暮れた朝
その日、エイラはサーニャの夜間哨戒に付き合うことを自ら辞退した。少しだけ寂しげなサーニャの横顔に、後ろ髪を引かれながら。
彼女はまた少し特別な存在を隠し持っている。サーニャにも明かしていない、秘密の相手。サーニャが妹なら、その人は恋人だろうか。
サーニャが恋人なら、その人は母親だろうか。そんな、ある意味でサーニャよりももっと近しい相手。
ここのところ、ため息を耳にすることが多かった。何かに疲れているのか、悩んでいるのか。それはこの部隊が始まって以来いつも
変わらぬことではあったが、最近は特にそれが多い。何かあったのかとさり気なく尋ねてみても、強情なその人はなかなか答えては
くれなかった。エイラとしても、あまり人の心のうち深くまで踏み込もうとは思えず、しばらくは様子を見ることにした。
だがため息は増える一方で、そして今朝、エイラは珍しいものを見た。いつもは髪をきちんと整えてくるその人が、前髪に寝癖を
残したまま食堂に入ってきたのだった。そんな姿は今まで一度も見たことがなかったし、想像もできなかったというのに。その人の限界を
感じたエイラは、覚悟を決めることにした。
もしかして傷つけてしまうかもしれない。そんな「事の重大さ」を放り出して、エイラは軽い足取りで『その場所』へ向かった。
* 暮れた朝 *
日は傾き、既に赤みは抜け始め、深い蒼が空を支配し始めていた。……かすかに残る紅。ほのかに明るい深海色の空。幻想的な光景
だった。
なんとなく、この時間が好きになる。蒼と赤、二色のトーンは、お互いに薄めあい、そして引き立たせる。お互いが自己主張せず、
お互いが相手を尊重する。……いつかスオムスでみたこの景色が忘れられず、それ以来エイラはずっと赤と青が好きだった。正確には
朱と蒼だろうか。
だから、なんとなく似合ってると思ってしまうのだ。きっと、きっと――――。
「それで、話って何かしら」
「言わなくても分かってんだろー」
小さな足音で既に気づいていた、後ろに立つ気配。突然声をかけられて、しかしさも当たり前のように返事を返してやる。
……はあ。またひとつため息が聞こえて、そしてその人はエイラのすぐ隣に座り込む。エイラの視界が眺めているのは、朱色か、
それとも蒼色か。
「悩みのひとつでもあるんじゃないのかよー」
「もう、仕方のない子ね」
「どっちがだよ」
隣の左腕が、ぴたりとエイラの右腕に留まる。服越しに触れ合う肌は、しかし嫌いではない。エイラは少しだけながく息を吐いて、
ようやく隣に座る人の目を認めた。
「だからさ。ここんところ、前よりもずっと疲れてんだろ? 隊長がそんなんじゃ、士気あがんねーぞ」
「この間言ったでしょう? これといって変わったことはないわ、って」
「ったく、中佐もゴージョーだよなあ。ミヤフジに負けず劣らず」
「あら、そんな褒めてくれなくてもいいのよ?」
ほめてねーよ。そうつぶやいてやろうかとも思ったが、相手とペースを合わせては面白くない。エイラはそこで表情を崩さず、
無表情から少しだけ顔を変えた。……こんなの、自分には似つかわしくないと思いながら、それでも。たまには、自分の心に
『本当の意味で』素直になってみるのもいいかもしれない。いつもの楽しいことをやっているだけの自分じゃなくて。みんなの
心にあかりを灯す、そんな楽しさの笑顔ではなくて。
……実は自分の心が壊れてしまいそうなくらい、みんなを心配してるんだって。たまには、そんな本当の自分をさらけ出しても、
いいのではなかろうか。
「……なあ、中佐。私がどんな人間か、知ってるだろ?」
至って真面目に話を振る。だというのに、ミーナは真面目に答えようとなんてしてくれやしない。あら、いつもみんなを笑わせて
