時間と場所と、状況と。
世界の数箇所に設置された、『統合戦闘航空団』。連合軍に所属するこの部隊の指揮は、基本的に基地を置いている国の軍が執ることに
なっている。ただ、それは部隊としての予算や参加する作戦など、いわば「大枠」の話。内部でどう予算を使用するか、誰がどの小隊に
所属するか、そういった部隊内部における取り決めは、各部隊に一任されていた。あくまで部隊を管理する各国軍と、現場で指揮を執り
隊員について熟知している部隊長とで作業が分担されるのは、至極当然のことと言える。
第五○一統合戦闘航空団も、例に漏れずこの方式で管理されている。そのため部隊内部では『運営委員会』が定期的に開かれ、また
それとは別に部隊長と補佐による報告会も毎朝開かれていた。運営委員会に関しては、整備隊や警備隊など部隊内における各隊の長が
ひとつに集まって行われるもので、実戦部隊においては基本的には実戦部隊長であるミーナが出席することになっている。ただ、
部隊長という立場故に実戦部隊の業務よりも優先しなければならない業務もあるため、そういった場合には美緒やゲルトルートが
出席することもある。内容としては各隊における、前回開催時から今回までの間の実績の報告が主であり、提案等があればそれに対しての
検討も行う。細々したことはこの場で決められることはないが、例えば月ごとの予算の割り振りなどはここで決められることになっている。
毎朝開かれている報告会は、実戦部隊内における日ごとの状況を互いに報告しあう場である。こちらはあくまで実戦部隊の会議のため、
参加人数は極めて少ない。現状はミーナと美緒、ゲルトルート、エーリカの四名のみである。そもそも実戦部隊が十二人しかいない以上、
たった四名といえど割合的には半分に近い。報告内容に関しては、美緒は隊員たちの日々の訓練の状況、ゲルトルートは隊内における
予算の執行状況、エーリカは基地施設の運用状況、ミーナは隊員たちの状況、とそれぞれ役割が分担されている。またそれぞれは
各々が担当している業務に関する資料-例えば美緒で言えば、訓練があった場合には必ず提出されている訓練成果報告書など-を基に
報告を行うが、ミーナも同じ資料を全て持っているのが正常な運用状況である。そのためミーナと担当者との状況の照らし合わせの場も
兼ねている。他には、それぞれの担当によっては基地内の会議や、もしくはブリタニアや連合軍からの指示を受けることもあるため、
そういった情報があればそれを共有するのもこの場である。ミーナから作戦の指示がある場合、他の隊員へ伝達される前にまず必ず
この場で補佐たちに報告される形となっている。
基本的に会議は朝早くに開催されるため、他の隊員はまだ眠っていることも多い。ひたすら眠っているように思われているエーリカも、
会議にだけは毎朝きちんと出席していた。
「……ねむい……」
「おはよう、フラウ」
「……おやすみ」
「ああ、こら! これから会議だ馬鹿、起きんか!」
……大抵、眠い目をこすりながらではあったが。
最近は、その会議にちょっとした変化が訪れていた。芳佳の指揮官としての潜在能力を見抜いたミーナは、芳佳に補佐としての業務の
研修を命じていた。現在はゲルトルートの下で予算に関する業務の研修をしており、先日より芳佳もこの『報告会』に参加するように
なっていたのだった。ちなみに現在予算を受け持っている理由は、訓練報告に関しては芳佳自身が教導を行っているために内部事情を
知っている都合上、研修の意味が大きくないため除外。エーリカに関してはあまり人に教えるのが得意ではない上、日中も夜間も昼寝の
時間が多く、研修には向かないと判断され却下。ミーナは全体を見なければならないため、消去法として予算が選択された、という
経緯である。
「それでは、今朝のミーティングを始めたいと思います。じゃあ、まず坂本少佐から」
「私のほうでは報告事項は三件ほどだ。まず三日前のビショップ少尉及びクロステルマン中尉の模擬戦の結果からだが――」
会議の場で報告されたことや決定された事項は全てブリタニア軍や連合軍にも提出されるため、一応会議は『正式な場』である。
そのため会議中はファミリーネームと階級で呼ぶよう義務付けられており、それにより厳粛な空気を漂わせていた。
「――訓練報告は以上だ」
「了解、ありがとう。じゃあ次は予算執行状況の報告をバルクホルン大尉」
「ええと――こちらは大きいヘッダーが三点、細かく言うと合計で五点の報告があがっていて――」
基本的に芳佳は、比較的調整のしやすい雑貨系の処理を行っている。基本的には書類処理が原則ではあるが、雑貨の類は隊内からの
要望が多いため、「これ欲しいんだけど」と口頭で言われることも多く、互いに顔なじみであれば対応はしやすい。例えば基地の修繕や
改良に使う資材や、或いは整備に使う精密部品などは、ある程度知識や必要・不必要を見分ける『眼』が必要になるため、研修生には
任せられない。比較的「安全」な、という意味合いで芳佳にはそれが割り当てられていた。
「残りに関しては宮藤少尉から報告してもらう」
「はい、雑貨のほうですが、昨日は処理件数十三件、全て承認で、内容としては――」
すらすらと報告書を見ながら報告を進めていく芳佳。もともとはゲルトルートに貰ったテンプレート通りに喋っていただけだったが、
参加し始めてからすでに何週間も経っている。毎朝参加しているので、それだけの日数があれば自然と馴染んでしまうものだ。今は
この厳粛な空気の中にあっても、臆することなく自分の報告ができるようになった。ただ、それ以外の発言に関しては今ひとつ自信が
持てない様子ではある。
「――なので、その件については数量の削減を要求しまして、本人の了承が取れましたので、削減した値で処理しました。こちらからは
以上です」
「予算全体からもその他の報告は確認していない。以上だ」
「了解。それじゃあ次、ハルトマン中尉、運用状況の報告を」
「りょーかい。一応全箇所異常なしで動作してますが、先日からの報告のとおり、ボイラと整備機器の一部が交換時期ということで――」
ゲルトルートと美緒は普段の話し方が軍の「ソレ」に則っているためそのままで問題ないが、エーリカの場合は普通に喋ると友達同士の
