくりと反応する。
なんどもなんども、なんどこの行為を繰り返しても。変わることのないこの反応。
廻された腕にこもる力の強さと、押し殺された悲鳴と重なり合って、
ウルスラは背筋がぞくっとするのを感じた。
そしてまた、彼女の思考も混沌の海に呑まれてゆく。……しかし、
でも、今日はなにかが違う。
そんな気がする。それはエーリカ、ウルスラのどちらも例外ではなくて。
熱く、熱くかわってゆく身体はそのままどこまでも溶けてしまいそうな気さえする。
いや、それはもう身体だけではないのかもしれない。心も、なにもかも。
「エーリカ」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ウルスラはそっと呼びかけた。
一つじゃ、足りないのだ。
誰より愛おしいこの姉の、その甘い色を帯びた声だとか、
もっと言ってしまえば、自分が今刻みつけている首や胸元への紅い証だとか、
そんなものが。
「ウーシュ、ねぇ……」
この声は果たして届いているだろうか。
自分をどうにかする時の妹は、まるで他の音なんて耳に入らないみたいに、
ただ自分の身体に触れることに拘り続けるのだ。
ぐっと身体をこわばらせても、必死になって身体をよじっても抵抗になんてならない。
自分に出来ることと言えば、ただ喉の奥からあふれてしまいそうになる声を
無理矢理押さえつけることくらいだった。それだって、出来ている自信なんてなくて。
せめて、とエーリカは妹の後ろに置いていた手を服の裾から中へすべり込ませた。
「ひゃっ……!」
触れた手と触れられた背中。その温度差にウルスラの身体がびくんと跳ねる。
重さの均衡を崩した二つのシルエットが、壁にぶつかって重なるように床へと落ちた。
がつんという衝撃と顔にかかる熱い吐息。一瞬、世界がぎゅっとその二つに収束する。
床に打ちつけた頭。意識がうまくまとまらないのはそのせいなのか。
今のエーリカには判断がつかなかった。
「ウー、シュ……大丈夫?」
さっきの衝撃で外れ飛んでしまった眼鏡の奥がわずかに
??いつもならありえないことだ??潤んでいるのを見て、エーリカはひどく動揺する。
大丈夫? もう一度そっと声をかけて、さらさらと綺麗な妹の金髪に指を沈めた。
これは、一体いつ憶えた行為なのだろう。
記憶にすらないそれを、まるで当たり前のように繰り返す。ただ、ただ、
「ねえさまは、ずるい」
その一言に、撫で上げるエーリカの手の、指の動きがピタリととまる。
「ずるいって、私、が?」
すうっと小さく息をつき、エーリカの腕に身を委ねたまま、ウルスラは姉の胸に触れる。
ぎゅっと、いや、それはもう押しつぶすと言った方がいいような????
それくらい、目一杯の力を込めて。
「ウーシュ、そん、な、だめ……っ」
「ねえさまは、ずるいっ!」
ウルスラのその声が静寂を裂いて、部屋中を震わせる。
ウルスラの絶叫と、その下で反転して生まれるエーリカの悲鳴。
二つが合わさって、合わさりきれなくて、混ざって、溶ける。
少女の手の中でつぶされた姉の薄い胸と、見開いたまぶたの中でうるむ瞳。
淡い光の中で、はっきり目に焼き付いて離れない。もっと、見せて、それを、見せて。
「私? 私が、ずるい……?」
きっと、姉は気づいてだっていない。そうすることが彼女の中であまりにも当たり前で。
「だって、いつも求めているのは私の方だけみたい、だから
そう、思えるから。
エーリカは決して自分を求めたりはしない。どんな、どんな理由があってそうなのか、
ウルスラには知りようもなかったけど。そのことが彼女にはたまらなかった。
自分が姉を、いや、この目の前のただ愛しい少女を想うほど、
彼女は自分を想っていてはくれない、そんな????
「ちがうよ」
ウルスラの腕にしがみつき、息も整い切らないまま、エーリカはやっとそう言った。
暗く沈んだ部屋の中で、しかしはっきりと通る声で。
ちがうよ。そう、もう一度。
「私だってウーシュのこと求めてる。求めてるよ」
でもさ、怖いんだ。だってもしも傷つけてしまったら。
自分が傷つけられるのも壊されるのも、全然かまわないのに。
だけどもし逆のことが起こったらと思うと……。
好きだから、大切すぎるから。触れるのだって怖いんだ。
そうじゃない?
「だから、ねえさまはずるいんだ……んっ」
口唇を重ねて、深く深く口づけをして。はじめてだと思った。
いつもこうするのは妹の方だったから。耳に触れ、その形をなぞり、まぶたを撫でて。
今度は白い胸元に口唇を落とす。強く強く吸い上げるたびに響く少女の嬌声。
自分の声もこんななのか??むしろそれは全く同じと言ってよかった??
と少しどきっとする。だって、こんな声、聞いてしまったら、もう止まらないじゃない。
もう、止まれない。指で、口唇で、舌で。撫でて、触れて、もてあそんで。
もっと、もっと聞きたいから。
「ウーシュ!」
「ねえさま……エーリカっ!」
二つの声が共鳴して部屋をの空気を伝う。聞こえるのは誰よりも欲しい姉の声、妹の声。
だけど、その間に本当は違いなんてありはしなくて。
心も身体も声も一つに重なって、境界面を消し去ってゆく。
私はね、ウーシュ。ちゃんと憶えてるよ? あの日のこと。
二人の行く先が、重ならない日が来たとしても、それだけはきっと変わらない。
そして自分が??いや、お互いが誰よりお互いを想っていることも。
互いの胸に刻みあった"十七”ずつの痕を見つめながら、エーリカはそう思うのだった。