くれてる、明るい人じゃないの。そんな風にとぼけるミーナが、今は妙に好きになれない。
「……別に私は、強がりが聞きたいわけじゃないよ」
「強がってなんていないわ」
どこか、達観したような素振りを見せるミーナ。それでも、エイラには分かってしまう。その瞳の奥に、多大な疲労が漂って
いること。その双肩に、ずっしりと錘がぶら下がっていること。その口を、まるで心を何かからかばう様に覆う『ネウロイ』が
無理矢理動かさせていること。
……この世界において本当の敵とは、それは即ち人の心の内だ。どれだけネウロイが強くても、情けがなくとも。それに冷静に
立ち向かい、弱点を落ち着いて見極め、確実に攻撃を入れることさえできれば、決してウィッチ以外でも敵わない相手ではない。
だが、人の心とは脆いものだ。人は一発や二発で止めを刺せるのに、一発や二発ではネウロイに対しては豆鉄砲と変わらない。
そこに無意識に恐怖を抱いてしまい、結局誰かに頼る道へ走る。また別の角度では、誰かに認めてもらいたくて、平凡でありながら
特別でありたいとも願う。そうして子供たちは、特別の座を目指して機械を見に纏う。誰かの力になりたくて、一人きりは
嫌で、誰かに一緒にいてほしくて、力に頼る。けれど落ち着いて対処すれば、誰にだって戦えないことのない相手なのだ。それが、
少し心が弱いだけで、ウィッチにしか戦えない特別な存在になってしまう。
だから。少し心が弱いだけですべてを決め込んで『固めてしまう』のは、ネウロイとの戦いと同じ。ならば、戦い方は同じだ。
少しずつ、ちょっとずつ。外皮をはがしてやって、核心に届くところまできたら、そいつを突いてやればいい。
それは、人の心を抉る行為。先を急ぎ、深く切り込めば、傷を与えてしまう。ならば、傷を与えることができないほどに、
ゆっくりと剥がしてやればいい。傷つけることがなければ、傷つくこともない。傷つくことがなければ、傷つけることもない。
お互い、そういう関係なのだ。
「……そういや最近さ。サーニャが部屋をよく間違えるんだよ」
「……? そうなの?」
「服脱ぎ散らかして部屋入ってきてさー、私が寝てるのなんてお構いなしでベッドに倒れこむんだ」
何の気なしに話を振る。理解できていないようなミーナだったが、それでもエイラにはそれでよかった。他愛ない話、意味のない
話。エイラは無表情のまま、会話を途切れさせない。
「おかげで最近足が痛いんだ」
「あら、足なの?」
「サーニャは布団あるから痛くないみたいなんだけどさ。上に乗っかられるこっちはたまったもんじゃないよ」
……それは、少しだけ気が遠くなる「剥き方」。けれど、確実に「剥ける」方法。玉ねぎの薄皮を剥くように。濡れた紙束を
一枚ずつ剥がすように。一枚一枚、ゆっくりと確実に剥ぎ取っていく。エイラは少しだけ楽しげな表情に変えて、ミーナと会話を
続けた。どちらかといえば、エイラが一方的に話を展開して、ミーナが相槌を打つという形。
「―――でさー、あんときはシャーリーのやつだったかな、落としちゃってさ」
「意外ね、シャーリーさんならうまくやりそうだけれど」
「そう思うだろー? それがさあ」
これまでのこと。他愛のないこと。日々の日常。ミーナが見ていない、見れないことを、少しずつ教えてやる。ミーナの顔は
ほんのわずかずつ明るくなっていって、口数もほんの微量ではあるが増えていく。エイラは気長に話し続け、日が暮れても
口を止めなかった。
「あっれ、なんか気づいたら真っ暗だなー」
「あなたが喋りすぎなのよ。思ったよりいろいろ話すのね」
「そりゃあなー」
「いろいろ楽しいこともあるのねぇ」
ミーナがどこか遠い目を向ける。しめた、と思った。
「中佐も混じればどうだよー」
「……混じれるものなら混じりたいものだわ……」
「なんだよー、なんかあんのかー?」