会話になってしまう。人の名前を階級をつけて呼ぶほどの場所のため、流石のエーリカも言葉遣いにはある程度気を使っていた。普段あまり
気にしていないエーリカでさえも気を使うこともあり、芳佳は初めのうちはこの空気に圧されてしまい、かなり慌しくなってしまっていた。
今でこそ落ち着いたものの、最初の一週間はずっとふさぎこんでしまうほどうまくできなかったのが正直なところだ。とはいえ、業務に
関しては文句なしに出来ているため、その点に関しては皆大きく評価している。
「――あとはルッキーニ少尉の発進ユニットの定期保守が近づいてるので、出撃シフトを組む際には気をつけてください、との報告。
こちらからは以上です」
「はい、了解。では最後に私から報告だけれど――」
ミーナがそれぞれの隊員たちの健康状態に異常がないことを報告して、それから全体に関しての注意や報告を数点挙げて、今朝の会議は
終わりを迎えた。検討や打ち合わせの段階が入ると一時間や二時間かかることも珍しくないが、ただの報告の場合はものの数分で終わる
こともある。今回は後者のほうで、全員が単純に報告事項を述べただけだったため、五分ほどで会議は終了した。
「―――ふう、お疲れ様。宮藤さん、どうかしら?」
「うーん、未だに慣れない感じが……なんか私だけ浮いてる気がしちゃうんですよね」
「そうでもないと思うわよ? ほら、あっちには」
「ぐー……」
「こら貴様、こんなところで寝るな!」
「じゃあ部屋で寝る……」
「お前は寝るな!」
「えー、まだ起床時間前だよお……」
「お前が二度寝すると昼まで起きんだろうが!」
「はっはっは、バルクホルンはまるで母親だな!」
「んなっ!?」
「……私にはちょっと難しいですね」
「ふふ」
厳粛な空気は、あくまで会議が終わるまで。ひとたび解散となれば、そこには年頃の乙女たちの明るい日常が広がっていた。
「宮藤さん、紅茶飲む?」
「あ、えっと、できればコーヒーが」
「ええ、いいわよ。ミルクとかは?」
「ブラックでお願いします」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
……物事には、超えてもいい一線と、超えなくてもいい一線、越えてはならない一線がある。例えば集合時間。友達との待ち合わせは、
ものの二~三分程度はごめんで許されるだろうし、一声連絡を入れておけば、連絡どおりの時間にさえつければ文句の一つや二つは
あれど、それが原因で自分の地位が危うくなることはなかなか無いだろう。
しかしそれが、重要な会議であったらどうだろうか。それも連絡のひとつも無ければ、当然相応の対応が待っていることになる。
毎朝開催されていると忘れがちだが、ミーティングで報告された内容は全て上層部にもそのままエスカレータ式に上がっていく。
即ち第五○一統合戦闘航空団に指示を出す『上層部』まで報告は届いており、逆に言えばそこに届けるほどこの報告は重要な意味合いを
持っている。日ごろはあまり意識しないが、それだけ重要な会議なのだ。
それに、アポもなく遅刻したら―――。
「……あいつはまだ来んのか」
「もう十分も経つわね」
「ええい、もういい、私が呼んでくる」
苛々を募らせるゲルトルートと美緒。席がひとつ、ぽかんと空いているのだった。今まで決して遅刻も欠席もしたことの無かった
『そいつ』は、しかしいつ遅刻してもおかしくないのは確かであった。
「あの、ご迷惑でなければ私がいってもいいでしょうか」
芳佳が恐る恐る進言すると、ゲルトルートと美緒は視線だけ数秒合わせた後、首を縦に振った。ゲルトルートはもう腰まで上げていた
ところだったが、乱暴に椅子に掛けなおして腕を組む。……この場に居合わせていないのは他でもないエーリカだったが、もし美緒か
ゲルトルートが起こしに向かえば、何が起こるかわからない。頭に血が上った状態で冷静に人を叱るのは、相当に難しいことだった。
それよりは、冷静な思考を持つ芳佳が対応したほうが無難といえるだろう。腰に差した軍刀の鞘が一瞬光を照り返し、芳佳は席を立つ。
かくして会議室を出た芳佳だったが、扉を閉めるなり盛大なため息をつく。まさか会議に参加するようになって一月でこんな経験を
することになるとは、誰も思いもしないだろう。会議に出席しない上官をわざわざ起こしに部屋へ向かうというのもおかしな話ではあるが、
居なければ会議ができない以上、仕方もあるまい。
ただ、十中八九部屋で眠っているであろうことは容易に予想がつくが、それは確信にはならない。いくらエーリカが起きないとはいえ、
毎朝起床時間前のミーティングには欠かさず出席していた以上、この時間に起きていないのはエーリカといえど珍しいのだ。「お叱り」の
方法を考えてある以上、それを忠実に実行したいのだが、そのためにはエーリカが部屋の中にいるという確信が必要になる。それも、
エーリカの部屋の中を物理的に確認することなく、だ。
芳佳はエーリカの部屋よりも先に、少し別の方向へと向かった。幸い今日の夜間哨戒はエイラとペリーヌである。
「ごめんねサーニャちゃん、まだ朝早いのに……」
「ううん、芳佳ちゃんが言うなら……ふあぁ」
「ああう」
無理矢理お願いして起きてもらった上に目の前で欠伸までされては、掛ける言葉も無い。芳佳はサーニャに頼んでエーリカの部屋の中を
調べてもらっていた。サーニャのレーダーの示すところによると、予想通りエーリカは部屋でぐっすり眠っているようだ。今度またお礼は
するから、と口頭での約束を残し、芳佳は今度こそエーリカの部屋へ向かう。……腰に携えた軍刀に、右手を添えて。
「ハルトマンさん、おきてください」
扉の向こうにはまるで聞こえない声でつぶやく。扉の向こうに人の動く気配は無く、それは即ちエーリカが爆睡していることを意味していた。
本当はこんなこと、したくないのだが。今後のエーリカのため、仕方の無いことであった。
「―――――お、き、て!」
声に出しながら、芳佳は軍刀を握る右手を――――強く右に、素早く薙ぎ払う!
鞘と刃との間に空気の乱れが生じ、そして――鋭い鎌鼬を生み出し、エーリカの部屋の扉を襲う!
横一文字に真っ二つに切り裂かれるドア、更に鎌鼬の圧力に負けた蝶番は吹き飛び、二つに割れたドアは部屋の中へ吹き飛んでいく!
