一人じゃ泣きそうな
裏山の桜がきれいだったから。
私の大好きな坂本先輩はそういってこっそり学校を抜けだした。
そんなことはだめだって、規則違反だって何度も何度も言ったのに、
坂本先輩はそんなことお構いなしに、いつも通り豪快に笑い飛ばして、
その上、「お前も来るか?」なんて事もなげにいってくるのだ。
そんな言葉と一緒に差し出された手は、なんだかすごく大きいようで、
安心できるようで――。
そうして、違反者がもう一人増えた。
「さっ、坂本先輩っ……!待ってくださいよぉ……!」
「はっはっは!醇子、こんなもので音を上げてるようじゃ
この先の訓練は務まらんぞ!」
「そっ、そんなこといっても……!」
誰かに見つかりはしないかとひやひやしながらの私とは対照的に、
坂本先輩はさも慣れた道であるように、足場の悪い山道を
ひょいひょいと軽やかに登っていく。
「誰かに見つかったらどうするんですかっ……!」
「大丈夫だ。こんなところまで誰も来ない」
「そうかもしれませんけどっ……!」
去年の4月に、新入生の教育係である坂本先輩に出会って。
一年間、訓練のことから寮生活の悩みまでいろんなことの相談に乗ってもらって。
いつも親身に、時に厳しく教えてもらったけど、
その度に「豪快な人だなぁ」っていう印象を抱かせる人だった。
いろんなことを考えすぎるところのある私はいつも坂本先輩に
引っ張られていくようで、一緒にいると楽しいけれどちょっと
気圧されるようなところがある。
……軍隊って、こんな人ばっかりなんだろうか。
この先がちょっと不安になる。
「ほら、もうすぐだぞ、早く来い!」
「あっ、はいっ!」
坂の上から坂本先輩の声が飛んでくる。
力を振り絞って、ようやく坂本先輩に追いつくと、そこにあったのは――。
「……すごい……きれい」
坂の上にあったのは、青い空をバックにした満開の大きな桜の木。
眼下には私たちの街が見え、その先に大きな海が広がる。
「きれいだろう?」
坂本先輩がにっと笑う。
「ここからは街全体が見渡せるんだ。その先には海も見えるしな」
「全然、知りませんでした……」
「地元の人間でも知る者はほとんどいない、秘密の展望台だな」
坂本先輩は近くの岩に腰を下ろして、私をその横に誘ってくれた。
「はい。お茶です」
「ありがとう。気がきくな」
こっそり持ってきたお茶とお団子を食べながら、二人できれいな景色を眺める。
「先輩は、よくここに?」
「ん?あぁ。訓練や勉強に煮詰まったときに時々な」
「えっ?」
先輩が煮詰まるとこなんて……失礼だけど全く想像できない。
「信じられない、という顔をしているな」
「すっ、すいません!」
「私だって、一人の学生でしかないからな」
そういって坂本先輩は苦笑した。
「私だって、訓練が辛いときもある。うまく出来ない自分に、
歯がゆさや未熟さを感じることだってある。
そんなとき、私はここにきて、この街と広い海を眺める。
自分が何処に向かっているのか、誰のために戦おうとしているのか、忘れないようにな」
「誰のために……」
やっぱり、先輩はすごい。私は未だに訓練や勉強に必死についていく毎日で、
自分のことで精一杯で、自分が何のために軍に入ったのか、
何を目指して、誰を守ろうとしているのかなんて、考える暇もなかった。
「……と、まぁ、格好のいいことをいってるが、要するにサボりを正当化しとるだけだ!」
坂本先輩のわっはっはという大きな笑い声が山に響く。
その言い方がなんだか妙におかしくて、私もつられて笑ってしまう。
「そうそう、醇子。お前ももっと笑わなきゃだめだ」
「えっ?」
「醇子は真面目で熱心なのはいいが、いかんせん硬すぎる。
もっと肩の力をぬいて、しなやかさを持っていないと大切な局面で折れてしまうぞ」
しなやかさ……。
でも、士官学校での毎日にようやくついて行っているような私に、
先輩みたいな余裕や大胆さなんて、そう簡単に身につくわけない。
「そうだな……。まず、その『坂本先輩』というのを止めてくれないか。
どうにも堅苦しくてかなわん」
「えっ……でも、あの……いいんですか?」
「訓練中や指導中はなかなかそうもいかんだろうが、
こうして二人でいるときぐらいは名前で呼んでくれていい」
「はぁ……」
いくらお互いに階級で呼び合わない海軍だとはいえ、
下級生が先輩を名前で呼ぶなんてことはやっぱりとんでもないことで、
それをさも当然のように求めてくる坂本先輩というのはやはり
大物だというか、大胆だというか……。
でも、その大胆さも、少しは見習うべきなのかもしれない。
「わかりました、せんぱ……いえ、坂本さん」
「美緒だ」
驚いて振り向いた私を坂本さんがまっすぐ見つめている。
「美緒でいい。お前は後輩だが、共に学ぶ仲間なんだからな」
「はい……!美緒さん!」
「美緒さん……か」
私の答えに、美緒さんがちょっと困ったような複雑な顔をする。
「だめでしたか……?」
「大分よくなったが、まだ硬いな。ま、そこはおいおい直していけばいいか」
「が、がんばります」
その時、学校のほうから大きなサイレンの音が聞こえた。
「緊急招集!?」
「脱走したのがバレたかな。醇子、1週間の謹慎くらいは覚悟しておけよ?」
「はいっ!大丈夫ですっ!」
私の声が思いのほか明るかったからか、美緒さんはちょっとびっくりした顔をしてから、いつものように優しく笑った。
fin.