「なんかってそれはもうね、ちょっと聞いてよ、ほらたとえば―――」
……長くなるかもしれないけど、ちょっと話に付き合ってくれないか。昼間、そう持ちかけたエイラに対し、ミーナは少し肩を竦めて
見せたけれど、ふたを開けてみればワインのひとつも持ってきてくれた。グラスと小さなパンのバスケットを持ってくるあたり、
まんざらでもないようだ。決してアルコールは好みではないけれど、嫌いじゃあない。苦手でもない。飲んでも、そう酔うことはない。
不思議と美味しく感じるそれをちびちびと口に運びつつ、小さなパンを時間をかけてゆっくりと食べる。それはまるで、ミーナの心を覆う
『鎧』をはずしていくようで。
――そして籠の中が空になった頃。ミーナに自然なつもりで振った話は、見事に花を咲かせてくれた。
「美緒だって、気をつけてって言ってもストライカーを脱いでくれないし」
「まー、少佐の気質じゃ難しいかもなー」
「やっぱりあなたもそう思う? でもほら、あの人ももうウィッチとしては限界が近いじゃない?」
もうほんとに頭が痛いわ――。口とは裏腹に、どこか楽しげに話すミーナ。そこに先ほどまでの重たさや疲れは感じられない。
ミーナの話を半分聞き流しつつ、内心安堵のため息をつく。もちろん聞いてはいるから、時々アドバイスをしてやることも忘れない。
悩み事を話しているはずなのに、どことなく何かを振り切った表情。清清しささえ感じるそれは、エイラの見たかった顔に近い
かもしれない。
「あと予算がどうのこうのってうるさいのよ。まったく、少しはこっちの身にもなってほしいわね」
「あー、それに関しては私は口挟めないなー」
「あらどうしてよ」
「……無理言って設備増やしてもらった奴が横から首つっこめるかよー」
「サウナのこと? ふふ、別にそれはいいわよ」
そんなことより洒落にならないのは弾薬と燃料代、とネウロイに対して憤慨した様子を見せるミーナ。ちょっと前までは、
落ち着いた眼差しの先に燃え滾るような憎悪を秘めていたはずなのだが。ネウロイのことを朗らかに話すその姿は、不思議と
エイラの心も落ち着けてくれる。
「まったく、いつになったら倒せるのかしら。体力もお金も無限じゃないのよ」
「他より金かよ」
「当然、もっと大事なものはたくさんあるわ。この基地には思い出だっていっぱいあるし、これ以上侵攻を許すつもりも
ない。……でも基地を維持する上でお金は必要なのよ!」
「あーはいはい」
一瞬真面目になったかと思えば、また本音が漏れる。ミーナも自分と変わらず不思議な人だ、なんて思ってしまう。でも、
不思議な人間同士、気は合うのかもしれない。適当にあしらいながら、残ったワインをまた少しずつ飲んでいく。今度は
味わうように、少しでも長く味を残すために。
「ところでエイラさん、あなた最近のフラウについてどう思うかしら」
「えー? ハルトマンがどうかしたのかよー」
「どうもこうも……前より更に歯止めが利かなくなった気がするのよ、どうしてかしら」
そりゃあ、―――。先を言おうとして、その前に一度グラスをあおる。だが口の中に入ってくるワインはほんの一滴で、
もうグラスは空っぽだった。見れば、ボトルの中身もあと一口分しかない。ミーナのグラスも、気づけば空だった。
……もう、日が暮れてから大分経つ。そろそろ皆が食事を終えて、風呂に入っている頃かもしれない。グラス二個と
ボトル一本、パンが数個。これだけなくなっていれば自分とミーナが別で食事を取ることは、きっと変なところで勘のいい
芳佳やリネットであれば気づくだろう。皆の生活する時間からは、かけ離れたところに二人はいた。
だったら。少しは、羽目を外したって怒られやしないだろう。だって、お叱り役の部隊長が、皆とは違うすごし方を
しているのだから。