「ぐうあっ!?」
――二つに割れたドアのうち、下半分が地面に転がっていたエーリカに直撃。エーリカは重度の腹痛をその身に覚え、更にベッドに背中を
強かに打ちつけ、否が応でも目を覚まさせるのだった。
だがうっすらとあいた目に飛び込んだのは、まさしく戦慄と呼ぶに相応しい光景。なぜならそこに――
「エーリカ・ハルトマン中尉」
蒼い炎を放つ刀を右手に構え、のしのしと近づいてくる芳佳の姿。笑っていない目が、エーリカの体を鋭く貫いた。……状況が理解できない
エーリカ。芳佳は目を泳がせ、状況をつかもうと必死なエーリカの首下に―――刀を勢いよく突き刺す!
「ひぃっ!?」
峰をエーリカのほうに向け、床に突き刺された軍刀。首と峰との距離は、わずか八センチであった。
「今何時ですか」
芳佳に問われ、ガタガタと震えながら時計に目をやるエーリカ。―――五時三十三分。ミーティングの時間から、十三分が経過していた。
「あ、あ、あ……!」
きん、―――。
甲高い金属音が鳴り響き、光が一瞬反射する。……次の瞬間、エーリカの首下にあったはずの刀は、エーリカの首に触れるように刃が
向けられている!
「お目覚めはいかがですか、中尉」
「も、も……申し訳ありませんっ!」
身動きがとれず、ただ本能のままにそう叫ぶ。芳佳はさっと身を引いて刀を外すと、エーリカは直ちに直立し敬礼する。体中が目に見えて
わかるほど震えており、その顔は真っ青に染まっている。……自分より階級の低い芳佳に対して、まるで将官を相手にするような態度を
とっていることからも、緊張振りがうかがえた。
芳佳は脇に抱えた資料のうち、半分ほど――基地の運用状況の報告書の束を手に取ると、それを―――思い切り、エーリカの顔面に向かって
投げつける!
何によっても固定されていない紙は全てばらばらに散り……大きな紙ふぶきが部屋に舞う。一瞬たじろいだエーリカ、しかし次の瞬間走った
閃光と金属音に、再び背筋をぴんと伸ばした。
―――芳佳が床に突き刺した軍刀は、一枚の報告書を貫いていた。
『始末書』。書類の頭には、そう書かれている。
「全部の書類を集めて直ちに会議室に集合してください。三分待っても来なかったら、次はドアじゃなくてストライカーです」
エーリカの表情が再び凍りつき、数秒の間を空けて、震える声で返事を返す。芳佳はため息をひとつ残して部屋を後にし、エーリカはそれから
十秒ほど身動きの取れなかった後、紙もつかめないほど震える手で、何とか書類をかき集め始めた。……三分で会議室に向かえなかった場合、
次はストライカーユニットが真っ二つにされる。カールスラントの誇るトップエースが寝坊で出撃停止だなんて、そんな馬鹿げた話は絶対に
あってはならない。カールスラントの名前は汚され、ウィッチの誇りは消えうせ、第五○一統合戦闘航空団の評価は地に落ちる。
エースがみんなの足を引っ張ってどうするか。エーリカは、死に物狂いで報告書を集めていた――。
- - - - -
「よ、芳佳ちゃん」
「……あれ? サーニャちゃん?」
廊下に出たところで小声で呼び止められ、振り返ってみるとそこにはサーニャの姿。心なしか血の気が引いているようにも見える。どうしたのと
少しあわてて問うと、ふるふると首を振った。
「ちょ、ちょっとやりすぎじゃない……?」
言われて振り返る芳佳。ドアは吹き飛び、壁は鎌鼬の煽りを受けて砕け、ドアを固定していた蝶番が壁を無残に引きちぎっている。まるで戦車の
砲撃でも受けたようなすさまじい仕上がりになっていた。芳佳もうーんと唸るが、それでも首を一度だけ振るとサーニャに微笑を向ける。
「別に私は怒ってないよ? ただほら、トゥルーデさんとか坂本さんとかがね、すっごく怒ってたから」
「う、うん」
「ハルトマンさんこのままだとほんとに大変なことになっちゃうから、今のうちにどうにかしないと、って」
流石に会議に遅刻することの意味ぐらいはわかっているエーリカだったが、日ごろ寝坊の癖がついているために今日こうして事件が起こっている。
こうなった直接的な原因は確かに会議に遅れたことだが、芳佳は『いつ寝坊してもおかしくない』ことをどうにかしないといけないと考えていた。
ただ遅刻しただけであれば、初回であれば譴責で済むだろう。二回、三回と同じことを重ねればどうなるかはわからないが、一回で更正することが
できればそう怒られることも無い。だがエーリカは、会議を遅刻したのはこれが初めてであるにも拘らず周りを激昂させている。即ち、それだけ
日ごろの態度が悪いのだ。ゲルトルートに起きろといわれても起きようとせず、ミーティング中でも部隊内の伝達程度の軽いものであれば眠ければ
寝ようとする。特に朝の会議でミーナが報告するので情報は一通り先に仕入れているため、他の人への伝達時は同じことを二回聞かされることになる。
退屈なのはわからないでもないが、それは寝てもいい免罪符にはならない。そんな日ごろからの悪い癖が、たった一つのミスさえも肥大化させて
しまう原因になっている。芳佳は、それをどうにかしなければ今後も同じことが続くと危惧していたのだ。
「だから、言うべきときにしっかりしないと。特にハルトマンさんって、『そういう』の苦手みたいだし」
「『そういう』の、って……?」
「人に注意されたことに従うのが、ってこと」
仮にもエースとしてここまで名を轟かせている以上、これまでのやり方を変えるのは難しい。エーリカは人に指摘や注意された点を改善するのが
不得手な面があり、新人時代はそれで苦労させられた。戦場でそれを感じさせないのは、現状で既にトップエースになってしまっているため、
他から指摘を受けることがほとんど無いためだ。それに空中でのエーリカは模範とも言うべき機動そのものであり、決して僚機を落とさせない
