無題
つかれた、とぽつりと彼女がつぶやいた。
それは薄暗い私の部屋の真ん中で、がらんどうで何も置かれてないはずの床に何度も
何度も転びそうになりながらふらふらと私のベッドにたどり着いてそういった。エイラ、
どうしたの?そんな言葉をかける前に倒れ込むようにして私の膝の上に、体をシーツに
投げ出して、どぼん。そしてそのまま沈むように彼女は眠りに落ちてゆく。素足のままの
膝にエイラのさらさらとしたプラチナブロンドのシルクがさらりと触れる。心地よい、
と感じると同時にどうしてか顔がゆるんだ。ねえ、どうしたのエイラ。なんだかすごく、
子供みたい。尋ねたところで返答があるはずもないから、私は口を開かなかった。いまは
まだ、ふたつも年上の彼女の頭をそっとなでる。
「あはは、エイラこんなところにいたのか―」
「あっほんとだ。やっほーサーニャ」
すぅ、と差し込んだ一筋の光の光源から、心底愉快そうな二つの声が聞こえた。見ると
オレンジ色と金色、明るい色の二つの頭がこちらを覗き込んでいて。一体何があったのか
分からないけれども非常に楽しそうにわははは、あははは、と顔を見合わせては笑って
いるので、ああこの人たちは少し酔っぱらっているのではないかしらという結論に行き
つく。と、すると。私の知る限りでは少なくともこんなに疲れ果てた様相を見せることの
ない膝の上の彼女の口元に顔を近づけると、ああやっぱりアルコールの独特な香り。
飲ませたんですね、なんて呆れ半分で口にしたら、またけらけらと二人が笑った。
「やーもーエイラってば弱くってさーごめんねーあとよろしくーぅ」
「あははははは飲み足りないよねもっとのもーのもーぅ」
そうして肩を組みながら二人は去ってゆく。というのもその二人は部屋の扉も閉めずに
場をあとにしてしまったからで。一体何を目的としていたのか分からない彼女たちの来訪
の後の自室は、つい先ほどよりもさらに静まり返っている気がした。すう、すう、という
寝息さえ耳にはっきり届きそうなほどに。
ああ、でも、もしかしたら。
彼女たちはいちおう、お酒を飲み過ぎて気分を悪くして、そうして一人席を立ってしまった
エイラの心配をしてくれていたのかもしれなかった。ここにもいない、あそこにもいない、
と探し回って、ようやく私の部屋でその姿を見つけて。そうしてなんだかとても安心して、
笑みがこぼれてしまったのかもしれない。そしてもう安心だと楽しくなって、宴の席に
二人で戻っていった。それはもちろん憶測でしかないけれど、ねえ、それでも。
エイラは相変わらず膝の上で寝息を立てている。うう、と少し苦しそうな呻きを洩らすの
を聞いたのできっちりと着込んだ彼女の制服のジャケットのボタンをゆっくりと外して
やったらまた穏やかな寝息を立てて小さく口元を釣り上げた。ねえ、安心しているの?
私の膝の上で、こうして身を任せて。
認められた、と言ってもいいのだろうか。期待してもかまわないのだろうか。いつも
いつもこの人には助けられているばかりで、どう返したらいいのかすらわからずにただ
ひたすらそれを享受している私だけれど。
こうして、この人が疲れ果てた時にはゆっくりと寄りかかって、羽を休める止まり木に、
そのちっぽけな枝の一本に、なれているのだろうか。なれていると、みんなに思って
もらえているのだろうか。だから、こうして『あとはよろしく』なんて言ってもらえるの
だろうか。
期待と、不安と、希望と。
こんなにいろいろな感情が入り混じってしまったらいくら夜間哨戒のために昼間眠ること
が義務付けられていて、体もそんな生活に慣れてしまっているとはいえ眠ることなんて
できやしなくて、私はゆっくりとエイラの髪をなで続ける。昔、眠りながらお母様によく
こうして頭をなでてもらっていた。おぼろげな記憶の中でもその感触はとても柔らかくて
心地よいもので、受け止められているその感覚に幸福な気持ちでいっぱいになっていたの
だっけ。彼女にも同じような記憶があるのかは、まだ知らないけれど。
「……あ、れ…」
しばらくそうしていたら、不意にエイラが目を見開いて、むくりと体を起こした。目を
こすりながらぼんやりとあたりを見渡して、「暗い…?」とむにゃむにゃした声で呟く。
「よる…ねな…きゃ…」
たどたどしい口ぶりは、言葉を覚えたての子供のよう。初めて見るエイラのそんな表情に
もしかしたら夢を見ているのは私のほうなのかもしれないと思う。だから口を開くのは
やめることにした。だって言葉を発してしまったら、夢から覚めてしまう気がして。
ぐら、ぐら、と舟をこぐように揺れながら、エイラは突然衣服を脱ぎ始める。ぎょっと
する私を尻目にベルト、はだけたままのジャケット、シャツ、ズボン…それは自分のもの
だけではなくて、ベッドの上に脱ぎ散らかしたままの私の衣服でさえ。そうしてそれら
すべてをきれいにたたむと、ようし、とこれもまた寝ぼけたような声で一言そういった。
そうして、また。
どぼん。彼女は夢の世界に飛び込んでゆく。今度は私の膝の上ではなく、その傍らに。
ちょうど私がその隣に寝転がることができるように。ベッドの上に座り込んだままの
私を最後にぼんやりと見上げて、彼女が手を伸ばした。そして口を開いて何かを言った。
何を言ったのかはわからない。それは声にならないような不思議な音色だった。
だけれども。
(おいで)
私にはそういっているような気がしたから、だから私は心おきなく、そろりと彼女の隣に
寝転がる。ねえ、ここは私の部屋なのに、なんだかとっても偉そうね。
今度は仕返しに、私がエイラの部屋で眠ってやろう。夜間哨戒から疲れて帰って、うっかり
部屋を間違えてしまったような素振りをして隣の部屋に。そして偉そうに彼女の隣で
眠りに就くのだ。ねえ、いいでしょう?
私の部屋に、私の居場所に、ずけずけと入り込んできた困った来訪者の髪をなでながら、
私はそっと、そんなことを誓うのだった。
おわり