「―――そりゃあ」
ぐっ、と体をまわす。ミーナの前にすっと顔を出して、その透き通った目を見やる。もうとっくに淀みの晴れた瞳、まるで
心の中まですべてを映してしまう鏡。エイラはそれをじっと見つめて、小さく告げた。
「あんたの目が透けたからだろ」
じ。エイラに見つめられ、ミーナは少しだけ頬を赤くする。
え。小さくミーナが返す。
ん。少しだけ、エイラが言い淀む。
「……だーから。こないだの戦闘から帰ってきてから、随分肩の荷が下りたって、そういってるんだ」
はあ、とわざとらしくため息をつく。言わなくたって分かるっての。そう愚痴っぽくこぼすと、ミーナは更に顔を赤らめた。
「気づいてないのは本人だけ、ってなー」
「そ、そんなに分かりやすかったかしら?」
「男ばっかの船に挨拶行かすなんてありえないだろ」
「え、ええ? そんなこと、ないと思うのだけれど」
「フツーはなー。でもあんたがそんなこと言うなんておかしいって言ってるんだ」
にひひ。悪戯っぽい笑みを浮かべてやると、ミーナは更に顔を赤くして反論する。そんなやり取りと少し繰り返して、ミーナが
ついに顔を真っ赤にした頃。
「も、もう! からかわないで!」
「まあまあ、ほらほら頭ひやせって」
エイラも、ほんのわずかに頬を赤く染める。それと同時、ワインボトルを引っつかむと、それを大きくあおって口をつけた。
直に流れ込む真紅の液体。僅かな苦味は、それはきっとミーナの、最後の迷いの味。
突然口をつけてボトルから飲むエイラを前に、何をしたいのか理解できない様子のミーナ。だが、ほんの一口分のボトルの中身を
口に含んだエイラは、にんまり――そう、「にんまり」と笑みを浮かべて、ミーナの目を射止める。
「……っ」
声には出さないが、エイラが不敵な笑みを浮かべた。ぞくり、とミーナの背筋に何かが走る。その瞬間、もうミーナは動けなく
なった。
―――ぐっと身を引き寄せる。ミーナの肩に手を置いて、上体を倒す。引き寄せる力と倒れる力、互いに同じ場所を目指せば、
すぐに触れ合ってしまう。
「ッ!」
はっとする声が一瞬聞こえて、しかしそれを封じ込める。目の前が、真っ暗になる。口を僅かに開くと、それでもワインが零れる
ことはなかった。
……目の前は、暗くなかった。すぐ目と鼻の先、触れ合える距離にある瞳。朱色のような紅の『鏡』が、数センチの場所に映る。
エイラには確かに分かる感触。ミーナは、すぐに理解できただろうか。唇に触れる温もりは、きっとミーナの優しさ。……久しぶりに
交わす口付けは、ワインの味に包まれていた。
「……ちょっとは頭冷えたか?」
少しして、唇を離す。額をこつんと当てて、ミーナの瞳をじっと見つめる。一口分を半分こして、一人当たりの飲む量は減ってしまった
けれど。
ほんの僅かな苦味も、きっと唇の甘さに消えた。たとえ微量であったとしても、美味しいのならば文句はない。――苦味の消えた感情は、
想いとなって人を暖める。
「……もう、ほんとにあなたってばよく分からないわ」
「にひひ。褒め言葉として受け取っとくよ」
ミーナをぎゅっと抱きしめる。耳元に口を寄せると、また静かになる。
「……一人じゃないんだからさ。もっと、頼ってくれよな」
そっと、髪を撫ぜる。芳佳から髪の梳き方を教えてもらったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。ミーナが心地よさそうに
目を細めるのが、見なくとも感じられた。
「……ありがとう」
ミーナの、ほんの小さな言葉。決してエイラは聞き逃すことなく受け取って、もう一度、小さな口付けを交わした。
- - - - -
それから二人は、一度サウナに入るために基地の中へと戻った。普段サウナではあまり口を開かないエイラだが、この日は珍しく