戦略に徹底している。それ故に完成されたと言っても過言ではないほどの戦術を持っており、それでもなお戦闘に関する研究はとどまることを
知らない。
だがそれはあくまで空中に限った話だ。新人時代に自分の動きについて研究を重ねたために今でもその癖がついており、故に他の人から指摘
された点があれば、そのときに考えられる。そのため戦闘機動に関してはあまり苦労することは無いが、地上での生活に関してはそれが苦手
だった。空中でしっかりやっている以上、地上ではある程度自由にやらせてもらいたいと願うのも、年頃の乙女であれば仕方の無いことなのかも
しれない。とはいえここは軍組織であり、ゲルトルートほどではないにしても、ある程度規則に則った生活は必要である。重要な会議に寝坊する
ような生活習慣は、改善を命令されても文句は言えない。
「否が応でも従わなきゃいけないような状況を作ってあげないと、ハルトマンさんは多分自分を変えれないと思うの」
「……そう、かな?」
「まあ、私まだ皆より日が浅いから、もしかしたら見当違いなこと言ってるかもしれないけど」
「ううん、ハルトマンさんについてはよく観察していると思うわ。でも、自分が悪いと思ったことは素直に認められる人だと思うけど……」
確かにエーリカは、自分に非がある時には基本的にはそれを認めないことは無い。ジョークの範囲でそれを適当にあしらうことはあるが、
程度の問題であり、それこそ部隊の存続にかかわる様な重大な事件があれば、恐らくエーリカは素直に非を認めるだろう。
だが非を認めることと自分を変えることとは別の問題である。いくら心は強くとも、体は弱いのだ。
「だったら、私たちがお手伝いしてあげなくちゃ。人と仲良くしたくてもうまくできない人も、誰かを守りたいけどその力が無い人も、他の人の
支えがないと壁は越えられない」
――夜間哨戒で一人だけシフトが違うために、他の人との壁が高く、分厚くなっていたサーニャ。たった一人の負傷した兵士でさえも救えない
ほど力の無かった芳佳。だがサーニャはエイラや芳佳といった助けを得て皆との距離を縮め、芳佳は美緒の訓練によって力をつけた。お互い、
自分でできないことを人に頼る経験はしてきているのだ。
「……なんだか、芳佳ちゃんってすごい」
「え? そ、そんなこと無いと思うけどな」
二人で歩きながらそんな話をしていると、気がつけば会議室の前である。ふと時計を見ると、エーリカに『三分で来い』と言ってから二分が
経過している。
「それじゃ、また後でね。今朝はありがとう」
「ううん、いいわ。それじゃあ」
サーニャを見送った後、扉をノックして中に入る。そこには相も変わらず、今にでも殴りかかりそうな様相のゲルトルートと、今にも斬り伏せて
しまいそうな様相の美緒が座っていた。ミーナが苦笑を浮かべると、芳佳も似たような表情でため息をひとつ。残り四十五秒、果たしてエーリカの
ストライカーユニットは原型を保っていられるだろうか。芳佳は窓の外に目をやる。
「それで、あの馬鹿はどうだった」
「お部屋でぐっすりだったので、ちょっとお仕置きしておきました」
「……何をしたのかしら?」
「ええと、それに関連しまして、明日の報告で入れようと思いますけど……ミーナさん、私のお給料から引いておいてください……」
「……なんのために?」
「扉と壁の修繕費で……あはは」
――その一言で、場が凍りついた。更に言えば、ゲルトルートと美緒は後悔の念まで浮かべた。もしかして自分が行ったほうがまだ被害は
小さくて済んだかもしれない。
「扉を横一文字にですね、こう……」
「そ、それで?」
「ハルトマンさんの首元に峰をこう、ぐさっと」
「そ、そのつぎは」
「くるっと刀の向きを変えて、刃をですね、突きつける形になってですね」
「……それで?」
「刀をどけたらハルトマンさんが一瞬で直立して敬礼してくれたので、顔に向かってこう、ハルトマンさんの分の報告書をですね……」
話せば話すほど三人の顔から血の気が引いていく。恐らく、同じことをやられて耐えられる人間はこの中に一人もいないだろう。流石の
美緒でも震えを抑えるのは難しいかもしれない。
「三分以内にこなかったらユニット斬るって言いました」
「お、おい! 流石にそれはまずいだろ!」
「そうでもしないと来ないかなって……あと十五秒ですが――」
芳佳が時計に目をやって、ため息をひとつ。すると扉の外から、激しく走る足音が徐々に近づいてきた。ギリギリセーフといったところ
だろうか、今度は安堵のため息をもらす。ゲルトルートと美緒はやれやれといった表情で、ミーナは腕組をして厳しい表情を浮かべた。
芳佳も気持ちを切り替え、机に両肘を突いて口元で手を組む。
――直後、会議室の扉が勢い良く開け放たれた。
「お、おそくなりました! もうしわけありません!」
肩で息をしながら、乱れのある軍服を纏ったエーリカが飛び込んでくる。扉に手をつき、ぜえぜえ、と息苦しそうに立っていた。
「部屋に入るときはノックぐらいしなさい」
ミーナが厳しい表情を浮かべたまま、目を合わせず注意する。強い語調で言われたエーリカは、息を切らしながらも一度敬礼を見せ、
申し訳ありません、とまた口にした。ため息をひとつ漏らしてから、着席を促すミーナ。急ぎ足で席に着くエーリカだったが、あいにく
エーリカの真正面はあの芳佳である。恐らくエーリカが今最も顔をあわせたくないであろう相手が真正面、やりにくい状況だった。
当の芳佳は目線だけでちらりとエーリカの様子を見て、手が小刻みに震えているのに目を留める。どうやら大分緊張しているらしい。
満足に報告もできなさそうなので、芳佳はメモ帳の端を小さく破って文字を書き始めた。
「それでは二十分ほど遅くなりましたが、今朝のミーティングを始めます。では坂本少佐から」
「昨日提出された報告書は三枚。一昨日とその前に行われた模擬戦の分と、後はクリスからだな」
芳佳は報告される事項のメモをとりつつ、メモ帳の欠片に文章を書き終える。それから右足をすっと伸ばして、エーリカの足を軽く
突付いた。驚いた様子を浮かべるエーリカに、芳佳は気にも留めない振りをしながらメモの欠片を見せた。
『おちついて』
ごくりと息を飲む音が聞こえて、それから深呼吸が始まる。芳佳は誰にも聞こえないため息をひとつこぼしてから、美緒の報告に
耳を傾けるのだった。
- - - - -
「では、何か連絡事項はありますか?」
今朝も特に相談するべき事項はなく、会議そのものはものの数分で終わりを迎えた。最後に連絡することはないかと毎回ミーナが
確認しているが、大抵は特に何もない。
――だが、今日はその『大抵』からは外れていた。
「ひとついいか」
「ええ、どうぞ」
「ハルトマン中尉は会議が終わったら少し残れ」
ゲルトルートが厳しい口調で言うと、エーリカは敬礼をひとつ、了解の言葉とともに返した。しゅん、と項垂れたエーリカの姿は、
芳佳の今まで見たことのないものであった。
「それじゃあついでに伝えておくけれど、大尉の話が終わったら司令室にも出頭しなさい。いいわね」
ミーナも同じように指示し、エーリカはまた元気のない、声だけ大きな了解の返答を返す。ほかに特に報告はなかったため、会議は
解散。エーリカとゲルトルートを残して、会議室は空になった。
―――数秒間の沈黙。破ったのはゲルトルートのため息だった。
「……どういうつもりだ」
責めるような口調。席を立ち、エーリカのほうへと歩いていく。エーリカは肩を震わせながら、ぼそぼそとつぶやく。
「ごめんなさい」
……頭を抱え、なんでこんなことになったんだろう、と言わんばかりに凹むエーリカ。だがゲルトルートはエーリカの後頭部を
比較的強めに小突き、エーリカはいつ、と小さな悲鳴を上げる。
「それが上官を前にして取るべき態度か、中尉」
息を呑む音が一度あった後、エーリカは背筋をぴんと伸ばし、誰もいない正面に向かって敬礼した。
「申し訳ありません、マム」
こういうとき、譴責される側の人間は基本的に動いてはいけない。たとえ相手が後ろに回ろうとも、正面を向いたまま動いては
ならないのだ。
「まあ、立てとまでは言わん。だが相応に反省している姿は見せてもらわんとな」
「はっ」
かつて初めて二人が会ったとき、エーリカは部下として、ゲルトルートは上官として互いに接していた。友人同士になったのがいつ
だったかはもう覚えていないが、いつからか二人はほぼ対等な立場に立っていた。……しかし現実には、エーリカとゲルトルートには
一つ分の階級差がある。たった一つでさえも、正式な場における差は現実であった。
エーリカは今、ゲルトルートを親友はおろか同僚としてすら呼ぶことはできない。あくまで、自分の責任を問う『上官』である。
「罰則や諸処理はヴィルケ中佐が追って連絡するだろうが、罰を受ければいいというものでもない」
「イエス、マム」
敬礼の姿勢を崩さないまま返事を返すエーリカ。新人の頃はこうして叱られることもしばしばあり、いつも今のように敬礼したままで
言われるがままであった。だがエースとしての自覚が芽生え、また部下や後輩を持つようになってからは、納得のいかないことに関しては
たとえ相手が上級士官であってもいつもの態度を崩すことはなかった。どれだけ相手を怒らせようとも、たとえ出撃停止処分になろうとも、
それでも納得のできない命令や指示にはとことん反抗し続けた。今の五○一の面子が見てきたのは、エーリカ・ハルトマン中尉の中でも
そうした『侮れない空気』を負っている面のみであった。故に理由もなく信頼することもできたし、飄々としているイメージも定着した。
だが、今回は完全にエーリカのミスである。確かに日ごろ、ゲルトルートが起こそうとするにも関わらず眠りについていたりと、
怒られていることを怒られていると感じさせないところがあったのは事実だ。だがそれはあくまで「許される範囲」の話である。今回の
一件は許されない範囲であり、ゲルトルートが普段は掲げない階級による権力を惜しげもなく掲げるほどの事態だ。いくらエーリカと
いえど、自分の失敗の故に責められていることに対して抗議する気にはなれなかった。
「普段の生活習慣を見ていれば、まあいずれはこうなるだろうとは思っていたが……貴様は指摘しても耳を傾けなかったな」
「い、イエス、マム」
「言い淀むな、事実だろうが」
「イエス、マム」
あくまで上官としての姿勢を崩さないゲルトルート。エーリカとしてはあまり認めたくないことも、または素直にハイソウデスとは
認めたくないような言われ方をされようとも、それでも返事はただ一つしか用意されていなかった。エーリカの額から、汗が滴り落ちる。
こんな緊張は、もしかしたら初陣のとき以来かもしれない。
「今朝は宮藤少尉に随分と激しくやられたそうじゃないか」
「イエス、マム」
「それでも貴様は反省しないのだろうな」
……挑戦的なゲルトルートの言葉。エーリカはどう答えようか迷ったものの、それでも――――中尉と言えど、受けるべき罰は受けなくては
ならない。半分諦めて、そして胸を張って答えるのだった。
「イエス、マム!」
「調子に乗るのも大概にしろ」
――ゲルトルートは静かにエーリカの背後に立ち、そして――襟を掴んで無理矢理椅子から引き剥がし、その場で直立させる。それでも
エーリカは敬礼を止めず、ただされるがままになっていた。
滴り落ちる汗。ゲルトルートがエーリカの正面に立ち、ぐっと拳を固める。
「歯を食いしばれ」
「イエスマム」
再びたらりと一筋の汗が頬を伝い、エーリカは歯を食いしばる。……ゲルトルートの右手が高く構えられ、そして―――!