ミーナと雑談に興じていた。しばらく入った後、水浴びのために外へ出ると、あらかじめ水に浸して冷やしておいたヴォトカの
栓を開ける。同じく冷やしておいたグラスに水を半分入れて、金属の容器に入れて容器ごと水に浮かべておいた氷をいくつか放り込む。
そこにヴォトカを注げば、簡単な水割りが二つ。
「ま、何かに乾杯ってわけじゃないけど」
互いに軽くグラスを掲げ、その後軽くあおる。オラーシャではヴォトカをストレートで飲むのが常と聞き、またスオムスでも
強めの酒が好まれることからストレートで飲むことがしばしばあった。統合戦闘航空団が出来てからはオラーシャの人間が入って
くることも少なくなくなった、という側面もあるだろう。水割りで飲む機会はあまりなかったが、とはいえ嫌いではなかった。
「でも、あなたって意外と飲むのね」
「たまにね」
「飲もうとしたら止めるほうの役だと思っていたのだけれど」
「普段はな」
「じゃあ今日は特別なのかしら?」
「じゃなかったらあんなことしねーよ」
恥ずかしそうにそっぽを向くエイラ。ミーナに元気を出してもらおうと思ってやったとはいえ、自分からキスするのは決して
慣れることではない。ましてワインを口移しで飲ませるなど、恐らく人生では初めてではなかろうか。そんなことをしておいて
今日はこれといって特別な日じゃありませんでした、だなんて、流石に冗談でも許されないだろう。
「……本当にありがとう。なんだか、随分落ち着いたわ」
「そりゃなによりだ」
「ところで、ひとつ聞きたいんだけれど」
「んー?」
ヴォトカを口に運びつつ、ミーナの問いに耳を傾ける。……だが尋ねられたそれは、エイラにとって少々返答のしにくいもので
あった。
「……随分とサーニャさんのこと、気にかけてくれているみたいね。感謝しているわ」
「お、おー」
「でも、もし二者択一なのだとしたら、どちらをとるのかしら?」
う、と言葉に詰まる。たいした時間稼ぎにもならないことは分かっているのに、それでもエイラは聞き返すほかなかった。
――どれとどれを選べって言うんだ。無論、ミーナは間髪入れずにそれに答える。――私とサーニャさん。
……少しエイラは頭を巡らせた。すっかり暗くなった空を見上げて、星を数える。こうすると、少しだが頭が落ち着くのだ。
落ち着けば、考えもまとまる。
「……どっち、っていうのは難しいかな」
「あら、そうなの」
「勘違いすんなよ」
あらかじめ釘を刺した上で、エイラは口を開く。
サーニャだって、ミーナだって、どちらも好きであることに変わりはない。だが、サーニャは『自分』と『他人』。それは
「関係のない人」という意味ではなくて、つまり恋人同士であってもそれは血のつながらない全くの他人同士である、という
ことと同じである。どれだけ関係が近くなろうとも、サーニャはあくまで別人同士。それに対してミーナは、『自分』と『家族』
と表現するのがもっとも近い気がする。居て当たり前の存在、最も身近な存在。もしサーニャと結ばれたとしても、ミーナは
それより更に身近な存在になる。例えて言うなら母親、例えて言うなら姉。『恋人』の壁をはるかに越えて、もっともっと、
ずっと近い存在。
正直、恋愛対象としてみたとき、どちらのほうが強いのかは自分でも理解できていない。けれど二人の間には明確な線引きが
あって、だからエイラの中では優劣がつけられない。たとえ同じ『好き』であっても、味噌汁と筆箱を比べることは出来ない。
エイラにとって、どちらも失ってはならない存在。どちらがいいと聞かれれば答えられないけれど、だからといってどちらでも
いい相手でもない。「どちらか」でなければならないけれど、「どちらか」ではいけない。そんな、雲のような存在。それが