「ぐぅッ……!」
エーリカの左の頬に、勢い良く食い込む拳。歯茎が小さく切れ、口端から血が流れる。酷く痛む左の頬は、恐らく今のたった一発で真っ青な
痣になるだろう。
「貴様がエースだろうがなんだろうが、最低限守るべき規律は守ってもらわねば困る」
「イエス、マム」
「普段から規律を守れと言っているのに耳を傾けない、だがそれはまだ百歩譲って許してやろう、しかし」
エーリカの周りを静かに歩きながら、ゲルトルートは続ける。
「空軍大将や行く行くは首相閣下の耳にも入るような重要な報告を行う場に、あろうことか寝坊で遅刻する馬鹿がどこにいる」
……目じりから一筋の涙が落ちる。それは痛みでもなく、恨みでもなく、ただ悔しさの故であった。それも、言われることが悔しいわけでは
決してない。
ただ堕落に身を任せるばかりであった、自分が悔しかった。
「返事はどうした!」
「イエス、マム!」
「その涙は何だ、痛みに対する涙か」
「イエス、マム!」
「それとも私に対する恨みか」
「イエス、マム!」
「あるいは怒りか?」
「イエス、マム!」
「それか何だ、殴られることが泣くほど快感か」
「イエス、マム!」
「ふざけるな」
再びゲルトルートの拳が、今度はエーリカの右の頬に直撃する。鉄の味が口中に広がり、咳が喉の奥から無数にこみ上げてくる。
「だらしがないぞ中尉、たった二発殴られただけで立てないのか」
「い、イエス、マムっ―――」
どれだけ咳を吐こうとも、止む気配がない。だがそれでも立たなければならないのが、軍人という人種であった。今はエーリカは、
『年頃の乙女』ではない、『カールスラント空軍中尉』なのだ。
「反省する気はあるのか」
「イエス、マム」
「ならば行動で示せ。二度目はない」
「イエス、マム!」
「次は本国へ送還する。覚悟しておけ」
「イエス、マム!」
「行け」
エーリカに背を向け、窓の外を見るゲルトルート。エーリカは何とか咳を押さえ込んで、敬礼の姿勢を崩さぬまま最後に叫ぶ。
「申し訳ありませんでした、大尉! 失礼いたします!」
――ゲルトルートは返事を返すことなく、ただエーリカの退室を待つ。エーリカは少しの間をおいてから、会議室の扉を開けた。
「……まったく、こんなことをやらせるな」
「ごめん」
「大丈夫か? ミーナのところに行く前に、先に芳佳に治してもらえ」
「ううん、いい。罰として受け取っとく」
「お前がいいならいいが」
背中越しに交わす言葉。ようやく怒りの収まりつつあるゲルトルートは、それでもやりすぎたとは微細も思わないのだった。エーリカも
また、自分の非を認めているが故に、ゲルトルートに言える言葉など一つもない。酷く頬と口が痛むが、せめてミーナのところから戻る
までは我慢する。それがエーリカなりの、一つのけじめだった。
「まあ無理はするなよ」
「……ありがとう」
「知るか。さっさと行け」
別に照れ隠しなどではなく、ただ建前として言った言葉に礼を返されても困る、それだけのこと。いつもであれば照れ隠しかとからかって
遊べるはずの言葉も、今のエーリカには肩に圧し掛かる重荷でしかなかった。
そのまま踵を返し、司令室へ向かうエーリカ。会議室の中では一人、ゲルトルートが両手を伸ばしてコーヒーを啜っていた。
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「どうしようかしらね」
「まあ、一回目ですから、トイレ掃除でいいんじゃないかと……」
「トゥルーデが報告書に書かなければいいんだけれど」
「どうだろうな、あいつのことだ」
司令室では、ミーナが美緒と芳佳と今後の予定を練っているところだった。主にエーリカの処遇に関してだったが、恐らくゲルトルートが
本気を出しているであろうことを長年の付き合いから予想していたミーナは、あまり重い罰則を与える気はなかった。とはいえ、もし
この一件が『上』の耳に入れば、それは部隊内で対処しきれるかどうかは微妙なところである。いくらゲルトルートと言えど、流石に
『会議に寝坊』なんて情けない報告を上にするとは思えないが、かと言ってあれだけ激昂していた頭で冷静な考えを働かせるのも難しい。
エーリカの処遇がどうなるかは、階級の高いミーナ以上にゲルトルートの行動にかかっていた。
そんな話をしていたときだった。扉を二回ノックする音が響き、美緒と芳佳は姿勢を正す。ミーナもラフな姿勢を改め、厳粛な態度でもって
来客を迎える。
「エーリカ・ハルトマン中尉、出頭しました」
「入りなさい」
ミーナの言葉に応じて、エーリカは扉をあけて中に入る。来慣れたはずのこの部屋は、しかしエーリカにはどう映ったか。部屋の中央あたり
まで来てから、見事な敬礼をしてみせる。
「エーリカ・ハルトマン中尉。貴女は今朝、無断で会議に遅刻し、スケジュールを無視した行動を取りました。これは事前に予定を通達していた
にも関わらずそれを無視したとして、重大な命令違反と認識します」
かつて芳佳が譴責されたように、この張り詰めた空気の中、エーリカは一人立たされる。美緒と芳佳はミーナの左右で、動くことなく二人を
見守っていた。
「何故、今朝の会議に無断で遅刻したのか、理由を述べなさい」
「……はっ、自分は本日0500時、自室にて就寝していました」
情けなくて、普通は言えない様な台詞。更に言えば、口の端から血を流しているところを見れば、喋るだけで口の中が酷く痛むであろうことも
容易に察しはついたが、それでもミーナは言うことを強要した。ミーナもまた、今は十八歳のミーナ・ディートリンデ・ヴィルケではなく、
カールスラント空軍の上級士官なのだ。
「会議の時間であるにも関わらず就寝していたのは何故ですか」
「本来起床するべき時間に、起床することができなかったためであります」
「その原因はどこにあると考えますか」
「……日ごろの生活習慣に原因があると考えます」
徐々にエーリカの言葉が尻すぼみになっていき、顔に影が落ちていく。これ以上責めるのは良くないと判断したか、ミーナは深く長いため息を
一つ残してから手元のバインダーを机に置いた。
「宮藤さん、紅茶とコーヒーを一つずつお願い」
「……」
まるで昼食の飲み物を頼むような、この場にそぐわない軽い言葉。芳佳は一度深く目を閉じてから、微笑を浮かべて返事をした。それを
見るなり美緒も息を一つ吐き、それから折りたたみの椅子を一つ取り出す。
「楽になさい、もういいわ」
「……中佐?」
「だから楽にしなさい。こういうのはトゥルーデに散々やられたでしょう」
まったく仕方のない子ね、そう呟いて笑みを浮かべるミーナ。エーリカは涙を浮かべた目でミーナを見た後、うん、と小さくうなずいた。
美緒が椅子を広げてエーリカの後ろに置き、座るよう促す。戸惑いを見せるエーリカだったが、楽にしろと言われた以上は逆に堅くなっても
いけない。言われるがままに座ると、ちょうどそのタイミングで芳佳が紅茶とコーヒーを持ってきた。エーリカの前に紅茶を、ミーナの前に
コーヒーを置く。
「ありがとう」
ついでに美緒に緑茶を渡して、芳佳自身は本棚に背を預けて腕を組む。どこか達観したそれはゲルトルートや美緒にはお似合いのポーズで
あったが、芳佳のそれも自然でサマになっていた。
「いくらなんでも今朝のは見過ごせないわよ」
「ごめんなさい……」
「反省してくれるのはいいんだがな、それだけでは済まないこともある」
「まあ、もうそれなりに『それだけでは済まないこと』もしてるみたいですけど……治しましょうか」
ミーナも美緒も芳佳も、そろって苦笑を浮かべる。エーリカは小さく項垂れたまま、ちびちびと紅茶を口に運んでいた。芳佳の提案は
エーリカ自身が断ったのでふいになっている。それだけ後悔、あるいは反省はしているらしい。コーヒーを啜りながら、ミーナは苦言を
口にする。
「まあ、いつかはこうなるかもしれないとは思っていたけれど、それでも貴女のことだからきっと心配ないかなとも思っていたのよ」
「……」
「せっかく期待していたのに、見事に裏切られてしまってはね」
「ごめんなさい……」
普段ものぐさとはいえ、やるべき時には必要以上に働く。それがエーリカ・ハルトマンのこれまでの姿だった。スクランブルが掛かっても
動じず、忙しなくあちこちで隊員が走り回る中を悠々といつも通りに出撃の準備を整え、あっという間に敵を殲滅して帰ってきてしまう。
まるで舞うように宙を翔け、踊るように空を飛び、そして蜂の様に鋭く"刺す"――どんな緊急時でも、決して余裕を無くすことはなかった。
それだけにミーナも期待していたのだが、プライベートと戦場とでは違ったようだ。
「まあ、公私の区別がしっかりできてるっていう意味ではいいのかもしれませんけどね」
「お、おいおい宮藤、言うことがキツいぞ……」
「そうですか?」
「……ごめん、ミヤフジ」
普段笑みを絶やさないエーリカがここまで深刻になっている。芳佳的には軽い皮肉のつもりだったのだが、少々この状況では酷というものだ。
芳佳は少し失敗したかと頭をぽりぽり掻いたが、まあ後でフォローすればいいか、とこの場での対応をミーナに投げた。ミーナはますます苦い
笑みを浮かべながら、エーリカの頭に手を置く。
「大丈夫よ、トゥルーデが報告に上げたりしなければ、これ以上大きくするつもりはないから。宮藤さんはもう少し場を考えましょうね」
「はーい」
「……おいおい」
ため息をつく美緒。芳佳はこんなに捻くれものだったかと今までを振り返るが、そんなことはなかった気がする。ミーナも美緒と同じく
深い深いため息をついていた。
「……ハルトマン、お前のせいだぞ」
「……え、え?」
「美緒、やめなさい」
「む、そうか?」
更に冷や汗を垂らしながらミーナはエーリカをフォローする。芳佳の飄々とした態度はどう考えてもエーリカの影響を多大に受けたもので
あり、戦場における軽口はゲルトルートからの影響をこの上なく受けたものであった。即ち五○一のダブルエースが良くも悪くも芳佳に
すさまじく影響を及ぼしているわけであって、つまりは微妙にひねくれたのもエーリカのせいである。ミーナもそこは認めるものの、今この場で
言うべきことではない。まったく、扶桑の人間はどうしてこうなのか。
「そうですよ坂本さん、空気読まないと」
「あなたが言うことじゃないでしょう?」
「そ、そうだぞ宮藤」
「いいからやめなさい、フラウが困ってるわよ」
内心、空気を読むって扶桑の言葉じゃなかったかしら、そのくせなんでこの二人はそれができないのかしら、なんて思いながら頭を抱える
ミーナ。エーリカは笑ってもいいのかどうか迷っているようだったが、自重しようとしている辺り、やはりかなり気分は落ち込んでいるのだろう。
ミーナは必要最低限の諸連絡だけして、罰則などはまた後日追って伝えるとして今日のところはそのまま部屋に返した。起床時間を多少過ぎて
いるためにもしかしたらほかの人と会うかもしれないが、そうなっても大事にならないことを祈るばかりである。
「んじゃ私、ちょっとフォローしてきますね」
「あら?」
「ほら、ちょっときついこと言っちゃいましたし、トゥルーデさんにも散々言われたみたいなので」
「宮藤は気が利くな、本当に」
先ほどミーナに対応を投げたのも、自分でもちゃんと改めて話すつもりだったからだ。芳佳はそれだけ言うと司令室を後にし、エーリカを
最上階の展望塔へ誘うのだった。
- - - - -
「……ミヤフジ、その……」
居心地の悪そうにするエーリカと、風に吹かれて心地よさそうにする芳佳。エーリカの居心地が悪いのも当然だろう、何しろ今目の前にいる
この少女に今朝はドアをブチ抜かれ、報告書を叩きつけられ、もっと言えば喉元に刃を突きつけられたのだ。それだけ見るからに怒りオーラを
爆発させていた人を目の前にして、なお自然に立っていられる人間など恐らくほとんどいないだろう。
「大丈夫ですよ。私、ほんとにぜんぜん怒ってないですから」
「……でも……」
「さっきのは気にしないでください。すみません、いつものハルトマンさんのつもりで言ったんですけど、ちょっとあの場には相応しく
なかったです」
少々調子に乗りすぎたかもしれない、と芳佳は振り返る。少しずつ腕も頭脳も実力がついてきた実感がある分、その辺りのコントロールは
難しいようだ。
芳佳は両腕を手すりに預け、前かがみで気楽に構えた。
「私は別にいいんですよ。でも、このままだとトゥルーデさんとか坂本さんとか、本当に限界を超えちゃいます」
「……うん……」
「そうなったらハルトマンさん、この基地でやっていけないじゃないですか。それって戦力的にかなり大きな損害だし、なにより私は
そんなの寂しくていやです」