エイラにとってのサーニャであり、ミーナであった。
「……だから、さ。中佐には申し訳ないけど、中佐を取る、なんて明言はできないよ」
ふ、と短く息を吐く。少し自分を嘲笑う意味と、それでもやっぱり自分の想いを変えることは難しいと半ばあきらめる意味と。
だがミーナはにこりと笑みを浮かべたまま、それを崩すことはなかった。……とても、優しい笑みだった。
「別に、私をもらってくれ、なんて言ったつもりはないけれど?」
「そんなような感じだったじゃんかよー」
「ふふ。でも、私はあなたの近くに居られればそれでいいわ」
一番でなくてもいい。二番でも、場合によっては三番でもいい。エイラと背をぴたりと合わせることが出来れば。同じワインを
共有できれば。……こうして、同じ夜空を見ながら、ゆっくり二人きりの時を過ごすことが出来れば。それ以上、望むことなど
何があろうか。
真正面からそう言われ、エイラの頬が赤く染まる。恥ずかしい思いが強いが、それでも、『どっちもほしい』なんて我侭を
受け入れてくれた事が、純粋に嬉しかった。
「ただ、ひとつお願いがあるとすれば――」
ミーナが、少し首を傾げてエイラを見やる。恥じらいを持つ、年相応の姿だった。その奇妙な魅力に、エイラも目が
離せなくなる。
「……名前で、呼んでほしいかしら」
―――エイラの目が見開かれ、そして少しの間が空く。小さな咳払いをしてから、口を開いた。
「こっ、ここは基地なんだから、か、階級で呼ぶのは当然だろっ」
「あら、だったら階級の高い人に対してはそれなりの態度で臨むべきではなくて?」
「ゔ……」
苦し紛れの言い訳は、しかしミーナには想定の範囲内だった。他になにか言い訳はないかと探すエイラだったが、一番厄介なのは
自身の気持ちであった。まんざらでもない以上、『今日だけ』だなんて、いつもの逃げ道が使えない。……できれば、ずっと
名前で呼びたかったのは否定できない事実だ。
「……わ、わかったよ……み、ミーナ」
ぼそぼそと口先だけで呟く。だが隣同士ではそれもきちんと届き、ミーナは笑みを浮かべてうなずいた。先ほどはエイラのほうが
優勢だったのに、今度はミーナのほうが上である。やはり、たった数年とはいえ先輩には敵わない。どうして、自分の敵わない人に
惚れてしまったのか。思わずため息が漏れると、ミーナが優しく頭を撫ぜる。
「私はあなたのお姉さんでいいわよ」
「……うん」
きっと、ミーナだってエイラの一番で居たいだろう。それでも譲るのは、精一杯の強がりか、はたまた心の底からの優しさか。
今のエイラに、それを推し量ることは出来なかった。
……ただ。真面目な後に茶目っ気を見せられてしまうと、毎回毎回、すべてをはぐらかされてしまう。それでさえ悪いと思えないの
だから、本当に罪な女だと思わざるを得なかった。
「ただ、たまには少し行き過ぎたスキンシップも忘れないでね?」
「……ミーナが言うと妙に妖艶だな」
「あら? そんなつもりかけらもないわよ?」
「……うそつけ」
この、悪女め。エイラはにやにやと奇妙な笑みを浮かべつつミーナに擦り寄り、顔を近づける。ふふ、と小さく笑って、
ミーナも目を細めた。
「今日だけ、だかんな」
「はいはい」
―――水割りのヴォトカが、池の中に染み渡っていく。浮かぶ二つのグラスは、二人のように小さな音を立てて寄り添った。
今日だけは。ミーナのほうが、ほしかった。
どこかエイラは、遠く考える。蒼と赤は、相反するけれども似合う気がする。だってほら、空のコントラストはあんなに美しいのだ。
太陽も眠りに着く真夜中の水浴び場。――そこにはひとつの、朝焼けのコントラストが映えていた。
――fin.
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