エーリカはこの基地になくてはならない存在なのだ。圧倒的な技量、凄まじい殲滅速度、僚機を死なせない戦術、どれをとっても一級品。
だがそれ以上に、部隊のムードメーカーで、いつでも明るくて、皆に元気を振りまいてくれる、部隊の『アイドル』だ。そんな中心人物が
欠けては、五○一は成り立たない。今は芳佳もクリスも含めて、十二人全員がそろって初めて第五○一統合戦闘航空団なのだ。たった一人でも
欠けてしまったら、それはもうストライクウィッチーズではなくなってしまう。
だから、そんなことがあってはならないから。エーリカを待つ間、ゲルトルートが『次があったら原隊に戻して扱いて貰う』などと口に
していたため、芳佳としてはなんとしてもそれを避けたいのだ。
「今朝あんな態度を取ったのは、少しでもそれでハルトマンさんに気づいてほしかったからです」
「……うん。おかげで自分がどんなことしでかしたのか、よくわかったよ」
「それはなによりです。でももう、本当に二回目はないですよ? 今のままじゃ、いずれ破綻しちゃいます」
たとえ今は反省していても、同じことを繰り返していればいつか必ず同じ結果が舞い戻ってくる。そうなれば、エーリカは遠く亡命政府のある
ノイエ・カールスラントまで戻らなければならなくなってしまう。そのためには、この結果を厳粛に受け入れ、同じことをしないために
どうすれば良いかを真剣に考えなくてはならない。芳佳はそう言いたかった。
「だから、一緒に考えませんか、今後のこと。私にお手伝いできることがあったら、何でもお手伝いしますから」
「……ミヤフジ……」
「えへへ、こう見えても私、早起きとか得意なんですよ」
思えば、ゲルトルートを助けて感謝されたことはあれど、直接エーリカを助けたことはなかったような気がする。どことなくエーリカと
距離を感じていたのは、触れ合う機会が少なかったからなのかもしれない。ならば、今この機会に距離を縮めたい。芳佳が微笑を向けると、
目に涙を湛えたエーリカと目が合った。
「……ありがと、みやふじ」
そっと差し出す右手。エーリカは一瞬戸惑って、それでも、涙を拭いながらその手を取った。
「そうと決まれば善は急げ、戻って『作戦会議』です!」
「え、ええ? ゼンワイソゲってなにーっ!?」
「善いことは早くやれってことですよ、ほらほら」
無理矢理エーリカを引っ張って、建物の中へ連れ戻す。いきなりのことで転びそうになるエーリカだったが、ぎりぎりでバランスを
取り直す。たった一箇所、手がつながっているだけなのに。不思議と体の温まる感じは、一体何なのか。エーリカも芳佳も内心首を
かしげながら、それでも今の楽しさの前に疑問は打ち消されてしまうのだった。
「……あいつの立ち直りは尋常じゃないな、おい……」
「宮藤さんのおかげよ」
「むう、宮藤とは恐ろしいやつだな……」
戻ってきたエーリカと芳佳が楽しそうに話しているのを見て、ゲルトルートとミーナ、美緒は互いに苦笑し合う。芳佳の『治癒魔法』の
威力は、本当に侮れない。とりあえずゲルトルートが"情けなくて報告書にも書けない"として特に報告しないことを決めたため、エーリカ
への罰則はトイレ掃除程度に落ち着いた。それを知らないはずのエーリカだが、まるで何事もなかったかのような底抜けの明るさを
取り戻している。一体全体、どんな魔法を使ったやら。
三人は二人の様子を遠巻きに見つつ、また日常業務に戻った。世界はおおむね、平和である。
――fin.
それから数時間後。
「トゥルーデ、今朝はごめんね」
「お前、本当に反省してるのか……」
「その為に宮藤に手伝ってもらっちゃってさ……と、とにかくちゃんと直すよ、いろいろ」
「ならいいんだが……エースがこんな下らないことで怒られるのはこれっきりにしてくれよ」
「うん! ところでさー」
「なんだ」
「トゥルーデの気持ちが半分ぐらいわかったかもしれない」
「はぁ? 何の話だ」
「宮藤ってすごいよねー」
「は、はぁ」
「なんか私ちょっと惚れちゃったかも」
「……なに?」
「いや、ほらさ、私って宮藤に直接助けられたことなかったじゃん? トゥルーデとかリーネとかが元気になったのは見てきたけどさ」
「ま、まあ、確かにそうだな、うん」
「だからトゥルーデとかリーネとか、宮藤に固執しすぎじゃないかと思ってたんだけど」
「そ、それはまた失礼な話だな貴様?」
「えー、そんなことないとおもうけどなー? でね」
「軽く流すな」
「さっきさー、上の展望台で宮藤がいろいろフォローしてくれてさ」
「シカトか、しかもあそこって展望台じゃなくて正確には監視塔だろ」
「細かいことはいいの。とにかくあそこで二人きりになってさ、いろいろ言ってくれた訳よ」
「は、はあ」
「もうね、宮藤ってたぶん相手が何を言ってほしいのかとかどこを突かれると弱いのかとか何をどうすれば相手を落とせるかとか全部
知ってるんだろうね」
「……」
「一瞬私を嫁にもらってほしくなっちゃったよ」
「ゆるさん」
「は?」
「許さんぞ! 貴様が芳佳の嫁だぁ? ふざけるなア!! あいつは私の
「あのー、お二人ともどうしたんですか? 私の名前が飛び交ってますけど……」
「え?」「へ?」
「……しかも嫁がどうとか」
「え、いや、あっはっはー」
「な、なに、そのー、なんだ」
「ハルトマンさんがお嫁さんとか」
「ち、違う! 断じて違うぞ!」
「なんでトゥルーデが否定すんの」
「私がトゥルーデさんのお嫁さんとか」
「違います」
「なんでエーリカが否定するんだ」
「……あのー、私どうすればいいんですか」
「普通でいいと思うよ」
「普通でいいんじゃないか」
「ねえトゥルーデ、芳佳は普通にしてりゃいいよね」
「ああ、普通にしててくれれば――待て、普通じゃマズくないか」
「え? なんで?」
「だってお前、『アレ』がデフォルトなんだぞ、『アレ』を続けられてみろ」
「……ゾッコン?」
「いろいろとまずかろう」
「芳佳も罪な女だねぇ……」
「まさかフラウが落ちるとは思わなかったな……しかしこれで『被害者』が何人になったんだ?」
「少佐でしょー、リーネでしょー、トゥルーデにサーニャにエイラに私に……」
「まさに無双だな」
「いやはや、罪な女だねぇ…………」
「まったくだ…………で、お前はいつからあいつのことを芳佳と呼ぶようになった」
「今です」
「あ、そ……」
――世界はたぶん、だいたい、おおよそ平和……である。